第七章【切鬼宿 ―きりおにのやど―】後編
一
堤防にちょこんと腰掛けるシロの後ろ姿は、何だか妙に小さく、不思議と可愛らしく見えた。
大きな白銀のポニーテールが、夜の冷たい潮風にそよいでいる。
黒い景色に潮騒が満ちていた。
大輝はゆっくりと歩み寄り、後ろから声をかける。
「……あの」
シロは崩れたような笑みで振り返った。
「ん――来てくれたか」
手には飲みかけの缶ビールがあった。傍らにも、空にしたらしい缶が二つほど並んでいる。あれから今まで、ずっと呑んでいたということか。
大輝は少し緊張して頷く。
「はい――」
「さ、さ。隣へ腰かけよ」
シロに促され、大輝は戸惑いながら、言われたとおりに堤防を跨ぎ、右に並んで腰を掛ける。足の裏と砂地はずいぶん離れており、少しばかりの不安を感じた。
眼前には誰もいない浜が広がっていた。
それを跨いだ向こう、黒い海がざわざわと蠢いている。
シロは少し遠慮がちに問うてくる。
「のう……手に触れても良いかえ」
「え? あ、はい」
頷くと、シロの手が、大輝の手の甲に重ねられた。
ひんやりと冷えていた。
大輝は思わず言った。
「手、冷たい――ですね」
「そうか?」
「ここでずっと待ってたんですか?」
「ん……まあ、な」
「すみません、俺、いつ出てきたらいいのか分からなくて」
「構わぬ。好きで待っておったのじゃ。しろこそ、こんな夜に呼び出して悪かったと思うておる」
「はあ……」
大輝はいちいち言葉に困る。
さっきまでのシロと比べると変な違和感があり、どういう態度をとったらいいのか分からない。
シロは少し離れた波打ち際を見つめ、夜風に前髪をそよがせている。
その横顔に大輝は訊いた。
「あの……怒ってたんじゃないんですか」
「ん? ああ」シロはほくそ笑む。「少しばかり酒は回っておるが、怒ってなどおらぬ。大輝をしろが怒るなどと――さっきのあれは、まあ、半分芝居でな」
いつもよりうるんだ目に、ぼんやりとした、安定感のない喋り方。確かにかなり酔ってはいるようだが、先ほど感じたような棘が無い。
大輝は問い直す。
「芝居?」
「左様、石楠花を酔わせ、寝かせるためじゃ。今こうして、大輝と二人になりたかったゆえのことよ」
「え……」
「石楠花には――悪いことをしたが……こうでもせねば機会がないでな」
ひっく、と胸を上下させながら、シロは小さく付け加えた。
大輝は暫し無言で思考をめぐらせる。
二人になるために。
昼間の石楠花を思い出す。なぜか胸が痛んだ。
シロは海を見たまま続ける。
「……大輝がこうして来てくれて、ほっとした」
ぷらぷらと下駄の足を揺らして、どこか力なく笑う。
「大輝に恋をしてからというもの、しろはいつも不安じゃ。何ごとか為す度、いつ大輝の機嫌を損ねてしまうものかと、内心では四六時中びくびくしておる」
「そんな……」
「本当のことじゃ。今待っておった間とて、手前勝手に呼び出したことを大輝が怒っておるのではないかと――来てくれぬのではないかと、ずっと考えておった。朝まで待って来なかったら、どうした顔で宿に戻るか、どのような言葉で謝るか、そのようなことまでを必死で思案しておった」うつむく。「しろはな、大輝に嫌われるのが怖いのじゃ」
「シロさん……」
シロの手がわずかに震えるのを感じながら、大輝もまたうつむいた。
波音と闇、そして潮の香りが満ちていた。
景色の中に二人だけだった。通りがかる者もいそうになかった。
シロが口を開く。
「……しろが怖れておるのはそれだけではない。大輝が、誰か他の女を好いてしまうことが、しろにはたまらなく恐ろしい。思い描くだけで胸が詰まり、どうしてよいか分からなくなる」
ぷらり、ぷらり。シロの足が交互に揺れる。
「石楠花のことも怖い。――しろは実のところ、あの小娘を心底嫌いなわけではない。何かと腹の立つ奴じゃが、あれはあれで可愛いところもある娘じゃ。だが……それが分かるゆえ、余計に不安なのじゃ。大輝が石楠花を好いてしまうのではないかと……石楠花を選んでしまうのではないかと、ここのところ……特に今日はそればかりを……」
シロの足が動くのをやめる。
「そればかりを考え、一人で悶々としておった。夜々とやらのことも同じじゃ。今日現れたばかりの小娘とはいえ、大輝を狙うておるというだけで、立派にしろの気持ちを脅かしておる。……本当はな、さっき呑みながら話した心の内もまことのことよ。しろにとっては夜々の現れたことも、大輝がわずかに心乱されるような素振りを見せておることも、恐ろしい大ごとなのじゃ」
シロはそこまで言って、口を閉じる。
大輝はその顔を覗き込む。
「シロさん……?」
「――大輝よ、以前しろにきすをしてくれたな」
「あ……」
大輝は瞬時にあの時のことを思い出し、顔を熱くする。
「……はい」
「しろは本当に身の溶ける思いじゃった。あの時唇に感じた温かみを思い出し、何とかしろは我が心を励ましてきた。たとえ大輝にしてみれば、一時の出来心だったにせよ――あれがしろの心の支えじゃった」
シロの手が、大輝の手を握る。
「だが……もうそれだけでは安心できぬ。もっと、もっと確かな証がほしい」
段々と、声が濁った震えを帯びてゆく。
「揺らいでおる。焦っておるのじゃ。石楠花に大輝を渡しとうない。夜々などにも、大輝の眼差しを奪われとうない。しろだけを見てほしい。しろだけが――大輝の女じゃと、はっきり示してほしい」
シロは大輝の手から手を離したかと思うと、すがるように体を寄せてきた。
頬に当たる銀髪。
酒気を帯びたシロの匂い。
大輝は体を硬直させ――シロの顔は、いつかと同じように、互いの息が届くほど間近にあった。
