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第七章【切鬼宿 ―きりおにのやど―】中編

 一


 再び宿の四人部屋。

座布団の上の大輝は、誰に命じられたわけでもないが、背を丸めて、きちんと正座をしていた。

 その右隣には、黙々と茶菓子をかじる石楠花。

 左隣には、日ごろの無駄に雅な仕草はどこへやら、博徒の如く胡坐の片膝を立て、その上に肘を乗せて、ぎりりと正面を睨むシロがいた。普通にしていれば物凄く色っぽいのであろう浴衣姿も、勿体無いことに、やはり女博徒が着流しを身につけているようにしか見えない。胸元からサラシのひとつでも見えそうである。

 そして――机をまたいだ正面。

 落ち着きはらった様子で茶をすすっているのは、珍客、入神夜々であった。

 父は何を思っているものか、離れた窓際の座椅子に背をもたれ、どこ吹く風で紫煙をくゆらせている。

 静まり返った部屋の中。

 やがて低い声でシロが唸る。

「……やい、夜々とやら」

「何だね」

夜々はシロの超常的な眼光に怯えるでもなく、そっと湯飲みを戻す。

 シロは――たぶん飛び掛りたい気持ちを抑えながら――静かに問う。

「おぬしは大輝と夫婦になると……そう言うたな」

「いずれな」

「ぬう……」

当然のように頷かれ、シロはまだ湿った髪をざわめかせる。

 続けて問いかけたのは石楠花であった。

「ねえ……君、見神の子だって言ったよね。それってお爺ちゃんが言ってた、神を感じられる家柄ってやつだろ?」

「そう。我ら入神家は、その見神の長集。最も純粋な血統を保った家柄だ」

「何だか分からないけど、どうしてその、見神の人が……うちの大輝と結婚しなきゃいけないなんて、そんな話になってるんだい」

「それを話すと長くなるが――」

夜々は、石楠花とシロを見比べる。

「話さねば君らも納得するまい。まあいい、簡単に説明しようか」

夜々はこほんと咳払いする。

「まず我ら見神の者が、なぜ神気や神意……常世の霊性を感じ、その思いと力を認識することが出来るかだが――簡単な話で、それは我々も神獣の血を継いでいるからだ」

「はあ?」

石楠花が口を開ける。

 夜々は当たり前のように言う。

「驚くようなことではあるまい。そこで他人事のように煙草を吸っている殿山礼司くんも、どういうわけかこちらの世に現れた麟と出会い、愛し合い、この少年――麒の霊性を持つ子をなした。あってはならぬことだが、今まで起こらなかったことでもない。もちろん稀有なイレギュラーではあるがね」

「君たちの家柄にも、昔、同じようなことがあったってわけかい。その……イレギュラーが」

「まさにそのイレギュラーが我々の始まりといえる。遥か昔のことだ。伝承によれば――かつて、ある山の頂に、化け物が住んでいた。身の丈は並の男の二倍。丸太のような腕と大きな足、毛むくじゃらで赤ら顔の、醜い怪物だったという。怪物はその体毛の黒さから黒腕といわれていて、乱暴者である上に大変力が強く、麓の村人たちから恐れられていた」

夜々は語りながら、傍らの開いたトランクからハイライトを取り出し、一本抜いて口にくわえ、火をつける。

 流れるような仕草だったが、大輝は少なからずぎょっとした。

「ちょ、ちょっと君――」

「ああ、私は未成年ではないんだ。気にしないでくれ」

「え……」

「話の続きだ」

ふう、と煙を吐き出し、夜々は続ける。

「黒腕は年に一度、一人ずつ、若い娘を差し出すことを村人たちに要求していた。逆らう者は殺されるので、村人は泣く泣く従った。そして差し出された娘たちは誰も帰っては来なかった。儀式は何年も続いた」

