第八章【小梅 ―こうめ―】前編
今にして思えばどのような庭であったろうか。
池のほとりにあった大きな松の木だけを、妙にはっきりと憶えている。よく登ろうとしては小梅に叱られたものだ。
あの屋敷に住んでいたのは数年――夜々にとってはほんの一時のことで、しかもあの場所は、当時本当の子供だった夜々にはあまりに広すぎて、大まかな間取りすら、今となっては頭の中で判然としない。
しかし、庭園で見たひとつの情景だけを、夜々は今なお明瞭に思い出せる。そう……松の木が印象深いのもそのためであろう。ちょうどその木の下であった。
一度だけ、小梅がそこで泣いたのだ。
育ての親である小梅の歳を、夜々は正確に知らない。人と老いの歩みを異にする者どうし、互いの生きた年月にさしたる興味が無いのである。成長速度が不安定な夜々は、生まれて十年以上は赤子と呼べる状態であったし、小梅は小梅で、化生であるから当然のこと、夜々が物心ついた頃から姿が変わっていない。
ただ、以前に一度だけ聞いたところによれば、親子のような関係の二人であるが、実のところ、生まれた時期は大して変わらないのだそうだ。下手をすれば夜々の方が少し年上らしい。
要するに小梅は成長段階における知能と肉体の発達が、夜々とはまさに対極的に、恐ろしく早かったのだろう。発生してすぐに大人になり、それからずっと変わらない。化生にはよくあることだ。
今も昔も小梅の姿は、せいぜい十九かそこらの若い娘である。もっとも入神家が作り上げた戸籍では、夜々の保護者役である都合上、少々の無理を通して永遠の二十二歳ということになっているそうだが。
しかし、そう……こうした夢うつつでは、普段忘れてしまっていることもよく思い出せるものだ。
あの屋敷で暮していた頃、小梅は今のように朗らかでもなかったし、何事にもあまり取り乱すことが無く、言いようによっては物静かで、しかしよく見ればそれは、奇妙なほど淡々としていたというか、人間くささのない育児だった。
もちろん小梅は、夜々のことをとても可愛がってくれた。それこそ一日中嫌な顔一つせずに面倒を見てくれたし、夜々が遊びたいといえば、何時間でも気の済むまで付き合ってくれた。
夜々が食べ物の選り好みや悪戯をすれば諌め、行儀よくすれば褒め、風邪をひけば看病し、寝付かせるときには本を読み、つまりあらゆる点で保護者としては申し分なかったのだが、一人の女として見たとき、小梅はどこかが妙にずれていたというか、何か欠落していたように思う。現在のようによく笑いよく怒る母となったのは、いつ頃からということはいえないが――、いや、ちょうどあの時期から、段々と変わっていったのか。
ともかく夜々は、あの頃のいつか、小梅の涙を見たのである。
育ての母が初めて見せた涙であった。きっと生涯忘れまい。
夕刻、松の木の下で夜々と鞠を放り合っていた最中、突然に小梅が鞠を受け止めたまま、じっと俯いてしまったもので、小さかった夜々は、確か、母が具合でも悪くしたものかと思い、恐る恐る小梅の足元まで歩み寄ったのである。
足下から小梅の顔をのぞき上げると、途端、夜々の額に雨粒があたった。
涙であった。
下唇を噛んだ面も見えた。
夜々はそれだけですっかり動転し、自分までも泣きそうになった。
しかしそれより先に、両膝をついた小梅に、正面から体を抱きしめられた。
泥の上に鞠が落ち、ぐすりと、夜々の耳もとで音がした。
小梅が鼻をすする音であった。
母は本当に泣いていた。
そのとき、小梅の肩越し、遠くの縁側に――誰かの立っている姿が見えた。
母屋の縁側。
若い男であった。
いつからそこにいたのかは分からない。顔は遠くてよく見えなかったように思う。もしかしたら夜々の目も潤んでいたのかも知れないし、見えはしたが憶えていないのかも知れない。
恐らく小梅は気付いていなかっただろう。
男はほんの僅かの間こちらを眺めていたが、やがて母屋の中へ消えていった。
小梅は肩を震わせながら、しばらく夜々を抱きしめていた。
夜々は何も言えなかった。
「おはよう夜々ちゃん」
明るい声と玉子焼きの匂いで、夜々はまどろみから覚める。
第八章【小梅】――こうめ――
前編
一
目を開けると、小梅の大きな両のまなこが、不気味なほど近くで夜々の顔を覗き込んでいた。重力に引っ張られたピンクの短い髪が、しゃらしゃらとシャンデリアのように揺れ、その先端が夜々の頬をくすぐる。
顔をしかめる夜々の唇に、ちゅっ、という音と共に、温かな感触が押し付けられて離れた。
「んふ」
朝一番の仕事を無事完遂したような、満足げな顔。
「お、は、よ。ごはんもう出来るよ」
うきうきと言いながら小梅は立ち上がり、向こうの部屋へ行ってしまった。
夜々は目をこする。
「……ん」
