第八章【小梅 ―こうめ―】後編
妖怪、化生、あやかし、化け物、異形、物の怪……多くの曖昧な呼び名を持つそれらは、古くから人間たちの傍にいた。
時にそれは人と共に暮らしたが、多くの場合は人を捕食した。
そうした異形と戦う術を持つ者は少なかった。
昔話や民間伝承のように、ただの読経で退散するような化け物はいない。経はあくまで教えであり、そうでなくば哲学書である。言葉そのものに力が宿るということは、まず、無いと言っていい。
しかし石字縛師の使う文句には力があり、また化け物を滅ぼすことが出来た。
それは彼らの持つ力が、異形たちと同質のものだったからである。
この国には他に、見神と呼ばれる家柄がある。彼らは視覚として捉えられぬ神気や神意、すなわち常世よりの気配を感じ、また常世のものたちと同質の神通力を操ることができる。
その能力のルーツはまさしく家系のルーツにまでさかのぼり、つるという名の人間の娘と、黒腕と呼ばれた謎の神獣――一説には山の守り神であったともいわれるが――とが結ばれ、子を生したことが始まりであるといわれる。すなわち神獣の血が混じっていることこそ、見神が見神である理由なのだ。
今や語られ聞いている者は少ないが、実のところ石字縛師の起源も似たところにある。
彼らのルーツもまた、妖怪と人間との異種族間婚姻であった。つまり、彼ら石字縛師には、多かれ少なかれ妖怪の血が流れているということだ。だから妖気も感じられるし人外の技も使うことが出来る。
しかし彼らには妖気が存在せず、見た目も元々から人間と変わらない。正確に言うならば、何も表には発現していない。
それは一人目の石字縛師――すなわち起源となったハーフが誕生した際、親によって、人間風にいえば遺伝子レベルでのプロテクトがかけられたからだと考えられている。恐らくは自分の子や孫たちが、問題なく人として生活してゆけるようにとの配慮であったのだろう。
しかし石字縛師たちは、ある特定の術式を使用したとき、おもに文字のつながりを媒介として、自らの肉体が持つ力を限定的に解放、発現することが出来る。すなわち石字文句による縛術である。
これも伝承によれば、最初の子の親が作り上げたシステムらしい。
そのあたりについてあまり正確な言い伝えは残っていないが、どうやらその妖怪は、強い力はあったものの、土地に住む他の妖怪たちと折り合いが良くなかったらしく、子供も狙われる心配があったようだ。要するに護身用に残した手段だったのだろう。
ともかく、石字縛師の術と、妖怪の力とは同質のものなのだ。
だから石字文句は、決して妖怪のみに有効な攻撃手段ではない。長い裏側の歴史の中では、様々な理由でその力が妖怪以外の存在――つまり人間に向けられた例も無いではない。
石之助も石字縛師の力を人間に向けて振るった一人である。
彼が術を使って傷つけた相手は四人だった。理由は私怨。相手は何の能力も無いただの人間だった。
あれは一方的な暴行であった。
もう、何十年も前の話になる。
後編
一
今となっては昔、終戦から五年ほどの月日が流れた頃。
石之助は父に呼ばれ、横浜の片隅に建てられた屋敷を訪ねた。
そこは見神の建てた屋敷であった。正確に言えば入神家が父のために造らせた家である。
父の磐石は見神の家と特に繋がりが深いというか、見神の一部として動いているようなものだったので、父にそうした土地屋敷や、また部下らしい人員などが与えられていたことも、石之助にとっては別段不思議に思うような事柄ではなかった。もっとも、石之助は磐石のしていることを細かく知っていたわけではないのだが。
普段放っておいている自分のことをどうしたわけで呼んだのかと、石之助は少々奇妙に思ったが、事情を聞いてみれば、何のことはない、仕事の上での話であった。
仕事というのも、当時の石之助は若き有能な石字縛師として、ある世界の中ではそれなりに名を馳せており、またそれだけの実力もあった。要するに、若い割に化け物を殺すのが巧かったのである。
磐石はその石之助に依頼をしたのだ。
内容は、東京に出没するという妖怪の調査であった。
なぜそんなつまらぬ依頼をとも思ったが、話はさしてつまらなくもなく、聞けば事の起こりは戦時中にさかのぼった。
戦争の末期、日本軍は統治区域だった島の南方にある森の奥で、一体の強力な異形と遭遇したのだという。
それは雌の蟲怪だった。半蟲半人の妖怪である。顔は人によく似ているが、蛾のような羽根と何本もの腕、それから胴体にずらりと並んだ伸縮性のある触手を持ち、桃色の髪を振り乱して羽ばたいては、毒の鱗粉を撒き散らし、多くの軍人を殺したという。
当時、軍のある部門では、異形のことを研究し、ゆくゆくは軍事的に利用しようという計画があった。戦争が呆気なく終わるとも知らず、感心するほど遠大な計画である。勿論立ち消えた戦艦や戦闘機の設計図などと共に葬られた計画であるが、当時の偉い方はいたって真剣で、名の通った石字縛師や、見神の者たちまでが研究人員として呼ばれた。磐石もその一人であった。
強力で、且つ毒を使う妖怪は、軍にとって格好の研究材料であった。彼らは少なからずの兵を犠牲にしてそれを捉え、磐石らによって結界を作らせ、厳重に動きを封じ、本土まで搬送した。
妖怪はその姿の通り、山ノ蛾と名付けられた。山奥にいたせいか言葉を解さぬので知性の程は知れなかったが、暴れる際の叫びはけたたましかったという。しかし掴まってからの山ノ蛾は大人しくなり、特に抵抗する様子もなく、本土の研究室内におさまっていたそうだ。
だが、落ち着いてから少しの日数が経ち、いよいよ研究に取り掛かろうかという時、異変は起きた。
一晩にして山ノ蛾の腹部が大きく膨れたのである。
雄との交わりによって既に子を孕んでいたか、それとも一体で次を産むものなのかは知れぬが、山ノ蛾はそのまますぐに産卵した。蟲怪であるにも関わらず、意外なことに、卵はたったの一つであった。
山ノ蛾は思い出したように暴れ始めた。
