第七章【切鬼宿 ―きりおにのやど―】前編
ぴちょん――と、天井からの水滴がタイル貼りの床に落ちる、風呂場ならではの音が響いたが、広い浴場にいてこのように小さな音を感じられるのも、今が静まり返った夜中だからである。
午前二時をまわっていた。
この浴場は旅館の離れとして建っており、庭に面した壁には大きなガラス窓がある。
女湯であるから、当然のこと、覗く者がおらぬように視界を妨げる木々が外の庭には生い茂っていて、竹で出来た高い衝立もあるのだが、それらも暗さとガラスの曇りのためによくは見えなかった。
とかく静かであった。
村野良恵は、安い旅館にしては大きな浴槽の際に背をあずけ、乳色に濁った湯に胸まで浸かり、深く安堵の溜息をついた。
「生き返るわね……ちょっと日焼けにしみるけど」ここぞとばかり脚を伸ばす。「大きなお風呂って何年ぶりかな。学生寮じゃこうはいかないわ」
一言ずつが浴場に重たく響く。
遅れて体を流し終えた崎山のり子が、ゆっくりと湯の中に足を差し、縁に腰を下ろして、両膝に柔らかな湯をかけつつ苦笑う。
「ホントね。――でもあんた、平気なの? いきなりどっぷり浸かっちゃって……お酒回って倒れても、私じゃあんたは運べないわよ」
「あたしはそんなに重くないわよ、この無礼者っ」
ばしゃ、と良恵は片手で乳色の湯を撥ね飛ばすが、離れたのり子には届かず、飛沫は湯面にばらばらと落ちてまた一つとなる。
二人の女学生は、それからくすくすと笑いあった。
いま、この浴場にいるのは二人だけであった。
彼女らがこの海沿いの観光地へ来たのは、二日前。勉学に追われ、大学と寮を行き来するばかりの日常と、来年に控えた就職問題のことを僅かな日数でも忘れようと、夏休みを利用して二泊三日の旅行に来たのだが――もうひとつ邪な目的を付け加えれば、海での出会いを静かに、いやそれなりに熱く期待してもいた。なにせ二人が在籍するのは女子大で、しかも住むのは女子寮という、慢性的な資源枯渇ぶりである。こんな機会に出会いを求めるのは悲しき必然といえる。
良恵は、全体的に少々ぷっくりとしてはいるが、ほどよく幼顔で可愛らしい目鼻立ちをしている。夏らしいショートカットもよく似合っており、男から見て、決して魅力的でないわけではない。しかも水着はかなり決めてきた。
のり子の方も、地味といえば地味な顔立ちをしているものの、いかにも女らしい落ち着いた雰囲気を先天的に持っていて、その上スタイルも悪くない。同じく水着はかなり決めてきた。
そんな彼女らだが、数年ぶりに見た波のきらめきに心奪われたのが運の尽きであった。海を前にするなり、飛び上がるように浜辺を駆け、何もかも忘れて塩辛い水の中へ身を投じ、あとははしゃいで時間が過ぎて――気付けば疲れ果てた状態で旅館に戻ってきている。それをあろうことか、しっかり二日間続けてしまった。明日の朝ここをチェックアウトすれば、夢の時間は終わりである。
後悔しているような、これはこれで満足しているような……。複雑な心境を酒にぶつけるように、二人はさっきまで、部屋で缶ビールを何本もかっ食らっていた。
勢いでひとっ風呂浴びようというのは良恵の提案であった。飲酒直後の入浴など、理科系学生の取る行動としては愚かそのものであるが、のり子も「ええ?」と一応呆れてみせたものの、決して反対はしなかった。
二人とも、馬鹿馬鹿しい欲望に任せるのが今は楽しかった。
良恵は、はああ、と高い天井を見上げる。白く揺れ動く湯気の上、今にも落ちてきそうな雫が、いくつも垂れ下がっては震えている。
「……。ま……いっか」
「何がまあいいって?」
ゆっくりと肩まで湯に浸かりながら、のり子は笑う。
「何の出会いも無かったこと?」
良恵は天井を見上げたまま言う。
「そ。海ってだけでけっこう楽しかったしさ。ナンパなんて、そこまで本気で期待してたわけじゃないし」それが全くの本心であるかはさておき。「ほら、あたしたち、これから卒業して――」
「無事に卒業できればね」
「そうだわね……で、それから就職して――それも上手くいけばの話だけど――なんかもう、こんな風に気楽に笑ってられる時間なんて、残ってない気がしない?」
「うん……」
のり子は曖昧に頷きながら、乳白色の湯面から両手を出し、何とはなしに湯をいじる。
「そうかも知れないわね」
「でしょ? だからさ、あたし――、!」
どぷん。
言葉の途中で、良恵が消えた。
正確には、濁り湯の中へ一息に沈んだのである。まるで落ちるように。いや――引きずり込まれるように。
あとには波紋が残っていた。
のり子は首をかしげる。
「……良恵?」
無音。
そしてまた、水滴の落ちる音。
「ちょっと、まさかあんた……」
お酒が回っていきなり倒れたんじゃないでしょうね。