窓からの陽射し。重い布団に邪魔されながら、華奢な体を起こす。
「……」軽く伸びをする。「……はあ」溜息。
毎朝毎朝、目覚めがいいような悪いような。
瞬きをふたつして、夜々はようやく立ち上がる。
二人の新たな住処に部屋は二つしかない。寝室と、台所と一体化した茶の間である。
洗濯機は外の廊下。風呂は無くトイレも共同。エアコンも無し。この辺りでは今時珍しい神田川的なアパートであり、無尽蔵に金を動かせる見神の長集――しかもその寵児が住まうにしては、少々謙虚過ぎる環境といえるかも知れないが、無趣味で物欲も皆無である夜々にとっては、屋根と布団さえあればこれといって不自由も感じないし、何よりも殿山大輝の住居が真向かいにあるという都合のいい点が気に入って、大して迷うこともなく引越を決めてしまった。小梅も小梅で、全く止めもしなかった。
食卓には玉子焼きと味噌汁、それから温めなおした残り物がいくつか並んでいた。歯磨きを終えた夜々が椅子に腰掛けると、味噌汁の隣に、ほかほかと湯気の立った白米が加えられる。
さて、と小梅も向かいの席につく。
「じゃあ食べよっか夜々ちゃん」
「うん」
夜々はようやく覚めてきた目を瞬かせつつ頷く。
いただきます、と二人は習慣的に両手を合わせ、食事が始まった。
味噌汁をすすり、まだ熱かったのか、舌先を出して顔をしかめる小梅。――女怪であるだけに夜々の目から見ても魅力的な顔だが、少しばかり不思議なつくりをしている。大きな目と、どこか肉食動物じみた目鼻立ちが、例えるならば猫だろうか、そのあたりの獣を連想させる。
派手なピンク色の髪は地毛である。昔は黒く染めていることも多かったが、この時代ではそんなに目立つわけでも無いのでそのままにしている。両耳の小さなピアスはただの趣味らしく、ある日、いつの間にかつけていた。ピアサーを買ってきて自分で穴を開けたそうだが、長く生きている割にハイカラなことである。
いつものごとく黙々と朝食を摂取する夜々に、小梅が問いかける。
「ねえ夜々ちゃん」上目遣いに。「ママのこと好き?」
「うん」
夜々は煮物の人参を口に入れる。
小梅はすねた。
「何その返事。ぜんっぜん気持ちが入ってないじゃん。ちっちゃい頃はかあさま、かあさまって一日中後ろを追いかけてきたのに……。最近夜々ちゃん冷たいね。ここ何十年か、ママにすごく冷たいね」
口を尖らせ、ぶつぶつと。
「夜々ちゃん分かってないよ。自分がママにとっての生きがいだってこと、全然分かってない。生きがいに冷たくされるなんて、死ねって言われてるのと同じだよ……」
「母様」
夜々は茶碗を置く。
「私はちゃんと母様が大好きだよ。いつもそう言ってるじゃないか」
首を傾げて笑んでみせる。
半分開いた窓の外で鳥が鳴いた。
箸の先を唇に添え、上目遣いの照れた顔で小梅は言う。
「……ママも、夜々ちゃんが好き」
「両想いだね」
面倒だが扱いやすい人だ――いつものようにそう思いつつ夜々は食事を再開する。
その瞬間、狭い部屋の中に銅鑼を叩いたような凄まじい音が響き渡り、小梅が椅子の上から横へ吹っ飛んで転げ落ちた。
窓から高速で飛び込んできた物体が側頭部を直撃したのである。
夜々は落ち着いて立ち上がり、倒れた小梅の傍らに歩み寄る。
小梅は大の字で半目を開けたまま動かなかった。
その隣に落ちた飛来物――フライパンを拾い上げ、夜々は窓の方へ歩いてゆく。
二
些細な理由で毎朝ぶつかり合っているシロと石楠花だが、喧嘩の規模が庭まで及ぶのは、そう滅多にあることではない。せいぜい三日に一度くらいだろうか。
残念なことに今日はそうした日にあたり、昭和の漫画よろしくフライパンを振り回す石楠花がシロを追い掛け回しているうちに二人とも庭へ飛び出して、近所の迷惑も顧みず怒鳴りあい、石楠花が馬鹿力で投擲した凶器がシロの顔のギリギリ脇を反れて、向かいのアパートへ飛んでいったのが数秒前。
気持ちのいい冬の日差しの中、この上無く人の気分を害する目つきでシロは笑う。もちろん石楠花との間には一定の距離を保ったまま。
「やあい、どこを狙っておるのじゃ下手糞め」
「お前の命を狙ったんだよ!」
石楠花は肩で息して怒鳴って返す。
二人の消耗に差があるのは、走っているように見せかけて、シロの方は一センチほど宙に浮いているからである。ちなみに今日の喧嘩のきっかけはといえば、昨晩の勉強疲れで二度寝している石楠花の尻にシロが落書きをしようとしたという、実に下らないものだ。
煙草をくわえて戸の脇に立つ父が、静かに忠告する。
「石楠花、もう十五歳なんだから、庭でパンツを出すのはよくないぞ」
「え? あ」
石楠花は言われて気付き、ずり落ちかけていたパジャマのズボンを引き上げる。
シロがすかさず背後に回りこんで茶化す。
「寝小便の染みまで見えておった」