西瓜ほどの大きさをした気味の悪い物体を産み落としてからの、山ノ蛾の暴れようは壮絶だった。
完全と思われた結界を瞬く間に破り裂き、施設を守っていた兵隊や石字縛師達を、たちどころに惨殺した。父はその場にいなかったそうだが、話を聞く限り、いてどうなるものでもなかったと思われる。
機関銃の射撃を全身に受けてなお、山ノ蛾は卵を胸に抱き、毒々しい模様の羽根を広げて、研究所を飛び去った。
再び発見されたのは六日後である。
元の住処によく似た森で死んでいる山ノ蛾が、民間人たちによって見つけられた。
逃走の際の戦闘で受けた傷が原因であったと思われる。産卵で消耗していたため回復が間に合わなかったのだろう。
卵は、既に内から殻の破られた状態で、中身はどこかへ消えていたという。
結局中身の行方は知れぬまま戦争は終わり、施設は人知れず閉鎖された。
しかし、それから五年の時が流れた今頃になって、東京の真ん中辺りで妙な噂が聞かれるようになったらしい。
桃色髪の娘が、毒の粉で人を殺す。――山ノ蛾と到底無関係とは思えぬ風聞だ。
命令されてしたこととはいえ、磐石は、恐ろしい化け物を森の中から引きずり出してしまったことを気に病んでいた。きっと放っておけば特に害も無い存在であったろうに、それをわざわざ捉えて本土まで運び、挙句は子が街に放たれたのだから、気に病むのも当然のことといえる。
石之助は調査の話を受け、可能であれば捕縛することを約束した。
先払いの金は父ではなく、当時の施設長だった火高という男から出た。後に石之助も一度だけ会うことになったが、妙に油断のならぬ目つきをした男であった。金を出したのも、磐石と同じく自らの所業を悔やんでのことという名目だったが、話し振りもあまりに綺麗で、実のところどうだか知れぬというのが石之助の直感であった。もっとも、今となってはあの男の本心など分からない。
ともかく石之助は、それからしばらく、まだ泥臭さの残る東京の町をうろついた。
桃色髪の娘の話は中々流行りの怪談とみえて、あちらこちらで色々な話を聞くことが出来た。しかし妖怪話の多分に漏れず、大抵の場合は余計な尾鰭や知ったかぶりがついていて、しかもそれが格別じゃらじゃらとした装飾ばかりだったせいで、動けるだけの情報が集まるには、ちょっとした地味な苦心が必要になった。
やっと集めた情報を手がかりに考えれば、これが灯台下暗しとはよく言ったもので、意外なことに、化け物は今、父から依頼を受けた地である横浜の方面へ向かっているか、さもなくばもうとっくにそこへいるらしいということが分かった。東京で聞いた話に尾鰭が多くついていたのも当たり前の話である。娘の妖怪が東京にいた頃からすれば、もう時間が大分過ぎていたのだ。
横浜へ戻ってまた話を聞き集めてみると、どうも関内の方へいるらしいということが分かった。ちょうど、昔に岩亀楼という大遊郭のあった辺りである。今はもう跡形もないが、様々な情念の渦巻いた地だ。妖怪も、特に女怪とあらば、知らず知らず惹かれたのかも知れない。
その辺りの酒場を色々とうろつき、話を集めながら幾日か過ごすと、程なく石之助は目当ての女怪と巡り合った。石之助の方が捜していたのだから全くの偶然というには程遠いが、しかしそれは、実に幸運なきっかけによる接触であった。
夜、安酒にほろ酔って酒場を出て、借りている宿へ帰る途中、人が倒れるのに行き会ったのである。
よろよろと歩いて目の前で倒れたその男は、抱き上げた石之助の胸で血を吐いて果てる際、ある細い路地を指差して、奥に襤褸を着た桃色髪の娘がいたことと、声を掛けた途端に毒の粉を吹きつけられたことを教えてくれた。
石之助は男の死体を置き去りに、路地の中へ飛び込んだ。
確かに娘はそこにいた。
話に聞くとおりの長い桃色髪だったが、目の当たりにしてみると、思いの外あどけなく、可愛らしい顔だちをしていた。体も小さく、あまり強そうには見えなかった。もっとも、妖怪の強さ弱さなどというものは、到底見た目で分かるものでは無いのだが。
娘は最初、俯いたまま石之助とすれ違おうとしたが、石之助が立ち止まるとそれに反応して歩みを止め、こちらの顔色をうかがった。
石之助は青かった。
年経た今ならば自らの気色を全く断つことも出来ようが、その時の石之助は、咄嗟に平静を装ったようで、警戒している娘にすれば丸出しの感情を顔から発していたのであろう。それはある種の恐れであったのかもしれないし、殺気だったかもしれない。
娘は猿のように飛び退いて、その口から、息吹と共に赤茶けた粉を吹き出した。
石之助は胸に仕込んでいた札を抜き、風を生んでそれを返した。敵のやり口を知っていたからこそ出来た仕度である。何も知らなければ死んでいた。
娘は自らの毒霧を身に受けて声を上げたが、体から吐き出した毒で弱るわけもなく、少しひるんだだけで、また石之助を睨み返した。
綺麗な眼であった。
娘は襤褸を脱ぎ去り、腋の下からもう二対の腕を生やすと、石之助に踊りかかってきた。
石之助は愚かなことに、まさに自分を殺そうとしている、しかも腕が六本もある妖怪の裸体に、あろうことか一瞬目を奪われ、大切な守りを怠った。地に組み敷かれたのだ。
娘は容赦なく、猛烈な力で石之助の首を絞めてきた。危うく首の骨を折られてしまうところだったが、闇雲に思い切り繰り出した蹴りが娘の鳩尾に当たり、六本腕の戒めが解かれたことで何とか抜け出せた。
石之助が地を転がって立ち直すと、娘は亀のようにうずくまったままこちらの顔を見上げた。どうやら痛くて起き上がれないらしく、細く唸りながらカチカチと歯を鳴らし、薄汚れた頬に涙を流していた。
蹴られて怖くなったのか、裸の体も小刻みに震えていた。
考えてみればまだ生まれて間もない存在である。母親から譲り受けた毒の粉は厄介だが、妖怪としての基本的な力はあまり無いのだろう。石之助を組み敷いた力も、もちろん人間並みは超えていたが、一端の化け物といえるほどのものではなかった。
