第6話(1-4-3)
私は病室に居る。部屋には当たり前の様に白いベッドがある。
そして、クローゼットがあり、テレビがあり、洗面台があり、キャビネットがあり、その上には綺麗な花の入った花瓶が置いてある。花の名前は分からない。
部屋には私しかいない。
しかし、私がベッドの上で寝ている訳ではない。
私はベッドの横で誰も居ないベッドをただ見下ろしている。
別に何があるわけでもない。でも、誰かがそこにいるような気がした。
不意に誰も居ないベッドに手を伸ばし、シーツに触れた。確かに人の温もりを感じた。少し安心したような気持ちになり、私は病室の扉を開け部屋を出た。
気が付くと病室に居た。ついさっき後にしたはずの部屋だ。
私は先ほどと同じようにベッドの横に立って誰も居ないベッドを見つめている。
周りを見渡すと、やはり先ほどと同じ部屋で間違いない様だった。
ただ飾られている花の種類が違う。名前は分からないが先ほどと同じように綺麗に飾り付けられているように思う。
ここは誰の病室なのだろうか。私は再びベッドの温もりを確かめながら考えた。
扉を開ければ答えが見つかるかもしれない。
私は病室の扉を開け放ち、病室を後にした。
気が付くと再び病室に居た。先ほどと同じ場所、同じ立ち位置。
ただ花瓶に添えられた花だけが変わっている。今度は青い花だ。綺麗な青い花。
私はその花の花弁を崩れないようにそっと触れた、少し暖かかった。
なんとなく気持ちが楽になった。きっと、この病室に入っている子は愛されているのだろう。私はそれを確認すると、部屋を後にした。
気が付くと再び病室に居た。今までと全く同じシチュエーションだ。
変わっているのは相変わらず花瓶の中の花だけだ。多分、まだ安心だろう。
私は誰もいないベッドを一瞥した後、ゆっくりと部屋を後にした。
きっと、次も同じ部屋で同じように立っているのだろう。
どうやら、当たりのようだ。
しかし、今回の病室は明らかに先ほどまでとは違った。
変わっているのは花瓶の中の花だけではない。花瓶の横にぬいぐるみが置かれていたのだ。しかも、チャミにそっくりの白い猫のぬいぐるみだ。
私は思わず、そのぬいぐるみを手に取った。フワフワで甘い匂いがする。
なんて愛らしいぬいぐるみだろう。持ち帰りたいところだが、私以外の誰かに送られたぬいぐるみだ。私が勝手に持って行くわけにはいかない。
私はぬいぐるみを元の位置に戻し、少し名残惜しいように頭を撫でた。
その瞬間、誰かが微笑む声が聞こえたような気がした。気のせいかもしれないが。
とにかく私は安心し、病室の扉に手を掛けた。
気が付くと再び病室に居た。つい先ほどと同じ情景が目の前にあった。
しかし、何か小さな違和感を覚えた。
先ほどまでいた部屋と同じようにキャビネットの上にチャミに似たぬいぐるみがあり、花瓶があり、その中に花が挿されている。先ほどと全く同じ。
私はすぐに違和感の正体を理解した。花瓶の中の花が入れ替えられていない。
そして、よく見れば咲いている花が先ほどより減っている。
近付いて花瓶の中を見ると、確かに何枚かの花弁が水面に無気力に浮いている。
なぜかその光景がとても心に響いた。胸が焼かれるような気持ちだ。
ただ花が入れ替えられず散っているだけなのにどうしてこんなに心が痛むのだろう。
私はすがるような気持ちでチャミに似たぬいぐるみを手に取った。
ぬいぐるみの甘い匂いは消えていた。それも悲しく思えた。
何かが変わってしまった。そんな気がした。
私は悲しい気持ちのまま病室を後にした。
気が付くと当たり前の様に病室に居る。先ほどと基本的には何も変わっていない。
ただ花瓶の中の花は明確に枯れ始めていた。最早、本来の色を保っている花は2輪しかない。残りは茶色く変色し、花弁をキャビネットの上に撒き散らせている。
