第7話(1-5-1)
青髪の少女と会った二日後、天気は雨。
私はお店の中から外の景色をぼんやりと眺めている。
ただでさえお客様の少ないうちのお店では雨になると客足が極端に減る。
しかも、今は昼時前。お客様の影も形も見えない。
おじさんも半ば諦めた様子で新聞を読み耽っている。
雨は激しいわけではないが、かと言って弱いわけでもない。
しとしと泣くように道路をひたすら濡らしている。そんな様子を眺めているとそれだけで後暗い気分になる。チャミたちはちゃんと雨宿り出来ているだろうか。
そんな事を考えながら窓に手を付き外の何の面白味もない景色を眺めている。
「あっ、そうだ。エーデルちゃん、銀行振り込みに行ってきてくれないかい?」
突然、おじさんが思い出したかのように言った。
「ぎっ、銀行、振込み、ですか?」
「そうそう、昨日忙しくて振り込めなくてね。なーに簡単だから心配ないさ」
おじさんはそう言ってキッチンの奥からバッグと茶封筒を持ってきた。
「この封筒の中には先週の売り上げ分の312ユーロが入っているから、これを銀行の預け払い機に入れてきてほしいんだ。操作はカードを入れて『お預け入れ』のところタッチ、すると現金投入口が開くと思うからそこに封筒の中の現金を全部入れればいい。後はカードと明細を貰って終わり。簡単だろ」確かに操作は聞いている限りでは簡単そうだが、そんな重要な役割を私が担う訳にはいかない。312ユーロなんてお金はそう滅多に見られるものではない。
もし途中で失くしてしまったら・・・・・・考えるだけで背筋が寒くなる。
「あっ、あのっ、あのっ、私には・・・・そのっ」
「心配しなくても本当にさっき言った事だけすればいいだけだから大丈夫」
おじさんはそう言って、半ば無理やり私に封筒とカードの入った鞄を押し付けた。
無理だ、絶対無理だ。私がこんな大金を移動する仕事なんて絶対無理だ。
私は首を激しく横に振りながら、鞄を押し返した。
「頼むよ、エーデルちゃん。本当に大丈夫だから」
無理だ、無理だ、無理だ。私は尚も首を横に振り続ける。
「お願いだ、この通りだよ!」おじさんはそう言って頭を下げてきた。
まさか、おじさんに頭を下げられてしまうとは。確かにこれも立派なお手伝いの一環だ。どんな仕事でもお金を貰っている以上しっかりとやり遂げるのが務めかもしれない。
「あっ、あっ、あのっ、頭はあげて下さい・・・・そのっ、あの、行きますから」
「本当かい、分かってくれてありがとう!」おじさんは勢いよく頭を上げ言った。
それから私はおじさんから鞄を渋々受け取った。
「よし、それじゃあ銀行の場所は分かるよね。後は任せたよ」
おじさんはそう言って私の背中を押しながら、お店のドアの前まで押し出した。
「そっ、それじゃあ、あの、いってきます」
私は傘立てから自分の傘を取り出し、お店のドアを開けた。
その瞬間、冷たい空気が一瞬で体を回り、雨の日の独特の匂いがすぐに鼻についた。
私は少し身震いしてから傘を開き一度気持ちを落ち着けるために深呼吸をした。
やる事は簡単。きっと、私でも出来る。大丈夫、大丈夫。歩き出す前にそう念じた。
歩くときは出来るだけ水たまりを避けるようにした。それでも少しずつ靴は雨に浸食され、いつの間にか靴下までびしょびしょになってしまう。
靴も靴下もびしょびしょになり、歩くたびに足元からキュポっと変な音が鳴る。
雨は嫌い。当然濡れるからと云う理由もあるが、大事な何かを洗い流していってしまうような気がするからだ。おまけに厚い雲が太陽を隠し、世界を薄暗く陰鬱に包み込む。今日は大金を持っているし、本当に何事もなく無事にこの仕事が終わればいいが。そんなこんな考えながら歩いているうちに銀行の前までたどり着いた。思っていたよりも大分時間が掛かってしまった。
私は傘をしまってからまた深呼吸をして、銀行の自動ドアの前に立った。
中に入ると預け払い機には結構な数の人が並んでいた。こればっかりは私の力ではどうしようもない。私もその列に加わる。
待っている間、暇だったのでなんとなく待ち受けの人たちを見た。当たり前だが老若男女色んな人たちがいる。
