9、西欧諸国
石田三成はこの航海の水先案内人ウイリアム・アダムスと、海王朝外交顧問、伊藤マンショを、自らの船室に呼んだ。ここから先は西欧の事情に詳しい者のアドヴァイスが必要になる。伊藤マンショはかつて天正遣欧使節としてローマやスペインを訪れている。つまりカトリック諸国の事情に通じている。一方、ウイリアム・アダムスはイギリス人である。彼からは新教国の情報を訊こうというのである。
西欧諸国の事情をひととおり頭に入れた三成は、最初の訪問国をイギリスに決めた。イギリスとはマドラスで捕虜の返還を行っており、友好を示している。何よりもウイリアム・アダムスという地元出身の水先案内人がいるのだ。最初はできる限りリスクを取りたくはない。
「進路、北北西。よーそろー」
艦隊が新しい進路に舳先を向けた。
イギリスは新教国である。イギリスの新教は国王ヘンリー八世が英国国教会を設立したことに始まる。設立の目的はヘンリー八世の離婚のためである。カトリックでは離婚は許されておらず、離婚にはローマ教皇から「結婚は無効であった」という証明を貰わなくてはならない。ローマ教皇と決裂したヘンリー八世は新たな教会組織を作りローマに対抗した。ローマ教皇にたてつくなど、中世では考えられないことなのだが、ローマの権威、宗教の権威が凋落しつつあったことを物語る事件である。その後、イングランドにはカルヴァン派が持ち込まれ旧教勢力と争うのだがエリザベス一世の時代に英国国教会が国教とされるのだ。
三成はウイリアム・アダムスの意見を入れてプリマス港に寄港することにした。首都ロンドンに近い港を選択することもできたが、この大艦隊である。いらぬ警戒心を起こされては逆効果になる。
プリマスの街は大艦隊による襲撃ではないかと大騒ぎになったが、通商の船であると知ると、噂を聞きつけた商人たちが集まってきた。
この噂はいち早くロンドンにまで達し、イギリス国王ジェームス一世の耳にも入った。ジェームス一世は、自ら馬を駆りプリマスまでやってきた。
港は交易で大賑わいであり、ジェームス一世も東洋の珍品に目を輝かせている。
三成はジェームス一世に謁見し、ジェームス一世はまず台湾を東インド会社が攻撃したことを謝罪した。ジェームス一世は、この大艦隊を敵に回すは愚かであり、味方にしてこそ価値があると踏んだのだ。
王は協力してスペインを打ち負かさぬかと三成に迫ったが、三成は「我らにその力ありませぬ」と丁重に断った。ジェームス一世は大いに残念がったが、海帝国とイギリスの貿易協定が結ばれることとなった。
三成は木村重成を団長とする使節をイングランドに残すことにした。使節という名目であるが、実態はイングランドの国情を内定するスパイであり、イングランドの学問を吸収する留学生である。やがて産業革命を起こすことになるこの国を三成は有望株と見たのだ。
ドーバー海峡を通過した艦隊はアムステルダムを目指した。オランダの首都である。
「アムステルダムにも行ったことがあるなりよ。」
いろんなところを旅行してるんだな。
「イタリアからアムステルダムまでヨーロッパを縦断したのだ。」
ほう、また女ばかりで旅行したのか?
戸部典子が遮光器土偶のような細目になった。むっとしたのだ。
「ひとり旅なりよ。」
寂しい女だな。しかし海外の女ひとり旅とは…
「大丈夫なり。下調べを完璧にしていったのだ。ただひとつだけ想定外があったなり。」
想定外?
「二月の旅行だったから、ものすごく寒かったのだ。特にプラハとベルリンの寒さは強烈だったなり。その寒い中を現地の男の人は半袖で歩いていたのには驚いたなり。」
ヨーロッパの緯度は日本の北海道くらいだからな。特に北方の国では、冬でも晴れた日には半袖で日の光を浴びるのだ。
アムステルダムに入港した三成は、台湾の役の捕虜を返還すると申し出た。わざわざヨーロッパまで捕虜を送り届けたことにオラニエ公マウリッツは感激し、三成を友と呼んだ。大艦隊を味方に引き入れようとの魂胆が透けて見える。「この度の航海は交易のためにござれば」と、三成はオラニエ公を軽くいなした。
「どこへ行っても、諸侯は艦隊を味方につけようと必死なりね。」
オランダはスペインからようやく独立を勝ち取ったばかりであり、戦争はなお継続中である。
イギリスもオランダも台湾の役で戦った国である。織田信長の時代に日本や中国に来航したイエズス会は旧教であり、ポルトガル人がほとんどだった。信長は西欧の新奇を好み、鉄砲をはじめとする文物を大いに受け入れた。三成もまた新しい物を常に志向する。海帝国の領海を荒らされたならば武器をとるが、交易は別であると考える。
三成はアムステルダムの街の賑わいに目を向けていた。街は水路が張り巡らされ、港には何十隻もの船が停泊している。船から次々に荷下ろしされているのは世界から集められた富である。産業の発展にも目を見張るものがあった。郊外にはいくつもの風車が立ち並び、風の力を動力に変えている。海帝国ではようやく導入されたマニファクチャが生産の主力となり大量に商品が生み出されていた。
ウイリアム・アダムスの言うようにイギリスやオランダが次の西欧の覇権を握るであろうことを認識した三成は、この地に若い官僚たちを留め、勉強させることにした。
大谷吉継の長男、吉治を団長とする使節団が編成されアムステルダムに滞在することになったのだ。使節団はいずれも俊才が選ばれ、ライデン大学において天文学、物理学、数学、医学など最新の西欧知識の習得に努めることになる。
オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガは、その名著「中世の秋」のなかで十四、五世紀のネーデルランドやブルゴーニュ公国を活写している。ルネサンスはイタリアで起こったとされているが、これらの地もまたヨーロッパ近世の先進地帯なのである。ホイジンガはこれをルネサンスとは捉えず、中世という信仰と騎士の時代の終焉として見ている。
十七世紀はオランダの黄金時代である。西欧の自然科学はこの地から多くの人材を生み出している。フランスに生まれた近代哲学の生みの親デカルトは、後半生をアムステルダムで過ごし「方法序説」を執筆している。汎神論を唱えたスピノザもオランダ人であり、彼の哲学は自然科学を発展させる原動力のひとつとなるのだ。フェルメールやレンブラントンなど十七世紀を代表する画家たちもオランダの出身である。
フェルメールの人物画をよく見ると、輪郭が弾けたような光の粒に見える。それはレンズを通して見ることで、人類が初めて目にしたした光彩である。
「フェルメールはレンズという、十七世紀最新の科学技術に触れていたなりね。」
フェルメールの絵画は美しいだけでなく、この時代の自然科学の結晶でもあるのだ。