17、ジョン・メイヤーからのメッセージ
上海の朝は早い。
その日の私は、出勤途上の露店で買った中華饅頭に、上海ラボで熱い鉄観音茶を淹れて朝食をとっていた。
「大変なリ、大変なり、大変なりー。」
朝からうるさい奴だ。何事だというのだ。
上海ラボに飛び込んできた戸部典子が息を切らしている。
「ジョン・メイヤーからのメッセージがネットにあがっているなり!」
何! ジョン・メイヤーだと。
李博士が早速ネットを検索している。
「ありました。メイン・モニターに転送します!」
上海ラボの研究者たちが集まってきた。
メイン・モニターにはグレーのスーツを着たジョン・メイヤーが映っていた。
ソファーに足を組んで横柄に座っている。首輪をつけたチンパンジーを従え、チンパンジーが何処かへ行こうとするたびにリードを引っ張っては、チンパンジーを足元に跪かせている。
以前、私たち黄色人種を黄色いサル呼ばわりして非難を受けたものだから、今回はチンパンジーを跪かせて、その暗喩に使っているのだ。
ジョン・メイヤーの第一声はこうだった。
「碧海作戦の諸君、久しぶりだね。」
「私はこいつと会ったことないなり。」
そうだ、私も会ったこともない。なにが「久しぶり」だ!
「同じ歴史改変に携わる者として、我々は旧知の仲ではないか。」
こいつ、こっちの反応が聞こえているのか?
「君たちのサル知恵には恐れ入ったよ、敵ながらあっぱれと言っておこう。だが、君たちの中華帝国は、我々よりも百年遅く大航海時代を始めたに過ぎない。つまり、海における戦いでは、我々に一日の長があることを認識すべきなのだ。」
確かにそのとおりだ、コロンブスが新大陸を発見した一四九二年から百年以上の年月が流れている。
「私もようやく気付いたよ。君たちの中華帝国を阻む者は我が大英帝国をおいて他に無いとね。」
この時代から大英帝国による世界の植民地化が始まっている。一五八八年にはスペインの無敵艦隊を打ち破り、海軍国として勃興しつつあった。また、子を成さなかったエリザベス一世の後、スチュアート朝の時代となり、イングランドとスコットランド王を兼ねたジェームス一世はグレート・ブリテン・キングダムの王となっていたのだ。
ジョン・メイヤーは英国の歴史を長々と説明し始めた。足元のチンパンジーがジョン・メイヤーの脛にかじりついているが、足の痛覚がないかのように自慢げな表情を崩そうともしない。
「脛から血が出てるなり。」
戸部典子がくつくつと笑っている。
この「くつくつ」笑いは李博士の真似をしていた頃の後遺症なのだが、地球外生命体が囁いているような奇妙な声で気持ち悪いのだ。
「今回、君たちには素敵なプレゼントを用意したのだ。受けてくれ。我が英国艦隊を台湾へ向かわせた。君たちの艦隊は海の藻屑となるのだよ。はっはっはっは!」
ジョン・メイヤーも足の痛みに気づいたか、チンパンジーを勢いよく蹴とばした。蹴とばされたチンパンジーは大きく跳躍してジョン・メイヤーの顔めがけて飛びかかった。
「やっちゃうのだ、チンパン君!」
顔面をチンパンジーに引っかかれたジョン・メイヤーはそれでも私たちに向かって高笑いをしているではないか。
「また会おう、碧海作戦の諸君!」
顔面、血だらけのジョン・メイヤーが、引きつった笑顔で手を振っている
画像が乱れた。
数分の暗転の後、再びジョン・メイヤーが映った。顔に絆創膏を張り付けている。
「久しぶりだね、碧海作戦の諸君!」
ジョン・メイヤーは言った。
今度はチンパンジーではなく、ビーグル犬を膝に抱いている。
「こいつ編集を間違えたなりか?」
なるほど、チンパンジーに引っかかれる醜態をカットしてやり直したつもりが、全部ネットにアップロードされたというわけか。
ジョン・メイヤーは先程と同じセリフを繰り返している。
上海ラボでは、皆がお腹を抱えて笑っている。