それを見ているのはとても辛かった。
そして、横にあるチャミに似たぬいぐるみはかなり薄汚れていた。
私は少しでも汚れを落としてあげようと思い、キャビネットに近付きぬいぐるみを手に取った。もう甘い匂いは微塵も残っていない。
ただ甘い匂いの代わりに垢臭い匂いがした。
多分、この部屋に入院している女の子が何度も何度も触れたのだろう。
もしかしたら、このぬいぐるみを抱きながら泣いていたのかもしれない。
私は抑えられないほど悲しい気持ちになった。目から冷たい水が伝ってくるのを感じる。私はぬいぐるみを元に戻し逃げるように病室の扉を開いた。
当然、今まで通り病室のベッドの横に立ち誰も居ないベッドを見ている。
いや、ベッドの上にはチャミに似たぬいぐるみがいた。
汚れは先ほどよりも増している。最早、彼女がこのぬいぐるみのみを心の支えにしているのが明らかだった。
時より、どこからともなく咳き込む音が聞こえてくる。
これは完全に気のせいではない。苦しそうに咳き込む音が聞こえる。
しかし、私にはどうする事も出来ない。彼女の存在を感じることが出来ても、彼女は私の視界に現れない。だから、触れる事も出来ない。声も届かないであろう。
それでもどうにか助けになってあげたくて、彼女を慰めてあげたくて、チャミに似たぬいぐるみの上の何も無い空間に手を差し伸べる。
でも、透明な何かに触れるという事はなく。私の手は虚しく空を切る。
ふとキャビネットの上の花瓶が目に入った。もう花は残されていない。
私の心をやりきれない気持ちと悲しい気持ちが支配していく。
もう次に進みたくない。これ以上状況が悪くなっていく様を見ていたくない。
私は咳き込む音が聞こえないように耳を塞ぎ、目を瞑り、その場で蹲った。
でも、彼女の最後を見届けなければならない。そんな思いがして嫌々ながらも立ち上がった。次に進もう。私は病室の扉を開いた。
気が付くと私は血だらけのベッドを眺めていた。かなり苦しそうに咳き込む音がする。そして、現在進行形で増えていく血。最終的にベッドの上のチャミに似たぬいぐるみにまで血が掛かる。
酷い咳き込みの後、吐くような嫌な音がした。
直後、ぬいぐるみの頭からドス黒い大量の血が流れ一瞬でチャミを紅く染めた。
それは胸が引き裂かれるように辛かった。
「いや、いや、いや、いや、嫌、嫌、嫌!」
私は声を上げ、涙をボロボロと流しながら、血だらけのシーツを両手で掴んだ。
私は見ているだけで何もできない。彼女を助けられない。
それが悔しくて、苦しくて、ひたすら泣いた。それからシーツを掴んだままベッドに倒れ込みただひたすら泣き続けた。ただただ泣き続けた。
気が付くと私はシーツが片付けられた何もないベッドを眺めていた。
当たりを見渡すと花瓶もぬいぐるみもない。
ここまで来ると鈍感な私でも分かる、彼女は・・・・・・
私はやりきれない気持ちを胸にこの病室から出ようとした、今度は今までの様に同じ部屋に戻ってこない気がした。だが、扉が開かない。どんなに力を入れても全くビクともしない。
この扉さえ抜ければ、もう病室から出られるはずなのに。
私はない力を振り絞って、扉の取っ手の部分を引っ張った。
突然、ブツンと云う大きな音が鳴り病室の電気が消えた。
私は軽くパニックになった。しかし、電気はすぐに戻り元の明るい病室が現れた。
それからしばらくは扉を開けようと奮闘していた。
突如、背後からギチギチと歯ぎしりをするような音が聞こえた。
後を向くと彼女がいた。
顔は私の半身ほどの大きさがあり、胴体は醜く膨れ上がっていて、そこらじゅうが爛れ、あちこちから血が流れている。その醜く膨れ上がった胴体からは球体関節の腕が6本ほど生えている。それはまるで巨大な蜘蛛の怪物のようだった。