「生贄……ってやつ?」

「うん――」石楠花に夜々は頷く。「まあ、そうした形だったようだ」

「そんな話の何どこが、おぬしが大輝にちょっかいを出すことに関係があるのじゃ」

シロは忌々しげにそっぽを向き、ちっちっちっ、と何度も舌打ちする。

「ただの物臭な化生の話ではないか」

 無視して夜々は語る。

「我々の先祖は、黒腕に差し出された娘の、最後の一人だ。名をつるといった。彼女は何を思ったか――連れ去られた山の中で、黒腕の嫁となった」

「えっ? 妖怪と結婚しちゃったんだ」

「妖怪ではなかったのだ。黒腕の正体は神獣……つまり麒麟や白澤と同じ、常世の霊性だったようだ。それが証拠に、その血を継ぐ我々は、常世の力と通じている」

夜々はまた煙を吐く。

「最終的に、つると黒腕がどうなったのかは分からない。ただ、記録によれば、つるが嫁入りしたのを最後に、黒腕は村に生贄を差し出すことを要求しなくなったらしい」

「……? へえ……」

何だか穴だらけの言い伝えだ。大輝は腕組みする。

 夜々はさらに続ける。

「つると黒腕の間に生まれた子は四人。男が一人に、女が三人の四つ子だった。誰もが神通力を持っていて、そして彼らは山の中で近親結婚をした。三人の娘が、それぞれ、男児との間に数人ずつの子を生したのだ。見神の家柄の始まりがそれだな」

「近親婚――」石楠花は何ともいえぬ面持ちになる。「で、その頃、つるさんと化け物……じゃなかった、神獣はどうしてたの?」

「分かっていないと言っただろう。もっとも、つるは普通の人間だったから、三代目が大きくなる頃には、もう死んでいただろうがな。黒腕については見当もつかない」

「そんな連中が、どうして山を降りてきたのじゃ。いつまでも山奥で勝手にやっておればよかったものを」

「彼らの生まれた山は活火山だった。それが突然に活動を再開し、彼らは麓の村に姿を現した。そこで村人たちは彼らの神通力を目の当たりにしたんだ。そして彼らのことを聞きつけた時の権力者たちは彼らを呼び寄せ、様々な形で政治の中に取り込んだ。今でも見神と、この国の中枢は深く関わっている。もっとも――」

「ちょっと待った、見神ってそんなに偉いのかい?」

「偉い……か。まあ、君たちの基準で大雑把に言えばそうなのかも知れないな。決して何不自由ないというものでもないが。しかし、それもここ数代では危うくなっている」

「……。血が薄れている――というわけですか」

ようやく父が口を開いた。

余所見をしていたが、一応聞いていたらしい。

 夜々は頷いた。

「なるほど、確かに礼司くんは聡明だね。……その通り。我々はその力を失わぬため、政府の管理で古くから近親結婚を繰り返してきたが、それにも限界があり、今はせいぜい常世の力を何となく感じられる程度の者ばかりで、ちゃんとした神通力を継ぐ者は段々と減ってきているし、時たま発現したとしても、その力は実に弱いものだ。私のような先祖返り――一族初期と同じ神気憑きの体質をしている者などは、我ら入神家の中といえど、ごく稀なのだよ」

「それで貴様が大輝の嫁として選ばれたというわけか? 弱ってきた血統に、神の血とやらを混ぜ込むために」

「そうだ。強い力を持つ私と大輝くんが交われば、衰退に歯止めをかけるどころか、更に強い、新たな世代の神血が生まれることは間違いない」

「馬鹿馬鹿しい」シロは吐き捨てるように言う。「しろも最近学んだことじゃが、男と女とは、好き合ってこそ結ばれるものであろうが」

「あたしも――そればっかりは、このバカと同意見だな」石楠花もあとに続く。「それじゃ、君の意思なんてどこにもないじゃないか。ただ婿を取るに相応しい体質ってだけで、結婚なんて嫌じゃないのかい」

 しかし夜々は煙草を静かに揉み消した。

「疑問など抱いたことはない。そもそも私は、そのために生まれ、育てられてきたのだよ。母の腹の中にいた時点で、強い血の力を持っていることが分かっていたので、もし万一――此度のようなチャンスがあった時のため、特殊な力を持つ血族たちの力によって、産まれる前に肉体を組み替えられ、性別も修正された。もっともそれを行った者たちも、少し前に死んだがね。私は大輝くんのような存在が現れるのを待ち、やがてそれが現れたとき、見神の中に迎えるための存在だったんだ」