そして――これも石之助の青さだったのかもしれない。
うずくまった姿を見下ろしてみると、途端に妖怪のことが哀れに思えてきた。
このまま縛して父のところへ連れてゆけば、父のことだ、きっと危険であると、処分してしまうに違いない。この妖怪は幾人もの人間を殺したのだから、それはそれで当たり前なのだが、目の前で震えている娘は、形こそ人と違うところはあれど、人の娘のように弱々しく、そうするに忍びない存在であるように感じられてきたのである。
娘は歯軋りしながら「痛い」と言った。言葉を解すことはそれで分かった。
「すまない」と石之助は言った。
石之助の目には、娘の桃色の髪が、やけに美しく見えていた。
二
小梅は石之助と出会った時のことをあまり憶えていない。
いや、それはあまり正しい言い方ではないかも知れない。つまり――あった事柄は憶えているのだが、そのとき自分が何を思っていたか、どう感じていたかを思い出せないのだ。
恐らく何に対しても大したことを感じなかったのだろう。肉体と知能の成長は人間に比べれば恐ろしく早かったが、人間社会の只中だったにも関わらず、たった一人で育ってしまったせいで、人の形に化けるやり方やゴミのあさり方は覚えることが出来たが、人間の考える理屈というものが、今ひとつ分かっていなかった。そのせいで、さしたる理由もなく多くの人間を殺したことも、あの頃、石之助にぺらぺらと喋ってしまった。今にして思えば秘密にしておけばよかったと悔いている。
出会いは夜、関内の細い路地であった。
小梅は襲った石之助の返り討ちにあい、地面にひれ伏した。
腹を強く蹴られて物凄く痛かったことを憶えている。人間のあんな反撃にあったのは初めてのことで、痛いだけではなく怖ろしくて、動くことも出来なかった。
石之助に手を差し伸べられた時も、ただ怖くて、言われるままにその手を握り返した。
小梅の肋骨は折れていた。
自分は人と違うから、折れた骨などすぐに治る。それは何度か怪我をしたせいで知っていたし、当時まだたどたどしかった言葉で石之助にもそう説明したのだが、彼は分かった分かったと言いながら、持っていた塗り薬を塗ってくれた。その時、石之助は小梅の乳房から必死に目を反らしていたように思う。小梅にはまだ、それが何故なのか分からなかった。
石之助は薬を塗り終わると、自分の上着を小梅にくれた。ありがとうと言えれば良かったのに、小梅はまだそんな言葉を知らなかった。今でもまだ言えていない。もう、いつ言えばいいのかも分からない。
小梅を道の端へ座らせ、自分もその横へ並ぶと、石之助は「なぜさっきの男を殺したのか」と訊いてきた。
「分からない」と答えると、石之助は少し困ったような顔をして、「何かきっかけがあったろう。話しかけられたのじゃないのか」と再び訊いた。
小梅は考え、「話しかけられた。でも殺したのはあれが人間だから」と答えた。
石之助は、「お前は人間なら皆殺すつもりか」と言った。
小梅はまた考えた。
そういうわけではない。
ただ、小梅にとって人間は、よく分からない、恐ろしい存在なのだった。
人間は、食い物を取れば追ってきて小梅を滅茶苦茶に叩く。ニコニコしているから優しい者かと思ってついて行けば、小梅を裸にして怖いことをしようとする。どういう人間であれ、少しでも関われば、結局は怖い目に遭わされる。だから小梅は関わりそうな人間を、関わる前に殺してしまうようになったのだ。
しかし小梅はそれをうまく説明できなかった。
ただ「違う」とだけ言った。
石之助は、「そうか」と静かに頷いた。
それから石之助は、小梅に難しいことを語った。
人間の作った社会は人間の世界であるということ。
例え本当は違う生き物でも、人間の姿に育って、それに慣れてしまった以上、人間としての決まりを守って生きていかねばならないということ。
そのためには人を殺したり、傷つけてはいけないということ。
大変なことだが、ちゃんとした言葉を学び、世の中のことを学び、ゆくゆくは仕事をして、人間として生きてゆくのが、小梅が幸せになるための道であるということ。
それらを石之助は、首を傾げながら聞く小梅に、ゆっくりと語ってくれた。
聞いているうち、小梅は段々と、石之助のことを怖ろしく感じなくなっていった。ニコニコと笑わず、むしろ恐ろしげな鋭い目つきをした若者が、小梅にとっては初めての、敵でない人間であるように思えた。
しかし幸せという言葉の意味がどうしても分からず、何度も石之助に訊くと、彼は腕組みをして考え込み、困った顔で「俺にもまだ分からないが、きっと、なってみれば分かるものだ」と教えてくれた。そして立ち上がった彼が「次の晩にまたここで会えるか」と言ったので、小梅はよく分からぬまま頷いた。
あくる日、小梅は朝から約束の夜になるまで、ずっとそこに座り込んだまま待っていた。
腹は減ったし尻は冷えたが、襤褸の上から着た上着の匂いを時々嗅いでみながら、その上着をくれた男がやってくるのを思うと、何故だか苦には感じなかった。
夜になり、約束どおりに石之助はやって来た。手には風呂敷包みを持っていた。
「待ったか」と聞くので「あれからずっと待っていた」と答えると、彼は驚いた顔をして、「腹が減ったろう」と言った。
そして風呂敷包みを開け、中からいくつかの握り飯を出した。小梅にくれるというのである。
小梅はまた少し警戒もしたが、本当に腹が空いていたので、すぐに受け取って食らいついた。握り飯は大きさがどれも不ぞろいだった。食っている間、石之助はまた前の晩と同じような話をしていた。
食い終わった小梅に、石之助は「まだ痛むか」と訊いてきた。
何のことかと訊くと、「昨日俺が蹴ったところの話だ」と、決まり悪そうに指をさす。
本当はもう治っていて、痛くもなんともなかったが、小梅は咄嗟に「まだ痛い」と嘘をついた。どうして自分が嘘をついたのか、その時は分からなかったが、今は恥ずかしいほどよく分かる。