のり子が立ち上がろうとしたその刹那、良恵が沈んだあたりの湯面が弾けるように割れ、そこから何かが跳ね飛んできた。
それはのり子の、ちょうど左の鎖骨に、ぴしゃりと張り付いた。
「え――」
耳。
「な……に?」
温かな湯の中にいて、のり子の体は急速に冷えてゆく。
それは人間の耳だった。
正確には、入学以来の友人、誰あろう村野良恵の右耳であった。なにせ、このピアスはのり子とお揃いの……胸に赤い軌跡を描きながら、ずるりと落ちる。
「あ――?」
湯船の中にへたり込んだのり子の全身がすくみ上がる。
ばしゃあ、と眼前に濁り湯の柱が立ち、一つの物体が舞い上がった。
断ち切られた友人の顔が半分。
「ゃ……っ」
悲鳴を上げる間も無く。
のり子もまた、乳色の湯の中へ引きずり込まれた。
第七章 切鬼宿――きりおにのやど――
前編
一
後部座席の窓に肩をあずけ、大輝は流れゆく景色を眺めている。
景色といっても高速道路で見えるものなどたかが知れているが、こうして黙って窓の外でも見ているのが最も無難な姿勢だということを――もっと正確に言うならば、不用意に口をきいたりすれば、無駄な諍いの火種を生んでしまうことになりかねないということを、大輝は出発して二十分が経ったあたりから悟っていた。
ちなみに現在、午後一時半。
一行が、一泊ぶんの荷物を詰め込んだこのミニワゴンに乗って殿山家を出発してから、既に三時間近くが経過している。それというのも、さっきまで渋滞に巻き込まれていたせいである。どうも事故によるものだったらしいが、えらく時間を食ってしまった。このぶんだと到着も大分遅れることになるだろう。
大輝のちょうど真ん前、運転席の父――殿山礼司は、ハンドルを握ったまま、やれやれと軽く肩を回す。
「観光や里帰りの時期ではないから、スムーズに行けると思ったんだがね」
言いながらもその口調は、いつも通り、至極飄々としたものである。
偶然親子で重なった二連休。それを利用した今回の一泊旅行は、この父が言い出したことだった。しかもつい先日、いきなりの思いつきで。
厳密には、家族で夕飯を食べながらテレビの旅番組を見ている際、「旅行ってしばらく行ってないね」と大輝が呟いたのがきっかけではあったのだが、次の瞬間に「じゃあ来週に行こうか」と即決してしまう父の意外な決断力というか行動力は、良くも悪くも感心に値する。少なくとも優柔不断な大輝には遺伝していない要素である。
大輝の隣で、義姉の石楠花がいちごポッキーの袋を開ける。
「でも、もうそんなに遠くはないよね」
座席越しにカーナビを見て言いながら、石楠花は一本抜いたポッキーを、小さな口にくわえる。
「高速おりたらお昼ご飯にしようよ。あたしもうお腹すいてさ……」
「菓子ばかり食う口でよく言うわい」
助手席で憎々しげに言う女がいる。もちろんのことシロである。
石楠花は眉間にしわを作る。
「何だよう」
「豊かな世に生まれたからと、欲のままに食うてばかりおるから目方が増えるのじゃ。ちいとは控えよ、この子豚」
「な……誰が太ってるって!」
「ふん。いつだったか、風呂場の前にある計りの上へ立ち、目盛りを睨んでおったろうが」シロの声は意地悪く笑う。「見たところ背丈が伸びているようにも思えぬが……ここひと月でどれほど増えた? 言うてみせよ」
石楠花はポッキーを前歯でかつんと折り、「あのなあ」と、きつい物腰で言い返す。まただんだんと声が大きくなってきた。
「あんただって人のこと言えたもんかい。一日中ゴロゴロしてるくせに、暇さえありゃ何か食べてるじゃないか。知ってるんだぞ、裏のおばあちゃんに毎日お茶菓子もらってるの!」
「ばかめ、しろは化生じゃ。人間を丸ごとむさぼり食っても目方は増えんわ」
シロは振り返ってけたけたと笑う。本人の言う通り、あごの細い顔かたちは、大輝たちと出会ってからこちら、三食おやつに昼寝つきという生活習慣にもかかわらず、少しも変わることが無い。
ちなみにシロの、いつにも勝るこの挑発は、察せられるとおり現在の座り位置が気に入らないからである。
父が運転席にいるのは当然のこと固定だが、他三人の配置は、ここへ到るまでに数度換わっている。
出発当初は三人とも、後部座席に、大輝を中央にすえて並んでいた。
だが、石楠花とシロがあまりにも露骨に――それこそ腕ずくで大輝を引っ張り合うもので、見かねた父が席替えを提唱。「このままだと事故になるから」という一言には凄まじい説得力があった。
そんなわけで、一度は大輝が助手席へ避難し、あとの二人が後部座席という形にしたものの、今度は犬猿の間に誰もいなくなった故に直接的な掴み合いが始まってしまい、左右に揺れるワゴンは路肩に緊急停車。また席替えの会議が行われた。ちなみにそこまでの一連の流れは、まだ高速道路にも乗っていない段階で起きたことである。