「え……何、組みかえって……修正って、どういうこと?」

混乱する大輝に、夜々は涼しく言う。

「言い遅れたが私は今年で六十三歳になる。それと、見た目はほとんど女の姿をしているが、正確には両性具有者だ」

「え……?」

「チャンスを待つ期間は長いほうがいいので、肉体の成長抑制は当然の処置だった。もっとも、副作用として視力や嗅覚などに影響が出てしまったが、それは精神と能力の鍛錬で何とか補っている。この成長抑制は、技術が失われる前……というか、そういうことの出来る者たちが生きている間は、見神の中でポピュラーに行われていたことだ。性別に関しては言うまでもないね。いつか現れた神性がどちらの形をとっていても問題なく交配できるよう、性別が確定する前に、このように操作したのさ」

「そんなこと……」

大輝は言葉を失った。

 石楠花も同様の様子だった。

 父も何も言わず――

シロだけが、静かに舌打ちした。

「ご丁寧なことじゃ」

 夜々は大輝に微笑む。初めての微笑だった。

「安心したまえ。私の肉体年齢は十四歳前後だが、既に生理が始まっているので妊娠は可能だ。君さえその気になれば、いつでも準備は出来ている」

「――なっ!」

「ちょ、ちょっと待ったあっ!」

シロと我に返った石楠花が、同時に腰を浮かす。

 先に机へ乗り出し、噛み付いたのはシロだった。

「貴様、黙っておればいい気になりおって! ちょっと小奇麗な娘の顔をしておるからと、股ぐらに汚いものをぶら下げておるような奴に大輝の嫁がつとまるものか!」

「汚いとは失礼だな……綺麗なものだぞ、どちらもな」

「な、き、貴様、真顔で何を」

「なにせ来る日のためにずっと純潔を保ってある。見たところ、君はそういう感じではないようだがね」

「なっ――このっ!」

シロは、があん、と机を殴る。

「しろも大輝の前では生娘のつもりじゃ! 肝心のところとて綺麗なものじゃ!」浴衣の裾に手をかける。「目にもの見せてくれようか!」

「うわあ、し、シロさん、ちょ、落ち着いて」

大輝が慌ててシロの袖を引っ張る横で、石楠花も負けじと身を乗り出す。

「あたしだって、君――あんたの理屈がどうあれ、人のものを横からいきなりかっ攫うなんて、全然納得いかないよ!」

「む。ちょっと待て石楠花」

「何だよ狐」

「なぜ大輝を我が物のように語る?」

「大輝はあたしのだろ」

「ど――」シロは立ち上がった「どさくさに紛れて何を言うておるか!」

 石楠花も立ち上がって睨み返す。

「うるっさいバカ! あたしにとっちゃ、こいつもあんたも似たようなもんだ!」

「こっちの台詞じゃ邪魔者め!」

「なにをこの淫乱妖怪っ!」

石楠花が掴みかかり、シロの手が石楠花の顔を押し返し――いつも通りの喧嘩が開始されてしまった。二人は床を踏み鳴らしながら、壁際で押し合いをはじめる。

 大輝は正座したまま肩を落とす。

「ああ……何だよこの状況……」

「さて大輝くん」

夜々は二人の注意がそれている隙を狙い、いつの間にか大輝の左隣に来ていた。

 大輝はぎょっとして仰け反る。

「は、はい?」

「私も今日はここに泊まることになっている。二階の奥の一人部屋だ。今晩この宿へ泊まる者は他にいないようだから、間違える心配もないだろう。もし来たくなったら来るといい」

