第八章【小梅 ―こうめ―】エピローグ
一
他愛ないことを喋りながら酒を呑むうち、いつの間にか時間が過ぎていた。
他の客が一人帰り、二人帰り、四杯目のビールを空けた小梅の呂律も怪しくなってきたところで、石之助は腕時計を見て舌打ちした。
「何でえ、もうこんな時間じゃねえか。電車が無くなっちまった」
「いいじゃんか」
小梅はへらへらと笑う。意味もなく笑うようになれば酔っ払いである。
「泊まっていきなよ。夜々ちゃんにエッチなことしないって約束したら、うちに泊めたげるよ」
「誰があんな狭ぇ部屋で宿借りするかよ。漫画喫茶か何かで十分だ」立ち上がる。「ほれ、もう行くぞ」
「えー?」
「駄々こねるんじゃねえ。もうここも看板だろうよ。ほら、立った立った」
「はあい……」
小梅は渋々尻を持ち上げる。
石之助はそれを横目に溜息をつき、蛸入道のような店主に声をかける。
「大将、長居しちまったが、勘定いいかい」
「へい」
店主が伝票を片手に歩いてくる。
石之助はジャンパーのポケットから財布を出しながら訊く。
「なあ大将、あんた、料理始めて長えだろ」
「へい」
店主は頷く。
石之助はにやりと笑う。
「じゃあ色々なものを食いもしたろうな。何の肉が好きだ?」
「肉ですか。さあ……」店主は顎をさする。「日本人だから、肉つうより、やっぱり魚ですかね。どうしてです」
「なに、お前さんが余計な肉を食っていないかどうか、ちっとばかり気になってな」
「ありゃ」
店主は手を頭にやった。
「やっぱり旦那もあっしと同類ですか」
「その逆だ」
「あちゃあ、縛師の方ですか」
小梅がふらふらと揺れながら横でうなずく。
「石之助はハゲだけど石字縛師なんだよねえ……世のなか面白いねえ」
「頭の毛は関係ねえだろうが。こりゃ剃ってるだけだ」
石之助は小梅の頭をはたく。
気まずそうに店主は言った。
「気配は消してたつもりでしたがね」
「何、お前さんが小梅を見てる目つきで分かったのさ。――ったく、迂闊なんだよ手前は」
小梅をもう一度はたく。
頭をおさえて小梅は二人の顔を見比べる。
「え? え? どゆこと?」
「お前が酔っ払うにつれて妖気を派手に漏らし始めるから、大将にお前が化け物だって知れたんだよ。なあ大将、それでチラチラと見てたんだろ?」
「へえ。この辺りじゃ見慣れない同類だと思いまして。しかし、旦那もそうかと思ったら、縛師の方でしたか。驚いたなあ」
「驚いたのはいいが、本当に余計なもん食ってねえだろうな」
「本当に食ってませんよ。あっしは自分のことを人間と間違えて育ったクチで……人間の肉なんざ、今さら気持ちが悪くて食えやしません」
「ふん、なるほど、確かに血の臭いはしてこねえな。――で、勘定はいくらだい」
「へえ。こちらです」
店主はかしこまって伝票を置く。
向こうで若い店員が、不思議そうにこちらを見ていた。
そして二人は居酒屋を後にし、寝静まった夜の駅前をとぼとぼと歩いた。目指す方向は住宅街、つまりは小梅たちのアパートや、殿山家のある方面である。
歩道をはみ出し、路肩を歩く小梅に石之助は言う。
「こら、危ねえからこっちへ来ねえか」
「車走ってないもん」
「そんなもんいつ通るか分からねえだろうが。いいからこっちへ――うお」
小梅が突然ガードレールを飛び越えてきたので、石之助は立ち止まって軽く仰け反った。
両足で着地し、小梅は笑う。
「ジャンプ成功」
「馬鹿、酔ってるくせに飛び跳ねるな」
「ふへへ」
「仕方のねえ奴だ……」
石之助は肩を落として、再び歩き始める。
小梅は、待って、と後を追いかけてくる。
「ちょっと石之助、あんまし早く歩かないでよ」
「お前がタラタラしてっからだ。ゆっくり歩いてたら夜が明けちまうだろうが」
「きゃっ」
悲鳴と転ぶ音。
石之助は立ち止まって振り返る。
「おい、大丈夫か……、――っ!」
「あ痛たた」
「避けろ小梅ッ!」
「え」
地面に両手をついた小梅。
その無防備な背に、振り下ろされた爪が叩き込まれた。
短い悲鳴。
「ぎっ」
見開かれる眼。
そのまま、背中を容赦無く切り裂かれる。服が破れて鮮血が散った。
小梅が転がる。
石之助は地を蹴って跳んでいた。