「わがままを言うてすまぬ。こうして酒の力を借りるのも、卑怯なことと知っておる。だが、もう、耐えられぬのじゃ。大輝が思うておるほど、しろは強うない」
シロは大輝の薄い胸板に、額をあずける。
細く、切なく、弱々しい声でシロは言った。
「だからどうか……今宵は拒まずにこの身を抱いておくれ」大輝の浴衣を握りしめる。「もう……拒まれとうない……しろは壊れてしまいそうじゃ……」
崩れそうな声。
ざぱ、と一際大きな波音がはぜた。
次の刹那、顔を上げたシロの唇が、不意打ちのように大輝の唇を塞いでいた。
大輝の首に長い腕がまわり、二人の体が正面から密着する。
シロに押し潰されるように、大輝の体は堤防の上へ背中から倒れた。圧し掛かるシロの体はやわらかく、火傷しそうなほどに熱かった。並んだビールの缶がばらばらと落ちる。
大輝はうめく。
「ん……っ」
呼吸――が。
唇を割って、シロのぬめった長い舌が入ってくる。
きっと、ろくに知識があるわけではなく、ただ溢れ出す感情のままに――シロの舌は大輝の口の中をかき回した。
息が苦しかった。
酒臭く、甘い唾液の味がした。
そして唇が離れる。
混じりあった二人の唾が透んだ糸を引き、消える。
「……大輝は」
大輝の腰に跨ったまま、シロはゆっくりと体を起こす。
「大輝は……知らんじゃろうな。しろがおぬしを想いながら、幾度この身を誤魔化したか……寝間着の襟を噛んで声を殺し、毎夜毎夜……」泣いているような声で。「そして一人、居間で寝付くたび……己が空しき空事に恥じ入るのじゃ。情けのうて涙を流したこともある……もう嫌じゃ。絵空事ではなく、本当に……大輝の腕の内で……」
帯をほどき、はらりと浴衣の前をはだけるシロの姿を、大輝は下から見上げていた。
下着は無かった。
かつて一度だけ石落の屋敷で見た、真っ白な裸体がそこにはあった。だが、その裸の意味は、あの時とはあまりにも違う。今ここで淡い月明かりに照らされているのは、大輝のために差し出された肉体だった。
シロは再び倒れこんできた。以前仔狐だった頃したように、大輝の頬を舌先で舐め上げる。
それから大輝の顔を強く抱きしめる。
あらわになったシロの熱い腋の下に、大輝の鼻先が埋まった。やわらかな二の腕の感触が顔を圧迫し、息を吸うと、生々しい汗の匂いが胸の中に充満する。
「う……」
大輝はうめく。
息苦しさに、闇雲に手を動かす。
ぴったりと右の手のひらに張り付くもの――胸。指が埋まる。
シロの腕が一際強く締め付ける。
「ん――」
聞いたこともないようなシロの声。
大輝は怯えるように手を引いた。
どくどくと血潮の音がする。これは大輝のものなのか、シロのものなのか。混ざり溶け合い、判然としない。潮騒が二人を包んでいる。
潮の音。
言葉。記憶の中から石楠花の言葉が聞こえてくる。
好きなんだ。
最近じゃ、バカみたいに大輝のことばっかり。
変だよね、こんなの。
でも。
シロのことも、別に心底嫌いってわけじゃない。
心底嫌いってわけじゃ。
実のところ、あの小娘を心底嫌いなわけでは――ついさっきシロが言った言葉が重なる。
喧嘩をする二人の姿。
シロが現れる前の静かな家。
テーブルに肘をつき、呆れたように溜息をつく石楠花。
「なんであんたはドッグフードなんかが好きなんだろうね」
「ほほ。石楠花には分からんじゃろうな、この深き味わいが」
ソファに腰掛け、幸せそうに缶の中身をスプーンですくうシロ。肩をすくめる石楠花の顔。景色が溶ける。
今、この瞬間に伝わってくるシロの呼吸。嗚咽するような、引きつったリズム。プライドも何も無い、懸命な想い。酒の力を借りた必死の勇気。
体の重み。
「大輝……」
熱い声。
大輝は目を閉じ、シロの背に両腕を回し、一度、出来る限りの力を込めて、強く抱き締め返した。
ゆっくりと二呼吸半。
沈黙。
波の音が遠ざかる。――それから。
「……。……ごめんなさい」
目を開けて、大輝は静かにそう言い、腕を解いた。
言い訳など出来ない。
それは結局のところ、拒絶だった。
シロの体が――離れてゆく。
赤い瞳が大輝を見下ろした。
「……? ……た……」
理解し、そして始まる本当の嗚咽。
「……たい、き」
ぽろり。
「う……」
大輝の胸に両手をついたシロの目から、ぼろりと大粒の涙がこぼれる。
涙はなめらかな頬を伝い、大輝の首に落ちた。
シロは鼻の頭にしわを寄せて赤ん坊のように泣いた。だらしなく歪んだ唇から、押し殺した声が漏れ出す。
「ふ、う、う……ぐっ」
よろよろと体を起こす。
大輝の胸から手を離し、シロは両手で涙を拭う。
「うええ……え」
綺麗な顔をくしゃくしゃにして、駄々をこねるように泣く。
本当に、子供のように。
――泣かせた。
大輝は胸の痛みで心臓が止まりそうだった。
言葉が出てこなかった。
なぜ拒絶してしまったのだろう。
いつもそうだ。こんなにも……惨めなほど必死で、自分だけを愛してくれる人を――純粋な、裏表のない本当の気持ちを、なぜ自分は拒んでしまうのだろう。
好きです。
俺もあなたが好きです。
どうして肝心なとき、この人にそう言ってあげられないのだろう。
それだって嘘ではないのに。
俺だって――シロさんが好きなのに。
シロは大輝の腰を跨いだまま、背を丸めて頭を垂れ、嗚咽する。
「う……、も、もう……」咳き込む。「もう……ど、どうすれば、いい、か……」
鼻をすする。
「ど、どうすればいいか、わ、わから……」
声が痙攣している。
ゆっくりと、大輝の上から重みが無くなってゆく。
浮揚したシロは、空中で細い膝を抱え、うずくまった。
下がった浴衣が潮風にそよいだ。
大輝は体を起こし、声を絞り出す。自分まで泣きそうだったが、その権利がないということくらいは分かっていた。