「いや……その」

「いずれ毎晩することだ。お互い、慣れるためにも早い方がいいだろう?」

すり寄った夜々は大輝の耳に唇を寄せ、ひそりと囁く。

「君のための私だぞ」

「う……」

ぞくぞくと背が波打ち、理性が死角から侵食される。

何だ、この人の妙に怪しい雰囲気は。

大輝は困惑していた。

当惑の渦に飲み込まれていた。

 助けを求めるように父を見る。父は――

父は知らん顔で三本目の煙草に火をつけていた。

面倒なことになっているなあ、私の息子。

横顔が飄々とそう語っているのが分かる。

 大輝は涙眼になる。

「お……親父……あんたって」

なんというクソオヤジ。

 くすりと微笑い離れてゆく夜々。

 喧嘩を続けるシロと石楠花。

 大輝は重圧に耐え切れず、机に突っ伏した。ひどく足が痺れていた。


 二


 夕刻となり、宿の裏庭は薄暗い橙に満ちていた。

 静かな木に囲まれて潮風も届かぬこの場所で、小さな池の淵、ごつごつと冷たい岩の上に小さな腰を掛け、夜々は一人、泳ぐ鯉をながめていた。

 静かであった。

 ふわり、不思議な香りが背より吹く。

甘い中国香。

 夜々は振り返らずに口を開いた。

「何だね」

「さっきは石楠花の阿呆と言い争っていて、ろくに文句も言えなかったのでな」

浴衣に宿下駄のシロが後ろから進み出て、夜々の腰掛けた岩の横に立つ。

「今一度釘を刺しておく。大輝に余計なちょっかいを出さんでくれ」

「……出さないでくれとは、随分と下手に出た言い方をするじゃないか」夜々は皮肉っぽく言う。「驚いたよ。悪行の限りを尽くした大妖怪も、彼のこととなると随分必死になるものだ」

 シロは舌打ちした。

「しろのことを知っておったか」

「石之助君からの連絡に君のこともあった。もっとも、君の存在自体は以前より記録として知っていたがね。ただ人を襲って食らうばかりではなく、生まれたばかりの赤ん坊の頭を少しずつ砕いてみせ、親が泣き叫ぶさまを見て笑うような、残酷なことを好む妖怪だったとか……」眉をひそめてみせる。「他にも、若い女房を殺して顔と乳房を引き剥がし、その冷えた亡骸を夫に無理矢理抱かせただの、暗い穴倉の中に家族を長く閉じ込めて共食いをさせただの、攫った子供たちに相撲を取らせ、負けた子から順に首を落としてみせただの……趣味の悪い所業は数え切れないほど聞いた。山一つを簡単に焼き尽くす凄まじい力のこともだ」

「だったらどうした」

「実に危険だ。強力で残酷な君という存在は、これ以上ないほど――ほとんど究極的に危険なものだ」

夜々は岩の上に立ち上がる。

「麒の霊性は我々にとって、もしかしたら最後かもしれない希望の砦なのだ。君のように、今は大人しくしているとはいえ、いつ害を及ぼさぬとも知れない存在を傍に置いておくなど、許しておけることではない」

「ほう」シロが笑う。「しろとやり合う気か。……それは冗談ごとでは済まぬぞ?」

「知っている」

夜々は平然と頷いた。

 二人の視線が貫き合う。

 冷たい風が吹いた。

 シロが消えた。

 否、動いたのだ。

 跳びあがったシロの鋭い爪が、閃電のように岩の上を薙ぐ。空を切った。

 夜々は池の向こうに立っていた。

 着地したシロは目を見開く。

「何――」

「言っただろう」涼やかに。「私は先祖返りだと。石字縛師や一般の見神のような、ただの人間に毛が生えた程度の者たちと一緒にしてもらっては困る。――私は純粋に強いのだよ」

言いながら黒い服の袖をまくる。細い腕が現れた。

 シロは口元を吊り上げる。

「このしろの前で大口を……」

突き出されたシロの片手に、灼熱が生まれる。周囲の土がちりちりと焦げる。

「砕け散り、あの世で言うておれ!」

赤を通り越して白く光る、炎の球が放たれた。

 夜々は動じなかった。

「確かに君のような桁違いのものと比べてしまえば、さすがにスペックは劣るがね――」

その右腕が一瞬で変じる。

大猿のように筋肉が盛り上がり、ざわ、と黒い毛に覆われた。

「残念ながら理というものがある」

夜々が腕を振るうと、炎の球は嘘のように、音もなく掻き消えた。

「差し詰め、鏡が光を透さぬように。分かるだろう? 私もまた常世の霊性なのだよ」

めきめきと、腕が元に戻る。

「君は確かに私より強いが、そうそう私を殺すことは出来ない。君の武器である炎も結局のところ、この世の力だからな。それがいかに莫大な妖力の具現で、どれだけ熱量があったとしても、常世の法則に干渉できないのは同じことさ」