そんな中、ある女性と私の視線が重なった。喪服らしき服を纏った綺麗な顔立ちの女の人だ。年はラーレさんと同じか少し上くらいだろうか。その人は私と視線が重なると少し驚いたような顔を作り、席を立ちあがった。
そして、明らかに私の方向に向かってきた。この時点で私はパニックだ。
「少し頼みごとをしたいんだけど良い?」
その女の人はか細くどこか悲しげな声色で私の目の前に立ち言った。
「えっ、あっ、あっ、あのっ、えっと、わっ、私ですか?」
私は周りを見回しながら言った。人なら他にいくらでもいる。どうして私なんだ・・・
「あぁ、ごめんね。君が一番話掛けやすそうだったから。向かいの通りに薬屋さんがあるでしょ。そこで頭痛薬を買ってきてほしいんだ。頭が痛くて痛くて眩暈がしてとても自分じゃたどり着けそうになくて・・・・・あぁ」
その女の人は頭をさすりながら言った。確かに声色からして辛そうではある。
でも、もしこの人のお願いを受ければまた並び直しだ。遅くなっておじさんに怒られるかもしれない・・・・・だからと言って、苦しんでいる人を放っておいていいのだろうか。私は少し考えた。
「あっ、あのっ、分かりました。行ってきます!」
私は言った。助けを求めてきた人を放っておくわけにはいかない。多分、ママやパパも同じことをするだろう。おじさんもきっと話せば分かってくれるはず。
「あぁ、ありがとう。本当に助かるよ。これはお金ね。おつりは貰っていいよ」
女の人は辛そうに財布をバッグから取り出し、お金を私によこした。
「いやっ、でもっ、そのっ、お釣りはお返し、します」
「別にいいよ。それより早くお願い・・・」女の人はそう言って、中指で自分のこめかみを押した。本当に辛そうだ。
「あっ、ありがとうございます。それじゃあ・・・・・」
「あぁ、そうだ。頭痛薬は『タイレノールA』って云うのにして。あれじゃないと効かないんだ・・・・」女の人はそう付け加えた、地味に注文が多い。
とにかく、私は急いで銀行を飛び出した。少し先に薬屋さんが見える。
私は水たまりを無視して息をきらしながら薬屋さんまで走り抜けた。若干、吐きそうだ。
「あっ、あの、その、『タイレノールA』ってお薬下さい!」私は言った。
「少々、お待ちください」受付のお姐さんはそう云うと奥の薬が沢山詰まっているであろう棚の方に向かって行った。
「大変、申し訳ございません。本店ではその薬の扱いはございません。ちなみに、どのような症状でしょうか。頭痛や熱などの症状であれば他の薬もございますが・・・」
戻ってきたお姐さんは確かにそう言った。これは非常に困った。まさか、頼まれた薬がないなんて・・・・やっぱり、私は不運だ。
「あのっ、その、『タイレノールA』じゃないと駄目らしいので、そのっ、ごめんなさい・・・・」私は頭を下げ、お店を出ようとした。
「ちょっと、待って。最寄りの他のドラッグストアに在庫がないか聞いてみるわ」
お姐さんは私を呼び止め、言った。何て良い人なんだ。私は感激のあまり言葉を失ってしまった。
「良かったわね、駅の横にあるドラッグストアにあるみたい」
しばらくしてお姐さんがそう教えてくれた。
「あっ、あのっ、ありがとうございます、ありがとうございます」
私は何度も頭を下げ、薬屋さんを後にして駅の横のドラッグストアに向かう事にした。駅にはここからどんなに急いでも20分程は掛かるだろう。でも、『タイレノールA』と名指しで頼まれたのだから仕方がない。私は再び可能な限り全力で走った。もう横腹が痛くて堪らない。普段から運動していれば多分こんな事にはならなかっただろう。綺麗な女の人とおじさんが私を待っている。出来るだけ早く、とにかく早く。
最早、水溜りに容赦なく突っこんでいるので靴下の上の方までびしょびしょだ。
それでも構わず、力の限り走った。
あと少しで駅に着くという所でついに息切れし、私は足を止めた。
少し吐きそう。
私がぜえぜえと息を吐きながら歩道に立ち尽くしていると、道路の遠く方からけたたましいサイレン音が聞こえてきた。
それからすぐに5台ものパトカーが私の横を走り抜けていった。
