19、ハート・ランド
ハイウエーを降りると、一面のトウモロコシ畑である。
アイオワ州。アメリカ中西部に広がるこの大地はハート・ランドと呼ばれている。つまり、ここがアメリカの中心地なのだ。アメリカ合衆国大統領選挙の前哨戦である大統領候補指名党員選挙が最初に行われるのがアイオワ州である。この地はアメリカの標準的な世論が形成され、過激な活動が起こりにくい最も穏便な州だからだ。「アイオワを制する者が大統領選挙を制する」という言葉があるように、アイオワで敗北した候補が大統領になったことは無い。
トウモロコシ畑のなかをトランザムはゆっくりと進んだ。
「まるで黄金の大地なり!」
柔らかな陽ざしの中。トウモロコシ畑が金色に輝いている。
「この風景を見て欲しかったんです。」
天野女史は言った。アメリカの最も標準的な風景を最大公約数にするならば、このようなトウモロコシ畑になるのではないか。
私たちが映画で知っているアメリカとは違う、田舎である。そういえば、アイオワを舞台にした映画があったな。
「『フィールド・オブ・ドリームス』なりよ。」
おまえ、結構古い映画を見ているんだな。
「名作なり。感動したなりよ!」
天野女史が微笑んでいる。
「近くに映画の撮影に使われた野球場がありますよ。」
「行って見たいのだ!」
私も行きたいぞ!
天野女史はトランザムをスピンさせて方向を変えた。乱暴な運転はやめて欲しい。
「トウモロコシ畑のなかに野球場があるなりよ!」
中に入ると、なるほど映画で見た夢の球場がそのままあった。平日なので観光客は少ないが、キャッチ・ボールをしたり、映画のワン・シーンを再現した写真を撮ったりして楽しんでいる。
「フィールド・オブ・ドリームス」の主人公レイ・キンセラはアイオワでトウモロコシ農業を営んでいる。若い頃に父親との仲違いから家を飛び出し、ヒッピー・ムーブメントに身を投じた。彼の父親の世代は「沈黙の世代」と呼ばれる、第二次世界大戦を戦った世代だ。父親たちは戦争の悲惨さを訴えることなく沈黙を守った。古き良きアメリカといえば聞こえはいいが、政治的には保守であり、子供たちには服従を強制した。
ベトナム戦争が始まり、黒人たちの人権を求める公民権運動が始まると、キンセラたちの世代は父親に逆らった。ロックン・ロールが鳴り響き、カウンター・カルチャーが若者たちの心を捉えると、怒れる若者たちは熱い政治の季節に突入する。
やがて、政治の季節は終わりを告げ。若者たちは企業戦士となっていくのだが、キンセラはその流れに乗れなかった落ちこぼれなのだ。
そのキンセラが、ある日、トウモロコシ畑のなかで謎の声を聴く。
「If you build it, he will come.」(それを作れば、彼が来る。)
映画のストーリーは説明しない。私は名作映画のネタバレをするような無粋はしない。
戸部典子が夢のフィールドをトウモロコシ畑に向かって勢いよく駆けていく。
「溶けるなり、溶けるなり!」
そう叫んで、トウモロコシ畑に突入していった。映画のシーンを真似しているのだ。
出てこないぞ。トウモロコシ畑の中で迷っているんじゃないだろうな。と、思ったら、トウモロコシの葉陰から「にへら」と顔を覗かせているではないか。
焼きトウモロコシを食った。うまかった。こういう素朴な食べ物は、心を和ませてくれる。
しかし、六月だというのに中西部は寒い。ニュー・ヨークではポロシャツ一枚でうろうろしていたが、何か羽織る者が欲しい。
「お買い物なりー。」
私たちはスーパー・マーケットを探すことにした。
街の郊外に、ウォール・マートがあった。メガ・マートと呼ばれる体育館のような巨大なスーパーだった。広大な駐車場を備えたこの商業施設には、近郊の街から買い物客がやって来る。なぜなら、ウォール・マートが街に来たことで、街の商店という商店は閉店に追い込まれたからだ。ウォール・マートが出店すると、オープン・セールで自転車を三十ドルくらいで売ったりする。オープン・セールは街の自転車屋が潰れるまで続く。古き良きアメリカを解体したのは、怒れる若者たちではない。巨大資本が地域のコミュニティーを破壊してしまったのだ。
ウォール・マートには映画館もあればフード・コートもある。買い物客たちはここで一日を過ごすことができる。仕事を失った商店主たちはウォールマートで働いた。低賃金の単純労働である。彼らがまたウォールマートで買い物する。まるで、巨大資本に飼い馴らされたブロイラーだ。
衣料品売り場で、ウインド・ブレーカーを探した。
「先生、これはどうなりか?」
戸部典子が安売りのワゴンから取り上げたのは、真っ黒なウインド・ブレーカーだった。背中にFBIとか書いていそうな地味な服である。でも、ちょっとカッコいいかも知れん。これにする。
戸部典子は、同じデザインのものをワゴンから掘りだして買った。こいつとペア・ルックなのか。
悪乗りした戸部典子はサングラス売り場へ移動し、私たちはサングラスを買ったのだ。黒いウインド・ブレーカーにサングラス、私はすっかりFBI捜査官の気分になって来た。
「モルダーとスカリーなりよ。」
モルダーと寸足らずのスカリーだ。
戸部典子の悪乗りは続く。おもちゃ売り場で銀色の水鉄砲を買ったのだ。
天野女史を脅かしてやろう。
フード・コートでコーヒーを飲んでいる天野女史に、二人のFBI捜査官が近づいていく。
「エフ・ビー・アーイ!」
水鉄砲を抜いた私たちを天野女史は鼻で笑った。
セグウェイに乗った黒人の警備員が笛を吹きながら全速力でやって来た。水鉄砲だと気づくと、私の顔を何度も指で刺しながら厳重注意だ。英語で何を言っているのか分からないから、ちっとも怖くないぞ。
それから戸部典子の頭に手を置いて、
「おじょうちゃん、ここで遊んではいけないよ。」
と優しく言った。とんだスカリーである。