「違う……んですよ」
違うのだ。
シロは体を丸めたまま答えない。顔は見えず、泣き声だけが風を震わせる。
大輝は言い訳のように続けた。
「違うんです……」
それしか言えなかった。自分のボキャブラリーの無さが憎かった。
シロはやがて、黙って飛び去った。
霞んだ月だけが残った。
二
まどろみの中。
燦燦と白い陽の照りつける、ゆらめく夏の浜辺であった。
パラソルの下、シートの上にしゃがんだ白いワンピースの女は言う。
「そうですか――御家の事は兼ねてより存じておりましたが、そうしたお役目の方もいらっしゃるのですね」
少なくとも見た目は二十歳前後の、優しげな眼差しをした、髪の長い女だった。
「どうしますか? 私を連れて行きますか」
「……いや」
隣に立つ夜々は首を振った。
夜々はこの時も同じような、黒いワンピースを着ていた。ただ違う点を言えば、大きな麦藁帽子をかぶっていたことと、真夏なのでごく薄手のノースリーブだったということ。それから、さっきまで女の息子と遊んでやっていたために、足は靴も靴下もない裸足であった。滅多に汚さぬ踝と足の裏に、砂が灰色にこびり付いていた。
「見神の未来を考えれば、同行してもらわねばならぬところなのだろうが……」
波打ち際の子供を見る。
湿った砂を無心に積み上げ、できるだけ大きな山を作ろうとしているのは、赤い海水パンツ一枚の、幼い男の子だった。
今日、たまたま出合った少女――正確には少女の姿をした者と砂遊びをしたことなど、やがては忘れてしまうのだろう、物心が付いているのかいないのか、ともかくまだ赤ん坊のような気配の抜けぬ、小さな子供であった。
夜々はその姿を見つめ、また口を開く。
「……君の夫もこちらへ来ているのか」
「ええ。今日は宿でゆっくりしていますけれど」
「そうか」
夜々はまた黙った。
若者たちと家族連れで賑わう浜辺。
波音は不思議と静かだった。
夜々は男の子を見つめ続けていた。
「……あの子は海へ入るのが怖いのだな」
「蟹が怖いのですわ。昨日、足を挟まれてしまって」
「それは気の毒に」
「でも――我が子ながら、面白い子なのですよ」女は微笑む。「挟まれたとき、驚いて、海の中で足踏みをしたのですけれど……もしかしたらその時に蟹を踏んでしまったのではないかと、あとになって随分心配していました」
「憎き蟹の心配か」
夜々も微笑う。視線の先の男の子は、ぺたぺたと砂山を叩いている。
「いいさ……家の者どもには、君のことは伏せておこう」
「ありがとうございます」
「何、来いと言ったところで、君とて大人しく従うつもりはあるまい」
「ええ」女は即答した。「もったいないことに……こんな私にも、今は愛してくれる子と、そして息子がいますから。残念ですが、あなたの妻にはなれません」
夜々はまた、ふ、と笑った。
「本物の麟に抵抗されて無事でいられるほど、私も頑丈ではないからな。しかし、気になるのはあの子だが……」
「――何も感じませんでしょう」
「ああ。あの子は確かに君の子なのだろう?」
「まだ自分のことに気付いていないのです。何の力もない、今はただの子供ですわ」
「ふむ」夜々は唸る。「しかしいずれ、目覚めるときが来るかも知れん。その時は……」
「力の制御を知らないあの子が、自分の神気を発現させれば――あなた方にも知れるでしょうね」
「その時はどうする」
「あの子に任せますわ」
女は遠い目で我が子を見つめた。
「時が近づいています。あの石字縛師が常世に干渉したことで生まれた、泡沫の揺らぎが終わり、全てが元通りになる時が。きっと……近いうちに、私はいなくなるでしょう。その後は、あの子自身の思うままに決めてもらうしかありません」
「そうか――」
「……約束していただけますか?」
「何だ」
「いつか、もしあの子の存在が見神の方々の知るところとなり、あなたが今度はお役目として、再びあの子の前へ現れることになったら……。そうなっても、できるだけ無理強いはしないであげてください。あの子がちゃんと、あなたを愛すよう……そしてあなた自身もあの子を愛し、望んで共にあるように」
静かに、重く、女は言った。
「お互いの想いを大切にしてください。それならば――二人が愛し合っての上ならば、たとえ定められたことであっても、そこにはちゃんと、本当の幸せが生まれますから」
「……。ああ」
夜々はゆっくりと頷いた。
女はそれを確かめて、独り言のように付け加えた。
「……あの子は良い子ですわ」目を細める。「きっと、これからも」
「私にもそんな気がするよ」
夜々は深く息をつく。
「――さて。もう行くとするか」
「あの子の相手をありがとう御座いました」
「いや……私も楽しかった」
首を振り、夜々は苦く笑った。
「ここで会えたのも、何かの巡り合わせなのかも知れないな」
「ええ――」
女は儚げな笑顔で頷いた。
燦燦と白い陽の注ぐ、ゆらめく夏の浜辺であった。
照りつける日差しが景色を溶かし――
夜々はやがて、記憶のまどろみから醒めた。
ゆっくりと目を開ける。
明かりが点いたままの部屋。
夜々は窓際の大きな椅子に深く腰を下ろし、木の脚にガラス板の乗ったテーブルを前にして、うたた寝をしていた。
恐らくは、ほとんど刹那の夢であったのだろう。自身の体がそう教える。
夜々は呟いた。
「……もう何年かな」
窓を見る。
黒かった。
瀬戸物の灰皿の上で、燃えつきた煙草の長い灰が、ぽろりと落ちた。
三
シロは静かな後悔の中にいた。
小一時間泣くだけ泣いて、酔いもほとんど醒めていた。
「はあ……。酔い過ぎておったわ」
乳色の湯に体をまかせ、シロはぽつりと呟く。