あんな大量のパトカーが一度に走るところなど、今まで見たことがない。何か事件があったのかもしれない。言い知れぬ不安が私の中に生まれた。
自分でもなぜそう思ったのは説明できないが、パトカーは私がさっきまで居た銀行に向かっている気がする。銀行で私に薬を頼んだ綺麗なお姉さんの顔が頭に浮かぶ。
本当になぜだか分からないが、そのお姉さんの事がとても心配になってきた。
しかし、薬もないまま戻って実際は何もなかったら、流石に怒られてしまうだろう。
呼吸も元に戻ってきた。もうドラッグストアは目に見える位置にある。
私は気持ちと息を整え、再び走り出そうとした。
その瞬間、背後の遠くの方から大きな爆発音が響き渡り、空気を揺らした。
「あっ」
驚いて後ろを向くと私はすぐにそう漏らした。
明らかに銀行の方からドス黒い煙がもうもうと立ち込めている。
嫌な汗が私の首筋を伝う。私はすぐに銀行の方に戻りたかった。まだ銀行の方であって銀行で何かあったと決まった訳でもないし、どれほど重大な事件かも分からないが、とにかく私に薬を頼んだお姉さんの安否が気になった。
ドラッグストアは目と鼻の先だ。それでも今すぐ銀行に戻って無事を確認したい。
でも、何もなければ私は無能だと思われ呆れられるだろうし、何かあっても私如きに何かできるわけではないだろう。
やはり、何があろうとも薬を貰って戻るのが最善だろう。私は頭の中でそう自分に言い聞かせ、背後の爆発を無視してドラッグストアに駆け込んだ。薬は難なく見つかり、というより、お店の人が用意して待っていてくれていた。多分、これも薬屋さんのお姉さんのお蔭だろう。とにかくそんなこんなで薬を手に入れ、私は行きより更に全力で銀行に向かった。
私とあのお姉さんの関係は一度会話しただけの関係だ。それでも、自分と関係を持った人間が事故に巻き込まれていると思うと気が気でならなかった。
胸が痛くなり、血を吐くんじゃないかと言うほど私は走った。
お願いだから無事でいて欲しい。頭の中でただただそれだけを考えて走った。
「__ッ」
もうすぐ銀行がある通りに入るというところで突然私は水たまりに足を取られ、派手に転んでしまった。言いようのない痛みと衝撃が地面と接触した右肘と右膝に走る。ママから授かった傘は変な方向に折れ曲がってしまった。
「あ・・・・・あっ・・・・・」
倒れた私の視線の先には完全に銀行への道を封鎖する形で大きな消防車が2台とめてあるのが見えた。そして私が今倒れている歩道の50メートルほど先には比較的若そうな警官2人が立ち、道を塞いでいるようだった。
もう何かがあったのは確実だ。早く確認しにいかなくては。
しかし、立ち上がろうとすると泣きそうなほど右腕と右脚が痛む。
でも、立ち上がらなければ。私は痛みをグッと堪え涙目になりながら何とか立ち上がった。すると、先ほど道を塞いでいた警官の二人が私の前に立っていた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」その警官のうちの一人が優しく私に語りかけてきた。
「なっ、何があったんですか?!」私は警官の問いなど全く無視してそう叫んだ。
それを聞くと、その警官が少し困ったような顔をして、もう一人の方を見た。
もう一人の警官もやや困った顔を見せたが、やがて口を開いて言った。
「銀行強盗、それもただの銀行強盗じゃない。怪我人が何人も出てる。もしかしたら、死人も出るかもしれない。パトカーが何台もひっくり返されて、めちゃくちゃだ」私はそれを聞き、痛みも忘れるような衝撃を受けた。
「あのっ、そのっ、怪我した人の中に、もっ、喪服みたいな、黒い服を着て、クリーム色の髪の綺麗な女の人はいませんでしたか!?」私は思うよりも早くそう口にした。
「・・・・すまないが俺たちは見ての通り、道の封鎖だけを頼まれてるから内情は詳しく知らないんだ。家族が銀行にいたんだな」
目の前の警官は一瞬だけ間を置いてからそう言った。
私は当たり前だが、首を横に振った。でも、私とあのお姉さんの間柄をどう説明すればいいのか分からない。
