第七章【切鬼宿 ―きりおにのやど―】エピローグ
あの旅から二週間ほど過ぎた朝。
目覚めた大輝が居間のドアを開けると、石楠花がコードレスの受話器を片手に、ソファに寝転がったシロの肩を揺さぶっているところであった。
「おい、こら狐、起きろってば」
「う……む」
「夜々からあんたに電話だよ! ほら起きろ!」
「ん……」
「目を覚ませっての!」
耳を引っ張る。
シロは吊り上げられるように体を起こした。
「痛たた――、」
耳をつまむ手を払い、うらめしそうな寝惚けまなこで石楠花を睨む。
「痛いではないか。何をするんじゃ子豚」
「電話だって言ってるだろ! さっさと起きろよ、こっちだって朝ごはん作るんで忙しいんだから!」
「五月蝿いのう……」
シロは押し付けられた受話器を耳にあて、不機嫌そうな声で言う。
「……しろじゃ。朝っぱらから何の用じゃ――、ん? おお」
細い目が明瞭な意識を帯びる。
「そうか、あの子の引き取り手が見つかったか。うむ……何、貴様のところの分家? 親戚は――そうか、おらなんだか。まあ良いわ」
何やら夜々から報告を受けているらしいシロの姿を横目で見つつ、大輝はテーブルについてテレビのリモコンを手に取り、電源を入れる。
朝のワイドショーは、どこか遠くの町で起きた事件のことを取り上げていた。
あれから、もしかして女将が消えたことについて報道があるかと思い、朝の番組を注意して見てみたり、新聞などにも目を通していたのだが、どうやら大した騒ぎにはならなかったらしく、どこでも取り上げられてはいないようだった。やはり白鳥の時と同じく、現代の世のなかで人が一人消えたくらい、大事にはならないのかもしれない。
シロはソファの上で、パジャマの長い脚を組む。
「うむ……それではな。――ん? 何じゃ、今なんと言った? おい……」
受話器を耳から離し、見つめる。
「……切りおった」
「どうしたんですか?」
大輝が訊くと、シロは顔を振り向かせて首をかしげる。
「夜々のやつ、最後に妙なことを言いおった。これからよろしくだそうじゃ」
「はい――?」
大輝も同じく首をかしげる。
味噌汁の乗った盆を手に、石楠花がキッチンから出てきた。
「それ以前に夜々が何の用だったんだい? 用事も無いのに電話するほど、あんたたちが仲良くなったとも思えないけど」
「それはこっちの話じゃ」
「怪しいね――やっぱりあんた、女将さんが消えた理由を知ってるんじゃないのかい」
「言いとうない」
「そればっかり。あんたって、隠し事があるときはそれしか言わないで会話打ち切るんだよね。大輝の前で嘘つきたくないからってさ」
「やかましい娘よのう」
シロは石楠花を睨んで舌打ちする。
テレビ画面がコマーシャルに変わった。
大輝はふと視線を向けた網戸の外、庭の芝生の上に、妙なものを見つけた。
「あれ」
「どうした大輝よ」
「いや……なんか、服みたいなのが落ちてるんですよ、ほら」
指さす。
「むう――?」
受話器を置いたシロが立ち上がってふわりと飛び、網戸を開けて庭に出る。
大輝と石楠花が不用意な飛行を注意するより早く、シロはそれを拾い上げ、居間の中に戻ってきた。
「これのことじゃな」
「やっぱり服みたいですね」
シロから渡されたそれは、薄手の黒いワンピースだった。
何だか高そうな素材の――はて。
「どっかで見たような……」
そして何だか厄介な予感が。
父が居間に入ってくる。
「お早う。どうしたんだ、みんなで顔を寄せ合って」
「あ、お義父さん」
石楠花が答える。
「この服、庭に落ちてたんだけど」
「ああ……多分向かいのアパートだな」父は寝癖の頭をかく。「かけていたのが風で飛んできたんだろう。昔はよくあったよ」
「向かいの建物には男しか住んでおらぬはずじゃろう。これは女物じゃぞ」
昼間暇を持て余しているシロは、近所に少し詳しい。
石楠花はううんと首をひねる。
「いや……そういえば、昨日学校から帰るとき、なんか荷物を運び込んでたな……二階の一番奥の部屋。誰か引っ越してきたのかもしれない」
「きっとその人だな」
頷いた父は、大輝にさらりと命じる。
「よし、ちょっと届けてきなさい」
「え。――ええ、俺?」
「二分もかからんだろう。朝食が冷める前には戻ってこれるさ」
「だって俺パジャマだし……」
「着替えている間に持ち主が出かけてしまうかも知れないぞ。困っているかもしれないし、急いだ方がいい」
「う……」
大輝はワンピースに目を落とす。
この黒いワンピース。
さっきの電話。「これからよろしく」。
どうして誰も気付かないんだ。いや、考えもしないのか、そんなこと。
でも――大輝は思う。
俺には分かる。だって、そんな気がするから。多分それが当然の流れだから。
容赦なく厄介なことが起きるようになってるんだ。何一つとっても普通じゃない、それが俺の日常なんだ。
母さんは麒麟で、俺もその血を引いてて、義理の姉は術師の末裔で、新しい家族は妖怪で。この上向かいのアパートに誰が引っ越してきたところで、今さら――。
大輝はがっくりと肩を落とす。
「……いや、やっぱりそろそろ勘弁してほしいよな」
どうなる俺。
テーブルの上、四人分の味噌汁がほかほかと湯気を立てていた。