やはり誰もいない浴場だった。
湯を顔にかける。涙に腫れた目にしみた。
そう、思い返せば支離滅裂である。
石楠花を酔わせて潰し、それから大輝を大人の色香で攻め落とす。漠然とそんな流れを思い描いていたのに、酒が回りすぎたせいで、気付けば――本当にいつの間にか、積もりつもった感情が爆発してしまっていた、あれではただの悪酔いだ。
シロは溜息をつく。
「しろは一体、何をしたいのかのう」
もはや自分でも分からなくなっていた。
勝手に盛り上がり、勝手に不安になり、勝手に切羽詰ったからといって、大輝の気持ちもよく考えず、酒の勢いに任せて押し倒し……挙句に、拒まれたからと、駄々をこねて泣く。これでは狂っているのと変わらない気がする。
「時を戻せるなら、無かったことにしたいわ」
大輝と顔を合わせ辛い。
部屋に戻るのが憂鬱だった。
がらりと扉が開き、脱衣所から子供が入ってきた。
夕刻に見た、この旅館の子供だった。カエデとかいったか。シロは声をかける。
「何じゃ、子供にしては遅い風呂じゃな」
「あ……」
カエデはいかにも人見知りする子供らしく、少し目をそらしながら、もごもごと答える。
「早いと……お客さんがいるから」
「おお、そうか。では遅いのはしろの方じゃったな。すまなんだのう」
シロは笑う。
カエデは気まずそうに風呂場の隅へ寄り、桧の椅子のひとつに腰を掛け、桶に湯を溜め始める。
シロはその幼い姿を、横目で眺めていた。
幼い裸の姿だ。十歳かそこら――母親もそう言っていた。封じられる前は、よくこのくらいの子を食べていたものだ。シロはぼんやりと思い出す。
このくらいの子供は肉に臭みが無く柔らかいので、生のまま食べるのが一番である。それも生きたままがいい。
カエデはシロの考えていることなど知るよしもなく、つたない手際で体を流しはじめた。
シロは浴槽の隅に背を寄せる。
「……ふむ」
今、この子を食いたくないと言えば嘘になる。この子供に限らず、シロにとっての人間は、今でも立派な食欲の対象である。
だが、生きた人間の考えていることがなかなか興味深いものだということ、それを知ることによって自分が変わってゆく面白さも、最近になって分かってきた。
だから――どうということもないが。
シャワーを止め、立ち上がろうとするカエデを、シロは言い止める。
「ん? これ」
「……え」
「それではまだ、ろくに体を流せておらぬじゃろうが」
湯船から立ち上がり、シロはタイルの上に上がった。
「温泉宿の娘が、風呂の入り方も知らぬでは格好が付かんぞ。どれ、しろが背を流してやろう」
「い……いいよ。私そんなに子供じゃないもん」
「遠慮するでない」
シロはすたすたと歩み寄り、逃げようとするカエデの肩をつかんで、強引に坐りなおさせた。
「大人しうせい。まずはこう、よく体を濡らし、垢を浮かせてじゃな――」
「い、いいってば――ちょっと、おばさん……」
みしっ。
カエデが仰け反る。
「痛だだぁっ!」
「おお、力が入りすぎたわい」
シロは肩を掴んだ手を離す。
「しろはまだ若いお姉さんじゃから、指の力が強くてのう」
「す、すみませんでした、お姉さん……」
カエデは力なく謝った。
シロは微笑み、自分の手拭いを泡立てて、カエデの背を流し始める。
「なに、しろも今、少しばかり部屋に戻りづらいところでな。どうして時を潰すか考えておったのじゃ。――ほれ見よ、まだ首の周りに砂がついておる。今日は浜で遊んでおったのか?」
「ん……」カエデはうつむく。「遊んでたっていうか……」
「何じゃ」
「私、いつも一人だから」
「ふむ?」
シロは首をかしげる。
――あの子も学校で色々と言われているようで――。
そういえば、女将がそのようなことを言っていた気がする。なるほど、教育テレビで盛んに論じられていた「いじめもんだい」というやつか。
シロは納得した。
「そうか、一人では上手く遊べぬな」
「……うん」
「海を見ておったのか?」
「いつも見てる……。それくらいしか無いもん」
「ふむ」石鹸を泡立てる。「しろもな、今共に暮しておる者どもと出会う前は、長いこと一人じゃった。長く生き、色々なところを移り住んだが、語る相手はおらなんだ。海もよう眺めておった。砂の上に朝から晩まで座り込んでな」
「おば……お姉さんも、いじめられてたの?」
「いじめられてはおらん。あらゆる人間に恐れられ、嫌われてはおったが。ほれ、腕を上げよ――よしよし、そうじゃ、じっとしておれよ」
「……くすぐったい」
「我慢せい――ほれ、もう終わった。流すぞ」
シロはシャワーを手に取って湯を出し、カエデの日焼けした肌を、肩からゆっくりと流してゆく。
カエデがぽつりと訊いてきた。
「お姉さんも淋しかった?」
「そのようなことは考えたこともなかった。しろは人間どもを馬鹿にしておったからの」シロは苦笑いする。「しかしまあ、今にして思えばそうだったのかも知れぬ。群れて楽しそうにしておる人間どもが、何だか無性に憎く思えたこともあったでな」
「ふうん……」
「ほれ、立て。もう終わりじゃ」
シロはカエデを立たせる。
それから二人は、並んで湯船につかった。
奇妙な時間であった。
――カエデはしばらく黙っていたが、やがて、水滴が眼前に落ちるとともに口を開いた。
「……ねえ」
「何じゃ」
「お姉さん、今は一人じゃないの?」
「うむ」シロは頷く。「今は、しろを家族と言うてくれる者どもがおるからの」
「……。家族なら……私にも、いるけど」
「母親か」
「うん」
カエデはわずかに微笑んだ。
「お母さんはね、私の味方なんだ」
「母は優しいか」
「うん……」
しかしまた、暗い面持ちに変わる。
シロはその顔を覗き込む。
