4、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
東シナ海を北上する南蛮船の船団を人民解放軍のドローンが捉えた。
船の数、八隻。
貿易のための船団にしては、武装がいかつすぎる。甲板では傭兵と思われる兵士たちが銃を磨いている。
船尾には白い旗が風を受けてはためいている。旗にⅤOCの文字が見える。
「こりゃぁ、オランダ東インド会社ですね。」
陳博士が言った。
この頃から陳博士は日本語を話すようになっていた。日本のアニメでおぼえた日本語なので、ときどき変な言い回しになるが、私たちと話すときは日本語を使ってみたいらしい。
東インド会社というとイギリスが有名だが、フランスやオランダにも設立されている。東インドとは中東からアジアまでの広大な地域を一纏めにした、西欧人たちの呼称である。
会社などと名乗っているからただの商人だと思ったら大間違いだ。これは軍隊なのだ。東インド会社はアジアを植民地化するための先兵なのである。武装し、基地を要塞化し、傭兵を使ってアジアの各地を侵略していくのだ。
この頃の西欧の兵隊は、王侯貴族の家臣でも、国民軍でもない。傭兵を主体にしている。金次第でどちらの陣地にもつく。金が支払われない場合は、裏切りをものともしない。
船団の進路が判明した。台湾を目指しているのだ。
「陳博士、まだ一六十一年だ。少し早すぎるのではないか?」
改変前の歴史では、オランダ東インド会が台湾を占領するのは一六二十年台に入ってからだ。明王朝との戦端を開いたオランダ東インド会社は八か月にわたる戦闘の末、台湾の西に点在する澎湖諸島と台湾南部を占領した。明王朝は弱体化しており、西欧人たちの侵略を阻むことはできなかったのだ。
台湾は、その後三十七年間にわたるオランダ統治の時代を迎える。
これを追い落としたのが、国姓爺、鄭成功である。
鄭成功は明が滅びてしまった後も、万暦帝の孫、永暦帝を奉じて抵抗運動を続けた英雄である。明の皇帝の姓を賜ったことから国姓爺の名前で親しまれている。
日本でも近松門左衛門が「国姓爺合戦」を書いたくらいの有名な武将だ。
「こくせんや、と読むなり、歴史のテストの引っ掛け問題にたまに使われるなり。」
日本語勉強中の陳博士がメモをしている。なんでも今度、国姓爺合戦をモチーフにした日本のアニメが放送されるらしい。碧海作戦のおかげで日本国民も三国志や項羽と劉邦以外の中国史にも興味を持つようになり、こんなアニメが企画されていたのだ。
日本人が少しでも中国の歴史に触れる、喜ばしいことだ。
改変後の歴史では。台湾には亡命政権である南明王朝が微かにその命脈を保っていた。彼らは山中に砦を築き、兵を密林に潜ませてゲリラ活動を展開していた。
最初に南明王朝の攻略を命ぜられた柴田勝家は十年に及んで奮戦したが、このゲリラ戦に振り回され続けた。台湾は七割が山岳地帯であり、密林におおわれている。守るに易く、攻めるに難い要塞のような島なのだ。
柴田勝家の後、台湾攻略に赴いたのが・・・
「井伊直政君なり! でも、赤備えじゃないのだ。がっかりなのだ。」
あたりまえだ、ジャングルで赤備えなどしたら、ゲリラの標的にしてくださいと言っているようなものだ。
「でも、忍者みたいな装束もカッコいいなり!」
井伊の軍団は鎖帷子のうえにスリムな着物を身に着けている。密林での機動性を重視した工夫である。
井伊直政は台北に築城し、ここを拠点に台湾の北部を制圧していた。南明王朝はじりじりと追い詰められつつあった。
ここに接近しつつあったのが、オランダ人たちのアジアの要塞バタビアから出航した例の船団である。
オランダ東インド会社の船団は現在の台南市近くのの入り江から上陸した。船からは傭兵たちがぞろぞろと出てくるではないか。傭兵たちの顔ぶれは西欧人だけではない、ジャワやルソンの荒くれものや、日本人もいる。皆、金で雇われた一攫千金を夢見るような奴らだ。