「嘘つけ!」
振り返りざまの裏拳がシロの頬に当たり、シロは「ぎゃん」とよろける。
大輝はその光景を父の隣で脱力しながら眺めていたが、ふと、向かいのアパートの一室、その窓から顔を出した者と目が合った。
「あ、夜々さん」
「おはよう」
隔てている道が狭くて距離が近いので、さほど大きな声を出さずとも会話はできる。
夜々は睨み合う二人の真ん中に、上手にフライパンを投げ落としてくる。ちょうど持ち手の部分が芝生に突き刺さった。
「毎回毎回、どうして君らの流れ弾は私たちの部屋へ撃ち込まれるんだ。また母様が気絶してしまった。人間なら気絶ではすまないところだ」
「本当に毎度申し訳ありませんね」
頭を下げる父に、夜々は首を振る。
「礼司君の責任ではあるまい。――おい君たち、投げるならせめてもう少し軽い物にしたまえ」
「投げたのは石楠花じゃ。そうした乱暴なことをするのはいつも石楠花じゃ」
「あんただってこの間、中身の入った弁当箱投げただろ!」
「持つのを忘れて家を飛び出そうとするからであろうが! おぬしもてすとが忙しかろうと思うて折角しろがこしらえた弁当を!」
「だからあれは謝ったじゃんか!」
数秒で話がそれてゆく。
夜々が溜息もつかずに窓を閉めたと同時に、大輝の背後で不穏な音がする。
大輝は振り返って悲鳴を上げた。
「あっ、鍋が吹いてる!」
「何じゃと」
シロが庭から中へ飛んでくる。
「おお……大変じゃ」
テーブルの上のコンロを切り、吹きこぼれた煮汁を布巾で拭き取るシロ。
足の裏の泥を払い落としつつ、石楠花も戻ってきた。
「父さんとシロが平日の朝から鍋やろうなんて言い出すからだよ」
「たまには良いであろうが」
「そろそろ食べられそうだね」
蓋を持ち上げて父が言う。
大輝はやれやれとガラス戸を閉めた。
三
窓を閉めると、小梅が目を覚まして体を起こしているところであった。さすが妖怪であるだけに回復が早いが、まだ少し目が回っているらしく、床に尻をついたまま立ち上がらない。
「あいたた」
「大丈夫? 母様」
「うん」
テーブルに掴まって何とか立ち上がり、恐ろしそうに窓を見る。
「またシロさんたちのところかあ」
「母様もたまには強く言った方がいい。この調子だと来年には火炎瓶が飛んでくる」
「やめとく……下手に文句を言って話がこじれたら命取りだもん」
「まるで組織暴力だな」
「朝は雨戸を閉めておいたほうがいいね」
小梅は言いながら椅子に座りなおし、何事も無かったかのように箸を持つ。
「ま、いいんだ。今日はママにとって良い日なんだから」
「いつにも増してご機嫌じゃないか」
「記念日だもん」小梅は壁際のハンガーにかかったものをちらりと見る。「実を言うとね、ずっと気にしてたの。だって夜々ちゃん、普通っぽいことをあまりせずに育っちゃったから……。やり残し症候群になっちゃうんじゃないかって心配してたんだよ」
「それはどうも心配をかけたね」
夜々は苦笑しながら席につく。
テーブルの隅のほうに置かれていた小梅の携帯電話が、びりびりと震えた。
小梅はそれを手に取り、両手で開いて顔色を更に明るくする。
「わあ」
「メール?」
「うん」小梅は携帯を閉じて頷く。「嬉しいメール」
「誰からだい」
「な、い、しょ」
「そう」
「……。も少し詮索してよ」
「誰からだい」
「うふふん」小梅は頬を赤らめる。「えっとね、やっぱり内緒」
「そう」
夜々は動じず味噌汁をすする。
四
どういうきっかけだったかは忘れたが朝から鍋など食べたせいで、学校には遅刻しそうになるわ腹は張るわで、大輝と石楠花にとっては少々つらい朝となった。今頃、まだ家ではシロが食べ残しやガスコンロを片付けているところだろう。
何とかホームルームには間に合ったものの、食べてすぐ走ったもので、横腹が苦しくて仕方ない。大輝は教室に到着するなり真っ直ぐに最後列の自席へ向かい、カバンを掛けて机に伏せた。そのままゆっくりと深呼吸する。
そっとしておいてほしいのに、容赦なく声をかけてくるのは右隣の大野良恵である。
「ねえ殿山くん」
「……ん」
「何、体調悪いの?」
「そういうわけじゃないけどさ」
「見てよそっちの席」
「んん……?」
良恵に目で指された左隣を見ると、机と椅子が一つずつ、つまり誰かのための席が一式、大輝の知らぬ間に出来上がっていた。
「なんだこれ」
確かそこには昨日まで何も無かったはずである。
良恵は興味深げに言う。
「殿山くんってすごいよね。普通すぐ気付くよ、自分の席の隣に新しい机と椅子があったら。っていうか、みんなさっきからこれの話で持ち切りだし……転校生かな」
「転校生……?」
こんな時期にか。
いや――待てよ。
チャイムが鳴ると同時に、担任の黒田が入ってきた。
「よし、お前らとっとと座れぃ」