「とにかく、知り合いが銀行にいたんだね」
最初に話しかけてきた方の警官が言った。勝手に理解してくれて助かった。
「あっ、はい。こっ、このお薬を買ってくるように、そのっ、頼まれて・・・・・」
「それで戻ってきたら大変な事になっていたと、なるほど。とりあえず、病院に搬送された人の詳細は分からないけど、もしかしたら簡易処置所に残っているかもしれないから一緒に見に行こうか」
「あっ、はい、・・・・お願いします」
私がそう言うと最初に私に話しかけてきた方の警官は壊れた私の傘をもう一人の警官に預け。私を抱きかかえた。しかも、お姫様抱っこだ。正直、少し恥ずかしい。
「一つだけいいかな、簡易処置所までは目を瞑っててね。ちょっと、君には刺激が強すぎる」警官はそう言った。私は言う通りに目を瞑った。
道中、何かの焦げた匂いと謎に甘い匂いが鼻に付いた、誰かの叫ぶ声が聞こえる。誰かの泣き声が聞こえる。雨音を掻き消すように救急車のサイレンが鳴り続けている。
私は薄目を開き、外の情景を一瞬だけ見ようとしたが警官の手が私の両目に覆いかぶさり優しく阻まれてしまった。
「止めておいた方がいい」警官は優しく、しかし、強い口調で言った。
「さぁ、着いたよ。もう目を開けた大丈夫」
しばらくして、そう聞こえたので私は目を開け、地面にゆっくり降ろして貰った。
目の前には腕に火傷を負ったり、私と同じように転んで怪我したような比較的軽症らしい人たちが何人かいた。
「どうかな、いそうかな?」警官が言った。
テントの中を見回したがそれらしき人の影は無かった。私は首を横に振った。
「そうか・・・・」私を抱いてきた警官は残念そうにそうもらした。
「そうだ、何か分かったら追って連絡するからお家の電話番号を教えて貰っていいかい?」警官は思い出したかのようにそう言って懐からメモ用紙とペンを私に差し出した。私は右腕を痛みで震わせながら、メモ用紙に汚い文字で電話番号を書いて警官に手渡した。
「きっと、大丈夫」
私を抱いてきた方の警官は不意に私の頭を撫で少しはにかみ言った。なぜか少し安心した。それから私は銀行襲撃に巻き込まれた人たちに混ざって、ちょっとした処置を受けた。なんとなく、というかかなり罪悪感があった。何せ私に限ってはただ転んだだけだ。私以外の処置を受けた人たちの顔はどこまで暗く俯いている。
お蔭で処置所の空気は重く張りつめて、とても居づらさを感じる。
処置をして貰ってすぐテントを出ようとしたが、看護師さんにまだ出ない様止められてしまった。私をここまで連れてきてくれた優しい警官二人もいつの間にかいなくなり本格的に心が苦しくなってきた。
奇跡の様な偶然で私だけ事件から免れてしまったのだ。
しかも、私を結果的に救ってくれた当の本人の安否は不明。
申し訳ない気持ちで他の処置を受けている人たちと目を合わせられず、自然と自分の顔も俯き加減になってしまう。それから、どれほど時間が経ったかやっとテントの外に出て良いと云う指示が出た。
やっと、暗く淀んだ空気から解放される。私はそんな思いでテントの入り口を開けたと思う。
眼前には誰かの死体や四肢などと云ったものは無かったが、原型を留めないほど黒く焼け焦げたパトカーたち、おびただしい量の血糊、破壊しつくされた銀行だった場所。そんな凄惨な風景が広がっていた。おまけに雨が上がったせいか血特有の鉄っぽい嫌な匂いが当たりに充満していた。
銀行強盗と云うより、怪物が暴れ回り破壊の限りを尽くした後の様な凄惨さだ。
私はその光景にただただ恐怖した。
どうしてこんな事を、どうしてこんな事を。
ふと横を見ると、私と同じように破壊された通りと銀行を見据え立ち尽くしている女の人がいた。彼女も私と同じことを思っているのかもしれない。
そんな考えのまま何となく私はその女の人の顔を覗いた。
私はすぐにその行動を後悔した。
その女はまるで無邪気な子供の様に凄惨な風景をどこまでも満足気に眺めていた。
音楽に合わせているかのように楽しそうに体をゆっくりと左右に揺らしながら。
この人が犯人だ。私はすぐにそう悟った。
