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歴史改変戦記 「信長、中国を攻めるってよ」  作者: 高木一優
第一部 信長様の大陸侵攻なり
25/98

25、東アジア海洋帝国

 碧海作戦、第六号の発動がひっそりと宣言された。


 といっても、もはや積極的に歴史に介入する必要はなかった。ただ、成り行きを見守るのみだ。

 歴史の流れが新たに分岐すると、そこから一気に現代までの歴史が創造されるわけではない。私たちの時間で一年の間に、だいたい半世紀弱の歴史が生成される。ビデオテープの早回しみたいにして私たちは歴史を観察することになる。

 いちど物理学の専門家にどうしてそんなふうになるのか、という疑問に答えてもらったが、私にも、陳博士にも、李博士にも、さっぱり理解できなかった。わしらは三馬鹿トリオだ。


 ヌルハチの軍団を葬り去った信長は、北伐を開始した。

 まずは北京の制圧である。大部隊を失った清王朝に抵抗するすべはなく、残存兵力は満州の大地に帰っていった。上杉景勝を大将とする軍は黄河を遡りながら中原を支配下に収めていった。信長は満州へと兵を進め満州族を服属させた。


 信長は、さらに朝鮮半島北部に軍を進め、朝鮮半島南部の羽柴軍と挟撃して平壌の李王朝を攻めた。このとき羽柴秀吉は既にこの世になく、おいの秀次が後を継いでいた。

 平壌ピヨンヤンを包囲すること十日にして、既に戦力を失っていた李王朝は降伏した。李王朝は属国になることを条件に延命を計ろうとしたが、信長は許さなかった。

 平壌包囲には朝鮮の農民反乱軍も協力しいたのだ。信長は李王朝が既に統治力を失っており、利用価値さえ無いと判断したのだ。信長に首都を追われ、平壌に逃れた後は、ヌルハチに服属し出兵まで強要されたのだ。民心が離れるのも無理はない。

 気の毒にも、李氏朝鮮はここに滅亡した。


 韓国ではデモが発生した。反日・反中・反碧海だ。

 中国に圧力をかけられ、これまで沈黙を保っていた北の将軍様も、この時ばかりは国民を前に大演説を行った。

 「この悲しみを怒りに替えて、起てよ国民!」というわけだ。

 独裁者が何を言うか!


 北伐が終了すると信長は南征に向かった、台湾には亡命政権である南明王朝があった。柴田勝家が台湾に兵を進めたが、密林に潜んだ南明の武将たちはゲリラ戦で応酬した。戦況は一進一退であった。

 信長は台湾の孤立を狙い、南明と交易していた琉球王国を攻めることにした。鉄甲船が琉球に出動した。その異様な姿だけでも十分だった。フランキー砲の砲撃一発で琉球王朝は降伏し、琉球は直轄支配されることになった。

 信長は西南諸島の島々を次々に支配下に置いていった。

 尖閣諸島が信長の支配下に収まったとき、日本国民は歓声をあげて喜んだ。

 おいおい、尖閣は中国の版図に組み込まれたのだぞ。

 信長は日本人だが中華の皇帝である。この理屈が島国の住人たちには理解しにくいのだろう。 


 海王朝は内陸に関心が薄かったため、清の乾隆帝の時代に行われるはずのチベットや中央アジアに対する侵略は行われなかった。東西の交易は海が舞台であり、もはやシルクロードは必要なくなっていたのだ。

 中華帝国は大陸の華北・華中・華南と朝鮮半島や日本列島によって版図を構成していた。

 異民族の侵入には、当時世界最強の火砲をもってこれに応じた。


 帝国の中心は海である。中華帝国というよりは東アジア海洋帝国と呼ぶにふさわしい。

 中国政府の要人たちはその芋虫のような版図を眺めて、何か納得がいかないという表情をしていた。世界征服をやるつもりが、東アジアに超経済大国が誕生してしまったのある。優秀な中国共産党の指導者たちをしてなお、理屈としては理解できても、不快な感情を払拭できなかったようだ。

 ある中国政府の要人は私に騙されたのだっと言っているらしが、私は騙した覚えはない。歴史認識が甘いのだよ。中国共産党の諸君。


 海王朝は征服王朝である。かつて中国では数々の征服王朝が建ったが、いずれも少数民族が人口の多い漢民族を支配することに苦心しなければならなかった。

 だが、日本人は少数ではなかったのだ。この時代の日本人と中国人の人口は共に五千万人くらいで拮抗していた。信長の天下統一後、平和な時代が続いた日本では人口が倍増し、明末からの戦乱で中国の人口は激減していたからだ。介入前の歴史でも、江戸時代初期には日本の人口は中国のそれを上回っていたというデータがあるくらいなのだ。

 日本人というのは狭い国土のなかでひしめき合うのが大好きな民族のようだ。


 中国の各都市ではカタコトの日本語が通用していた。日本人が大挙して大陸に押し寄せたため、日本人相手の商売が大流行し、怪しげな日本語の物売りや客引きの声が巷に溢れることとなったのだ。

 当初、この規律正しい支配者を歓迎した中国人たちは、やがてその口やかましさに閉口し、犬のようだと揶揄しだした。

 唐土の民は礼教の民だと信じていた日本人は、実際に接してみるとその海千山千ぶりに翻弄され、猿のようだと罵った。

 犬猿の仲ではあったが、いったんこの犬と猿が協力すると目覚しい成果を挙げるのだから面白い。地方官吏などは日本人と中国人をコンビで送り込むのが良しとされた。絶妙のボケとツッコミで見事な行政手腕を発揮するのだ。


 公用語は中国語だった。日本や朝鮮の知識階級は漢文に慣れ親しんでいたので文書によるやりとりには支障をきたさなかった。商人たちはみな中国語をしゃべった。バイリンガルであるものが多かったのは、中国人もすすんで他国の言葉を学んだからだ。


 中華帝国には世界中からありとあらゆる物産が集められた。輸出品は絹織物や陶磁器、茶などであった。絹と茶は主にヨーロッパへ輸出され、替わりに大量の銀が流入した。西欧諸国が新大陸から持ってきた銀が地球をぐるりと廻って東アジアへもたらされたのだ。経済活動はバブルといってもいいほどの活況を呈していた。インフレーションが起こり物価は上昇していった。


 この経済の変動は地主階級の力を弱め、替わって商人たちが力を蓄えた。商人たちは新しい階級を形成し、そのエネルギーは農村への搾取に向かわず、海に向けられた。海王朝の重商主義政策の後押しもあり、商人たちは世界の海に飛び出していった。

 東アジアの船はインドや中東、ヨーロッパまで出かけていった。海は東西からの船が行き交い、文物が激しく往来した。


 日本列島も朝鮮半島も中華の一員となった。中国と朝鮮を征服したはずの日本という国はいつの間にか消滅していた。 


 いろいろ問題はあるが、碧海作戦は概ね順調だ。

 だが、何かが足りない。

 中国人の研究者たちは相変わらず早口の中国語をまくしたてているが、研究室が妙に静かに思えた。

 そうだ、戸部典子、あいつがいないのだ。

 いまいましい奴だったが、ぽっかりと穴があいてしまったみたいだ。

 中央テーブルに並べられた戦国武将のフィギュアたちも、みんな寂しそうに見えた。


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