そろそろ年配と呼ばれておかしくない年齢ではあるが、プロレスラーのような体躯とプロレスラーのような顔、そしてプロレスラーのような低い声とついでに怪力の持ち主である黒田に、面と向かって逆らう生徒はいない。長い学校の歴史の中にはこの男に反抗した根性者も何人かいたらしいが、彼らの残した教訓は共通して、黒田にだけは逆らうな、であったという。指導教科は当然体育である。
軍隊と見紛うほどのキレのよさで着席した生徒たちに、教卓に片手をついた担任が悠々と告げる。
「あー……お前ら」ぼりぼりと頭をかく。「あれだ。転校生が来たから……まあ、仲良くしろ。仲間はずれとかな、そういう……」
大あくび。
「……んむ。まあ、そういう意地悪いことしたらな、全員ぶっ殺すからな。先生は殺すっつったらホントに殺すからな。――おい、入れ」
「はい」
涼やかな声がして、一人の少女が入室してきた。
シンプルだが整った顔だち。小柄で華奢な体つき。つややかな黒髪のツインテール。真新しいセーラー服。
「入神夜々です。よろしくお願いします」
静かな笑みをたたえ、ぺこりと一礼してみせる。
おおお、と教室中から感嘆の溜息が漏れた。
大輝は青ざめて唾を飲み込んだ。
五
ジャージ姿のシロは、テーブルに湯飲みの底を叩きつけた。
「何じゃと!」
「ひえっ」
小梅はびくりと身を縮める。
シロはアパート全体を震わせるような妖気を、わななく声と共に発し始める。眼もぎらぎらと恐ろしい。
「……夜々のやつめが学校に……?」
「は――はあ」小梅は脂汗を額に滲ませる。「ほ、ほんとは心配だったから初登校にはついて行こうかと思ったんですけど、本人がいいっていうから……まあ先生方への挨拶は済んでるし、大丈夫かなと」
「そのようなことは問うておらぬわ!」
「ごめんなさいっ!」
「ほんに、ひと時目を離せば何をしておるか知れぬ!」
シロの発する妖気がまた強くなり、湯飲みの中の茶が煮立ち始めた。アパート自体が本当に震え始めるのも時間の問題だろう。
小梅は怖れのあまり涙ぐむ。
「い……いや、でも」
言うんじゃなかった。そもそも、すぐそこのスーパーで偶然会ったからと、シロをお茶に呼ぶのではなかった――そんな後悔は先に立たなかった。
「夜々ちゃんも、変な理由で編入を思いついたんじゃないんですよ。ただ、ええと……大輝坊ちゃんと少しでもよく知り合うためにって」
「言い訳になっておらぬわ、すっ惚けた奴め!」牙がむき出しになる。「おぬしは何故に止めなんだ!」
「どうしてって、そりゃ、その……やっぱり学校くらい通わせてあげたいのが親心ですし」
「ああ――何たる……何たることじゃ……」
シロが頭を抱えると同時に、妖気が嘘のように萎んでゆく。
「しろの立場はどんどんと危うくなるではないか。どいつもこいつも、しろに何ぞ恨みでもあるのか……」
そのままシロはテーブルに顔を伏せてしまった。
気まずい沈黙の中、小梅は飛び散った茶を布巾で拭う。
拭いながら思う。――ごめんなさいシロさん。
でも私は、決してあなたの恋路の邪魔をするために、見神に手を回させて編入を進めたわけじゃないんです。理由はどうあれ、夜々ちゃんが「中学校に通いたい」と言い出したのが、すっごく嬉しかったんですよ。だって夜々ちゃんにはお友達もいないし……もう六十三歳だとはいっても、私にとっては、まだまだ小さい夜々ちゃんなんですから。制服だって着せてあげたいじゃないですか。実際可愛かったですよ、今朝のセーラー服姿。天使かと思いましたもん……。
小梅はまた夜々の制服姿を思い出し、密かに胸の奥を温める。
シロはゆっくりと顔を上げ、深々と息を吐き出した。
「ふう」染みだらけの古い天井を見上げて。「今頃大輝はあの夜々に誘惑されておるに違いない。あやつはしろや石楠花と違って賢そうじゃから、一体どのような手口を使うかも分からぬ。思い描くに気が気でない」
「はあ……」
「大輝を一番愛しておるのはしろじゃのに、何ゆえ誰も彼もが……」瞬く。「そうじゃ、そこがおかしいではないか」
「はい?」
「夜々のやつは大輝を好いておるわけではないのであろうが」
「? ……まあ、はい」
小梅は頷く。
その鼻先に、シロの人差し指が突きつけられた。
「おぬしはそのあたりをどう考えておる? 夜々は、血が繋がっておらぬとはいえ、たった一人の大事な愛子であろう。それが家のためだか何だか知らぬが、よう分からぬ道理で大輝と無理に結び付けられるというのは、おぬしにとっては面白い話ではあるまいが」
「はあ……」小梅はピンク色の頭をかく。「でも今んとこ夜々ちゃんには本命の好きな人とかがいるわけじゃないですし……大輝坊ちゃんと知り合ううちに、ホントに好きになっちゃう可能性も、まあ有るっちゃ有るじゃないですか。お見合いで始まる愛もあるでしょ? そんで結果的にお互い好き合ってれば、別に、ほら、幸せなんじゃないかなあと」