結局、石楠花とシロが交互に大輝の隣へ座るという形で落ち着いたのだが、高速に乗ってからこちら、車を降りてよいタイミングが限定されるため、どうにも時間配分のバランスが悪くなり、損をしている側のシロはすねているというわけだ。
シロはもとのように前を向き、はあ、と小さく溜息をつく。
「早く着かぬかのう。情けないほどにやきもきして、もう耐えられぬ。……辛いわい」
本当に淋しそうに呟く。
常識こそ持たぬものの、何千年も生きているだけあって基本的には大人であるシロだが、大輝のこととなると感情がもろに表に出る。よく言えば素直に、悪く言えば、聞き分けのない子供のように。
もっとも、それも仕方の無いことである。ついこの間まで残忍な人食いの化け物でしかなかった――いや、今も根底はそのままなのかも知れないが、とにかく内面に嗜虐性と食欲くらいしか持ち得なかったシロの中に生まれた、数少ない感情らしい感情のひとつが、大輝への好意なのだ。うまくコントロールが出来ないのも必然といえる。
無論、石楠花への露骨な敵対心もそれに起因するものである。だから言うなれば素直すぎる気持ちのあらわれ……なのかもしれない。
父が口を開く。
「しかし大輝、久しぶりだな、あの宿へ行くのは」
「え?」
「覚えていないか。今日予約したのは、お前の母さんと三人で、一度だけ行ったことがある宿だぞ。あれは――お前がどれくらいの時だったかな。夏だったが」
「母さんと……?」
憶えていない。
父は続ける。
「うん。海から歩いて三分もしないところにある宿だよ。海水浴をしようと思えば、着替えも持たずに行けてしまう。そう……あの時はお前、海で蟹に足をはさまれて、大泣きしたな。もう海には入らないと言って、浜辺でずっと母さんにくっ付いていた。甘ったれだったよ」
「お、親父……」
「ほう、大輝が今より幼き頃の話か」シロが興味深げに食いついた。「大輝はそのように、よく母に懐いた子じゃったのか」
「うん。典型的なお母さん子で、私より淋さんにべったりだったね。それに怖がりでね、夜トイレに行くときも一人で行けず――」
「親父!」
大輝は顔を赤くして余計な思い出話を遮る。
隣で石楠花がくすくすと笑った。
助手席のシロは愛しげに言う。
「そうか。大輝はそうした子であったか。そういえば食み虫に襲われた日、寝惚けてしろを母と呼んでおった」
「し、シロさん」
「あの時も可愛らしかったのう」
「っ……もう……」
大輝はまた黙ることにした。面目丸つぶれである。
四人を乗せた車は、しばらくして高速道路を降り、海沿いの道を走り始めた。
左手には、曇り空のもと冷たそうに波打つ、広く灰色の海が広がり、右手にはいかにも海の町といった風情の、干物屋や土産物屋が見えるようになった。道は遥か先まですっからかんで信号もなく、思いのままに車は走る。
石楠花が海をぼんやりと眺めながら呟く。
「誰も泳いでないね……当たり前だけど。どうせなら夏に来たかったな」
「海ばかりがこの辺りの楽しみではないさ」父が言う。「ここいらでは、いい温泉が湧いているんだよ。近頃では夏に海水浴客で賑わうばかりになったが、ちょっと前までは、一年を通して、あちこちからそれを目当てに来る人もいたんだ」
「へえ、そうなんだ?」
石楠花は、中身を食べ終えて空になったポッキーの袋を、指先で弄ぶ。
シロが思い出したように口を開く。
「そうか――この辺りは……」
「シロさんも来たことがおありかな」
「うむ。おぬしらにとってみれば随分昔の話になるのじゃろうが。……確かにこの土地の湯は良い湯だという話じゃ。こと、女の肌にはな。人間どもの間では美人の湯などと呼ばれておったようじゃの」シートの上で長い脚を組みなおす。「石楠花にはあつらえ向きの温泉ということよ。喜ぶがいいわ」
「腹立つ女……」
石楠花はシロの後ろ頭を睨みながら、ポッキーの袋をぶつりと千切る。
その音を聞きながら、隣の大輝は静かに溜息をついた。
もうしばらく走るとファミリーレストランがあったので、遅い昼食は無難にそこで済ませ、シロにしてみればお待ちかねだった席替えをすると共に、一行を乗せた車は再び走り出した。
そして、海岸線に沿って四半刻ほど。
窓の外にちらほらと民宿や大型ホテルなども見え始め、なかなか行楽地らしい風景になってきて――やがて到着したその宿は、確かに海水浴場らしい砂浜からほど近く、それでいてどこか落ち着いた、まるで隙間のような場所に、ひっそりと隠れるように建っていた。
今はどのみち海の季節ではないので、この土地自体が静まってはいるが、夏になっても、きっとこの小さな一帯だけは、まるで喧騒の狭間にある谷の如くに落ち着きを忘れぬことであろう。周囲には変哲のない民家が目立つ。