「どうした」
「……でも私、学校では一人だから。お母さんも、言わないけど、多分心配してる」
「ふむ」
「どうすればいいのかな……友達、作らなきゃいけないのに。どうすれば友達が出来るんだろう」カエデはうつむく。「なんか、外に出ると、みんなが敵みたい」
「ん――む」
シロは腕組みする。
「……難しいのう」
考えながら思い出す。
あの雷雨の夜。
差し伸べられた手を引っかいた時の、鋭く尖った、何も信じられぬ気持ち。
あの時、大輝に拾われたことが今の自分を決めたのか。それとも――。
「……、誰しもが」
シロは考えも纏まらぬまま、ぼんやりと言った。
「誰しもがおぬしを嫌っておるわけではないのかも知れぬ……。おぬしが誰も信じておらぬゆえ、今は見えておらぬものも……あるやも知れん」
ぱしゃりと湯を肩にかける。
「しろも未熟ゆえ、どうにも言い切れんが」
「……お姉さんって美人だけど、あんまり頭良さそうじゃないもんね」
「な――っ」
「難しいこと訊いてごめんね」
「き……貴様」
人が親身になって考えているのに、何たる糞餓鬼。
大輝に内緒で食ってやろうか――
そんなシロの殺気を感じてか、カエデは立ち上がった。
「私もう出るね。ありがと、お姉さん」
「ん、む」
シロは濁り湯の中で、伸ばした爪を引っ込めた。
「……子供の風呂は短いのう」
無意味に呟く。
カエデはシャワーで体を軽く流し、髪を搾って出て行った。
入れ替わりに脱衣所から入ってきたのは、薄手の大きなバスタオルを細身に巻きつけた、入神夜々であった。手には持参のバスセットを、小さな桶に入れて持っている。
湯船の中のシロと目が合うと、夜々は笑う。
「おや、君か」
「しろで悪いか」
シロはふいと顔をそむける。会いたくない相手に会ってしまった。
夜々はツインテールだった髪を大きく一つにまとめていた。
その首を軽くかしげる。
「君は風呂に入るときでもリボンをつけているんだな」
「ふん」
ふてくされた顔をするシロの頭には、赤いリボンと、いつも通りの巨大ポニーテールがあった。
「何を付けていようとしろの勝手じゃろうが」
「それは失礼。さて、私も体を流すとするか」
夜々は躊躇いなくタオルをはだける。
横目で見ていたシロは、あらわになった夜々の裸――正確には目に飛び込んできた一部分に、思わずぎょっとした。
「く……」
そうだった、忘れていた。今度こそ本当に、思い切り顔をそむける。
「前を隠さぬか、見苦しい」
「そう意識するなよ」
夜々は悪戯に笑み、さっきカエデが座ったあたりの椅子に腰を掛けて、タオルを畳んで鏡の前に置き、どぼどぼと桶に湯を溜め始める。
シロは舌打つ。
「誰が何を意識するものか、そのような……まだ毛の一本も生えておらん、生白い皮かむりに」
「よく見ているじゃないか」
「やかましいわ!」
「何を付けていようと勝手、だろう?」
「ち……」
下らない形で一本取られた。シロはまた舌打ちする。
くすくすと夜々は笑った。
「どうやら欲求不満のようだね。この生白いもので良ければお相手しようか」
「ふ、ふざけるな!」
「冗談だよ。それにしても――どうやら大輝くんに振られたようだね」
「な……」シロは思わず振り向く。「なぜ知っておる?」
「図星か」
ざば、と夜々は肩から湯をかぶる。
「君も可愛いな」
「か――かわいい……?」
シロは両手で胸を隠す。
夜々は冷たく訂正する。
「そういう意味ではない。不器用で、まるで子供のようだということさ。君は全く駆け引きというものを知らないようだ。好きだという気持ちを単純にぶつける、それ以外の方法を持たないでいる」
「……。駆け引きなど」シロはふくれる。「駆け引きなど……嫌じゃ。しろはそのようなことが好きではない」
「そうかい。まあ好感は持てるな」
夜々は、スポンジでごしごしと腕を泡立てる。
何だか馬鹿にされているようで、シロはまたふてくされた。
そのとき不意に、ぬるりと、胸のあたりを撫ぜる感触があった。
シロは跳ねるように濁り湯から立ち上がる。
「おわあっ?」
「どうした、変な声を出して」怪訝な顔の夜々。「……しかし君はすごい体をしているな。魅力云々を通り越して、もはや卑猥というか何というか」
「それどころではない! この風呂の中、何者か――」
シロのポニーテールがざわめく。突如として姿を現した激しい妖気に、肌がびりびりと震える。
「潜んでおるぞ! 気を付けよ!」
裸身を翻し跳躍する。
同時に濁り湯の中から飛んだもの。
「? ――な」
空を切り回り飛んだそれは、反応しきれなかった夜々の細い左肩に、どっかりと食い込んだ。
よく研がれた、薪割をする大鉈であった。
「な、た……?」
鮮血が散る。
シロはタイルの上に降り立った。
「この妖気、もしや――」
ざばりと湯の柱が立ち上る。化生は、大きな肌色の上半身をあらわした。
そして、しとやかな声で言った。
「まさかとは思ったけれど」
飛沫に紛れて伸びる、太く長い腕。五本の指が、仰け反るシロの前髪を掴む。
「あなたは任氏ね?」
「く……っ!」
腕は瞬く間にシロを引き寄せ、真っ白な喉笛を――
「お久しぶり」
出刃包丁が、ざぶりと切り裂いた。
四
四人部屋の、電気もついていないユニットバス。
吐くだけ吐いた石楠花は、便器の冷たさを頬に感じながら、夢うつつの中にいた。
「う……」
目を開ける。
布団に戻らなければ。そう思うのだが、体が動かない。
ぐらぐらと痛い頭――何かを感じる。
「よ……、かい?」
溶解。酔うかい。何か用かい。違う違う。
「妖怪――が」考えがまとまらない。
石楠花はまた目を閉じる。
「あー……」口に残る酸っぱい味。「……行かなきゃ」
どこへ?