「何じゃ、やはりおぬしも大輝と夜々の仲を取り持ちたいというわけか」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて。えっと、なんて言ったらいいんでしょ」
小梅は考え考え口を動かす。いちいち背中をつたう汗が冷たくて仕方ない。
「結局私自身の望みは、夜々ちゃんの幸せだけなんですよ。だからぶっちゃけた話、夜々ちゃんさえ納得がいくなら、ろくでもない人間じゃない限り、相手は誰でもいいっていうか……本人が後悔さえしなければそれでいいかなって」
「ああ――もう良い。子を持つ者の気は知れぬ」
シロは力なく肩を落とす。
「兎も角これで、またしろの心配事が増えた……。ほんに学校というのは嫌なところじゃ。大輝を毎日しろと引き離し、見えぬようにしてしまう。どうしたことをする場所なのかも、話を聞くばかりでは判然とせぬ。いっそしろも中学校へ通えれば良いのじゃが」
「そんなにちちのでかい中学生いませんよ。タッパも半端じゃないし」
「乳が大きいのは駄目か……」
「あ、でも」小梅は手のひらを打つ。「ちょっと授業風景を覗くくらいなら、無理なことじゃないかもですよ? この間学校へ挨拶へ伺ったとき、そろそろ授業参観もあるって聞きましたし」
「? じぎょう――さんかん?」
シロはきょとんとした目で首をかしげた。
六
夜。
殿山家の風呂場から、湯気と共にパジャマ姿で出てきたのは夜々である。長めの髪をタオルでまとめ、さっぱりした面持ちで居間へと入ってくる。
「いや、毎晩すまないね。しかも家主たちより先にいただいてしまって……ちゃんと風呂代は入神家のほうから振り込ませてもらうよ」
「気にすることはありませんよ」
父はソファに背を預け、脚を組んで夕刊をめくる。
「これも近所付き合いというものでしょう」
「ありがとです」
隣でぺこりと頭を下げるのは、先に風呂をあがった小梅である。
その身体的特徴から「銭湯へ行く」という行動に危険がついてくる夜々は、父の厚意で、越してきてから毎晩、殿山家へ風呂を借りに来ている。小梅はそのついでというわけだ。
風呂だけではなく、夕食が鍋物や焼肉であるときも、なんとなく二人に声をかける習慣が出来てしまっている。まだ二人が越してきてそう経っていないというのに、もう新たな日常が構築されてしまっているから恐ろしい。
テーブルについて棒アイスを齧っていた石楠花が、横目で風呂上りの夜々を睨む。
「……こんにゃろう」
「何だね」
「聞いてなかったぞ、編入してくるなんて。しかも大輝と同じクラスだっていうじゃないか」
「言った覚えが無いからな」
夜々は涼しい顔で髪を拭く。
父と小梅が座っている向かいのソファで、大輝はうつむき、小さく溜息をついた。
隣から声をかけてくるのはシロである。
「大輝や」
「はい――、うわ」
横を向くと、シロの顔はすぐそこにあった。油断をするとシロは顔を近づけてくる。
大輝は思わず仰け反りそうになる。
「な、何ですか?」
「今日、夜々に妙なことをされはしなかったか。しろは気がかりで水も喉を通らなんだ」
「いや……別に何も」
「まことか?」
大輝の肩にたおやかな手が乗せられて、綺麗な白面がまた近づいてくる。
大輝は、今度は本当に仰け反った。
「な、何を」
「じっとしておれ」
シロは大輝の首筋に鼻を押し付け、すんすんと匂いを探る。
そして、ゆっくりと顔を離す。
「……ほれ、大輝の体に、わずかじゃが夜々の匂いが染み付いておる。あやつがずっと傍におった証しじゃ」
「それは――ただ席が隣だからですよ」大輝の頬が引きつる。「別にやましいことは無いです」
「席が隣だって? クラスが同じっていうだけじゃなくて?」
向こうのテーブルで石楠花が声を裏返す。
「おい、それも初耳だぞっ」
「言っていなかったからな。ちなみに、断っておくが、席順に関しては全くの偶然だ」
やはり涼しい面持ちの夜々。
大輝の肩から手を離し、シロはソファの上で口を尖らせる。
「また話が見えぬ……」小さな声で。「くらすとは何じゃ。せきが隣とは何のことじゃ。……しろには何が何やら皆目分からぬ。このままでは、しろの知らぬところで、大輝が夜々や石楠花に取られてしまうように思える」
独り言のような、しかし訴えるような、ごく小さな呟きであった。
大輝は焦って言葉を捜したが、適当なものを見つけるより先に、正面の小梅があっと声をあげて立ち上がった。
「いっけない! もう八時になっちゃう!」
「どうしたんですか」
驚いて訊ねる石楠花に、小梅は曖昧な笑みを返す。
「え? ああ、ううん、何でもないの。――夜々ちゃん」