空中で廻し蹴りの二閃。いずれも当たらない。
飛び退いた相手は三歩向こうへ着地し、低く腰を曲げて長い両手を揺らしながら、石之助のほうへその顔を向けた。
うるわしく長い黒髪の間に垣間見えるのは、赤い、猫の顔だった。
体かたちは人間とそう変わらない。しかし全身に生えた赤い毛と長い尾、そして両手の鋭い爪は、確かに妖魔のものである。
妙になまめかしい輪郭や乳房の膨らみで女怪と知れるが、この女怪は今、明らかに正体を現していた。全ての力をむき出しにして戦うつもりでなければ、このような姿には決してならない。
しかし。
「妖気が――無ェ……だと?」
化け物が正体を現したときに発散するはずの、生々しい気配を全く感じない。石之助は違和感を覚えたが、すぐに気を取り直した。
ジャンパーの胸から竹の札を抜いて放つ。
札は放たれざまに粉々に弾け、その姿を紫の雷へと変えた。
猫の顔をした女怪は両腕を大きく振るい上げる。
波のような紫の風が生まれた。
雷と風は相殺し合い、衝撃波を生み、石之助が仰け反って目を塞いだ瞬間、女怪は忽然と消えた。
石之助は視線をはしらせる。
いない――いや、上か。
気付いたときには、もう、かわす他になかった。
すんでのところで爪を避け、石之助は流れのままに肘を繰り出す。
肘は猫の横顔に直撃し、女怪の身は大きく傾いだ。
二
禿頭の老人と桃色髪の娘が帰っていったので、残る客は一人になっていた。
長いコートを脱ぎもせず、一人黙々と酒を飲んでいた、見た目にして三十前後の男である。
着ているコートだけならばサラリーマンのようにも見えるが、その下がどのような服装かは知れないし、しかも短く刈られた髪は金色で、荷物らしきものも無い。長く商売をしている店主の目にも、どのような仕事の人間なのか判断できない男であった。
この辺りでは珍しいが、ひょっとしてホストか何かだろうか。そのようなことを思いつつ、店主は男に声をかける。
「お客さん、すみませんが、そろそろ看板です」
「――そうか」
男は顔を上げる。
端整な顔立ちだが、眼がひどく濁っている。
店主の背に何かがはしった。
男は立ち上がろうとせず、暖簾を片付けに出てゆく若い店員を横目で見送る。
そして呟いた。
「……いい店だな」静かで低い声。「常連も多いようだ」
「へえ。おかげさまで」
「お前は妖怪なのか」
「へ? ああ」店主は笑う。「さっきの話を聞いておられたんで……。いや何、冗談でございますよ。あの旦那はああした戯言の好きなお方で」
店主の言い訳が終わらぬうち、男はポケットから一枚の紙を抜き出した。
不可思議な文字の羅列された厚手の和紙。
それをカウンターの上に置く。
店主は紙を見て目を丸くする。
「その札は……お客さんも縛師の方ですか」
「縛師か――縛師といえば縛師だな。だが見神といえば見神だし、見ようによってはお前と同類でもある。全く下らない話だ」
「は……?」
「だが俺は結局のところ何者でもない。戯れに雷を落としたところで、何も変わることはなかった。お前のような者が羨ましいよ」
言いながら札の上に手を乗せる。
鈍い爆発音が響き、カウンターが発火した。
紫の炎が燃え上がり、カウンター全体が、見る見るそれに包まれる。
店主は悲鳴を上げる。
「な――あんた、何を!」
「こういう場所は必要が無いんだ。下らない場所など有るべきじゃない。分かるか?」
男はゆっくりと立ち上がる。
音と声を聞きつけて、若い店員が飛び込んできた。
「うわっ」
燃え上がるカウンターを見て目を丸くする。
コートの男は片腕の袖をまくり、肘から先を瞬時に変じさせた。
盛り上がる筋肉、ざわざわと生える黒い毛――黒腕。
若い店員の顔面に、巨大な拳の一撃が振るわれる。
殴られた店員は顔の下半分を失った。
吹き飛んだ顎が壁に叩きつけられて落ちる。
遅れて店員の体も崩れ落ちた。
店主は声にならぬ声を上げた。
「野――郎――っ!」
肌が赤黒く変色して両肩が盛り上がり、口が耳まで裂ける。
燃えさかるカウンターを飛び越え、店主は男に襲いかかった。
コートの男は、変じていないほうの手で、店主の繰り出した突きを受け止める。
涼しい顔で。
「力が強いな。鬼の類か」
「な――うああっ!」