極めつけは尾部に人間の頭、胸、腕などのパーツが滅茶苦茶に繋がった何か分からない恐ろしいものを引き摺っている。
私はあまりの恐怖に全身が完全に固まってしまった、もうどうしようも出来ない。
彼女がこの病室にいた患者であり、私は彼女を救えなかった。
だから、私は今から罰を受けるのだ。そう思った。
バキバキと云う、嫌な音が鳴り彼女の大きな口が開いた。
「えっ、あっ、わっ、私たち、いっ、生きてる時に逢えてれば良かったのにね」
私は頭で思った事をそのまま口にした。彼女はそんな私の言葉など全く無視して私に少しずつ歩み寄ってくる。そして、ついに彼女が目の前まで来た。
「いいよ」私は言った。吃らなかった。
彼女はその言葉を聞くのとほぼ同時に大きな口で私を頭から呑み込もうとした。
それは目にも止まらぬ早いスピードだった。あぁ、これで終わりだ。
最後の瞬間、彼女の口の中で生ぬるい風を感じた。
「あっ」
私は短く声を上げ目を覚ました。目を覚ました場所は冷たい病院の廃墟のトイレ中ではなかった。今、私がいるのは私の家の寝室だ。
どうやってここに来たのか全く分からない。廃病院のトイレの中で自分の首を絞め、意識が遠くなって、怖い夢を見て、ここにいる。
夢の中と違って自分の意志で自分の体を動かせる。体は暖かく指が軽やかに動く。
私は生きている。あの時、死ねなかった。
しかし、今からでも再び首を絞めて自分で自分を終わらせることは出来るだろう。
でも、そんな事をしてママとパパは喜ぶだろうか。
暖かい部屋で冷静に考えれば、一時の感情とはいえ馬鹿な事をしてしまった。
それにしても、あの状況から私を救い出してくれたのは誰なのだろう。
エグモントたちが流石にやりすぎたと思って、戻ってきたのだろうか。
もし、そうだとしても私は彼らを許すことは出来ない。というより、この先一生彼らの顔は見たくない。許すも何もない、もう二度と関わりたくない。
私の心は傷ついたというより、ポッカリ穴が開いてしまったようだった。
残るのは何度も私を酷い目に遭わせた彼らを信じようなどと考えた自分の愚かさだけ。私はため息をつき布団に顔をうずめた。
もう自殺しようとはもう思っていないが、何もしたくない。体が強張って動かない。
布団に顔を埋めているうち不意に目から涙が溢れ出した。その涙は何度拭っても止めどなく溢れ続け布団をびしょびしょに濡らしていく。
ただ皆と友達になりたかっただけなのに、ただ普通に学校に行きたいだけなのに。
どうしてこんな事に、どうして私ばかりこんな目に。
私はパパやママに余計な心配を与えないように布団に顔を押し付け出来るだけ声を殺しながら、ひたすら泣き続けた。最早、布団は涙と鼻水や涎でぐしゃぐしゃだ。
泣き疲れある程度気持ちが落ち着いたところで、私は時計を見た。
火曜日の午前8時半過ぎ、驚くべきことにあの日から2日が過ぎていた。
この時間ではもうパパとママは仕事で家にいないだろう。
お店が10時に始まるので、それまではまだ時間がある。とりあえず、顔を洗って気持ちを切り替えなくては。
私は洗面台の鏡の前に立った。鏡の中には泣きすぎて目元が赤くなり、無様に鼻水を垂らしている私がいる。とりあえず、涙や鼻水を流すため両手の平に最低限の水を溜め、それを顔にかける。それを3回ほど繰り返し、もう一度鏡を見た。
目元は赤いままだが鼻水もなくなり少しさっぱりした。
でも、何か違和感があった。
目を凝らしてみると首元にチョウチョの様なよく分からないマークが付いていた。もちろん、私にタトゥーなどをする勇気はないし、そもそもしたいとも思わない。
それにママとパパがこんな事を勝手にするとはとても思えない。
じゃあ、このマークは何だろう?