「ふん……」

「気付いていたような顔だね?」

「何のことじゃ」

シロは眉間にしわを寄せる。

 夜々は遅れながら、さっきまで岩にのせていた尻をぱんぱんと払った。喋る口調に、もう闘争の意思は無い。

「先ほどの一撃目だが、当たっていたとしても私の顔面をかすめる程度だった。私を殺すつもりは無かったとみえる」

「……」

シロは答えない。

 夜々は微笑んだ。

「飼い主との約束か。確かに妙な化け物だよ、君は。あの石之助君が、面白い姉ちゃんだなどと言っていたのも理解できた」

「阿呆が。しろは本気でお前を殺すつもりじゃったわ」

「説得力の無い言葉だがそういうことにしておこう」夜々はまた冷たい面持ちに戻る。「君は相変わらず残忍な妖怪――そうしておいた方が、私にとって都合が良い」

「ふん……?」

「私が君にやられることはないと思うが、君を倒すこともまた簡単ではないようだ。君は本気になれば、もっと速く、もっと強く戦えるようだからね。さすが伝説になるだけあって、基本的な力が桁違いに高い。今は手出しするのをやめておこう。しかし……君がそこまで純粋に、あの少年に惚れ込んでいることは問題だ。いざ障害となったとき、君を滅ぼしてしまう理由は取っておきたい」夜々はツインテールの先端をぱりぱりと光らせる。「その時は、手段も選ばないし全力で君を殺す」

「なんじゃ……何を言うておるかよう分からん」

「バカだな君は」

「何っ!」

「ともかく君は私の恋敵で、それが問題だということだよ。敵対の理由は消えないというわけさ」

「下らんことを言うわ」

シロは嘲り返す。

「何が恋じゃ。大輝と今日会うたばかりのちび娘が。人に決められて恋しておるなどと、馬鹿馬鹿しいにも程がある」

「確かに我々の婚姻は定められたものだが、私が彼のことを全く知らないというのは間違いだ」

「何じゃと?」

「ここだけの話だが、私は彼に会ったことがある。その日から、私なりに彼と再会するのを楽しみにしていた」

夜々は静かに言った。

「もっとも大輝くん自身は覚えていないだろうがね」

「ぬ……?」

「彼は私がもらう。時間はどれだけかかっても構わない。彼の気持ちも私の方へと向かせてみせる。それがあの女との約束だからな」

「わけのわからぬことを……」

「いちいち理解してもらう必要などない」

「何?」

「いざ、障害となれば――そう言っただろう? どう思い込んでいるか知らないが、君とて大輝くんに片思いをしている一妖怪に過ぎない……少なくとも私の目にはそう映っている。現時点の君は、私が彼を手に入れる上での障害にすらなり得ない」はっきりと言い指す。「彼はまだ、誰のものでもない。君も何となくは分かっているのではないか?」

「う……」

シロは言葉を失った。

 夜々はきびすを返す。

「さて。そろそろ宿の者が部屋に夕食を運んでくる頃だ。お互い戻るとしようか」

言うが早いか、宿の裏口へすたすたと歩き出した。

 シロは暫しうつむき、自分の爪先を見つめていたが、我に返り、その背に言う。

「大輝に余計な手出しはさせぬからな!」

強いようで、どこか、すがるような声色だった。

「大輝は……しろの……」

言葉の最後は消え入った。

 夜々は答えず庭を後にした。

 鯉が暴れ、ぱしゃりと池が鳴った。


 三


日が暮れて、窓から見える庭はひどく暗い。

浴衣の大輝はフロントの販売機で買った烏龍茶のペットボトルに口を付け、ぬるい中身を重湯のようにすする。目の前には食べ終えた皿と火の消えた小鍋が並んでいる。

出された夕食はなかなか美味かったので、すぐにほとんど平らげてしまった。あとはどうにも苦手な高野豆腐が残るのみである。座布団の脇へ片手をついて、膨れた胃を落ち着かせつつ、シロと石楠花のやり取りを横目で静観する。