とはいえ、この宿そのものの風格はなかなかで、小さな二階建てではあるがしっかりとした作りであるのは一目で分かり、しかも良い具合に年季の入った瓦葺の屋根と、これまた味わいある漆喰の壁とが、テレビの旅番組で見るような、いわゆる隠れ宿的な雰囲気を醸し出している。砂利が厚く敷かれ、名は分からぬが趣のある木々で囲われた駐車場の奥には、小さな池があるのも見える。
一行がぞろぞろと車を降り、後ろの扉を開けて荷物を引っ張り出し始めると、いらっしゃいませと出迎える言葉の代わりに、何やらけたたましい怒鳴り声が聞こえてきた。
声は暖簾の下からであった。
もっとも、怒鳴り声というにはいささかながら迫力に欠ける、幼い子供の――それも女の子のわめく声である。
「しつこいよ! いいから帰って!」
甲高い声の主は、やはり年の頃は十かそこらの少女であった。
髪を男の子のように短く切り、だぶだぶのズボンをはいたその小さな女の子は、旅館の入り口で仁王立ちになり、二人の大人相手に喧々とわめいている。
「大人のくせしてバカみたい! 何がそんなに面白いの?」
「いや、お嬢ちゃん、僕たちだって別に、あんな噂を本気で信じてるわけじゃないんだよ。ただ――ちょっとほら、そういう雑誌の仕事だからさ。出来れば女将さんに話を聞きたいんだけど」
男二人の片割れ、白いパーカーを着た三十前後の男が、かがんで少女に目線を合わせる。
少女は真っ直ぐにその顔を睨んだ。
「お母さんだって断るに決まってるじゃない。それに私、お嬢ちゃんじゃない。カエデっていう、ちゃんとした名前があるんだから」
「参ったな……」
「ねえ、カエデちゃん?」
もう一人、二十歳前後の若い女の方が、やはり腰を折って視線を合わせ、少しきつい調子で言う。
「私たちも、お仕事で来ているのよ。だから、あなたのような子供に断られたからって、何の話も聞かずに帰るわけには――」
「バカにしないでって言ってるの!」また少女の怒声が断ち切った。「いいから帰ってよ! あんたたちなんて大嫌い! 私もお母さんも、宿のみんなも、誰も悪いことなんてしてないのに……もう、へんなこと書くのはやめてよ! 帰って!」
地団太を踏む。
「早く帰ってったら!」
取り付くしまも無い様子である。
大人二人が顔を見合わせたところへ、中から和服の女性が現れた。こちらは、見た目にして二十八、九といったところか。薄化粧に黒髪も艶やかな美人である。ただ、どこか疲れたような、幸を奪われたような、弱々しい気配をたたえている。
「何を騒いでいるの、楓?」
派手ではないが品の良い、藍の着物。おそらくは女将であろう。ならばさっきまでの会話からして、カエデという少女の母にあたる女性である。
男のほう――雑誌の仕事というから記者か何かであろうか、ともかく彼は、女将に気まずげな笑みを向け、曖昧に会釈する。
「あ、どうも……」
「――雑誌の、取材の方ですわね」女将は軽く目を伏せる。「電話でお断りしたはずですけれど」
「はあ……しかしその」
「お時間はとらせません」若い女が進み出る。「もちろん旅館の名前も伏せますので、何か」
「そんなこと言って、ここの写真まで載せるくせに! モザイクかけたって、分かる人には分かっちゃうんだよ! あんたたちみたいなインチキ記者のせいで……」
「楓」
名を呼び視線で娘をいさめ、若い女将は、記者に深く頭を下げる。
「申し訳ございませんがお応えは出来ません。お帰りください」
口調こそ慇懃でありながら、有無を言わせぬ断り文句であった。
二人組が渋々と退散し、少女がその後ろ姿を睨みつけたところで、ようやく一行は女将に気付いてもらえたらしい。
女将はこちらへ一礼し、苦そうに笑った。
「恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね」
挨拶する母の袖を、少女――カエデは、小さな手でぎゅっと掴みながら、こちらを見る。
大輝とカエデの目が合う。
「……いらっしゃい、ませ」
カエデは小さく言った。
大輝はなんとか微笑んだ。
二
海際にあるバス停のベンチに腰をかけているのは、前を通りがかる誰にも不吉な何かを連想させるような、まっ黒い長袖のワンピースを着た、涼しげな顔だちの少女であった。
赤い靴の足下には小さな革張りのトランク。
シンプルなデザインの携帯電話に、まだ乳臭さの残る声で話している。
しかし――その口調はといえば。
「とんだ偶然だが、これでわざわざ遠くへ出向く手間も省けた。まあ幸運というものだ」
潮風に漆黒のツインテールが揺れる。
「予定より早い……か。早ければ早いに越したことは無いだろう。いずれこちらへ来て貰わねばならない存在だ。まず我々のことを認識させておく必要がある」