やはり石之助は軟膏を持っていて、それを取り出すと、小梅に「自分で塗れるか」と訊いてきた。
小梅は「塗れない」と答えた。
そんな嘘をついて、小梅は石之助にまた薬を塗ってもらった。その時も石之助は目のやり場に困っているようだった。
薬を塗り終わると、石之助は帳面と鉛筆を取り出し、それを使って色々なことを教えてくれた。
言葉の使い方、簡単な世の中の決まり事、片仮名、数の数え方、金というものの意味、それから自分の名前。
小梅という名前を付けてもらったのも、確かその夜だったと思う。
「髪の色が梅という花に似ている」と石之助は言っていた。
そんなことが幾晩も続いた。
狭い路地の、真夜中の、しかも教師と生徒がたった一人ずつの学校だったが、小梅にとっては全く新しい世界であった。
物事を覚えることは楽しかったし、褒められることは嬉しかった。――そう、そこで小梅は「嬉しい」と「楽しい」を知った。
そして、「小梅」と名前で呼ばれる度に去来する不思議な感情も、小梅はそこで初めて知ったのだ。
小梅は石之助に会える時間を楽しみにするようになった。
しかし事件は、小梅と石之助が初めて会ってから半月後の夜、唐突に発生したのである。
三
石之助がいつものように握り飯や帳面を持って路地へ行くと、小梅もいつもの如く、そこへうずくまって座っていた。
ただ、いつもと違っていたのは、呼んでも小梅が顔を上げぬ点であった。
石之助は眠っているのかと思い、ゆっくり近づいてその顔を覗こうとした。
小梅の肩が震えていた。
鼻水をすする小さな音が聞こえた。
ぐすり、ぐすりと、小梅は泣いていた。
石之助はぎょっとして片膝をつき、小梅の肩を掴んだ。
「何があった」――。
そう訊くと、小梅はようやく顔を上げた。
頬骨のあたりが腫れていた。小梅は妖怪である。まだ腫れているからには、そうとう新しい傷に違いなく、しかも石之助の経験から察するに、それは男の強い力で殴られた傷であった。
石之助はもう一度訊いた。
「誰に」――「何をされたのか」。
小梅は体を縮め、小さな声で短く語った。
最初は抵抗しようと思ったのだという。
しかし石之助が教えた世の中の決まり事を思い出し、それを守って、小梅は相手のうち誰一人として傷つけなかった。
逃げようとしたが、一日中そこへ座っていたせいで足が痺れ、うまく走れなかった。
相手は四人もいたのですぐに掴まってしまった。
やめてくれと言ったら、大きな声を出すなと二度殴られた。
地面に倒され、服を脱がされ、今度は平手を食らわされて、静かにしていればすぐに済むと言われた。――だが、四人すべてが満足するまでの時間は、小梅にとってはとても長く、死ぬほど怖ろしくて、泣くことも出来なかったという。
石之助は黙ったままその話を聞いていた。
小梅は話した後、苦しそうに「痛い」と言った。
涙をぽろぽろと流し、痛いからあの薬を塗ってくれと言った。
血と、生々しい男どもの臭いがした。
石之助は小梅の頭に手を置き、静かに頷いた。
「分かった、ちゃんと塗ってやる。だけど少し待っていてくれ」――。
そして石之助は駆けだした。
肉体をあらゆる手段で鍛え抜いた石之助にとっては、周囲の道を瞬く間に駆け回ることなど造作も無い。しかもその辺りは夜になると人通りも少ない。
四人組はすぐに見つかった。
彼らは酒に酔っているらしく、いとも楽しげに笑い合いながら、ふらふらと道の真ん中を歩いていた。
彼らの前に立ちふさがり、石之助は荒い息をこらえて問うた。
――「桃色髪の娘を知っているな」。
男たちは顔を見合わせ、「何だ手前は」と石之助を取り囲んだ。
「さっきの乞食娘の連れ合いか」と一人が言い、突き出した腹を更に突き出して、「やられて文句があるくらいならオボコにしておくな。女などというものは早い者勝ちだ」と唾を吐いた。
そして唇を結んでいる石之助に、更にもう一人が歩み寄り、「分かったらそこをどけ」と怒鳴るとともに、酔っ払った手で、ぐいと石之助の肩を押した。
それだけで、若い石之助がわずかに保っていた理性を突き崩すには十分であった。
石之助は考えるよりも早く、自分を押した手の指を折り――男が悲鳴を上げるより早く、石字文句の刻まれた竹札を抜いていた。
閃光が何度か弾け、怒りにまかせた仕置きは数秒で終わった。
酔った生身の人間から、それぞれ一本ずつの腕を奪う。
余計に腹が立つほど簡単な作業だった。
石之助は返り血も浴びずに小梅の元へ戻り、まだ泣いている小梅の肩に手をやって、出来る限り優しく言った。
「もう怖くない」。「俺の父のところへ行こう」――。
父親を説得する覚悟は出来ていた。
四
石之助に手を引かれ、磐石の屋敷へ連れて行かれた日のことは、緊張しすぎてほとんど憶えていない。
憶えていることといえば、門が大きかったこと、磐石が小梅の顔を見るや、あんぐりと口を開けていたこと……その顔が、石之助が熱心に話をするうち、困惑した顔になり、やがて静かな顔になり、最後には呆れ顔に変わったことくらいである。
ともかくその日から、小梅は内密に磐石の家で育てられるようになった。
それによって、石之助や磐石が、誰にどうした嘘をつかねばならなかったか――そのあたりは小梅の知るところではないが、きっと迷惑をかけたのであろうと思う。
屋敷に移ってから小梅の生活が如何に変わったかというと、食べ物が握り飯からおかずのある食事に変わり、雨の当たらない寝床ができた。それだけではなく、石之助が一日中傍にいてくれるようになった。これは小梅にとって何より安心できることであった。
磐石も、石之助の父であるから、やはり優しい男だった。優しいどころか小梅が欲しいという物は何でも揃えてくれたし、しつけに几帳面な石之助と違い、何があっても小梅のことを叱らなかった。――その甘さが、小梅の母親の死に加担してしまった後悔から生まれていたものだったということは、死に際の本人から聞いたが、小梅は母の顔も知らないし、実際磐石たちが親のようなものだと感じていたので、全く恨んではいなかった。