そのまま店主の体は壁に叩きつけられる。
男は飛び上がり、倒れた店主の傍に降り立って、その頬をかかとで踏みつけた。
踏みつけながら男は笑っていた。
「まあまあの拾い物だ。――邪魔が入らぬうちに食うとしよう」
両眼が光り、禍々しい妖気が狭い空間を支配する。
店主の悲鳴は数秒と続かなかった。
三
石之助は距離をとって舌打ちした。
「……畜生め」
口の端から血が滴る。
この人通りの無い歩道で戦い始めてから、一分と少し。殺し合いとしては十分に長引いている。
半猫の女怪は、数度に渡る石之助の攻撃を身に受けてなお、全くこたえている様子もなく、獣が獲物をどう仕留めるか思案しているような様子で、こちらの動きをうかがっている。
既に石之助の息は上がっていた。
――強い。
相変わらず妖気は感じないが、身の痛みがそう確信させる。
「何者だ、こいつあ……」
呼吸を整え、構えを直す。
その瞬間、女怪に飛びかかった者があった。
小梅であった。
「あああっ!」
背中に深い傷を負い、ガードレールの傍でうずくまっていた小梅が、不意に飛び上がって仕掛けたのである。
石之助は叫んだ。
「馬鹿野郎、よせッ!」
遅かった。
小梅は半猫の女怪の上から、覆いかぶさるように組み付いていた。
無謀な攻めであった。
次の刹那には小梅の背中が破れ、そこから爪の長い血だらけの手が、生々しい音と共に飛び出した。
女怪の腕が小梅の腹を貫いたのだ。
石之助は駆け寄ろうとしたが、小梅の声がそれを止めた。
「来ないで……っ!」
「な――」
「早く……もっと離れて……っ」
小梅は両腕で猫の頭を挟みこむ。
石之助は小梅の考えを理解し、足のばねを限界まで使って大きく飛び退いた。
ほとんど同時に小梅が口を開く。
赤黒い粉塵が猛烈な勢いで吐き出された。
さながら爆発の如くに発生した毒の煙が、小梅と女怪を中心に舞い上がる。
その瞬間、凄まじい突風が去来した。
粉塵は嘘のように消え失せた。
風に煽られてよろける石之助。
何があったのか理解できずに、女怪に密着したまま硬直する小梅。
寸でのところで毒を吸うことなく、その小梅を突き飛ばす女怪。
小梅が再び地に転げる。
男が――真っ直ぐに歩いてきた。
「何を手こずっている、ホンマオグイの覚醒体ともあろうものが」
黒いコートを纏った金髪の男だった。倒れた小梅の傍らで立ち止まり、その姿を見下ろす。
「ふん、件の山ノ蛾が産んだ娘か……見事な毒霧だったな。しかし所詮は百年も生きていない小娘だ」
赤い女怪に視線を移す。
「お前の潜在力をもってすれば触れられることも無かったはずだ。目覚めたばかりでは上手いようにいかないか?」
「ホンマオグイ……紅猫鬼だと?」
石之助が目を見開く。
「まさか――こいつは……」
「殺さなくて良かった、か?」
「貴様は――?」
「会うのは初めてだが、お前は俺の父親を知っているはずだ。俺の顔に面影があるだろう」
「何……」
石之助は男の顔を見つめる。
確かに、どこかで見たような目鼻立ちである。
記憶を探る。
そして石之助は再び目を見開いた。
「その顔――火高か!」
「そう。俺は火高の息子だ」男は満足そうに頷く。「そして同時に、あれを殺した者でもある。もっとも奴の情報は俺の中で生きているが」
「何を……言ってやがる……?」
「俺は石落という男の誤算の果てだ。奴は任氏の力をひどく恐れ、最後まで子を産ませることはなかったというのに、結局一つのミスを犯していた。そのミスがあの男を殺し、そして魂すら眠り石に閉じ込めた。もっとも最終的に消滅させたのは、麒の少年らしいが――」男は笑う。「ともかく俺という無意味な生命は、石落のミスが産んだ結果だ。ミスは欲望と交わり、下らない奇跡を起こしてみせたのさ。……さて、紅猫鬼」
赤い女怪を見る。
「もう行け。お前にはお前の、望むことがあるはずだ。こいつらとは――俺が遊ぶ」
両眼が紫に光る。
紅猫鬼と呼ばれた女怪は頷きもせず、何かを思い出したように空を見上げ、跳び上がった。
そして隣に建つビルの壁に張り付き、ヤモリのようにするすると上ってゆき、やがて屋上へと消えた。
次の刹那、屋上から衝撃音が聞こえた気がしたが、何の音なのかは知れない。