さっそく、南明のゲリラ部隊のお出ましだ。密林の中から無数の矢が飛来し、オランダ兵たちがばたばたと倒れた。密林を知り尽くした南明の兵は、鉄砲を使わない。銃声でどこから撃っているのかわかってしまうからだ。
傭兵たちは狂ったように逃げ出した。密林の中から姿も見せずに襲ってくるゲリラに恐怖したのだ。
船に戻ったオランダ人たちは、対策を練った。
ここでオランダ人たちは、私たちには思いつかないような戦術をとったのだ。
彼らは油をまき散らし、密林を焼いた。炎はどんどん燃え広がり、火は山に転じて山火事となった。
井伊直政は島の南方に立ち上がる巨大な黒い煙を見た。台北からみえたくらいだ、山火事の被害は推して知るべしである。
「なんつーことすんだ!」
陳博士が怒っている。
もちろん私もこんな酷いことは許せない。
戸部典子は腕をぶんぶん振り回している。
「井伊直政君、やっちゃっていいなり!」
南明の兵たちは火を逃れて北へ逃げた。だが北には井伊直政がいる。これまで散々苦しめた相手に助けを求めるわけにはいかない。
火は一か月ほど燃えつづけた。台湾に上陸した台風が豪雨を降らせ火を沈めたのだ。
焼け山となった大地で、南明の兵たちが泣いている。
もはや隠れるべき密林はない。逃げる場所もない。
南明王朝は陽暦帝を奉じて、オランダ人たちと決戦に及ぶ覚悟だ。陽暦帝とは、信長が南京に迫ったとき逃げ出した潞王である。この時ばかりは死をいとわず戦う決意をしていた。
焼け野原に進軍した南明の部隊は、オランダ人たちに向けて、ありったけの矢を放った。
オランダの傭兵たちは鉄砲で応戦する。勝敗は明らかだった。
鉄砲は南明の兵を薙ぎ払っていく。一方的な、あまりにも一方的な戦いだ。いや、虐殺と言っていい。
兵たちの累々たる屍のなかに膝を折って崩れ落ちた陽暦帝は、天を仰いで自刃した。刃を首に当て、頸動脈をかっ切ったのだ。血しぶきが紺碧の空を染めた。
朱元璋の建国以来、二百四十余年続いた明王朝、その最後の命脈はここに途絶えた。
この光景を眺めながら、オランダ人の将校がにやにやしている。髪を短く刈り込み、口ひげを蓄えた馬顔の男だ。血の色に似た赤い上着を着ている。その男は硝煙の匂いを楽しむかの如く悠々と歩き、折り重なって転がる南明兵の死体をブーツの先で蹴とばした。
「なんて奴なり! 敗者への礼を知らないなりかー!」
戸部典子は怒り心頭だ。
戦国武将たちも、中国や朝鮮の武将たちも、勝者であれ敗者であれ名誉をかけて戦った。
こんな戦いは碧海作戦開始以来、初めてのことだった。
「だれだ、こいつは?」
陳博士が憎しみを込めてこの男を凝視している。
現地と連絡を取っていた李博士が、人民解放軍からの時空間通信を復唱した。
「人民解放軍より入電!
この男の名は、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
繰り返します。この男の名は、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。」
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
改変前の歴史ではアンボイナ事件を起こした張本人として知られている。
イギリス東インド会社とオランダ東インド会社が連携する交渉をしていたころ、イギリスを嫌うピーテルスゾーンは本国の意向を無視して、モルッカ諸島のアンボイナにおいてイギリス商館の三十余名を捕らえ拷問して殺してしまったのだ。この中には日本人の傭兵も含まれている。
実に嫌な奴が来たものだ。
※参考文献 東インド会社 巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書) 浅田 實 (著)