屋敷の使用人や、磐石の下の者たちも、小梅に優しくしてくれた。きっと職業柄、妖怪という存在に比較的慣れていたからなのだろう。手鞠をしたり綾取りをしたり、小梅をただの子供と同じように扱ってくれた。もっとも、小梅の外見はもう、今と同じように二十歳近くの娘に育っていたのだが。
石之助はといえば、何かにつけて小梅に物事を教えてくれた。
小梅は、心の発達は相変わらず鈍かったものの、物の怪であるせいか、単純な物の覚えは良かった。例えば読み書きや算盤である。いろは歌など、路地で石之助に読み方を教えられながら一、二度書き写せば覚えてしまったし、数勘定のほうは、数字を覚えて幾日もせぬうちに割算まで出来るようになった。そういう頭を持っていたものだから、勉強はずいぶん駆け足で進んだ。
小梅が基本的な学習をすぐに終えてしまうと、石之助は、沢山の本を買ってくれたり、思いつく限りの場所へ連れて行ってくれるようになった。石之助に連れ回され、汽車の乗り方や買い物の仕方など、小梅は沢山のことを教えてもらった。
石之助といるのはとても楽しかった。世の中のことを学び、色々な人間を知ってなお、石之助は小梅の一番好きな人間だった。
小梅が素直にそう伝えると、石之助は、「そうか」と言って頭を撫でてくれた。
優しく全てを教えてくれる石之助は、小梅にとって神のような存在だった。石之助の言葉は絶対に正しいはずの言葉で、小梅にとって、それこそがまさに法律だったのだ。
だから屋敷に住んで一年ほどが経ち、石之助から突然に別れを言い渡されたときも、本当は泣きたいほど辛かったのに、「石之助が言うのだからそれが絶対に正しいのだ」と信じ、小梅は我慢して涙をこらえ、首を縦に振ったのである。
五
石之助が小梅に惹かれるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
ひょっとすると、出合った時にはもう恋していたのかもしれない。妖怪とみれば嬉々として殺していた石之助が――そう、石之助にとって悪い妖怪を滅するのは、西洋の貴族が遊びでする狩りのようなものでしかなかったのに――ひと目見ただけで、殺すどころか手当てまでしてしまったのが、そのいい証明ではないか。
なぜ惚れてしまったのだろう。
石之助は内心で四六時中自問した。
顔かたちに惚れたのだろうか? 女怪が皆生まれつき持っている色香にあてられたのか? ……それは恐らく、どちらも違う。絵に描いたような美青年というわけではないが、石之助はなぜか多くの女に好かれるたちであった。だから綺麗な女も見慣れていたし、女怪特有の色香にも、仕事が仕事なだけに慣れていた。
では、小梅の何をそんなに好きになってしまったのだ。
やはりあの純粋な眼差しだろうか。どのようなことも素直に受け止め、まったく疑うことを知らぬ透き通った心に惹かれたのか。
いや――馬鹿な、あれは何も知らないがゆえの純粋だ。善も悪も知らぬ、赤子のような純粋なのだ。
もしその純粋に惹かれたのだとしたら、これは何と醜い恋心であろう。何も知らぬ小梅に物事を教え、少しずつ自分の色だけで汚してゆくことに喜びをおぼえているのだとしたら、自分はとんだエゴイストではないか……。
屋敷で共に暮すうち、小梅への恋心を自覚した石之助は、段々とそうしたことを考えるようになっていた。
きっかけは本当に些細なことで、石之助の言葉ひとつひとつを、まるで親の言葉でも聞くように頷きながら受け止めている小梅の大きな瞳が、何だか自分の中の醜い部分を映し出してしまうような気がして、不意に怖く感じたのが始まりだった。
醜い部分というのはつまり、小梅という一人の女を、本人が何も分からないのをいいことに、石之助の思うように繋ぎ止めておこうとする心のことである。
以前から少なからず自覚はあったのかもしれない。自分が小梅を、様々な知識を与えるという手段で独占し、その世界の広がりを制約していることを、石之助は自分で気付いていたのかもしれない。
しかも――それを自覚しているということは、もう一つの恐ろしい事柄すら、石之助は分かってしまっているということだ。
すなわち、小梅が自分に対して抱いている好意は、子供から親に向けられるのと同じ種類のものであり、普通の若い娘が当たり前に男を愛する感情とは、決して否なるものであるということを。
その絶望的な事実に気付いてしまってからというもの、石之助にとって、小梅の無垢な好意は何より辛いものとなった。
小梅は自分のことを好いているようで、決して愛してはいないのだ。
それどころか石之助のことなど、小梅は何も知らないのだ。子供を可愛がるように相対していながら、内心ではその肉体を自由にしてしまいたいと思っていることも、あの夜小梅を犯した者たちの腕を、正義の裁きのような顔をして無残に千切り落としたことも――ああ、あれは嫉妬してやったのだ。自分の手で汚したかったものを横取りされ、それが気に食わなくて痛めつけたのだ……。
今にして考えれば、少なくともあの復讐は、間違いなく、ただ小梅が可哀想でたまらなくなって行ったことなのだが、当時石之助は思春期の少年特有の情緒不安定に陥っており、やたらとそのようなことを考えて、自分を貶めては苦しんでいた。
そんなところへ、都合がいいのか悪いのか、入神家から母親役を探す便りが届いた。兼ねてより聞き及んでいた先祖返りの子「夜々」の、育ての親を探しているというのだ。
まだ腹にいる間に父親を亡くし、生れ落ちると共に母親も失った夜々は、見神の術で成長抑制を施されており、普通の人間より大人になるのが遅く、寿命も恐ろしく長いという。
生まれてから十二、三年は赤ん坊のままなので、まだ十年ほどしか経っていない今のところは生身の女たちが代わる代わる世話をしているものの、物心ついて心が育ち始めてからは、一人の親がずっと育ててゆくのが良いに決まっている――というのが、贅沢な入神家の考えであるらしい。だから、何らかの理由で長い寿命を持っている者が、専属の母親役として世話をするのが一番良いのだが、その頃の見神には時間に融通のきく適任者はおらず、困って磐石のところまで手を求めてきたのだ。
