15、海の王朝
信長は新都を建設しようとしていた。揚子江の河口にある小さな港町に目をつけた。現在の上海である。信長は開港都市の建設に着手した。
信長はここを「海都」と名付けるつもりだったが、元からあった上海の発音が気に入ったらしくそのままにした。
中国に限らず大陸では防衛のため、都市そのものを城壁で囲む。ところが信長はこの城壁を設けなっかった。人が自由に往来し、上海はどこまでも広がっていく。
その代わりに海辺に巨大な城郭を築いた。上海城である。石垣を何重にもめぐらし、場内には石造りの宮殿が造営されていた。城郭の海に面する部分には軍港が築かれ、巨大な鉄甲船が何隻をも錨を下している。
みるみる天守閣が立ち上がっていく。安土城の天守閣だ!いや、少し中国風になっているみたいだ。わくわくする。
新都の建設にあたったのは、中国人だけでなく、日本から呼び寄せられた人々も多く加わっていた。彼らは言葉の違いを超えて協力した。働く人々のなかに歌が生まれ、それは中国語の歌に日本の合いの手を入れたり、その逆もあった。奇妙なバイリンガルの歌が、町中で大流行した。
上海の港が一気に華やいだ。出雲のお国一座の到着だ。女性が華やかな衣で踊り謳う。儒教の国、中国ではこんなハレンチなものは無かっただろう。今でいえばストリップに近い。日本人のエロティシズムはこのころから世界レヴェルだったのだ。
中国の人々も、日本から来た人々も、大喜びである。出雲のお国一座の公演は全て無料だった。信長がスポンサーだったからだ。
中国人たちの芝居小屋では崑劇が上演されていた。京劇のルーツとなった演劇である。舞台では三国志や項羽と劉邦の物語が上演され、日本人にも大好評だった。特に三国志は日本語にも翻訳されて大ヒットしていた。
一五八九年四月、上海において信長は皇帝に即位した。
国号は「海」である。
歴代の中華王朝は最初に封ぜられた地名を国号とするのが慣例なのだが、海の向こうからやってきた信長にはそんなものは無かった。あえて言えば「倭」という国名もあるのだが、この漢字は中国では良い意味を持っていない。
チンギス・ハーンの末裔たるモンゴルは「元」の嘉名をもって国号としたが、信長は「海」の一字を選んだ。
「我、海より来る」、
そのことの表明と私は理解した。
研究室に拍手がおこった。みんが私に拍手している。照れながら私はみんなに頭を下げて答えた。
中国政府、碧海作戦のスタッフ、それに人民解放軍の諸君。みんな優秀だ。大陸に兵を進めてからわずか七年、最小限の流血で中華における易姓革命を成し遂げたのだ。
易姓革命は儒教の思想で王朝の交代を定義したものである。前王朝が徳を失った場合、新たな一族が新王朝を建てるのである。これによって皇帝の姓が変わり、天命が革たまるわけだ。
信長の姓は織田だが、源平藤橘の姓は平氏である。諸葛孔明の「諸葛」などの例外はあるものの、中華では一文字名が標準である。中国では信長の姓は「平」とされた。誰も皇帝の苗字など口にしないのだけれど。
信長はそれまで王だったのだが、ここからは皇帝となる。王は一つの国を治める者だが、皇帝は複数の国を治める諸王に超越する王である。ヨーロッパ式に言えば「日本王、南朝鮮王にして中華帝国の皇帝」といったとこるだろうか。
中国の戦国時代には秦・趙・韓・魏・斉・燕・楚という戦国の七雄がそれぞれ王国を建てていた。これを統一したのが秦の始皇帝である。その名のとおり中国の皇帝の始まりである。
ヨーロッパでは、ローマ帝国皇帝と神聖ローマ帝国皇帝だけが皇帝位だったが、ナポレオンがフランス一国の皇帝を名乗り侵略戦争を開始した。一国の王が皇帝を名乗るとう、これはちょっとした発明に近い。
このあと、ハプスブルグ家も皇帝を名乗り、ドイツ皇帝も名乗りを上げた。広大な版図を統治していたローマ帝国皇帝から見れば、皇帝の安売り合戦に見えただろう。
信長は東アジアに海洋帝国を作り上げようとしていた。西欧の大航海時代に対して、東アジアでも大航海時代が幕を開けようとしていた。ユーラシア大陸の西端と東端では競うように巨大な造船が行われていた。
黄海と東シナ海は豊穣の海となり、各国の船舶が行き来した。中国の船、日本の船、朝鮮の船、東南アジアからの船や南蛮船もいる。各港は賑わい、交易は盛んになった。
日本列島は信長の次男信雄によって治められた。
浅井長政が帰国し、その補佐を命じられた。
浅井長政は信長の妹・お市を妻にしているから、信雄にとって長政は義理の叔父にあたる。改変前の歴史では信長に滅ぼされたため大きな功績が残っていないが、実に優秀な武将であり政治手腕も確かだ。なかなかの人選ではないか。
博多と大坂には巨大な城郭が築かれ、新しい時代に備えようとしていた。海港都市を拠点とした海の時代だ。
羽柴秀吉の支配下に置かれた朝鮮半島南部は活況を呈していた。秀吉は信長の重商主義政策をよく理解し貿易の振興に努めた。対馬海峡と黄海を挟んで朝鮮半島南部は文物の行きかう中継点となっていた。
自由貿易が奨励されると、十六世紀の東アジアの海を脅かした倭寇たちにも新たな活躍の場所が与えられた。商才あるものは貿易商人となり、腕に憶えのあるのものは信長の水軍に加わった。フランキー砲を何門も搭載した軍船が次々に建造され、強大な水軍が出現しつつあったのだ。
中国は沿岸部を中心に新しい時代を築きつつあった。信長は江南の穀倉地帯を背景に国力を充実させ、貿易によって国を富まそうとしていた。
そろそろ現地へ行ってもいいのではないかね、人民解放軍の諸君!
「あたしも行きたいなりー。」
「政宗君に握手してもらうのだー。信繁君と、あーんなことや、こーんなことも・・・」
戸部典子、勝手に妄想に耽っていろ!
戦いが終わりつつあったのだ。もはや残す敵は、地方の反乱勢力だけだった。碧海作戦は順調だった。
一方、漢民族のアイデンティティーであるはずの中原では、徳川家康が着々と力を蓄えつつあった。
陳博士や李博士たちは徳川家康による中華帝国の可能性を検討し始めていた。