表情と少しの仕草以外に何の根拠もないが、この人が犯人で多分間違いない。そう直感した。
「壊れてるね」
私の視線に気付いたのか、不意に女は言った。
私は何も答えなかった。
「何人死んだと思う?」
私は答えない。
「悪いのは誰?」
女は突然腰を傾け、私の目の前まで顔を寄せ言った。
女の表情は別に歪んで恐ろしくなっていた訳ではない。ただただ楽しそうにニコニコした表情のまま私に言うのだ。それがとてつもなく気持ち悪かった。
女はすぐに姿勢を戻し、当たりを再び満足気に見回した後、私の目を見据えて言った。
「それじゃあ、ばいばい。お使い仔猫ちゃん」
仔猫と比喩されるのはちょっぴり嬉しいが、まるで意味が分からなかった。
女が私に向かって手を振る。数秒後女の姿が突然消えた。比喩でもなく突然私の目の前から女の姿が消え失せた。私は自分の目を疑った。
さっきまで目の前に人間がいた。それが何の前触れもなく突然消えた。
私はあまりの出来事に言葉を完全に失った。目を何度も擦った。
当たりを見回しても、さっきの女らしき人物はどこにも見つからない。
私の頭はここの所の災難続きで完全に駄目になったのかもしれない。
本当なら先ほどの優しい警官にさっきの女の事を話そうと思っていた。あの警官たちなら私の話に少しは耳を傾けてくれると思ったからだ。
でも、今はその女の影も形もない。
つまり、さっきの女は自分だけ事故から免れてしまった私の行き場のない心が少しでも誰かの役に立とうと生み出した妄想の産物かもしれない。
私は絶望した、自分自身に。
流石に例の二人の警官も犯人らしき人物が突然視界から消滅したと話したら、疑わずにいられないだろう。本当に自分が嫌になる。
私は振り返りもう一度襲撃された銀行だった場所を見た。
何気ないはずだった銀行にいた時の一時の情景が頭に蘇る。
私の前に並んでいた茶色のコートを着たおばさん、私の後ろに並んだ優しそうなおじいさん。待合椅子で腕を組みながら寝ていた金髪のお兄さん。丁寧に迅速に仕事をこなしていた銀行員の人たち。そして何より私に薬を頼んだお姉さん。
どうしてこんな事に。この世界は理不尽だ。
雨上がりのじめじめした空気が私を撫でる。
私は上の歯で下唇を噛みずっと銀行だった場所を眺めている。
どれくらい眺めていたか、不意に誰かの荒い息遣いが聞こえ我に帰った。
「はぁ、・・・・・良かった」
後を振り向くのと同時に私は抱きつかれた、ママかと思った。
私に抱きついたのはラーレさんだった。
「店長が事件の事ニュースで知ったみたいでさ、無事か確かめに行ってくれって頼まれたんだよ。もしエーデルに何かあったら、あんたのママやパパに合わせる顔がないってそれはもう焦った様子で・・・・はぁ」
息を切らしながら、ラーレさんが言った。
「えっ・・・あのっ・・・がっ、学校は・・・その、大丈夫なんですか?」
私は思わず口にした、何せこの時間ラーレさんは学校にいるはずだ。
「はっ、学校? そんなの気にしなくていいよ。私もあんたが心配だったからさ」
さも、当たり前の様にラーレさんは口にした。
上手く言葉が紡げなかった。でも、間違いなくその言葉が嬉しかった。
今度は私からラーレさんに抱きついた、そしてそのまま大泣きした。
何で泣いているのか良く分からない、でもとにかく涙が止まらなかった。
ラーレさんはそんな私を何も言わず優しく抱き返してくれた。
きっと、もし私に姉がいるとしたらこんな感じだろう。
ママの元で泣くように私は遠慮せず、ラーレさんの元で泣いた。
「お店に戻ろう。これ以上ここにいると良くない」
ラーレさんは優しくゆっくりとした口調で私に言った。ただ視線は事件に遭った銀行だった場所に向けられていた。その時のラーレさんの眼はどこまでも哀しく冷たそうに見えた。
「こんなの間違ってる」
そして、不意に私に聞こえるか聞こえないかと云うほどの小さな声でそう呟いた。
こんな哀しそうなラーレさんをはじめて見た。
私は涙で霞んだ目でそんなラーレさんの顔を下から眺めていた。
私の視線に気付くと、ラーレさんは自分の指で私の目元の涙を拭い、私の手を引いた。
「行こう」
そして、短く言った。