つまり簡潔に言うならば――「育ての親になってくれる女怪などはいないだろうか」と聞いてきたわけだ。
なるほど、女怪ならば適任であろう。寿命も長ければ戦闘者としても強い。それ一体がいれば大仰な警護も必要なくなる。
しかし、いかに異形と関わりの深い石字縛師といえど、そうそう妖怪の知り合いがあるわけもなかった。妖怪はほとんどの場合、始末する相手であって、使役するものですらないのだ。
丁重に断ろうとした磐石であったが、石之助がそれに待ったをかけた。
「うちに小梅がいるではないか」――石之助は父にそう言ったのだ。
磐石は驚いた様子だった。
確かに小梅を紹介することは、磐石も考えないではなかったろう。元は人殺しとはいえ素直で物覚えの良い娘である。しかも、何があっても人を傷つけることをせぬ。少々未熟なところはあれど、見ようによっては適任であった。
しかし恐らく磐石は、小梅を可愛がっている石之助が反対するに決まっていると思い、小梅の名には触れもしなかったのだ。それを石之助当人が持ち出したのだから驚くのも無理はない。
だがその頃の石之助は、もう、自分が小梅を束縛しているという自己嫌悪に耐え切れなかった。また、自分を愛していない思い人が、自分に屈託なく懐いてくるのがたまらなく辛かった。
だから離れたいと、ただそれだけのことだった。
後に凄まじい後悔にとらわれるとも知らず、揺れる心の傾いだままに、石之助は小梅に別れるのを切り出そうと決めてしまったのだ。
石之助は小梅を自分の部屋へ呼び、夜々という赤ん坊の育ての親にならぬかという旨を、静かに語って聞かせた。
見神の成長抑制によって引き伸ばされた夜々の寿命は長く不安定で、恐らく七、八十年は親の代わりをせねばならぬということ。その間に石之助や磐石は歳をとり、死んでしまう――つまり、行けば、もう共に暮すことは出来ないであろうということ……。石之助が抑揚なく語っている間、小梅はいつも通り、何を考えているのか知れぬ透き通った目を時々瞬かせながら、合いの手も打たずに聞いていた。
ただ、話が終わると、小さな声で「どうして石之助は、小梅がそこへ行くのが良いと思うのか」と訊いてきた。
石之助は大変迷った挙句、本心を素直に打ち明ける最後の機会だったものを、「お前にとって、それが一番いいからだ」と、心にもない答えを返してしまった。
小梅は――分かった、と簡単に頷いた。
これには石之助も拍子抜けした。少しくらいの駄々はこねるもの……いや、こねてくれるものだと思い込んでいたが、小梅は少しも迷うことなく首を縦に振ったのである。
そして小梅は一週間後、夜々の世話をするため、見神の使いに連れられて、石之助の元から去っていった。
それからしばらく石之助は喪失感と後悔の念に苦しんだが、ある一定の時期を過ぎると、少しずつ冷静になってきて、「あの時ああ言ったのはつまらぬ自尊心のためだったが、事実、見神の家に行ったことは小梅にとって良かったのかも知れない」と、よい方へ考えることが出来るようになった。
思えば、小梅は自分を可愛がった石之助たちとの別離を「分かった」の一言で済ませてしまうほど精神的に未完成だったのだ。そんな未熟な娘を育ての母親として紹介したのは、少し入神家に悪かった気もするが、育児という貴重な経験をゆっくりと積むことができるのは、小梅が人として成長する上で大きな糧となるだろう。小梅の一生は果てしない。長い目で見てちょうど良いくらいなのだ。そう、結局のところ、これでよかったのだ……。
石之助は半ば自分に言い聞かせるように納得し、それ以後、なるべく小梅のことは思い出さぬように努めた。
泡沫の夢は終わり、あとは依頼を受けて化け物のことを調べ、必要なら殺してゆくだけの、つまらぬ日常に逆戻りであった。
六
石之助との別離は大変辛いものだったが、小梅は「駄々をこねてはいけない」と自分を律し、一切の文句を言うことなく、石之助の言う通りに磐石の屋敷を去った。
その日から小梅は入神の人間になった。
最初、本家の屋敷で挨拶をしたときは緊張して怖かったが、何だか偉そうな老女にいくつかのことを訊かれただけで、特にいじめられるようなことはなかった。
その場で、もう赤ん坊と対面した。
初めて見る赤ん坊はとても小さかった。見るからに弱々しく、丁寧に扱わないと死んでしまいそうで、気をつけなければいけないと思った。
黙って赤ん坊を見つめている小梅の姿を、偉そうな老女は、微かに細めた目で眺めていた。
老女が入神家の長であるということを小梅が知るのは、それからしばらくしてからのことである。
子育てのことを知らぬ小梅に、いきなり赤ん坊を世話する役目が与えられるはずもなく、小梅はそれから半年の間、料理や裁縫、子供が病気にかかったときの世話の仕方などを、色々な人間から教えられた。小梅は何でも教われば教わるだけ覚えたので、皆が感心して可愛がってくれた。
また、様々なことを学ぶうちに、赤ん坊への興味は自然と高まっていった。
ようやく直接の世話が許可されて赤ん坊が手元にくると、小梅はすぐ、赤ん坊に夢中になった。
とにかく片時も離れることはなく、泣けばすぐにあやし、小便が出ればすぐにおしめを取り替え、おとなしく眠っている間も傍に寝転がって、ずっとその寝姿を眺めていた。紅葉のような手がただ開いたり閉じたりするだけで、小梅には面白くて仕方がなかったのだ。
しかもそうした面白さは全く薄れることがなく、それどころか、日に日に強くなってゆくようだった。
屋敷の女中さんたちが口々に「小梅さんは夜々ちゃんが可愛くて仕方がないのね」と言うので、それが「可愛い」という気持ちだと知ることができた。時々磐石などが小梅に言ってくれた言葉である。彼らが小梅に対してそういう気持ちでいてくれたことを、小梅はとても嬉しく感じた。
