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歴史改変戦記 「信長、中国を攻めるってよ」  作者: 高木一優
第三部 最後の聖戦なり
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12、宗教学講義

 「一神教の神様はまるで暴君みたいなり!」

 戸部典子はヨブ記のことを言っている。日本人としては正直な感想だ。

 一神教では人間は神の創造物に過ぎない。つまり人間を神がどう扱おうが、それは神の自由なのだ。

 「私たち中国人にも理解できませんわ。」

 李博士も怪訝な顔をしている。神仏は人を救うためにいるのではないかと李博士は言う。

 「でもヨブは神に対して抗議しているんですよね。これも違和感があります。」

 陳博士、さすがに着眼点がいい。旧約聖書のなかには神に抗議する人々が描かれている。人間は絶対的な力を持つ神と対話可能なのだ。これが西欧文明を型作る重要な要素なのだ。

 李博士や陳博士も三成と同様に考え込んでいる。中国は建前上は共産主義の国である。マルクスが「宗教は民衆のアヘン」と言ったことでもわかるように、共産主義は宗教を否定している。彼らは宗教に対しての教育を受けておらず、私たちよりも知識が少ないのだ。

 ならば、専門外ではあるが、やってみるか。万歳先生ワンセイシェンシェイの宗教学講義だ。


 上海ラボの第一会議室に研究者たちが集まった。人民解放軍の諸君も手の空いている者たちが参加している。

 さて、どこから始めよう。

 最前列に着席した戸部典子がまっすぐに手を挙げている。まっ、こいつでもいいか。

 「日本は多神教の国なり。一神教より多様性があると日本人は思っているのだ。」

 とっかかりとしては、いい質問だ。

 世界の宗教はたいてい多神教から始まりる。ギリシャやローマなど西欧文明のベースになっている文明も多神教である。そういう意味ではスタートは同じなのだ。一神教は全くっ別次元の宗教と考えるべきだ。一神教と多神教を比較して、多神教のほうが多様である。日本人はそう考えがちだが、これが大きな間違いなのだ。

 多神教の神は、日本の八百万の神がそうであるように、人間の隣人である。海の神も山の神も私たちの生活に根差した神様である。日照りの時は雷神に雨を乞い、海が荒れたなら海神に祈るのだ。この世には私たちの世界と地続きの神様のネットワークが張り巡らされている。

 誤解を恐れずに言えば、一神教の神は宇宙人のようなものだ。超文明を持つ宇宙人が地球を訪れ、人間を創った。人間は宇宙人にとって実験動物みたいなものだから、どう扱ってもいいのだ。恐ろしく進化した文明は人間にとって全知全能に見える。宇宙人たちは人間を様々な実験に追い込み、人間は神の意思に翻弄される。私たち東アジア人が神に期待する慈悲などと言うものは持ち合わせていない。だから人間は時として神に抗議する。神と対話する。神が人間の対話を受け入れることもあれば、受け入れない場合もある。それは宇宙人の都合だからだ。

 「『二〇〇一年 宇宙の旅』、という映画がありましたね。」

 陳博士、さすがオタクだ。いいところに目を付けた。

 そう、スタンリー・キューブリック監督の「二〇〇一年 宇宙の旅」は神を科学的に定義しようという試みである。ただし映画だけ見ても、何のことかさっぱり分からない。ここはアーサー・C・クラークの原作を合わせて読むことをお勧めする。

 「なるほどー」と皆が頷いている。

 これで分かるのか? さすが中国のエリートだ。


 一神教はユダヤ教に始まると言っていい。国を追われ流浪するユダヤの民は、砂漠の中で唯一神を見つけ、神と契約を結んだ。これがモーゼの十戒である。ユダヤの民は自己防衛のために神に庇護を求めたのだ。神と契約を結ぶには神の声を聴くことができる人間が必要であり、これを預言者という。

 「ノストラダムスなりか?」

 戸部典子の発言に会場が爆笑に包まれた。さすがの戸部典子もにまにま顔を引きつらせている。

 それは予言者だ。未来を予言するものだ。預言者とは読んで字の如く、神の言葉を預かる者を言う。

 「つまり預言者が神様と約束したなりね。」

 そうだ。この約束が「法」なのだ。ヨーロッパの法律の原点は、神様との契約なのだ。

 陳博士が発言した。

 「中国では古代王朝の時代から法律は人間が作ります。正確に言えば、為政者が法律を作ってきました。ただし、為政者は天に選ばれた者ですから。中国の法律の元は天になります。」

 中国には天という抽象的な観念がある。日本もこの抽象概念の影響下にある。しかし、天は神だろうか。

 「違いますね。天は宇宙人ではない。天は人格を持たないし、人間にも介入しない。ただ、そこにあるものです。」

 陳博士の分析は面白い。中国の古代王朝では政治は「まつりごと」と呼ばれ祭政一致であったが、儒教が政治から呪術的要素を排除したというのだ。儒教は近代化においては障害となったが、紀元前の世界において最も合理的な思想であったのだ。


 さて、キリスト教はどうか。

 イエス・キリストはユダヤ教では預言者のひとりに過ぎないが、キリスト教では神の子となる。イエスはユダヤ教の改革者として登場するのだが、ユダヤ人たちの断罪にあい処刑され、その三日後に復活する。新約聖書はイエスによって書かれたものではない。その使徒たちの手によるものだ。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書。ヨハネによる福音書、この四つの福音書がキリストの行状を伝えているが、それぞれの福音書に整合性はなく、時に矛盾した記述がる。