ミスマッチにも程がある、異様な言葉づかいであった。
少女の年齢など、顔立ちや体つきから知れる。あどけない顔に、細身で小柄な肉体はいかにも未成熟――普通の判断をするならば、十四歳かそこらとみて間違いあるまい。だが少女の口から紡ぎ出される言葉、その形は、この少女が一般的でない特別な環境に生きる存在であることを、ほとんどあからさまに物語っている。
少女は電話を切った。
そして曇った海空を見上げる。
「……さて。何にせよ楽しみだ」
これは独り言であった。
風の吹くほうへ顔を向ける。
少女の目には、目的地行きのバスが、ゆっくりと走ってくるのが見えていた。
三
そんなに広くはないが、四人が泊まるには十分な広さの和室である。
座した四人に茶を注ぎながら、女将はぽつり、ぽつりと語る。
「この宿で人が消えるようになったのは、一昨年からのことです」
急須を置き、下座に膝をあわせなおす。
「どういうわけか、ほんの時たま……お泊りになる方々が、夜のうちにいなくなってしまうのです」
「それって宿代を払わずに逃げただけじゃないんですか?」
大輝は湯飲みに口を付ける。
女将は軽く頷く。
「最初は私どもも、そう思っておりました――。でも、おかしなことに、どなたも荷物がそのままなのです。お金も着替えもそのままで、お客様の姿だけが、朝になると不思議に消えているのです。それに……そのうちに、いなくなった方々が、何と言いますか……本当に、行方不明になっているということが分かって」
「行方不明――」
石楠花は茶菓子の包みを開けながら小さく繰り返す。
女将は続ける。
「ええ。それで警察の方も、たびたび訊ねてくるようになりました。結局何も分からないという話ですが」
「さっきの二人も、それを取材に来たということですか?」
父の問いかけに、女将は首を振った。
「いえ……あの方々は、その――」恥ずかしそうに言う。「立て続けに人がいなくなるので、気味の悪さを感じる方もいらっしゃるのでしょうね。少し前から不気味な噂も立つようになりまして……夜に庭でお化けを見た人がいるとか、そのような……」
「お化け?」
大輝は思わず、隣のシロをちらりと見る。
シロは面白そうに笑う。
「ほう、化生とな」
「もちろん本当にそんなものがいるわけも無いのですが、お話の種には都合がいいのでしょう。妖怪旅館などと、面白おかしく書き立てるところも御座いまして……先ほどの方々も、そうした雑誌を作っていらっしゃる方のようです」
シロがよけいなことを言わぬ前に、大輝が急いで発言する。
「失礼な人たちですね。さっきの子が怒るわけだ」
「あの子は娘さんですか?」
石楠花が茶菓子をかじりながら訊く。
女将はうなずいた。
「はい。楓といって、今年で十歳になります。あの子も学校で色々と言われているようで――」目を伏せる。「色々と辛い思いをさせています。せめて、あの子の父親だけでも戻ってくれればいいのですけれど」
「おぬしの夫はどうしておるのじゃ?」
シロが何の躊躇いもなく問う。
女将は生気の無い微笑でこたえた。
「私の夫も……この宿で消えた一人なのでございますよ」
部屋の中が静まった。
一呼吸のち、申し訳無さそうに女将は立ち上がる。
「お耳汚しでございましたね。大変失礼いたしました」
ごゆるりとお寛ぎ下さいませ、と丁寧に頭を下げ、女将は廊下へと出て行った。
残された四人は顔を見合わせる。
石楠花が、取り合えずシロを睨む。
「あんたなあ……」
「なんじゃ小娘、文句でもあるのか」
「まあまあ」
大輝が茶をすすりつつ治める。
父が煙草に火をつける。
「それにしても――行方不明……か。シロさん」
「む」
「どうだね、ここに何かいると思うかい?」
「ふん、そうじゃのう」
シロは、ぽり、と細いあごをかく。
「この宿に妖気は無い。石楠花、おぬしも何も感じまい」
「え? あ、うん」
石楠花は頷く。
大輝は茶碗を置く。
「何もいないってことですか?」
「そうとは思うが、なかなか言い切れるものではない。位の高い化生ならば、妖気を全く隠してしまうことが出来るからの。しろも今そうしておる。ほれ――」
言いながらシロがふうと息を吐く。わずかに髪がざわめいた。
石楠花が怯えるように背を丸めた。
「う、ちょ、ちょっと、あんた……っ!」
「ほほほ」
シロは楽しげに笑ってから、こほんと咳を払う。
重圧から解放されたように、石楠花は深呼吸した。
「ぷはあ――」シロを睨む。「このバカ狐、いきなり何するんだい! 人が気を抜いてるときに!」
「しろは普通にしただけじゃがな」
たおやかな両手で茶碗を取り、ゆるりと口へ運ぶ。
呆気に取られた大輝と父に、シロは微笑んで語る。