しかし驚いたのは、途中で乳母役の者が必要なくなり、その役目まで小梅に回ってきたことであった。
つまる話、ある日突然に、小梅の乳房から母乳が出るようになったのである。
これは後で聞いた話なのだが、化生の肉体がそのように変質するのは、別段驚くべき現象でもないらしい。小梅の姿は元より、妖力と意思によって化けた形なのだ。可愛い夜々に乳を与える乳母役たちを、小梅は知らず知らず羨ましく思っていたのだろう。それに順じて肉体が化けたのだと思われる。
そのようなことがあったから、小梅は本当に一日中夜々に付きっ切りになった。
おしめを替え、乳を吸わせ、寝付かせ、あやす。ただそれだけの毎日を、小梅は飽きもせずに何年も繰り返した。
繰り返しの日々の中、ふと一度、石之助が教えてくれた「幸せ」のことを思い出した。
「もしかしたら今の状態がそうなのかもしれない」と思い、小梅は石之助に心から感謝した。やはり石之助は間違っていなかったのである。あの時はどうして突き放すのかと内心悲しみもしたが、見神の家へ来たお陰で、こうして可愛い夜々との日々が手に入ったではないか。石之助はちゃんと小梅のことを考えて、正しいことをしてくれたのだ。――小梅はあらためて石之助という人間のことが好きになり、また会いたくなった。
しかし石之助は、小梅の心がいかに募れど、一度として会いに来てくれることは無いのだった。
小梅はいつも心のどこかで石之助のことを待っていたが、顔を見せてくれないのにも、きっと深い理由があるのだと信じ、自ら押しかけてゆくようなことはしなかった。
やがて夜々は少しずつ大きくなり、喋るようになり、歩けるようになり、外で遊べるようにまでなった。
小梅には夜々が育ってゆくのが楽しくて仕方がなかった。小梅が歩く後ろを、夜々がよちよちと付いてくるのが愛らしくてたまらなかった。
だが、小梅は分かっていなかった。人の何倍もの時間をかけて育つ子が、歩けるようにまでなったということ。それはつまり、それ相応の時が流れたということなのである。老いを持たない小梅だから、尚のこと分かり辛かったのかもしれない。
――気付くと、十七年と二月の年月が経過していた。
その頃には、小梅と夜々は、埼玉にある分家屋敷のひとつに移り住んでいた。夜々が大きくなってきたので、人の揃った本家より、一番庭の広い屋敷がいいという話になったのである。
その屋敷の庭には、池と松の木があった。
七
たかだか一年間の淡い恋を忘れられなかったのは、石之助が純情だったからなのか、それとも後悔があったからなのか――。全国を飛び回る仕事だったので、土地土地での女遊びはそこそこにしたし、関わった女の数も多かったが、誰が相手でも、どこかで物足りなさを感じて付き合うとまではいかず、石之助は三十も半ばになるまで、決まった相手を作ろうとはしなかった。
しかし、石字縛師にもあまり仕事の来ない世となって、溜まった金を元手に小さな事業を始めた頃、磐石の知り合いから見合いの話が来た。
当たり前だが、相手はただの人間であった。
名を頼子といい、ふくよかな体つきをした、大人しそうな女だった。
乗り気でなかった見合いだが、成り行きで何度か会う内に少しずつ打ち解けて、やはり少しずつだが、お互いの腹を割って話せるようにもなった。
それで聞いたのだが、頼子のほうも、最初はあまり見合いに乗り気でなかったらしい。そろそろ年がまずくなってくるというので、父親から無理矢理に引っ張り出されたのだそうだ。
何だか気が合うような気がした。
親たちも知る中で頼子と逢瀬を重ねるうち、石之助の心は段々と落ち着いてきた。人によってはそれを老けたというのかも知れない。
「この女と一緒になる」――そう心に描いても、悪いという気はしなかった。
ただ、やはり小さなわだかまりはあった。
小梅には会わぬようにして十七年を過ごしてみたが、これも最後の決断のためと思い、再会してどうするという考えもなく、石之助は個人的に入神家へ連絡を取った。小梅は夜々と共に、いつの間にか埼玉の分家屋敷へ移り住んだということであった。
石之助は土産も持たずに埼玉へ向かった。
八
ある朝、分家の主から、小梅は一つの報せを受けた。
小梅が世話になっていた家の息子が、父親のすすめで見合いを受け、どうやらそれなりに上手くいっているらしく、近々結婚するような運びらしい――。
石之助が、結婚をするというのである。
小梅は不可思議な衝撃を受けた。
結婚とはめでたいことである。祝い事にするくらいだから、良い事柄に決まっている。げんに教えてくれた者も、めでたそうに微笑んでいるではないか。石之助も幸せに違いない。
しかし小梅は不思議と、全く喜ぶことができなかった。
石之助が幸せになるのを喜べぬとは、自分はいったい何というひどい女なのかとも思ったが、それでも祝いの文句が出てこなかった。それどころか、小梅は感じたことのない、深い悲しさすら感じていた。
頭の中が真っ白になった。それだけの衝撃であった。
その日は夜々と遊んでやるのにも気が入らなかった。
後にも先にも、そんな気持ちで夜々の相手をしたのは、あのときだけである。
夜々が庭で鞠投げをしたいというので、小さな手を引いて庭へ出た。
取りやすいように鞠を放ってやり、夜々が投げ返してきた鞠を、小梅が受け止める。
ただそれだけの遊びを続けながら、小梅はぼんやりと考えた。
石之助はこれから他の人のものになってしまうのだ。
元々小梅のものではなかったのだから、それは仕方がない。
あんな良い人が小梅だけのものになってくれるなどと、思ったこともない。
しかし小梅は、本心ではずっと、そうであったらいいのにと思っていた。だって、石之助のことが好きだったのだ。
我侭でも、思ってしまうのは仕方ない。好きなのだから仕方がないではないか。
そうだ、出合った頃から、誰よりも石之助のことが好きだった――、……夜々よりも?