「何だい」
「ママ、これからちょっと出かけるから……先、帰っててくれるかな」
「ん。ああ……?」
不思議そうに頷く夜々の頭を撫で、小梅は父に一礼する。
「じゃあ礼司さん、お風呂有り難うございました。えーと……」見回してから。「とりあえず、失礼します!」
「うん――?」
父が返事をするが早いか、小梅は着ていた物の入ったバッグと携帯電話だけを持ち、ジャージの上から黒いベンチコートを羽織って、駆けるように居間を出て行ってしまった。
これにはシロも呆気に取られた様子で、ぽかんと口を開ける。
「何じゃ、あやつは? あのように慌ておって」
「さあ……」
大輝も首をかしげる。
夜々はパジャマの上から、椅子の一つに掛けていたパーカーを羽織り、頭のタオルを巻きなおして、静かに荷物をまとめ始める。
「母様もよく分からない人だ……。まあ、私も体が冷えぬうちにお暇させていただこうかな。失礼するよ」
少々大げさなドラムバッグのジッパーを閉め、ひょいと持ち上げて一礼する。
そして――夜々もアパートへ帰ってゆき、居間は少し静かになった。夜々たちが帰った後は、度々こういう不思議な沈黙がある。
しかし今日は沈黙も長く続かなかった。
シロが思い出したように口を開いたのである。
「そうじゃ、大輝」
「? はい」
「しろは授業参観へ行ってみたい」
「授業――、ああ」
大輝はもたれていた背をソファから離して座りなおす。
「そういえば今日プリントもらったな。でもシロさん、どうして知ってたんですか」
「小梅から近々そうした催しがあると教わったのじゃ」シロもよいしょと座りなおした。「大輝たちの学び舎へ入っても良い日と聞いた。許されるならば、しろも行ってみたいと思うておる」
「そうか――授業参観か」父は新聞から顔を上げずに言う。「私は今回もたぶん行けないだろうからなぁ。シロさんに行ってもらうのも良いかも知れないね」
「ちょ、お義父さん?」
石楠花がアイスの棒を口から落とした。
「何をまた軽いこと言ってるんだよ。こんな妖怪、学校に入れたら何するか分からないって」
「それを言うなら小梅のやつも妖怪じゃろうが」
「小梅さんは現代社会のことをよく知ってるけど、あんたは何百年もブランクがあるだろ。だいたい授業参観ってのはなぁ」
「大輝、おぬしはどう思う? しろが学校へ行っては迷惑か?」
「え? ――えと」
シロも突然ずるい訊き方をするものだ。大輝は返答に困って考え込む。
「そう言われても……。別にいいような気もするし、何だか不安な気もするし」
「決して余分なことはせぬ。ただ学校というものが如何なる場所か知り、大輝の昼の姿を見たいだけじゃ」言いながら大輝の袖をつまんで引く。「のう大輝、一度くらいは良いであろう? 日ごろ家で気を揉んでばかりいる、しろの気持ちも察しておくれ」
「う……。まあ……ええ、はい」
思わず頷いてしまう。
石楠花はあきらめ顔で席を立つ。
「どうなっても知らないからね……。まあ、あたしには関係ないからどうでもいいけどさ」
すねるような口調と共に、歯型のついたアイスの棒をゴミ箱へ放り、面白くなさそうに部屋を出て行った。
父はその後ろ姿を横目で見送り、
「――ふむ?」
と唸って、また新聞に目を落とす。
いつもより強く閉められたドアの音が、部屋の中に妙な余韻を残していた。
何か気を悪くしたのだろうか。大輝も石楠花の様子が少し気になったが、シロに袖をつままれたままなので立ち上がる機会を逃した。
テレビ画面が不意に、ざ、ざっと乱れる。
シロの耳が動いた。
「む――」
「どうしました?」
「いや……」
シロは眉をひそめ、細い目で周囲を睨みまわす。
「気のせいか……。化生の気配があったように感じたが」
「妖怪がこの近くにいるんですか?」
「分からぬ……」
巨大な銀のポニーテールが、風を探るようにざわめく。
父が新聞から顔を上げる。
「また、そこいらで小梅さんが犬にでも吼えられたのではないかな」
「小梅よりは随分と強い気配じゃったが……どちらにせよ、もう消えてしまった」
シロの髪が落ち着く。
大輝も部屋を見回してみる。
当然だが、何を感じることも出来なかった。
七
部屋に戻った石楠花は、テレビもラジオもつけず、壁際にあるスタンドミラーの前で、ただじっと立ち尽くしていた。
軽く息をついて呟く。
「何これ……いやな顔」
ひねくれた子供の顔がそこには映っている。
気に入らない。ムカつく。何なんだよ。――そんな、不満タラタラの顔。
「……なにが気に入らないの?」
鏡の縁を指でなぞり、訊いてみる。
――さっきまでそんなに怒ってなかったのに。
そりゃあ、夜々が編入してきたのには驚いたし、危機も感じてるけど……でも、たぶんこのイラつきは違う。
授業参観のこと?
