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歴史改変戦記 「信長、中国を攻めるってよ」  作者: 高木一優
第三部 最後の聖戦なり
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29、チベット暴動

 上海に戻る航空便は三日後である。せっかくの京都なのだ、観光に出ない手はない。いまさら金閣寺や清水寺でもないしな、さて何処をまわろうか。

 「街を歩くだけで京都は楽しいなりよ。思いもかけないものが見つかるなり。」

 戸部典子の案内だ、あまり期待しないでついていくか。

 バスに乗った。京都のメイン交通機関だ。街中を走り回るバスの路線は、よそ者には分かりづらい。

 丸太町通りを真っすぐに東へ、鹿ケ谷で下車した私たちは金戒光明寺まで歩いた。幕末、会津公、松平容保が宿所にしていた寺だ。そこから歩いて真如堂、吉田山と静かな道が続く。ここには観光客はいない。なるほど、京都人はこういう場所を知っているわけだ。

 今出川通りまで出ると、銀閣寺道である。観光客が銀閣寺へ向かって歩いていく。若いお嬢さんたちの一団は、みんな艶やかな着物姿である。観光客用のレンタルの着物だな。おしゃべりに花を咲かせながらの散策のようだが、中国語ではないか!

 「今、京都で着物のレンタルするのは外国人が多いなりよ。」

 中国人の反日って、いったいなん何だろう。

 あれ、こっちからやってくる着物のお嬢さんたちは韓国語ではないか。

 朝鮮半島固有の文化はどこへいったんだ、韓国のお嬢さん。

 それにしても、みんな行儀がいいではないか。中国人観光客は行儀が悪いんじゃなかったか?

 「大阪に来る中国人は観光バスで来て爆買いしてるなり。でも最近、京都に来るのは個人旅行者なり。茶道を学んだり、日本の文化に触れるのを楽しみにしてるのだ。中国人でもいろいろなりよ。」

 なるほど、一昔前の中国人観光客とは違うという事か。経済が発展するとともに洗練されてきたというわけだな。

 お昼はラーメンを食べようと戸部典子は言う。

 京都でラーメンはないだろ、京都らしい和食とかだな…

 「京都はラーメンの街なりよ。」

 学生の街である京都は、学生の大好きなラーメンの名店がいっぱいあるという。

 戸部典子オススメの店でチャーシューメンを食べた。確かに旨い。

 昼からは鴨川沿いを歩いた。風情のある川である。川沿いは公園になっていて、学生たちが楽器の練習をしていたり、ベンチに座って本を読んだりしている。どこかの大学の部活だろうか、ジャージ姿の一団がジョギングしている。

 歩き疲れたかもしれない。ベンチで一休みだ。

 鴨川のせせらぎの音が気持ちいい。


 翌日の午前中は、部屋で広沢の池の眺めながらゆっくりした。昼から、また観光に出かけようと思っていたら、お昼のニュースで中国のニュースが流れた。

 チベットで暴動が発生し、鎮圧に向かった人民解放軍が発砲したというのだ。ニュースを伝えたのはアメリアのジャーナリスト、エドワード・ゴスリング氏とのことだ。彼はインターネットを使って現地の映像を発信した後、当局に拘留されたという。映像には暴動の様子と人民解放軍が銃を構える姿が写っていた。発砲音とともにカメラは揺れ、映像は途切れた。

 戸部典子も二階の私の部屋まであがってきた。

 「大変なことになっているみたいなのだ。」

 しかし、これだけでは何が起こっているのか分からん。ネットはどうなっている。

 「ネットは中国批判でいっぱいなり。」

 日本のサイトなんかどうでもいい。アメリアのサイトだ。

 「アメリカは、ゴスリング氏の救出を最優先にすると言ってるなり。各国は国連に働きかけて中国に対して、何らかの決議を出す予定みたいなり。」

 いつものことだ。中国は撥ねつける。結局、事実は藪の中だ。


 チベットは十七世紀からダライ・ラマが支配する国だった。ダライ・ラマへの信仰はチベットだけではなくモンゴルなど北の遊牧民族にも広がっていた。外モンゴルまでを版図にしていた清王朝はダライ・ラマと友好を結ぶ必要があった。順治帝は異民族に対しては異例の厚遇をもってダライ・ラマを北京に招いた。ダライ・ラマは順治帝に文殊皇帝の称号を与えた、

