2、錨を上げて
玄徳丸の甲板に整列する官僚たちは三百人ほどだろうか。皆、白い西欧風のシャツにズボン姿である。制服として海帝国水軍は西欧風の軽装を採用したのだ。面白いことに軽装の上には陣羽織を着用している。お揃いだから、これも制服なのだろう。赤い陣羽織は日本人、青いのは中国人、緑色は満州人である。黄色いのはトルコ系やペルシャ系の回教徒のようだ。東南アジア系やヨーロッパ系もいるぞ。彼らは白い陣羽織を羽織っている。これで民族の比率がよく分かる。日本人と中国人が四割ずつ、満州が一割、その他が一割というところか。
三成の訓示は簡潔明瞭である。航海の目的と意義を説いているのだ。
「この航海の目的は戦いではない。戦わずして海帝国の威信を世界に知らしむることにある。また、世界に学び、通商を開き、友好を結ぶことにある。」
官僚たちの後ろで戸部典ノ介がうろちょろしているが、誰も振り向きさえしない。ぴょんぴょん飛び上がっているぞ。ちっこいから三成が見えないのだ。木場茜ノ介が戸部典ノ介を抱えて持ち上げている。それでもよく見えないみたいだ。
今度は日本人官僚の列に潜り込んでいったぞ。真上からギンヤンマが撮影しているんだ。こんなところで日本人の恥をさらすな。
誰か見つけたみたいだ。官僚のひとりの顔を覗き込んでにまにましてやがる。誰だ、この若侍は。どうみても十五、六歳だが、若い頃の伊達政宗に似ている。政宗の三男、伊達宗清か! そんなにしげしげ見ているから宗清が迷惑そうにしているぞ。
おっ、また動き出した。上から見ているとゴキブリみたいだ。官僚たちの列を縫うようにカサカサと動き回ってやがる。まただ、また若侍の顔を見上げている。木村重成だ! 背中をぺたぺた触っているぞ。みんなが訓示中で動けないのをいいことにやりたい放題だ。
列の中には戦国武将たちに二代目や、改変前の歴史なら大坂の陣に参戦するはずだった武将たちの姿が見受けられる。前田利常や池田忠雄、井伊直孝などなど豪華な顔振れだ。戸部典子にとってはパラダイスというわけだ。
おやおや、動き回っているうちに最前列に飛び出した。あっ、三成と目が合った。三成の目が泳いでいる。見ないふりをしているみたいだが、三成の声が上ずったぞ。みんな真剣な顔なのに、最前列ににまにま笑いの戸部典ノ介がひとり突出した格好だ。これはさすがの三成もやりにくいだろうな。
困った三成は訓示をここで切り上げることにしたようだ。
「諸君の若い力に期待する。解散!」
三成の号令に官僚たちは駆け足で持ち場に戻っていく。三成の前には戸部典ノ介と木場茜ノ介がちょこんと取り残された形だ。
困惑顔の三成と、にまにま笑いの戸部典ノ介。木場茜ノ介がきまり悪そうにしている。
あきれたような顔で三成が言った。
「驚き申したぞ、戸部殿ではござらぬか。」
「これは石田殿、お久しゅうござりまするなり。」
おい戸部典子! 相手は海帝国の宰相だぞ、石田殿ではなく石田様とか宰相様と言わんか。
「此度は如何された。」
「石田殿を見送りに来たでござるなりよ。それにこの船が見たいでござるなり。」
あいかわらず一方的な奴だ。三成は戸部典ノ介に台湾の役での借りがあるのをいいことに、何でも無理をきいてもらえると思っているみたいだ。
「台湾の礼じゃ、この船、存分に見ていかれよ。何かあれば、これなる島左近に申し付けるがよい。」
島左近は齢七十を超えてかくしゃくとしている。三成の護衛のために「冥途の土産にしとうございます」とうそぶいて、航海に志願したのだ。
改変前の歴史でも島左近は関が原を生き延びたとの異説がある。京都、立本寺には左近の墓があり、寺の過去帳によると一六〇〇年の関が原から三十二年後に死去したと言われる。これが本当なら九十歳を過ぎて生きていたことになるから、もともと長生きなのだ。
「おお、そなた木場殿とか申したの。仕官の口は決まったか?」
戸部典ノ介の後ろに控えていた茜ノ介の顔が引きつった。木場あかね三尉にとって島左近は「おとうさん」に似ている苦手な人物なのだ。
「わたし、いやいや、拙者は戸部典ノ介様にお仕えする身となりましたゆえ…」
あとは蚊の鳴くような声になって聞こえない。