「しろも普段は妖気を隠しておる。しろのような強い化け物が普段から妖気をばら撒いておれば、そこの小娘など重みで寝込んでしまうわ」また茶をすする。「――妖怪や、この小娘のような石字縛師どもは、隠れた妖気もある程度は感じ取れるが……高級の化生がこうして上手に隠してしまえば、まあ、まず分からん」
「何ともいえない、というわけだね」
父は煙を吐き出す。
大輝は茶碗を置く。
「なんか、ちょっと怖いな」
「案ずるでない。何か潜んでおっても、大輝と義父上のことは、このしろが守ってやるからの」
「……おい、あたしは?」
「石楠花は心配いらんじゃろう。その顔で脅せばどんな化け物でも逃げ出すわい」
「このクソ狐!」
「やるか馬鹿娘!」
ばちぃ、と火花が散る――これが本当に散っているから怖い。
煙草を消した父が、さて、と立ち上がる。
「早速だが私は風呂に入ってくるよ。渋滞で疲れたからね。みんなもどうだい」
「おお、良いのう。しろも入りたい」
シロはころりと興味を移し、宙に浮き上がって大輝の袖を引く。
「ほれ大輝、行こうぞ。背中を流させておくれ」
「い、いや……男湯と女湯って別だと思いますけど」
「何じゃつまらん。じゃあやめた」
シロは座りなおす。
戸棚から浴衣を取り出しながら、父は微笑む。
「そうがっかりしたものじゃないよ。ここは小さな宿で部屋数も多くは無いが、そのぶん風呂場が大きいんだ。表からはよく見えなかったが、池のある裏庭を越えたところに離れがあってね。そこが浴場になっている。もちろんリゾートホテルの大浴場なんかにはちょっと負けるが、空いているだろうし、きっと満足できると思うよ」
「ほう――大きな風呂か」
シロは興味を取り戻したらしく、また、ふわりと床から浮いた。
「なんとも懐かしい。山へ住んでおった時分には、夜ごと麓の温泉に浸かりながら酒をやっておったものじゃ。あそこは人が来ぬので、鹿やら猿も一緒に入っていたのう。静かで良い場所であった」
「山奥の秘湯で夜の酒か。実に風流だね」
「酒のない時には人間の生き血じゃったがな。いずれ子供の洒落頭を切って作った杯に、こう、とくとくと注いで――」
「それは少々コメントしづらい光景だが」
父はさすがに苦笑いする。
シロは、よし、と軽く拍手を打った。
「やはりしろも行ってみるとするか。大輝はどうする?」
「あ、俺はあとでいいです」大輝は茶を注ぎなおしているところであった。「ちょっと部屋でゆっくりしてますよ」
「今のうちにお土産買っておきたいから、あたしも後でいいや」
「石楠花には訊いておらん」
「……何だよその言い方。さっきからやけに突っかかるなあ」
「五月蝿い。土産でも男でもさっさと勝手に買うて来い。しっ、しっ」
「こいつ――車の中でのこと、まだ根にもってるんだな!」石楠花が拳で机を叩く。「大人のくせしてしつこいぞ!」
舌打ちしてシロがやり返す。
「やかましい! 大体しろは、あんな狭い乗り物の中におぬしと居ること自体気に食わんかったのじゃ!」
「あたしだって好きであんたと旅行に来たわけじゃない! ホントなら――」石楠花はちょっと口ごもる。「ほ、ホントならなあ……っ」
あっ、とシロが石楠花を指で指し、真っ白な牙をむく。
「もしや貴様、しろがいなければ、この旅で大輝と深い仲になれたであろうに……などと考えておるな! 此度は義父上もおるというに、何たるはしたなきことよ!」
「あ――あんただって人のこと言えるもんか。毎晩毎晩、あの手この手で大輝のこと誘惑してるくせに! 今回だって荷物の中に変な雑誌入れてるだろ! 何だよティーンズセックスマニュアルって! あんたのどこがティーンズだ!」
「じろじろと人のすることを盗み見おって!」
「人でもないだろ、このバケモン!」
二人の言い合いはあっという間にヒートアップしてゆく。
大輝は止めようとする気力もなく、ただ肩を落とす。
父はといえば、早々と支度を済ませ、一人勝手に部屋を出てゆくところであった。
三
五分三十秒――。誰が計っていたわけでもないが、今回シロと石楠花が言い合っていた時間である。瑣末な理由でそれだけ口喧嘩が出来るのだから、二人の仲の悪さも既に才能の域に達している。
ともかく今、シロは一人で広い湯船につかり、のんびりと長い手足を弛緩させていた。
「ふう……」
妙になまめかしい溜息が浴場に響く。
離れというから露天風呂かと思いきや、ここは完全屋内の、言うなれば普通の浴場である。
だが確かに、わざわざ離れを作るだけあって、こんな規模の旅館にしてはずいぶんと大きく天井も高い。シロは一目で気に入っていた。
張りのある真っ白な胸元に、乳色の湯をぱしゃりとかける。
「からみ付き、染み込むようなような良い湯じゃな……」静かに目を閉じる。「もう温まってきおったわ」
額には、じっとりと汗が滲み始めていた。