その午後にはジョン・メイヤーの動画から、チンパン君のパートが削除されていた。
もちろん我々はばっちりコピーを取っている。
「チンパン君バージョン、アップ完了なり!」
その日のチンパン君バージョンの動画は一千万PVを突破した。
しかし、どういうことだ。
英国艦隊だと。この時期、イギリスとオランダはアジアの商圏を巡って争っているはずだ。だが一方で両国は連携を模索していた。この連携に水を差したのがヤン・ピーテルスゾーン・クーンだ。彼がアンボイナ事件を起こさなければ、イギリスとオランダは共同してアジアへの進出に当たっていたと考えた方がいい。
「なら、イギリス艦隊が台湾の救出にくるなりか?」
十分に考えられる。両国で台湾の統治にあたる事を条件にオランダがイギリスに救援を求めたとしてもおかしくない。台湾はアジア貿易の拠点として重要であり、植民地化の足掛かりとなる島だ。
私たちは人民解放軍の諸君にインド洋及び南シナ海の哨戒を指示した。
見つけた。インドのチェンナイの港ではイギリス東インド会社の船が集結しつつあった。当時のチェンナイはマドラスと呼ばれている。マドラスは要塞化されつつある。改変前の歴史に比べて植民地化の速度も少しづつ早くなっているようだ。
「人民解放軍より入電!」
李博士がその内容を復唱した。
「敵、司令官はジェームス・ドレイク。敵、司令官はジェームス・ドレイク。」
ジェームス・ドレイク?
「アルマダの海戦で、無敵艦隊を打ち破った副司令官がフランシス・ドレイクでしたね。」
陳博士がいぶかりながら言った。
フランシス・ドレイクは英国の英雄である。アルマダの海戦では火のついた船を敵船にぶつけるという海賊戦法で無敵艦隊を撃破した海の猛将なのだ。だがフレンシス・ドレイクは生涯、子を儲けなかったはずだ。
ならば、その係累かなにかか?
人民解放軍の報告でジェームス・ドレイクの経歴が分かった。
彼は一水夫として英国海軍に入隊した庶民にすぎなかったが、貪欲な吸収力で実力を蓄え、優秀な下士官にまでなった。イギリスは階級制に厳格な国である。いかに優秀でも出自を問われ、貴族の子弟からは軽く扱われた。彼のドレークの姓は偽名である。フランシス・ドレークの庶子であると自らの出自を偽ったが、庶子はキリスト教社会では認められないのだ。彼は自暴自棄になり貴族出身の上官と争いを起こし英国海軍を放逐された。
そんなジェームス・ドレークを雇い入れたのがイギリス東インド会社である。彼はマドラスに赴任し、傭兵隊長となった。ここではドレークの姓がものを言った。英雄、フランシス・ドレークの名を知らぬ者にはアルマダの海戦の物語を自ら語った。面倒見のいい男だった彼には、傭兵たちの信頼が集り、次第にその地位を押し上げていくことになる。そして。優秀な士官として頭角を現し、今回の台湾遠征艦隊の司令官に抜擢されたのだ。
ここで手柄をあげれば、出世の道が開ける。彼にとって千載一遇のチャンスだったのだ。
マドラスの港をイギリス東インド会社の艦隊、四十六隻が出航した。
「ジョン・メイヤーは英国艦隊って言ってたなりよ。」
さっきのネット動画でわかったが、何でも誇張したくなる性格らしい。
甲板の上にジェームス・ドレイクがいる。いい面構えだ。
「九鬼守隆君、勝てそうななりか?」
戸部典子が心配そうに聞いてきた。
ジョン・メイヤーの言うとおり、大航海時代は西欧に百年の長がある。だが、東アジアの海ではさらに昔から倭寇たちが暴れまわっていたのだ。
西欧海賊戦法と東アジア海賊戦法の戦いだ。
※参考文献
物語イギリスの歴史(上) - 古代ブリテン島からエリザベス1世まで (中公新書) 君塚 直隆 (著)
物語イギリスの歴史(下) - 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで (中公新書) 君塚 直隆 (著)