分からない。
何にせよ体が動かなかった。
五
浴場に夜々の叫びが木霊した。
「任氏!」
首を切り裂かれ、振り回されたシロの裸体は、人形のように浴槽の中へ落ちた。
それを行った者は楽しげに笑った。
「さあ、次はあなた。この狐にはあとでゆっくりと止めを刺すわ」
腰から下を湯の中に沈めた巨大な化生は、天井近くにある顔を夜々へ向ける。
それは女将の顔だった。
女将は今、頭の大きさと吊り合わぬ、ずんぐりと大きな――しかも不気味に長い肌色の上半身と、四本の長い腕を持っていた。
手のそれぞれに、鎌、出刃、ハモ切り包丁を。唯一あいた手には、さっきまで鉈が握られていたのであろう。
そしてその鉈は今、夜々の肩骨に深々と食い込んでいた。
「――これが連続行方不明の真実か」痛みを押し殺す。「化生が女将を食い、成り代わり、顔を奪って化けていた……なるほど。シンプルな答えだな。もっとも疑問が残らないわけではないがね」
「落ち着いているのね。これから死ぬというのに」
「任氏とは顔見知りのようだが」
「大昔に一度会っただけよ。余所者だった任氏と、縄張り争いでやり合ってね」
「どちらが勝った?」
「戦う前に私が引いた……。仲間たちに止せと説得されたの。土地大将だった私が、評判高い大陸の狐変化と戦いあって、万が一にでも殺されてはいけないからと。だからこの女がまたいなくなるまで、黙って好きにさせていた」シロの沈んだあたりを見やる。「こいつは、土地にいる間は湯につかるばかりで案外と大人しく、我々を脅かしはしなかったけれど……それでも私は気に入らなかった。どうせ力の差など歴然としていたのに、むざむざ何年ものさばらせておくのが耐えられなかった」
「なるほどな」
夜々は笑う。割れた肩から、赤黒い血液が止めどなく滴る。
「昔この辺りに巣食っていた妖怪どもの大将といえば、響川の四つ刀――切り鬼か」
遠く窓近くの湯を割って、ばしゃりと、鱗に覆われた巨大な尾びれの先があらわれた。
それを波打たせ、女将は頷く。
「確かに昔の人間はそう呼んでいたわ」
「強かったそうだな。川を渡ろうとした大勢の侍たちと馬どもを、瞬く間に切り刻んだとも聞いている」
「あなた、よく知っているわね」
「君らについて詳しい家系と親交があってね。君のような妖怪が、眠り石に封じられた以外にまだ生きていたとは、正直いって驚いたが」
「あら、あの縛が破れたの?」
「つい最近のことだ」
「そう。だから任氏が――。まあ、私には関係のないことね」
女将は遠い目をする。
「私のような化生は、あちこちに少しは残っているわ。ほんの僅かだけ残った暗がりで、ひっそりと息を押し殺して。……突き詰めれば、今も昔もそう変わらないのかもしれない」
「生き方も……食い物も、か」
「そういうことね」
「しかし私を食えるかな」
夜々は右手で肩の鉈を掴み、引き抜く。
噴き出す鮮血が湯気を濁す。
血に濡れた鉈を構え、夜々は女将を睨んだ。
「この餌は暴れるぞ」
鉈を持った右腕が、もりもりと変じる。黒い毛の生え茂る長大な豪腕――黒腕。
夜々はそして飛び掛る。
跳躍し、横薙ぎに刹那の一閃。
金属音――出刃包丁に阻まれた。
笑う女将。逆袈裟に襲う鎌。
夜々は空中で身をひねるが、先端が腹の皮を裂く。
血が散った。
着地してすぐさま後ろへ飛び、中腰に構えて見上げ、夜々は唸る。
「速い――」
精密機械のような反応と斬撃だ。足下の濡れたタイルに血が溶ける。
女将は興味深げに微笑む。
「あなたこそ凄いわ。半妖にしては妖気が無いようだけれど……面白い生き物。ばらばらにして調べてみましょうか」
ばしゃあ、と乳色の湯が勢いよく爆ぜ、激しく散った大量の水滴で、浴場と夜々の視界がいっぱいになる。
夜々は瞬間、目をそむける。
「む……」
瞬く。
その間に、女将の巨大な姿は、湯船の中から消えていた。
「何、――くっ!」
乱れた後ろ髪を掴まれた。
「後ろ……か……っ!」
山のような体躯でありながら、何という俊敏さであろう。
夜々の体は怪力で引き上げられ、絡め取られる。
タイル張りの床の上、ぎらぎらと巨大な魚の尾――女将の下半身が生々しく蠢き、先端のヒレがいたずらに壁を叩く。びしゃり、と粘液が散った。
「どこを切ってほしい?」
出刃包丁の温まった背が、夜々の華奢な体を蹂躙するように撫ぜ回す。
「首かしら、お尻かしら」
ぴたりと、脚の付け根で止まった。
「そういえば……あなたは面白いものを持っているわね。駄目よ、こんなものを生やしている子が女湯に入ってきては……」
「く――」
夜々は身をよじる。
女将は、夜々の首筋をべろりと舐めた。
「これ――切り落としたら痛いかしら。ねえ、どうかしら?」
「う……、ああっ」
ぐりぐりと包丁の背で乱暴にいたぶられ、血まみれの夜々は腰を引いてうめく。鉈が落ちた。
女将は嘲る。
「可愛い声。あら――ちゃんと感じるのね?」
「くっ……い、いつまで――」
顔を赤くして夜々は怒鳴る。
「いつまでそこで見ているつもりだ、性悪狐!」
「何ですって?」
女将が夜々から手を離し、振り返ろうとしたその刹那。
影が泳ぐ。鋭い爪が閃光のようにひらめき、女将の左耳を裂き落とした。
耳が飛び、女将の口から発せられる、驚きの混じった悲鳴。
すかさず跳び退く夜々。
尾びれが暴れ、壁に叩きつけられる。ヒビがはしって破片が散る。
女将は耳のあった顔の横を押さえ、睨みつけた。
「あ……あなた、どうして――いつの間にっ!」
「おぬし、この程度でしろが動けんようになると、本気で思うておったのか?」
首の裂け目を片手でふさぎ、シロはにやにやと笑いながら言う。
「もっとも……」
べっ、と血の塊を吐く。
「まあ、痛いことは痛いがの」
当たり前のように、湯船の横に立っている。
女将は歯を軋ませる。
「任氏……っ」
無視してシロは夜々に言う。