「これは残念じゃ。そこもとなら引く手あまたであるのにのう。」
ははは、と笑った島左近はマストを見上げて言った。
「壮観であろう!」
若き官僚たちは水夫となって七本のマストに登っている。ひとりひとりがキビキビ動いているのが気持ちいい。
「やはり戸部殿か! 台湾以来じゃ、達者にしておられたか・」
変な若侍が甲板で宰相様と話しているという噂を聞いた真田信繁が甲板に現れた。一子、大介と鄭芝龍を連れている。真田大介は十五歳になっている。元服を終え、名を幸昌と改め、立派な若武者として成長している。一方、鄭芝龍は十一歳になったばかりのやんちゃ盛りである。
「真田殿も航海に出られるなりか?」
「ほれ、戸部殿の言う世界を見とうてな。石田様に頼み込んで船に乗せてもろうたのじゃ。」
この男の好奇心には果てが無いようだ。台湾で戸部典ノ介の話を聞いて、海の向こうの見知らぬ世界に憧れ続けてきていた。
「錨を上げろ!」
木村重成の号令とともに甲板が騒がしくなった。五人がかりで錨を巻き取っているのも、風を読んで帆を調整しているのも若き官僚たちである。
玄徳丸が岸壁を離れた。雲長丸、翼徳丸もこれに続く。
「玄徳丸、微速前進、よーそろー。」
木村重成が船の直進を支持した。巨大船三隻が黄埔江の流れに乗りゆっくりと動き出す。
上海の人々が大きく手を振って見送っている。
「伊達政宗君がいるなり! その隣は井伊直政君と袁崇煥なりね!」
政宗たちも見送りに来ていたのだ。真田信繁が両手を上げて見送りに応えた。戸部典子も手を振っている。よかったな、今度は手を振ることができたな。
黄埔江は長江の河口に合流する。長江の河口には五十隻のガレオン船待ち受けていた。この艦隊は巨大船に従い大航海に赴く。
巨大船のマストに次々に帆が張られていく。帆は風をはらみ、風は春の日を受けて輝く船体を大洋に向けて運ぶ。
「大航海の始まりなり!」
戸部典ノ介は真田信繁とともに海からの風を受けている。
「信繁君は何歳になるなりか?」
戸部典子、気を抜くな。ここは真田殿だろ。
「わしか、今年で四十八になる。」
「初めて見た時は歳下だったなりね。」
独り言でもそんなことを言うな! 信繁が怪訝な顔をしているぞ。
時に一六十五年。改変前の歴史ならばこの年、真田信繁は大坂夏の陣において徳川家康の陣を強襲したのち戦死している。人生五十年と言われたこの時代では、信繁は既に晩年にある。
石田三成も島左近も、そして真田信繁も、この航海を最後の仕事、あるいは死に場所と見つけている。私たちの時間が彼らの生を追い越していく。
沖に出た艦隊は東からの風を受けてどんどんスピードを上げていく。この後、さらに寧波から出航したガレオン船五十隻と合流する予定だ。
寧波は上海の南、約百キロ・メートルにある古くからの貿易港であるが、上海に港が開かれてからは衰退がはじまった。三成は寧波を軍港に定めた。巨大なドックが立ち並ぶ寧波の街は、水軍の兵士や軍港で働く人々を集めて賑わいを取り戻した。これも三成の地域振興策なのだ。
巨大船三隻が百隻のガレオン船を率いる。碧い海に白い帆がまぶしい。この勇壮な艦隊を上空から撮影しているのは人民解放軍の新型ドローン「海燕」である。自衛隊のドローン、シーガルの模倣品であるが、旧型の飛燕よりも高性能である。
上海ラボの人民解放軍広報部の諸君が騒いでいる。何事だ! みんな歴史的なシーンに感動しているんだ、バタバタするな!
李博士が私に耳打ちしてくれた。
なんだと! 戸部典子が船に乗って行ってしまっただと!
戸部典子は二泊三日の短期取材の予定だったのに、このままでは帰って来れないらしい。
中国のタイム・マシンは国連協定により中国国内でしか稼働できない。国外に出てしまった場合は、連れ戻さねばならないのだ。
だから、あいつを野放しにしてはいけないのだ。人民解放軍広報部の諸君は戸部典子が面白い取材をするからといって、甘やかし過ぎなのだ。
まあいい。これでしばらくは静かな日が続くだろう。この間、通販でお取り寄せしたイベリコ豚の生ハムは私ひとりでいただこう。上物のワインも取り寄せたしな。
さらば、戸部典子! フォーエバー!