私は最後にもう一度だけ事件に遭った現場を見た。
どうか、どうか。あのお姉さんやあの時あの場所にいた全ての人が無事でありますように。現場からどんどんと遠ざかって行く。ラーレさんはあれから何も言わない。
ラーレさんにもきっとこの事件に付いて思う所があるのだろう。
お店に戻ると、ラーレさんは学校に戻る訳でもなく、一人で一番奥のテーブルを陣取り、膝を抱えて蹲ってしまった。
あんなに落ち込んでいるラーレさんを見るのは本当に初めてだ。故にそれを見ている私まで辛い気持ちになってくる。もしかしたら、友人か家族が事件に巻き込まれたのだろうか。聞きたいところだが、とても聞ける雰囲気ではない。
「エーデルちゃん」
おじさんが小さな声で私を呼ぶ声がした。
ちなみに、今お店で席に付いているのはラーレさんだけだ。
私がおじさんのいる厨房の方に行くと、おじさんは手振りでラーレさんに紅茶を出すように指示してきた。
私は黙って頷いた。残念ながら私たちに出来る事はこれくらいだろう。
私は色々な事に想いを巡らせながら、茶葉の入ったティーポットに熱湯を注ぎスプーンで軽くかき回す、香りが立ってきたらすぐに回すのを止める。それからからポットを大きめのお皿に移し、そこに更に店の中で一番高級そうなティーカップを置く。はじっこにスティックシュガーを2つ置けばいつものラーレさん用ティーセットの完成。私はそれをラーレさんが座っているテーブルに何も言わずソっと置いた。
それから立ち去ろうとすると、ラーレさんは俯いたまま小さく「ありがと」と言った。それに対して何も言えなかった。
私も今回の事件でかなり落ちこみ、未だに例の女の人の安否が分からず、心が暗いモヤに覆われているが、ラーレさんは私の比じゃないほど苦しんでいるように見える。
私は厨房に戻り、それとなくおじさんにラーレさんがなぜこんなにも落ち込んでいるのか聞いてみた。
「彼女の許可もなく勝手に彼女の身の上話をするのはよくないと思うから、詳しい事は勘弁してくれないかい」おじさんが言った。
おじさんは何か心当たりがあるらしい。でも、教えてくれる感じではない。
身近な人が苦しんでいるのに、その理由も分からないのはとても辛い、というか心苦しいものがある。
「・・・・・・わかり、ました」
私はそれだけ言って、雑巾を絞り、なるべく事件の事は考えないように店内を掃除する事にした。
お客様のいない店内には憂鬱な空気が立ち込めている。ちょうどラーレさんが座っているテーブルの横あたりに大きなテレビがあるが、おじさんは意識してテレビを点けていない様だった。本当は今すぐにでもテレビを点けて事件についての情報を取り入れたいが、全くもってそんな事を出来る空気ではない。
ラーレさんは出された紅茶を一口、二口飲む程度で相変わらず蹲っているし。おじさんは無心に皿を洗っている。
ちなみに銀行に入金するはずだったお金は既におじさんに返してある。
お店を出た時は自分がお金をきちんと入金できるかどうか、それだけを心配していたのに今は全くそれどころの話ではなくなってしまった。
お客様は1人もいない、ラーレさんは俯き、おじさんは黙って何も喋らない。
ただただお店には暗く淀んだ空気が流れている。
不意に思い出したかのように転んで怪我した右肘と右膝がズキズキと痛みだした。
私はその痛みのせいで思わず雑巾を床に落としてしまった。
「あっ」
落とした雑巾を拾おうとした瞬間、あの女の幻覚を思い出してしまった。
事故現場を見ながらどこまでも無邪気に笑っていたあの女の幻覚を。
途中でいきなり視界から消えてしまったのだから、十中八九私の幻覚なんだろう。最近は様々な幻覚や悪夢を見るようになってしまい、今更、新しく幻覚が見える様になってしまっても何の不思議もない。
でも、幻覚だと分かっていても、一度思い出してしまうと中々あの女のイメージが消えない。頭の中にべっとりとあの笑顔がこびりつく。
あの女の幻覚を思い出せば、必然的に事件の後の惨状も頭に蘇ってくる。
破壊されたパトカーが、焦げ付いた香りが、誰かの嘆きが、陰鬱な処置場のテントの中の空気が。