シロが授業参観に来るのが、そんなにイヤなの?
別にいいじゃないか。
大輝のことはあたしも好きだから分かる。シロは不安なんだ。あたしと夜々だけが、自分の知らないところで大輝と一緒にいるのが。
あたしだって、シロの立場だったらそんなの嫌だ。
でも――だからって。……だからって……、何?
あたし、本当に。
「……何が気に入らないんだろ」
溜息をつき、後ろへ倒れこむ。
柔らかなベッドがそれを受け止めた。
「何が……欲しいんだろ」
じっと白い天井を見つめる。
そのとき、不意に猫の鳴き声がした。
石楠花は跳ねるように立ち上がる。
「ね、猫?」
全身に怖気が走る。
窓を見る。
夜。外の景色はもう黒い。
また隣の雨どいだろうか。あそこにはいつも猫が通っているのだ。
石楠花は真っ黒な窓を見つめたまま、近づくことも出来ずに硬直する。
にゃあ――あ――ああ――。
もう一度、長い鳴き声が部屋の中に響いた。
……部屋の、中?
石楠花は痙攣するように後ろを振り向く。
「――っ!」
目が合った。すぐ背後に「立っていた」。
毒々しく大口を開けた、真っ赤な猫の顔。まるで笑っているように見える。
顔面に似合わぬ長い黒髪を生やしたその頭部は、石楠花の頭と同じ大きさだった。首から下の形も、背丈も、人間と変わらなかった。
石楠花は凍りついた。
「な……」
息が止まる。
獣の顔を持った――人――女?
それはもう一度笑うように口を開け、黒髪の間を割って突き出した大きな耳をひくつかせ、石楠花のほうへ手を伸ばしながら、嬉しそうに短く鳴いた。
猫の声と、誰かの声。
二つの声が交じり合う。
八
小梅は携帯電話の電源を切って閉じ、暖簾の中に飛び込んだ。
そこは、駅の入り口裏手にある、細い通りの居酒屋だった。
カウンター席だけの小さな店。
「らっしゃい」と会釈する蛸入道のような店主と、若い男の店員に曖昧な笑顔を返し、小梅はきょろきょろと店内を見回す。
一番奥の客が、こちらを向いて手を振った。
「おい、こっちだ小梅」
色あせたジャンパーを着た、肌の黒い、禿頭の老人であった。
小梅は思いきり顔を崩した。
「石之助!」
「相変わらず派手な髪の毛してやがんなあ。ほれ、まあ座れや」
「うん!」
小梅は呼ばれた犬のように駆け寄って、いそいそと隣に座る。
店主が、カウンターの内側から丸太のような腕を伸ばし、お絞りと通しの煮つけを出しながら、物珍しげに二人を見比べる。
「旦那の――お孫さんですかい?」
「孫はいるが、まだこんなに大きかねえよ」
石之助は猪口を持った手の小指を立てる。
「こいつぁわしのレコだ。どうだ、可愛いだろうが」
「はあ、そうでしたか」
「冗談だよ。ったく、水商売の男ってのは何言っても顔色変えねえなあ」
「へえ、まあ、色んな人達がいますからね。娘さんですか」
「娘ってわけでもねえんだ。難しい連れ合いよ。おう小梅、おごってやるから適当に頼め。前にも来たんだがここは美味えぞ」
もう壁の品書きを眺めていた小梅は、すぐに選んで指をさす。
「あたしビール……と、ホッケの塩焼き!」
「ホッケは今さっき頼んだとこだ」
「じゃあ鰤大根がいい」
「あいよ、生ひとつの鰤大根ね」
店主は頷き、サーバーの方へ歩いてゆく。
小梅はお絞りで手を拭き拭き、石之助の顔をじっと見る。
石之助は片眉を上げた。
「何だよ」
「……石之助、会うたび年寄りになってくね」
「だったらどうした」
「どうもしない。深く考えると、あたし泣いちゃうから」
「そうかい」
石之助は猪口の中身をあおり、徳利から次を足す。
ビールはすぐに出てきた。
小梅はジョッキを軽く持ち上げる。
「ねえ、乾杯しよ。あたしと、滅多に連絡もくれない石之助の、何年かぶりの再会に」
「嫌みったらしいこと言うんじゃねえや」
かつり、と二人の杯が鳴る。
一口目で半分を飲み干し、小梅はぷはあと息を吐く。
「んまい!」
「何でえ、けっこう呑めるようになったのかよ」
「もうウィスキー以外なら何でも飲めるよ、あたし」
カウンターにジョッキを置く。
「でもさあ、石之助、今日どしたの? なんでしゃくちゃん達に内緒なの?」
「あいつらに言うと、家まで顔出さなきゃいけねえから面倒だろ。今日はお前の顔見に来ただけだ」
「ホントに?」
「何で疑うんだよ」
「……石之助、何考えてるか分かんないから」
「そりゃお前がアホだからだ」
「そうかなあ」
小梅は口を曲げる。
鰤大根が出てきた。
小梅はそれに割り箸を入れつつ、ぶつくさと言う。