 刺身を肴に日本酒をやりながら、シロが石楠花の肩にひじを乗せた。珍しく大輝の隣をキープせず、机を挟んだ斜向かい、つまりは石楠花の横へ並んで座っている。

「やい石楠花よ、おぬしも付き合わんか」

真っ白な顔の頬だけがほんのりとピンク色に染まり、心なしか呂律も曖昧である。

それもそのはず、今晩のシロときたら、料理よりもまず、酒、そして酒。傍らには空になった徳利がボウリングのピンのように並んでいる。普段から酒はよく飲むが、今日は少しばかり度が過ぎているようだ。

 大輝の横で父が言う。

「シロさん、五月蝿いことを言うようで何だが、石楠花はまだ未成年だよ」

「大人の義父上がたった一本で盃を伏せてしまうからじゃ。まだ顔色一つ変えておらぬというに……しろ一人では面白うないではないか」

「私は常に正気を保っておく主義でね」

「ふん、堅いのう」

シロは口を尖らせる。

 石楠花はシロのひじを肩から除けつつ、麦茶の入ったグラスを空にする。大輝と同じく先ほど湯から上がったばかりなので、浴衣の首に厚手のタオルをかけている。

「あのなあ」とんとグラスを置く。「妖怪のくせに酔っ払うなよ。さっきから、ちょっと飲みすぎじゃないのか?」

「やかましい。これが飲まずにやっておれるか。おぬしだけでも厄介じゃのに、女子か男か分からんような、妙ちきりんな娘までしゃしゃり出てきおって……」

シロは言いながら大輝を見る。

「しかも大輝は、あれ相手に鼻の下を伸ばしておる始末じゃ。しろは全く気が気でない」

机越しに、それとなく責めるような視線である。

 大輝は首を振り否定する。

「そんな……俺は別に」

「いいや確かに嬉しそうじゃった」シロは怒ったように言い切る。「さっきしろは見ておったのじゃ。あの夜々とやらに耳元で何事か囁かれ、でれでれと面を崩すおぬしの有様をな」

「え……」

「しろは全く面白うない」

すわった目で、ぎろりと睨みをぶつけてくる。

「大輝は日ごろ、自分がまだ幼いのを言い訳にしてしろを拒んでおるが、そんなものは口ばかりの建て前じゃ。ああして小奇麗な娘に言い寄られれば、たちまちふらふらと揺れ動く。立派に男の心があるではないか。結局のところ、しろは惚れた弱みで良いように扱われ、遊ばれておるのとそう変わらぬのではないのか? どうなのじゃ」