 順治帝の後を継いだ雍正帝は遠征軍を派遣し、チベットを実質上の支配下に置ことになる。この時からチベットは清王朝の版図に組み込まれる。辛亥革命が起こり、清王朝が崩壊すると、チベットは満州人による支配を脱し、ダライ・ラマを中心とする独立政権が誕生する。

 第二次世界大戦後、中国を統一した中国共産党はチベットに侵攻する。一九五〇年、チベットは中国に併合される。やがて漢民族の大量入植がはじまる、中国当局は遊牧地であった土地をとりあげ農耕地にしてしまう。遊牧地は家畜を放し飼いにする公共地であり、誰のものでもない。中国人には遊牧民の伝統を奪い去った。宗教を否定している中国共産党は、ダライ・ラマを信仰するチベット人から宗教を取り上げた。

 その反動はチベット人の大反乱を引き起こす。チベット動乱である。この反乱で多くのチベット人が虐殺された。ダライ・ラマはチベット動乱の後、インドへ亡命している。

 その後も、チベットでは抵抗運動が続くのだが、活動家の大半が政治犯として投獄されているのが現状である。

 これは、中国の黒歴史以外の何物でもない。しかも現在進行形である。

 私は歴史の相対性の観点から、中国を批判する事を避けてきたが、チベット問題は別である。これは明らかな侵略行為だからだ。それも、程度の低い植民地支配でチベットを虐げている。


 戸部典子が英語のサイトで興味深い記事を見つけた。

 「今回のチベット暴動の原因は碧海作戦にあると書いてあるなり。」

 何だと! どういうことだ、詳しく説明しろ。

 「碧海作戦の映像はチベットでも放送されてるなり。信長の帝国ではチベットは版図に入っていないなり。それが引き金になったと書いてあるなり。」

 なるほど、チベット人が歴史に目覚めたわけだ。

 一般のチベット人は自らの歴史を知らない。中国政府が歴史に関する情報を制限しているせいもあるが、チベットには歴史そのものが無い。

 「歴史が無いなんてことが、あるなりか?」

 チベットもそうだが、インドにも歴史が無い。こういう言い方をすると誤解を招くが、歴史という概念が無い、ということなのだ。

 西欧の歴史は聖書を基本としている。旧約聖書はユダヤ人たちの歴史の本だ。新約聖書には来るべき未来の神の再臨が書かれている。過去から未来へ、歴史が進行し、やがて終わる。これが西欧の歴史の概念だ。

 中国は何千年も歴史を書き連ねてきた国だ。中国人にとって歴史は記述するものであり。そこから何かを学び未来に生かすものなのだ。これが中国の歴史概念である。

 インドは古代のバラモン教、仏教、現在のヒンドゥー教に至るまで、輪廻転生を思想的背景にしている。歴史は過去から未来へ続くものではなく、果てしなく永劫回帰をするものだ。ここには歴史という概念はない。

 チベットもそうだ。ダライ・ラマは未来永劫の転生を繰り返す。ここには過去も未来も無い。

 「あたしたちは、歴史を自明のこととしてるなり。マヤ文明に車輪が無いように、インドやチベットには歴史が無いなりね。」

 そうだ、そのチベット人が碧海作戦のおかげで歴史に目覚めたわけだ。暴動のスローガンは「我らに歴史を」だったらしい。

 「このニュースは中国に帰ると、報道規制で無かったことになってるなりよ。」

 日本にいる間に情報収集しておこう。

 だが、その日のニュースでは新しい情報は放送されなかった。それどころか、翌日のテレビからはチベットのニュースはすっかり消えてしまった。中国批判で有名なコメンテーターたちも全く姿を現さない。報道規制がかかっているようだ。この日本でもそんなことがあるのだろうか。

 「誤報だった可能性はないなりか?」

 それも考えられるが、実に奇妙だ。

 明日はもう、上海に帰らなければならない。


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