「それにしても石之助、マジで久しぶりだよ。あたし色々話したいことあったのに、忘れちゃったもん。夜々ちゃんのこととか、色々」
「何だお前、怒ってんのか?」
「怒ってない。……けど、ちびっと寂しかった」
「悪いな」
「いいよ、今日来てくれたから」
魚の身を口に運ぶ。まだ酒が進んでいないから味が濃く感じる。
「あたしね、石之助に会うと元気出るんだ。もっと近くに住んでればいいのにって思うよ。引っ越してちょっと近くなったけど、あんまり変わらないし」
「何だ、俺に惚れてんのかよ」
「……」
小梅は口に入った骨を掌の上に吐く。目を合わせずに。
「そういう冗談、やめてよ」
「怒るなよ」
「怒ってないよ」
ビールをあおる。
演歌が静かに流れている。
石之助は頭をかき、枝豆をつまみ上げた。
「あー……あれだ」中身をかじる。「ん……向かいの家はどうだ? 連中とはうまくやってるか」
「うん」小梅は頷いた。「みんないい人だし、時々ごはんにも呼んでくれるよ。シロさんはちょっと怖いけど」
「ああ……あの姉ちゃんはな……お前も知ってると思うが、一歩間違えりゃ血の雨降らす化け物だからよ。人間も妖怪も山と殺してる。変にちょっかい出すんじゃねえぞ」
「うん。でも――話に聞いてたほど悪い人には見えないね」
「乳もでかいしな」
「うん。ちちもでかいしね。……あ、石之助」
「あ?」
「動かないで――」
小梅はお絞りを手に取り、石之助の頬を拭く。
「――とれた。ひじき付いてた」
「おお」
石之助は拭かれたところをさすり、それから笑う。
「世話焼きが手馴れてやがる。夜々のこと育て上げて、すっかり母ちゃんになっちまったなあ」
「そうかなあ」
「だってお前、親父の家で暮してた頃はよ、仏頂面っつうか何つうか、ずっと同じようなツラしてよ、こんなだったぞ、こんな」
石之助はふて腐れた蛙のような顔をして見せる。
「ええー?」
「大袈裟じゃねえよ。隣で俺が転んでも、このツラのまま知らん顔して歩いてったからな。それがお前」ちびりと飲む。「それがお前――こんな気のつく女っつうか、気の優しい女に育ったんだからよ。まあ、わしもやっとこさ、安心できる心地だぜ」
「石之助……」
小梅は、また酒を注ぎ足す石之助の横顔を見つめ、言葉を失った。
石之助の目はどこか遠くを見ていた。
演歌が終わり、次の曲のイントロが始まった。
カウンターの中で、ちょうどホッケの塩焼きを運んできた若い店員が、不思議そうな顔をする。
「何だろうこの曲。変わった演歌だなあ」
「こりゃ演歌じゃねえよ」
若いもんは仕方無えな、と石之助が笑う。
「こういうのは歌謡曲ってんだ。今流れてるのは、昔ほんのちょっとだけ流行った歌だ……今じゃ歌い手も死んじまったし、テレビなんかでも流れねえがな」
やがて歌が始まった。
優しい女の声で歌われるその曲は、小梅も聞いたことのある歌だった。確か、磐石の屋敷にいた使用人の女性が、時々口ずさんでいたあの歌だ。
聞き入ればその頃のことを思い出してしまいそうな、懐かしい歌声だった。
九
石楠花の部屋の前に立ち、礼司はドアを軽くノックする。
「おい、石楠花」
名を呼んで数秒待つが、返事は返ってこない。
礼司はもう一度ノックした。
「石楠花、もう大輝も私も風呂から出たぞ。入るなら今のうちに入ってしまいなさい」
言ってしばらく待つ。
やはり返事はない。
――もう寝たのだろうか。
先ほど何かに不満があったようだから、さり気なくそのことも聞こうと思ったのだが。
しかし、眠ったにしては、ドアの隙間から明かりが見える。珍しく電気を点けっぱなしにして寝たのかもしれない。
礼司は少し迷ったが、「入るよ」と一言告げて、一呼吸おき、ゆっくりとドアを押し開けた。
娘の部屋の中は空だった。
「おや……」
礼司は首をかしげる。
こんな時間に、親に無許可でコンビニにでも行ったのか……そんな子ではないのだが。第一、階段を下りて廊下を通るような気配はなかった。
いつの間に消えたのだろう。
窓が開け放たれ、外から風が吹き込んでいた。
礼司は肩にかけたタオルを直しつつ入室し、奥へ進んでその窓を閉める。
そして室内をぐるりと一度見回し、何となく天井を見上げて、ぎょっとした。
「……、こ――れは」
目を見開く。
これは何だ。
中央に丸型蛍光灯の据え付けられた白い天井。
その蛍光灯の脇に、平行に並んだ三本の傷跡が、カーブを描くように刻まれていた。……いや、これは爪跡か。まるで熊か虎が引っかいたような――。
見上げたまま立ち尽くす礼司。
外で強い風の音がして、叩きつけられた窓がガタガタと揺れた。