私はそのマークに軽く触れた、それは確かに自分の首元についているようだった。
サラたちの嫌がらせにしては手が込みすぎている気もする。
とにかく、見ていて何だか気持ち悪いマークだ。出来る事なら早く消してしまいたい。私は自分の首に爪を立て、軽くそのマークを擦ってみた。しかし、まるで意味がなく全くそのマークは薄れない。
もう少し爪先に力を入れ擦ってみたが、やはり薄くならない。
でも、気になって仕方ない。消せるものなら今この場で消してしまいたい。
さっきよりもう少し爪先に力を入れ擦ってみた。まだ駄目みたいだ。
もう少しだけ力を入れて擦ってみるがやはり消える様子がない。
今度は一指し指だけでなく中指の爪も使って、やはり消えない。
薬指の爪も入れ3本の指で擦ってみるが、消えない。
残りの2本の指の爪も使って首元をカリカリと擦るが、一向に消える気配がない。
もう少し強く、もう少し早く、もう少し強く、もう少し早く、もう少し強く。
心なしかマークが薄くなった気がする。もっと強く、もっと早く・・・・・・
「エーデル、止めるんだ!」
突然、後ろからパパの声がして首元のマークを擦っている私の腕を強めに掴んだ。
「エーデル、パパが無責任な事言ったばかりに・・・・本当にすまない。だから、馬鹿な真似はよしてくれ」パパは息を荒げて言った。
パパは何かを勘違いしているようだ、私は今首元についた謎のマークを落とそうとしているだけだ。
「首元に変なマークがついてるから、落とそうとしてるだけだよ・・・・」
私はパパの方へ向き、そう言った。
それを聞いたパパは一瞬顔をしかめ、右手で自分の頭を抑えた。
「エーデル、落ち着いて。落ち着いて深呼吸するんだ。落ち着いたらもう一度鏡を見てみるんだ。きっと変なマークなんてなくなってる筈だから」
それから、そう言った。
そんな馬鹿な。私は深呼吸をして改めて鏡を見た。
すると、なんと先ほどまで全く消えなかった謎のマークが完全に消えている。その代り、自分で首を掻き毟った跡だけが生生しく残っていた。それは蚯蚓腫れして、全体的に赤みがかり、ポツポツと血の粒の様なものが浮かび上がっている酷い有様だった。
「なっ、何・・・・?」私は思わずそう漏らした。
「きっと昨晩の事がショックで悪い幻覚が見えてしまったんだろう。まさか、こんな事になるなんて。パパが悪いんだ。パパが行ってみろなんて言わなければ・・・・ママが正しかったんだ。ママの様にパパもお前を止めるべきだったんだ」
私は静かに首を横に振った。パパは悪くない最後は私自身が決めたことだ。
「いや、僕のせいだ・・・・僕に見えていなかったんだ。本当にすまない」
パパは私を抱き寄せ、そう言った。目には涙を浮かべている。私はひたすら首を横に振る。一番に見えていなかったのは私の方だ。
「あなたもエーデルもどっちも悪くないわ。悪いのはあの悪ガキどもだけよ、狂ってるわ。あなたたちが悔いる必要なんて全くない。さっき教育委員会の方にも文句を入れといたわ」パパと私が洗面所に居るのに気付いたママがやってきてそう言った。
「とにかく、エーデル。あなたが戻ってきて本当に良かった。一昨日の夜中、家に帰ったらあなたがいなくてパパと大騒ぎしたのよ。色んな所に電話をかけて、警察にも事情を話して探して貰って・・・・・そしたら、しばらくして廃病院の近くで倒れていたって連絡があって、その後、あなたが運ばれた先の病院でもしかしたら2度と意識を取り戻さないかもしれないから最悪の事態も覚悟してくださいなんてお医者さんに言われたのよ。心臓が張り裂ける思いだったわ」