――それにしても。
シロは思いながら目を開ける。
浴槽の隅に背をもたれ、伸ばした片脚を、すっと湯面からあらわす。
「……我ながら上等の体じゃが」
絹のような肌。贅肉の無い、それでいて柔らかな体つき。くびれた腰に、ふくよかな胸。男の本能を刺激する、ほのかに甘酸っぱい体臭まで、どれを取っても悪いところはない。
なにせ元々が人を惑わすための肉体である。かつてシロが化かし殺した男たちは、誰もが迷いなくこの体にむしゃぶり付き、猿のように虜となって最期の一晩を過ごしたものだ。
なのに肝心本命の想い人ときたら――。
脚を再び湯に沈め、への字眉毛で溜息をつく。
「大輝よ、何を躊躇うことがある……しろはいつでも待っておるというに」
湯気のこもった空間に、切ない呟きが響く。
待っているどころではない。石楠花の言う通り、ここ一月ほど、シロは毎晩のように、大輝にアプローチを仕掛けている。強引に押してみたり、それとなく誘ってみたり。
ほとんどは石楠花の妨害を受けて失敗しているのだが、たまに惜しいようなところまで行っても、大輝自身に「ちょっと待った」をかけられ、結局は拒絶されてしまう。
ふと顔を横へ向け、窓ガラスに映してみる。
笑っているような細い目がいささか特徴的ではあるが、確かに美人といえる顔がそこには映っている。
しかし、それはどう見ても大人の顔である。人間ならば二十四、五。大輝の歳と並べればダブルスコアかそれ以上だ。もっとも――実年齢は話にすらならないが。
シロは不安に顔をうつむかせる。
「歳がまずいのかのう」
大輝は、そんな小さなことを気にする子ではない。シロ自身が石楠花に向かって言い切った言葉だが、本当にそうだという確証も無い。
どうも人間たちの常識では、男女が付き合う場合、同い年か、男が女よりも年上であるのが一般的らしい。女の方が上の場合もあるが、それもあまり歳が離れていてはいけないようだ。
冷静によく考えれば、大輝が問題としているのは決してそこではないということが分かるはずなのだが、恋する妖怪の迷った思考は、なにかと不安な方向へ一人歩きしてゆく。
――恋敵の石楠花。あの娘は大輝と、たった二つ違いだという。
決して口には出さないが、シロの目から見ても、自分より石楠花の方が、どうも絵的に大輝と似合っているような気がする。
石楠花はシロと違い、大輝と何年も一緒に暮らしているらしい。大輝の食事や勉学の世話をしてきたのも石楠花だと聞いた。
石楠花はきっと、シロの知らない、大輝の色々な姿を知っているのだろう。そして大輝も、シロの知らない多くの思い出を、石楠花と共有してきたのだろう。
顔の下半分を湯に沈め、シロは悶々と考え込む。
顔も体も自分が勝っている。あんな小便臭い小娘などに、自分が負けるわけはない。
そう思い込んできたが、人間の色恋がそう単純ではないということも、最近になって段々と分かってきた。女自身が持つスペックの他にも、相性やお互いの距離感など、様々な要素が関わってくるのだ。
そういうことを考えると、実は石楠花は色々な点で、シロよりも有利なのではないか。
だから、もしかして。
いや、まさか。……しかし。
シロは考えるうち、少しずつ不安になってきた。
もしや横恋慕をしているのは自分のほうではないのか。そんな怖い想像が、単純構造の頭の中に、ぷかりぷかりと浮かんでは消える。
大輝のことを考えると、いつもこうだ。色々と思い悩んだ末、最後には怖いことばかりが思い浮かぶ。そしてそれは、少しずつシロの中にわだかまりとして蓄積してゆくのだ。
――ええい。
シロは湯の中から立ち上がった。
「何にせよ負けるわけにはいかんのじゃ!」
誰もいないのをいいことにそのまま宙を飛び、タイルの上へ着地する。
磨いてやる。手も足も髪も顔も背も腹も尻も胸も腋もへそも、そしてその下も。この体を完璧に磨き上げ――今夜こそ大輝に抱かれてみせる。いや、何がなんでも抱かせてみせる。
「見ておれよ大輝……っ」
燃え盛る感情に呼応して、ごわ、と狐火が舞った。
このカラ元気が、あるきっかけを皮切りにして半日のうちに瓦解すること。そして反動から、かえって焦りと不安のどん底に落ちてしまうことなど、今の彼女には全く考えもつかないことだった。
四
シロが素っ裸で勝手な決意をしているその頃、石楠花と大輝は、人気の無い浜辺にいた。
静かな波音と、くすんだ空。
二人は裸足になるでもなく、波打ち際に並んで立っていた。
正面からの風に石楠花は目を細めた。
「……二人で海なんて見るの、初めてだねえ」
穏やかに打ち寄せる波。潮の香りが胸を焼く。
「姉弟っていっても、そんなに小さい頃から一緒にいるわけじゃないもんね」
隣の大輝は、ちょっと遅れて頷く。
「う、うん――」