小梅は鞠を受け止めたまま、投げ返さずにうつむいた。
――違う。
はっとした。
心の中で石之助と夜々を比べたとき、小梅にはようやく、ある一つのことが分かったのだ。それは恐ろしく簡単で、人間ならば子供でも知っていることだった。
夜々のことを好きなこの気持ちと、石之助のことを好きなこの気持ちとは、まるで違う。
それに気付いて小梅は愕然とし、それから呆然とした。
――馬鹿だ。
小梅の目から涙が溢れた。
自分は馬鹿だ。
こんな大事なことが今まで分からなかったのか。
どうしてもっと早く気付いて、石之助に伝えられなかったのだ。
なぜこんな時に、こんなふうに気付いてしまったのだ。
今さら分かっても――もう、遅いではないか。
胸が詰まり、喉が痙攣した。
声も出さずに小梅は泣いた。
涙が止まらなかった。
いつの間にか夜々が足下にいて、小梅の顔を見上げていた。
小梅が泣いているから驚いたのか、夜々までが、今にも泣き出しそうな顔をしている。
崩れるように膝をつき、小梅は夜々を抱きしめた。泥の上に鞠が落ちた。
小梅は、小さな夜々を力いっぱい抱きしめながら、熱い涙を止めどなく流した。
間抜けな自分が憎い。他の人のものになってしまう石之助が恋しい。あのとき石之助に、せめて思いを伝えられなかったことが悔やまれ、もう戻ってこない月日と、その意味も分からずに過ごしてしまった十七年が悲しい。
だが、腕の中にいる夜々が愛しい。
夜々の体が温かい。
頭の中が混乱して、あまりにも悲しすぎて、もう自分がなぜ泣いているのかも分からなかった。
小梅の長い恋はそうして、気付いたその時に失われた。
九
やはり――これで良かったのだ。
石之助は母屋の廊下から庭の一角を見つめ、心中でそう呟いた。
松の木の下、力いっぱいに子を抱きしめる女――ここからは遠いし、後ろ姿だから顔は見えないが、桃色の髪を生やした女など小梅の他にはいない。
小梅は立派に母になっていた。
会って何か話をするつもりだったが、母子の幸福そうな姿を目の当たりにしては、とても歩み寄って声をかけようという気は起こらなかった。
この十七年の間で、小梅は新たな場所と、尊い愛の対象を見つけていたのだ。あの時自分が口走った心と裏腹な言葉が、正鵠を射ていたのだから皮肉なものである。
……とうに過去であったわけだ。
石之助はわずかな未練をもって小梅の後ろ姿を見つめていたが、子供と目が合った気がして、逃げるように戸の影へと退散した。
静かな廊下。
内側から戸にもたれ、三十四になった石之助は思った。
自分はずっと――小梅のことが好きだった。
……それでいい。
やがて自分が老いて死んだ後も、あの娘のことだ、きっと覚えていてくれるだろう。
自分を拾い色々と世話を焼いた、一人の変わった人間として。
それで十分ではないか。
石之助はもう庭を覗かずに、黙って屋敷を立ち去った。
家の者には来たことを口止めし、小梅をよろしくとだけ言った。
後に石之助は頼子との間に女児をもうけた。
石乃と名付けられたその子は、美しく育った後に一人の男と結婚し、石楠花という娘を産んだが、あるきっかけで夫と離れることとなる。
そのさらに後、石乃が二人目の夫と出会い再婚したことで、石之助の孫にあたる者は二人に増えた。石乃の再婚相手の連れ子は、大輝という男の子だった。
その子供が入神家の探し求めた存在だということが分かり、彼ら家族が夜々や小梅と関わりを持つようになるとは、石之助も全く想像せぬ運命だった。
全く、縁とは奇怪なものである。
それだけ長い時が過ぎたということなのだろうか。
頼子も、そして石乃までもが石之助に先立ち、再び一人になった今となって、石之助はしばしば、「もしあの時小梅に思いを打ち明けていたら」などと、青臭いことを考えるようになった。
しかしその度、老いて皴の寄った自分の手に気付き、石之助はただ苦笑う。
石楠花は大輝のことが好きなのだそうだ。
まだ十五とはいえ、あれだけしっかりと分別のつく子が、義理の弟への道ならぬ恋を隠そうともしないのだから、感心に値する開き直りである。
殿山家に居候している人食い妖怪の任氏も、同じく大輝のことが好きだという。
そちらもまた大人気ないというか見っとも無い話で、生きた年はもはや話にならないとしても、任氏は見目も立派な大人であるから、二人が並んでいる姿は、姉弟どころか母子にすら見える。しかも、それを任氏もちゃんと自覚していて、なおあの子の尻を追いかけているのだ。
何とも痛快なことではないか。
石之助は今、不可思議な運命に導かれて出来上がった――しかしいつか時が来れば、やはり終わってしまうのであろう彼らの日常を、まるで自分の人生の続きのように、遠目から静かに眺めていた。
これが小梅と出会って今日に至るまでの、石之助の物語である。