「あ、その、いや……」

大輝は目を下へ逸らして縮こまった。

なんだか今晩のシロは、いつもと一味違う。

 シロはふんと顔を横に向ける。

「まあいいわい。石楠花、箸の方はすすんでおるか」

「え? ああ――っておい、こらこらこら。なに勝手に注いでるんだよ」

「なんじゃ、飲まぬのか」

「飲まないっての」

石楠花は、日本酒を並々と注がれたコップをシロのほうへ押しやる。

 シロはにやりと、馬鹿にしたように笑った。

「所詮は子供じゃな」

「なんだよ……」

「酒のひとつも飲めぬようでは、まだまだお子様ということじゃ。茶の湯では亭主の晩酌相手も出来ぬ」

「はあ?」

「それでは女房など務まらんじゃろうが。やはりおぬしなどしろの相手ではないな。いい機会じゃ、このまま負けを認めるがよい」

「な、なに勝手なこと」

「そうじゃろう、なあ大輝」またシロの目が大輝に戻る。「酒を呑むのも女の甲斐性というものよなあ?」

なぜか射すくめるような鋭い視線。

 大輝は反射的に頷いてしまった。

「え、はあ……」

「そうれ見よ」シロは赤い顔で意地悪く笑う。「まあ、無理と言うなら強いはせぬ。小娘には、かるぴすや牛の乳がお似合いじゃ。ほほ」

ひょいと手に取ったグラスに唇を寄せる。

そのグラスを石楠花が引ったくった。

「貸せ」

「お?」

シロが少し驚いたような顔を見せるが早いか、石楠花は、走った後に水でも飲むような勢いで、グラスの中の酒を飲み下した。

 大輝があんぐりと口を開け、父が煙草に火をつける。

 一瞬の静けさの後、単純な挑発に乗った十五の少女は、喉の奥から意味不明な叫びをあげた。

「う――くあはぅぁあ!」

「ほほほ」シロは愉快そうに肩を揺らす。「なんじゃ、中々いけるではないか」

 石楠花は底を叩きつけるようにグラスを置き、空いた皿の前に突っ伏して身悶える。

「んくうううっ!」

「どうじゃ、美味いか?」

「あ――あづ――」顔を上げてぱくぱくと口を動かす。「熱くて辛い! 水! 水ちょうだい!」

「ほれ」

シロがにこにこ顔でグラスを渡す。

 大輝と父が止める間も無く、石楠花はその中身をあおった。

 そしてまた仰け反り、天井に吼える。

「んがああっ!」

「単純な娘よのう……」

シロは空になった酒徳利を置きつつ、しみじみと呟く。

 石楠花はがばと立ち上がり、シロに組み付いた。

「お――お前なぁ!」

「やるか? 都合が良い、相手をしてやるわ」

「何の都合がいいってんだよ!」

石楠花はシロを突き倒し、マウントに圧し掛かって髪を引っ張る。

シロも負けじと下から往復ビンタ。本当にこの二人は火のつくのが早い。

 大輝と父はずるずると机を引いて脇へ除け、離れた壁際に寄りかかった。

 石楠花の襟元を掴んで雑言を吐くシロの姿を眺め、大輝は慄く。

「なんか……シロさん、悪酔いしてるなあ。こんなの初めて見た」

「ふむ――」

父は腕組みする。

「――どうだろうな」

「何が」

「いや、邪推かな。それにしても大輝、彼女の言うことには一理あるぞ」

「え……?」

「人を好きになる気持ちというのは、お前が思っている以上に重く、不安定なものだ。さっきシロさんが言ったことをよく考えてみるといい」

父はそれ以上何も言わなかった。

 石楠花の負けが決まるのは早かった。暴れたことで、初めての酒があっという間に全身に回ったのである。自滅に近い状態だ。

 二人の戦いは中盤から立ち技の応酬になっていたが、石楠花はやがて、シロの腰にすがるように崩れた。

「うん……ん……」

「とどめじゃ」

こつ、とシロは石楠花の頭を叩く。

 それを最後に、石楠花はうつ伏せに倒れた。

乱れきった浴衣姿の義姉は、道で死んだ蛙のように畳に張り付き、もはや言い残す言葉も出てこない様子であった。

 シロは、こちらも乱れた浴衣の胸元をぱたぱたと煽り、ほうと息をつく。

「これで十七勝じゃ。乳の膨らんでおらぬ小娘などには負けんわ」

「毎度手加減をしてもらって有難いけれど、うちの義娘はアルコールに強くないようだ」父が穏やかに言う。「酒を飲ませるのは今回だけにしてもらえるかね。もっとも――最初の一杯を呑んだのは石楠花自身だが」

「分かっておる」

シロは倒れた石楠花を見下ろす。

「悪いということは……な。しろも分かっておるわい。ちょっと浜で潮風にでもあたり、頭を冷やしてくるわ」

言いながら浴衣をなおし、壁際の大輝に顔を向ける。

 ひどく静かな表情だった。

 大輝はぎくりとした。

 シロの唇が動く。

あとできてくれ。

声に出さず、シロは確かにそう言った。

父は石楠花に歩み寄るところだったので、気付いていない様子だった。

大輝は立ち上がりかけたが、それより早く、シロは扉のほうへ歩いていってしまった。

「それではの。義父上、石楠花が起きたら悪かったと伝えておいてくれ」

 宿下駄を履き、シロは出て行ってしまった。

 大輝はぽかんと見送った。



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