ママが目元に涙を溜めながら言った。
「エーデル来て」
ママはそう言って手を広げた。私はそれに導かれるようにママに思い切り抱きついた。そこで、また泣いてしまった。
ママはそんな私の頭を優しく撫でてくれた。とても心地が良かった。
それはまるで心に開いた穴をゆっくり包んでくれるような感覚だった。
でも、いつまでも甘えている訳にはいかない。きっとママもパパも私のために仕事に向かう時間を遅らせてしまっているのだ。私のせいでこれ以上迷惑を掛けるわけにいかない。
「ありがとう、ママ。少しは落ち着いた・・・」
私は無理にそう言った。まだ心の穴は塞がらないし、もっともっとママやパパと一緒にいたかった。
「本当にもう大丈夫?」ママが言った。私は無言で頷いた。
「そう・・・・分かったわ。でも、無理しないで。何かあったらすぐにママやパパに電話していいからね」
「でっ、でも・・・・・」
「いいのよ。仕事の途中だろうとね、ママやパパはいつでもあなたの事が一番大切なの。だから、これからは何か困った事があったり、嫌な事があったら、すぐに私たちに電話して」ママは言った。
「ママの言う通りだ。お前はいつも僕たちに気を使うところがあるからな。もっと僕たちに甘えていいんだ」パパが言った。
「・・・・・・わかった。パパ、ママ、ありがとう」私は言った。
「ところで、今日のお手伝いはどうする? 私は休みを貰った方が良いと思うけど」
ママがそう提案してきた。でも、変に休みを貰うと返って調子が悪くなってしまうような気がする。
「大丈夫、今日はお店に行く。昨日は休んじゃったみたいだし」
私がそう言うとママは私の頬を両手でゆっくりと撫で上げ、「無理しちゃ駄目よ」と短く言った。私は無言で数回頷いた。
「それじゃあエーデル、ご飯はテーブルの上に用意してあるから、レンジで1分暖めてから食べるのよ」
ママはそう言って、私をリビングに通した。
私は言われた通りテーブルの上にある朝ごはんのお皿をレンジに入れ、暖めた。
そして、席に着き、フォークを持ち、サラダに手を付けようとした。
その瞬間、もう一度パパやママに会いたくなった。さっき会ったばかりなのに。
私はリビングの扉を開け、玄関の方を見るとそこには既に誰もいなかった。
洗面所や寝室を探しても二人はいなかった。急いで仕事に行ってしまったのだろう。
ただそれだけなのに。なぜか悲しい気持ちになる。
「ママ、パパ・・・・・」私は小さく呟いた。
時々、怖くなるのだ。ママやパパが仕事に行ったまま帰ってこなくなってしまうんじゃないか、もう会えなくなってしまうんじゃないか。
そうなったら無理にでも二人を引き止めなかった事を死ぬまで後悔するだろう。
本当はいつも引き止めたいのに、二人は私が声を紡ぐ前に行ってしまう。
時々、それが最後になってしまうように思えて怖いのだ。
私は玄関の扉をただただ眺めていた、いつの間にか瞼に涙が溜まっていた。
それを拭い、私は一呼吸置いてからリビングに戻り食べかけの朝ごはんに手を掛けた。若干、冷めてしまっている。でも、余計なお金が掛かってしまうので温め直す訳にはいかない。私は少し冷めた朝ごはんを一人で黙々と食べた。いつもの朝食はママやパパがいるので、余計に寂しい気持ちになる。
朝食を食べ終わった私は食器を必要最低限の洗剤で洗い、食器棚に戻して、自室に戻った。お店の開店までまだ少しの時間がある。
私は本棚の『世界の可愛い猫全集』を手に取り、ベッドに寝転んだ。