「夜々や、おぬし中々に苦戦しておったな。股ぐらをいじられて情けない声まで上げよって、しろにはとても良い見世物じゃったぞ」
「うるさい」
元に戻った右手でそこを隠し、前屈みの夜々はかすかに赤面する。
「肩を割られたせいで、左腕が言うことをきかなかったのさ。まあ……」口を尖らせ付け加える。「言いわけだがね」
「まあ良いわ、そこで見ておれ」
シロは女将の方へ向き直り、その顔を見上げる。
「しかし相変わらずの図体じゃのう、切り鬼よ。奪った女の顔と声が似合うておらんぞ」
「……あなたの口の悪さも相変わらずね」
「訊いてよいか」
「どうぞ」
「女将の夫を殺したのもおぬしか」
「ええ。女将を切り殺し、脳味噌を食べているところを見られたの。だから殺したわ」
「その時、おぬしはどう思うた?」
「どう……?」女将は首をかしげる。「……別に、何とも?」
「そうじゃろうな」
シロは頷く。
「我ら化生とはそうしたものじゃ。理のままに動き、行うのみが化生よ」
「何が訊きたいの、あなた」
「そうした化生のおぬしが、なぜかえでを食わなんだか――」赤い瞳が光る。「なぜあの子のみを残したか、何とはなく、それを訊いておきたくてな」
「……。楓……」
女将の表情が揺れる。
常にある隠れた困惑を思い出したように。
そして口をつぐんだ。
沈黙の後、シロは仕方無さそうに笑う。
「答えられぬか。……良い。早いところ終わらせようぞ」
「――ふん」
女将の低い声と暗い眼光。
「あなたなどにに私が……」
「そういえば、さっきおぬしの口が語ったことの内」シロの言葉が遮る。「一つ、しろにも納得のいく言葉があった。何だか分かるか?」
「……?」
「しろとおぬしの力の差は――」
シロが消える。
睨んでいた相手を失い、女将が僅かに目を泳がせた、それだけの一瞬。
女将の首が魔法のように消失した。
――。無音――そして。
刃物が床に落ち、がらん、がらんと、空しい音が浴場に響く。
頭部を失った怪物。
その胸が、一呼吸おいてから、びしりと裂ける。
裂け目はびりびりと音を立てて広がり、我慢しきれぬように中の物が溢れ出して、赤黒い液体が、シャワーの如く、おびただしく飛び散った。
巨大な四本腕の人魚が、ゆっくりと、前のめりに倒れる。首のあった場所からも血が噴き出す。
引き抜かれた女将の首は、壁際へ着地したシロの手に、無造作に掴まれていた。
たった一瞬の、徹底的な破壊作業。
滑稽なほど呆気なく勝負がついていた。
掴んだ首にシロは続けた。
「力の差は、この通り、歴然としておった。昔からな。――何か言い残すことがあるならば聞いてやらんでもないぞ」
「……う」
首だけになった女将の唇が動く。
「……、か……」
残された、たった一呼吸。掠れた声で最後の言葉を紡ぐ。
「楓……には……」涙。「言わないで……」
「何?」
シロが訊きなおす間も無く、女将の首は生気を失い、死肉と変わった。
「……。ふん」
無言でその首を放り落とすシロの姿を、夜々は驚嘆し見つめていた。
完全に何も見えなかった。飛び掛って女将の首をもぎ取り、その胸を深々と斬り裂いた狐変化の一瞬の動きを、夜々の目も全く捕らえることが出来なかった。
切り鬼とて地域伝承に残るほどの化生であったのに、それを花でも手折るように。これが任氏――最高位にいる妖怪の実力。いや、その片鱗か。
「……寒気がするね」
小さく呟く。
と、鉈に割られた肩が、ぼんやり赤く光りだした。再生が始まったようだ。血の流れと痛みも止まってゆく。
夜々はそれを確認してシロに声をかける。
「任氏」
「ん」シロは首を見下ろしたまま振り返りもしない。「何じゃ」
「私は脱衣所で一服しながら傷を癒す。君はその間に、その肉と血を片付けておいてくれないか」
「ふむ……?」
シロは首から目を移す。
床の上に横たわった、切り鬼の巨体。――溜息をつく。
「参ったのう。これは中々に食いでがあるわい」
切られた喉笛の傷を撫でる。その傷も、もうふさがりかけていた。
夜々は黙ってシャワーを取り、体の血を流しにかかった。
五
夕刻の商店街は、行き交う子連れの主婦たちで賑わっていた。
石楠花と母もその中にいた。
魚屋が威勢の良い声で客を呼ぶ横で、一息ついている八百屋の若者と、夏物の浴衣を着た金物屋の主人が、煙草を吸いながら談笑している。
母に手を引かれ、石楠花はその前を通り過ぎる。
手には――確か、ねだって買ってもらったばかりの、文房具の入ったビニール袋。
母は立ち止まり、振り返って微笑む。
「今日、冷やし中華でいい?」
「うん」
と石楠花は頷く。
母も頷き、また歩き出す。
賑やかな駅前の商店街。
握られた手と手。汗ばんだ温かさ。
それが、不意に離れた。
「あ」
すれ違う自転車に驚き、飛び退いた石楠花が手を離したのだ。
すぐに母を目で追う。
母は――気付いていないのだろうか、振り向きもせず、どんどん歩いていってしまう。
石楠花は呼ぼうとする。
おかあさん。
声が出ない。
どうして振り向いてくれないのか。
走り出す。
正面から人にぶつかって、尻餅をつく。ひどく痛い。
母が遠ざかる。
立ち上がり、呼ぶ。声が出ない。呼ばなければ、母がいなくなってしまう。
もう見つけられなくなってしまう。
人ごみの中に、幸せな後ろ姿が消えてゆく。
石楠花は泣いた。
なのに泣き声すら出ない。
母の背中が遠ざかる。
六
脱衣所の扉が少し開き、夜々が中を覗き込んでくる。
「あっという間に、綺麗に片付いたものだな」
横開きのガラス扉をからからと開きつつ言う夜々の肩も、もう何事もなかったかのように、つるりと白かった。体には元通りバスタオルを巻きつけている。
シロは、すっきりと片付いた浴場の中央で腹をさする。
「……不味いものを食わされたわ」
「死体を食い、生臭さを炎で消しても、壁のヒビはさすがに無理かね」
「しろは大工ではない」
足下に残った四本の刃物を見下ろし、シロは無表情で言う。