残ったのは石之助とコートの男、そして背中と腹部に深手を負った小梅だった。
男は地に伏せた小梅の髪を掴み、力任せに持ち上げる。
「さあ」
今思いついたような口調で言う。
「まずはこの娘を殺そうか」
「止めろッ!」
石之助が飛び掛る。
男は小梅の体を振り回し、石之助に叩きつける。
石之助は吹っ飛び、小梅が血まみれの口で悲鳴を上げる。
「うああっ!」
「黙れ」
男の爪先が小梅を蹴り上げる。
同時に手を離された小梅は、街灯より高く浮揚し、そして真っ直ぐに落下した。
どしゃりと鈍い音が響く。
立ち上がった石之助が再び襲い掛かる。
しかし見えない壁に阻まれた。
「な――結界符――?」
「そこで見ていろ、力無き石字縛師よ」
男は石之助に笑い、それから小梅の腕を掴んで引き上げた。
「いい顔だ」
怯える小梅の頬を、手の甲で撫ぜる。
その手が――首へと。
小梅は呻いた。
「……石、之助」震える声。「た、すけ……」
涙。
それが最後だった。
ごきりと骨の折れる音がした。
小梅の体が男の足下に崩れ落ちる。
結界が破れた。
石之助は叫び声を上げて地を蹴る。
「貴様ァアッ!」
「邪魔をするな」
男の片腕が鞭のように振るわれる。
その先端が消え、肉を叩く音が響き渡る。
石之助は恐ろしい勢いで回転し、先ほど紅猫鬼が登っていった壁に背中から叩きつけられた。
「が……」
肺臓が潰されるような衝撃を受け、石之助は壁に寄りかかったまま硬直する。
動けなかった。
男はそれを確認して小梅に目を落とし、その細い腕を引き抜いた。
まるでマネキンのパーツを外すような、淡白な動作だった。
小梅はもう声すら上げない。反応も無い。
美しかった瞳が既に曇り始めている。
石之助は絶叫した。
「小梅――ッ!」
「今さら叫んでどうなるものでもないぞ」
男は引き抜いた腕を眺め、くんくんと嗅ぐ。赤い滴りが落ちてゆく。
「実に……良い匂いだ」
ぱかりと口を開ける。
しかし、いざ齧りつこうという瞬間、ひとつの影が降り立った。
影は地に張り付くように着地し、男に向けて鋭い爪を放つ。
男は小梅の腕を捨てて飛び退いた。
「む――」
血が散った。男の肩がえぐれていた。
影の放つ二撃目は炎だった。
白く光る灼熱は三日月のような形を取り、アスファルトの地面ごと、大雑把に斬する。
男はぎりぎりでそれをかわした。
アスファルトの欠片が舞い散る、一瞬にして熱気を帯びた空間。
油臭い煙の中で男は笑う。
「任氏かっ!」
「貴様は何者じゃ!」
黒いジャージを着た裸足の女。
シロであった。
赤い眼が爛々と輝いている。
椰子の葉のようなポニーテールがざわりと揺らぎ、シロの全身が燃えあがる。
「妙な妖気を感じて飛んで来てみれば――何のつもりでこの者たちを襲った!」
「任氏か……確かに規格外のエネルギーを持っているようだな。あたり構わず全力を解き放てば、軍事兵器にも引けを取るまい」
「答えよ!」
踏み込んだシロが消える。
男も消えた。
切り裂く音がして、次の瞬間、二人の立つ位置が入れ替わっていた。
炎が失せる。
呆気なく崩れたのはシロのほうであった。
「――、馬鹿な」
背中が破れ、鮮血が噴き出す。
男は笑った。その片腕は夜々と同じ、黒い腕へと変じていた。
「しかし遅い。そして、いつまで経っても詰めが甘い。先ほどの不意打ちで俺を討てなかったのは致命的だった」
「馬鹿な」鼻から血が流れる。「このしろよりも……強いじゃと……?」
シロは信じられぬものを見るように、男の顔を見上げる。
「それにその腕は……」
どこからか数人の声がした。
男は声の来る方向を見る。
「誰か来たか――まあ、あれだけの音がすればな」
肩をすくめる。
「今日はもう行くとしよう」
石之助に顔を向ける。
「そういえば名乗っていなかったか……俺の名は宮琵だ。宮に琵琶の琵でみやびと読む。下らない名前だろう?」
苦笑いしながらコートを翻す。
「また近いうちに会おうか」
紫の風が回り、男の姿は掻き消えた。
それはわずか数分の悪夢だった。
路上に残されたのは、立ち尽くすシロ。
うち捨てられた小梅の体。
膝から崩れ落ちる石之助。
冷えた夜空。
黄色い月が町を照らしていた。