これはパパが9歳の時の誕生日に私にくれたものだ、内容は言わないでも分かるだろう。ほぼ毎日読んでいるのでこの本も痛みが目立ってきている。まぁ、そのお蔭で猫には少しばかり詳しいつもり。
私は寂しさも心の穴も全て隅においやり、ただ可愛い猫の写真を眺めるよう努めた。
1人で寂しい時、猫がいてくれたら少しはマシになったかもしれない。
あぁ、チャミ・・・・・・
私が大人になり、生活に余裕が見えたら間違いなく猫を飼うだろう。
猫を見ていると、猫と一緒にいると、その間だけ負の感情を忘れられるような気がする。とにかく、私は大の猫好きだ。
パパもそれを知ってか、仕事の帰りにペットショップの広告をしょっちゅう持って帰ってきてくれる。それらは私のコレクションとして本棚に並べている。
いつか、猫を・・・・・出来ればチャミの様な白い猫を・・・チャミのような・・・チャミ・・・・チャミのような・・・・・
そう思った瞬間、一気に夢の情景が頭に蘇った。だんだんと汚れていくチャミに酷似したぬいぐるみ、色褪せ朽ち果てていく花、血塗られた病室、私を食べようとした異形の怪物、大きな口と醜悪な香り。絶望、哀しみ、怒り、そんな負の感情を集約した様な深い深い蒼い眼。
「ああああああ!」
私は恐怖のあまり思わず持っていた本を放り投げてしまった。
放り投げた本は無事ベッドに着地し、大事には至らなかった。
酷い動悸がして、呼吸もままならない、苦しい。
私は縋るようにベッドの脇に置いてあるママに貰ったクマのぬいぐるみを手繰り寄せ、それに抱きついた。
ただの夢だ忘れろ、ただの夢、ただの夢、ただの夢、忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ。
頭の中で何度も念じ続けた。そうだ、楽しい事を思い出そう、ママやパパと一緒にいた時間を・・・・
やがて、心を落ち着けた頃には既に家を出なければいけない時間を少し過ぎていた。
急がないと、お店に遅刻してしまう。
私はベッドに放り投げた『世界の可愛い猫全集』を丁寧に回収して本棚に戻し、急いでコートを羽織り、コートのポケットに鍵を入れ部屋を出た。
「いってきます」
私は誰も居ない廊下に向けてそう言って、家を出た。
今日は『普通』の一日であります様に、心の中でそう祈った。
時間は9時40分、走ればギリギリ間に合う時間だ。
私はあらん限りの力でお店までの道のりをひたすら走った。途中で何度も息切れし、何度もただの早歩きになったりはしたが。
お店の近くにある街の時計を見ると9時54分を指していた。かなりギリギリだが間に合った様だ。私がお店に入ろうとすると、お店の扉の前に既に私より一回り小さいくらいの青髪の少女が立ち尽くしていた。
「あっ、あの、なっ、中に入りたいんだけど・・・・・ちょっと、どいて貰っていいかな・・・・・」
私はその少女に向かってそう言った。実際、その青髪の少女は扉とほぼ密着していて、そこに居られると私がお店に入れない。
「無理だな、あと6分待たないと」少女はそう言って『OPEN 10:00』の表札を指さした。あぁ、完全にお客側だと勘違いされてる。
「あっ、あっ、えーとっ、・・・・わっ、私はここのお店で手伝いをしているから・・・・そっ、その、中に入って開店の準備をしないと・・・・・」
私が彼女にそう言うと、彼女は蒼い目で私をぐっと睨みつけた。蒼い眼で。
一瞬、背中に電流の様に悪寒が走った。
「そう分かった、どく」彼女はそう言うと扉から素直に下がってくれた。
「あっ、ありがとう・・・・」私はそう言ってから扉の中に入った。