胸の下が重かった。
夜々は苦笑した。
「まあ、仕方ないか。――どうした、浮かないようだが」
「うむ……」
シロは呟く。
「何か……殺さぬ道は無かったか、とな。内心、こやつを食いながら思うておった」
「意外なことを考えるね」
「……」
「やらねば君が八つ裂きだったさ」
「うむ――」
シロは頷く。
言葉は続かなかった。
バスタオルを取った夜々は、綺麗に畳まれた浴衣を広げ、くるりと身に付ける。
「誰か来ないうちに、私はもう行くよ。君も急いだ方がいい」
「……おう」
シロは、タイルにわずか残った血をシャワーで流しながら、帯を締めて去ってゆく夜々の姿を見送った。
一人になったシロの中には、漠然とした喪失感のようなものがあったが、その正体が何なのかは分からなかった。
やがてシロも浴場をあとにした。
寄り道こそせぬものの、立ち止まり立ち止まり、ずいぶんゆっくりと歩いたので、部屋に着いたのは五分ほど後になった。
誰もいない静かな廊下。ドアノブに手をかけ、回す。鍵はかかっていない。
「あ――」
大輝のことを思い出す。
もう戻っているのだろうか。
いや。
考えても仕方あるまい。シロはドアを押し開けた。
中は暗かった。
「……おう」
足下に何者かの姿を見つけ、シロは立ち止まる。
後ろ手に扉を閉め、ほとんど真っ暗な部屋の入り口で、しゃがみ込む。
うつ伏せに、ユニットバスから上半身だけ這い出した状態で寝ているのは、どうやら石楠花だった。
トイレで吐いた後、布団まで辿り付けなかったのか。シロは溜息をつく。
「仕方の無い娘じゃのう」
まあ――シロのせいなのだが。
放っておくことも躊躇われるので、シロは石楠花を抱え上げて、肩でユニットバスの扉を閉め、暗闇の中、そろりそろりと奥へと進んだ。
礼司の寝息が聞こえる。
大輝の気配は無い。
シロは狐の眼をこらしてわずかな光を集め、空いた布団を確認すると、そこへ石楠花を丁寧に寝かせた。
うんん、と石楠花が唸る。
シロは傍らに両膝をついて、石楠花の浴衣を軽くなおし、這い出すときに足下へ追いやられたらしい、丸まった掛け布団を被せてやる。
「……やれやれ」
そして息をつく。
だらしなく口を開けた石楠花の顔は、まさに子供のそれだった。
無防備な寝顔。小さな鼻がひくひくと動く。
シロは苦笑う。
「これがしろの心を脅かす恋敵なのじゃからな……」
全く、笑ってしまう。
なるべく音を立てぬよう、静かに立ち上がろうとしたとき。
石楠花が小さく言った。
「……。いかないで」
「む?」
シロは止まる。
「何じゃ、おぬし起きて」
「おかあさん――」
石楠花は、もぞりと身をよじる。
「お母さん」
「……ふん。寝言か」
シロは笑う。
石楠花は布団の中で体をくの字に曲げ、ぐすりと鼻を鳴らした。
「……いかないでよお」
涙声。
「お、かあ、さん……」
「――ふん」
シロはずれた布団を直し、石楠花の頭に手をのせる。
「安心せい、寂しうない」そっと撫でる。「しろがここへおるでな」
「……」
強張っていた石楠花の肩から力が抜ける。
湿ったような闇の中、ふう――と乳臭い寝息が溶けた。
シロはもう一度、確かめるように小さな頭をなでる。
「……良い子じゃ」
今度は本当に立ち上がる。
その時、入り口のドアが開き、橙の光が差し込んだ。
大輝であった。
「あ――」
「……あっ」
大輝とシロは、同時に短く声を上げる。
暫し、見つめあった。
大輝はドアを閉め、うつむき加減で口を開く。
「……も」小さな声。「戻ってたんですね」
「ああ――」
シロも目をそらす。
大輝はぽりぽりと頭をかいた。
「その……さっきは」
「しろを――探しておったのか?」
「え……」
大輝は顔を上げ、それから、頷く。
「……はい」
「あれから今までか? このような遅くに――」
「だって」
宿下駄も脱がず、入り口に立ち止まったまま。
「だって……その、いなくなっちゃうみたいな気がして」
「――?」
「さっき部屋に戻っても、いなかったし……」
だらりと下がった腕の先、小さな両の拳を握り締める。
「何ていうか――怖くて。どうしようって、俺――」
「大輝」
「すみません……俺、シロさんの気持ちを」
「大輝、もう良い」
シロは、とん、と畳を蹴る。
絹織りの衣の如く身を舞わせ、大輝の後ろへ降り立つ。
そして、大輝が振り向くその前に、両肩へ手を乗せた。
「もう良い。しろこそすまなんだ」
「シロさん……」
「ただ愛して焦るばかりで、肝心の大輝の心を考えなんだ。これで女房などと、おこがましい話じゃったわ」
「……」
大輝は黙って答えなかった。
やがてシロは、大輝の肩から、そっと手を離す。
「心配をかけたな」
溜息のように。
途端、大輝が振り向いた。
不意をつくようにシロの右手をとる。
「……シロさん」
見上げる真剣な眼。
シロはどきりと背を伸ばす。
「大――輝?」
大輝は続ける。
「……。あの……俺、あちこち探しながら、ずっと考えてました。自分がどう思ってるのか、どうしたいのか。俺は――ガキだし、何の責任も取れないですけど」
強く握られる手。
「それでも今、誰かを選ばなくちゃならないなら……俺が選ぶのは、きっと」
「言うな大輝」
シロは左手の指先を、そっと大輝の唇にあてる。
「まだ良い。ゆっくりと、大人になりながら考えよ。しろはそれまで待っておる。もっとも――」
指先を離し、にやりと笑う。
「黙って待っておるつもりは無いがな」
「シロさん……」
「あらん限りの手を尽くし、いつか大輝の方が虜になるまで愛させてみせる。大輝がいかに迷い、揺れ動こうとも、最後に添い遂げるはこのしろじゃ」
手を握り返す。
「そうと心得よ」
「……」大輝は頷く。「はい」
窓の外、雲が動く。
差し込んだ月明かりが部屋の中を照らした。
そしてまた雲が月を隠すまで、二人は手を握り合い、見つめ合っていた。