 神の子キリストはその死によって人間の罪をあがなった。神は人間を残して宇宙の彼方に去った。去った、というのは少し極端な表現だが、東アジア人にはこれくらいインパクトがないと伝わらない。遥か未来、神の国が再臨し、人々を裁判にかけ罪を問い、天国に行くものと地獄に落ちるものが決められる。

 「宇宙人はまた来ると言って自分たちの星に帰っていったわけなりね。」

 そうだ、そこで契約は更新される。新しい契約を記した書物が新約聖書だ。

 「キリスト、宇宙人説というのもあるなりよ。」

 えーい、ややこしいオカルト話を持ちだすな。

 ローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、世界宗教として飛躍するのだが、ローマ帝国は分裂してしまう。東ローマ帝国のキリスト教は正教、オーソドックスとなり、現在のロシア正教やギリシア正教がその流れを汲んでいる。西ローマ帝国のそれがカトリックである。カトリックはやがて改革運動にさらされ、プロテスタントという勢力を生む。カトリックが旧教、プロテスタントが新教である。

 プロテスタントはほぼルネサンスと時期を同じくして始まる。ルネサンスはギリシア、ローマの文明に立ち返ろうとする文芸復興である。プロテスタント運動に先立つ十三世紀、イタリアの神学者トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学とキリスト教との融合しスコラ哲学を創始している。キリスト教にもギリシア哲学の合理性が必要とされる時代となったのだ。プロテスタントはこの動きをさらに推し進めた。

 十九世紀のドイツの社会学者マックス・ウエーバーはその著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで、西欧における資本主義の発達の背景としてプロテスタンティズムがあることを指摘している。

 また、戸部典子がまっすぐ上に手を挙げた。

 「マックス君の本は大学時代に読んだなり。でもどうしてプロテスタントと資本主義が結びつくのか、さっぱり分からなかったなり。」

 文系の大学生には必読の書だから、読んでいるのは当然として、これを理解するのは難しい。正直言って、私も人に説明できるほど理解しているわけではない。何しろ専門外だ。

 だが、やってみよう。

 予定説、というのがプロテスタントの教義にある。神の国が再臨した時、天国に行くものと、地獄に行くものは、あらかじめ決められているというものだ。つまり現世でどんなに努力しても地獄行を天国行に変えることはできない。

 「それが分からないのだ。現世の努力で天国に行けるなら、みんな懸命に働いて天国に行こうと思うなり。でも初めから決まっているなら誰も努力しないなり!」

 そんなに怒るな。ここが我々のような多神教徒がキリスト教を理解できない部分なのだ。プロテスタントの人々は思う。「私は天国行に選ばれているはずだ。だから神に恩寵に従い真面目に働くぞ。」

 「分かったような、分からないような、でもやっぱりしっくりこないなり。」

 またまた、大爆笑だ。だが、みんな分からないみたいで戸部典子に同情的だ。

 陳博士がおもむろに発言した。

 「さっきの『二〇〇一年』の事なんですが…」

 そういってから、陳博士は口ごもり、映画のストーリーを要約した。

 「二〇〇一年 宇宙の旅」という映画では、人間が人類を創造した宇宙人に会うためにディスカバリー号という宇宙船が土星に向かう。

 「小説と、続編の『二〇一〇年』では木星になってるなりよ。」

 細かいことをいちいち指摘するな。オタクはこれだから困る。

 土星の空域には宇宙人のハイテク装置モノリスという石板が浮かんでいる。ディスカバリー号の中では知能を持ったコンピューターHALが反乱を起こし、ボーマン船長以下のクルーと殺し合いになる。生き残ったのはボーマン船長ひとり。ボーマンは宇宙人の導きによりスターゲートに突入し神の国に到達する。ここで描かれる宇宙人は肉体を持っていない精神だけの存在である。まさに神だ。

 「つまりですね、キューブリックは戦いに勝った者だけが神の国に行くと言っているのではないでしょうか。」

 映画の解説としてはそのとおりなのだが、ウエーバーの解説としてはどうだろう。闘争に勝ち抜いたものだけが天国に行ける。そう考えると私たちにもプロテスタンティズムと資本主義の関係が理解できる。だが、ウェーバーはそんな事を言っているわけではないのだ。

 「キューブリックはユダヤ人なりね。」

 そう、プロテスタントではない。

 「ユダヤ教も一神教ですわ。キューブリックの宗教的風景の中では、案外、闘争と神の国は近いところにあるのかもしれませんわ。わたしたち東アジアの人間にはそのほうが分かり易いですわ。」

 ユダヤ教の聖典、旧約聖書はユダヤ民族の生き残りをかけた闘争の歴史でもある。だからと言って、そこを直結してしまうと誤った結論になってしまう。

 キューブリックは当時「キラー・エイプ理論」に取りつかれていた。猿が同族の猿を殺すことによって人間に進化したという、今では否定されている学説であるが、「二〇〇一年 宇宙の旅」はキラー・エイプ理論をベースにしているから、こう表現になっただけだ。

 だが、戦争や闘争が人類を進歩させてきたという考えを、私は完全に否定できない。

 闘争の肯定が進化を生んだとするならば、平和はいったい何を生むのだろうか。




※参考文献 「不思議なキリスト教」 橋爪 大三郎×大澤 真幸 (講談社現代新書)

「2001年 宇宙の旅」 アーサー・C・クラーク(ハヤカワ文庫)

     

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