「何か思い出した? お母さんのこととか」
「いや……あんまり。なんか見たことあるなって気はするけど……」
大輝はもごもごと言葉を返す。
石楠花は首をかしげる。
「どうしたんだい?」
「あ――いや、突然海を見に来ようなんて言うから……」大輝は鼻をかく。「お土産、買わなくていいのかな、と思って」
「分かってるくせに」
「え……?」
「よいしょ」
石楠花はその場にしゃがみ込む。
――少し沈黙があった。
石楠花が言葉を続けるには、少なからずの勇気が必要だったからだ。
水平線を見つめ、石楠花は軽く唇を噛んだ。
ざざ、と波が引いてゆく。
そしてまた押し返されるように戻ってくる。結局、石楠花は続けた。
「その……あたしもさ――はっきりさせとかないといけないんだよね。シロの奴があれだけダイレクトなんだもん。対抗するわけじゃないけど、何ていうか、焦りっていうかさ……。もう分かっちゃってることなんだけど……ちゃんと、言っておかないといけないんだよね」
うつむき、波音に恥ずかしさを紛らせるように石楠花は言う。
「でもなかなかチャンス無くて。だから……あいつには悪いけど、この隙にって感じで、ちょっと抜け駆けした。今さらだけど、あたし大輝が好きだよ」
顔は不思議と赤くならなかった。微笑みながら自然に言えた。
「好きなんだ。あたしのこと見てほしいって思うし、もちろん、あたしも大輝のことが気になる。最近じゃ、バカみたいに大輝のことばっかり考えてるんだ」
はあ、と息を吐き出す。
「……ねえ、どうすればいいと思う?」
「え――? あ、え?」大輝は戸惑って口ごもる。「どうっ、て……」
「困ったよね。だってあたし、お義姉ちゃんだしね」
しゃがんだまま遠くの雲を見つめる。
「あたしだって大輝のこと、やっぱり義弟だと思うよ。それはあんまり変わってない。でも――このお義姉ちゃんは、義弟のことが好きになっちゃったんだ」
「しゃくネエ……」
「シロのことも、別に心底嫌いってわけじゃないんだ。あいつはどう思ってるか知らないけど――ううん、あいつと二人のときとか、大輝の話題以外でなら、けっこう普通に喋ったりもするし……多分あいつも似たような感じなのかな。でも、大輝のことだと理性飛んじゃうんだ。頭熱くなって、必死になっちゃって……ホント、馬鹿みたい」
くすりと笑う。
「変だよね、こんなの。大輝が困ってるのも分かるんだよ。お義姉ちゃんだと思ってた相手に、いきなり好かれたって、ねえ……。妖怪が人間に惚れてるのも変だけど、これも十分変だよね。だいたい大輝はまだ中一だし……困らせちゃってるのは、本当に分かるんだ」
大きな貝殻を一つ握り、ゆっくりと立ち上がる。
「でもね、もう仕方ないんだ。好きになっちゃって、ごめん。まあ……今はまだ、何かを決めろなんて無茶なこと、言わないから――さっ」
思いきり海に貝殻を放る。
貝殻はくるくると回り、そう遠くもない波間へ、ぽちゃりと落ちた。
石楠花は大輝に顔を向け、出切るだけ無邪気な笑みで言った。
「いつか大輝がちゃんと決められるようになって、そのとき選んだのが、もしあたしだったら――そしたら、あたしと恋人同士になろうね」
「……あ……」
大輝は頬を赤らめ、それから、こっくりと頷いた。
「……うん」
「へへ」
石楠花は、今度は本当に無邪気に笑った。
しゃり、しゃり、と、背後から誰かの近づいてくる足音がする。
石楠花と大輝は振り返った。
「ん――?」
石楠花の目に映ったのは、片手に小さなトランクを持ち、まっすぐに歩いてくる、細く小柄な少女だった。
黒いワンピースに赤い靴。長いツインテールの髪が、歩みにあわせて揺れる。
――しゃり。
少女は二人の前で立ち止まり、溜息のように言った。
「宿へ着く前に見つけてしまったな」
石楠花は突然の登場に圧倒され、なかなか適当な言葉を検索できないでいた。
ひどく華奢で、異様なほど涼しい顔の少女である。
何を考えているのか知れない冷たい目で、少女は大輝の顔を見据える。
「数日前、石之助くんに問い合わせたところ、今日たまたまこちらへ来るらしいと聞いたものでね。都合がいいので会っておくことにした。初めまして――と言っておこうか。よろしく」
少女に握手を求められ、大輝は戸惑いつつそれに応じる。
「あ――よ、よろしく」
その手が離れたところで、ようやく石楠花が口を開く。
「あの……君は」
「君、誰?」
石楠花と大輝の声はダブる。
少女は目にかかった前髪を払いながら答えた。
「入神夜々だ」
「いりがみ……よよ?」
石楠花に負けず劣らず珍妙な名を反復する大輝に、少女は被せるように言った。
「そう。いずれ麒の少年――君と夫婦になる者だよ」
「ええ?」
「げえっ?」
大輝と石楠花は同時に仰け反る。
ざわざわと、波が嘲るように笑った。