なんだ、あの子は。
「あぁ、エーデルちゃん、おはよう。気分はもういいのかい?」
店の奥からおじさんが出てきてそう言ってきたので私は適当な返事を返した。
「そうか、良くなったか。それは良かった。お客は少なくても1人では不便があってね、助かるよ。まぁ、それはそれとして、お店の前の彼女は君の友達かい? かれこれ30分前から扉の前でああしてる様だが・・・・・」
私はすぐに首を横に振った。全くの初対面だ。
「なるほど・・・・・」おじさんは少し困った表情をして、私を外から見えない厨房にそれとなく連れて行って話を始めた。
「あんまりお客様かもしれない人に対してこういうことを言うべきではないが、30分前から店の前でああして私をジロジロ見てくるんだ。正直、気味が悪いよ」おじさんは小声で言った。声を出して、私もそう思いますとは言えないが確かにちょっぴり怖い。あのくらいの年齢でも普通なら今は学校にいる時間だ。もし見た目よりも小さい子だとしたら近くに保護者がいるはず。でも、30分前から扉の前で独りでいるとしたら、それは明らかに普通ではない。だとしたら・・・・・
「あっ、あのっ。もっ、もし、もしかかして、まっ、迷子なんじゃ!」
私は少し噛んでしまったが、そう言った。そう迷子かもしれない。
「そうか、そうだな。迷子か。それなら無視して悪い事をしてしまった。今すぐ開けて話を聞いてあげよう」おじさんは如何にも謎が解けたと云った様子で扉の方に向かった。なんとなく私も付いて行った。
「やぁ、お嬢ちゃん。さっきは無視してしまってすまなかったね。パパかママとはぐれてしまったのかい? パパかママの特徴を言えるかな?」おじさんは扉を開けてすぐ少女に語りかけた。
「そんなものはいない」少女はそう返した。
「あぁ、えーとっ、パパやママとはぐれてしまったって事だよね?」
「違う、最初からいない」
「あああああ、うーん、つまり今日は君一人で来たって事かい?」
「そう、散歩だ」
「そうか、散歩か・・・・・」
おじさんが困惑しているのがはたから見ていても分かる。私も困惑している。
「ホットケーキと紅茶でいい」彼女はいきなり注文をしてきた。確かに、今ちょうど営業時間になった。
おじさんは煮え切らない様子のまま彼女を席まで通した。彼女が何者なのか全く分からないがお客さんである事は間違いないらしい。
「えっ、あっ、あの、こっ紅茶はレモンとミルクとストレートがありますが・・・」
「砂糖は大目に入れてくれ」
「はっ、はい、わかりました・・・それで、レモンかミルクかストレートのどちらに・・・・」
「ホットケーキのシロップはチョコがいい」
「あっ、あの、ごめんなさい、シロップはハチミツしか・・・・それで、紅茶の方はレモンかミルクかストレートの・・・・・」
「ないなら、ハチミツで我慢する」
「あっ、はい、ありがとうございます・・・・・」
なんだこれ、会話が成立しない。とりあえず、これ以上聞き直しても無駄な気がしたので注文を取るのはそこで止めて、一旦、キッチンに戻りとりあえず、紅茶を淹れる事にした。
結局、紅茶の種類を決めてくれなかったのでトレイの上にレモンの切れ端の乗った小皿とミルクの入った小さなカップを乗せた小さな小皿の両方を置いた。
そして、紅茶とそれらを少女の前のテーブルに並べた。
彼女は訝しげな表情でそれらを見た後、何か思いついたかのようにミルクのカップを手に取り、それを紅茶の中に流し込んだ。どうやら、ミルクだった様だ。
「あっ」
私は彼女が取った次の行動を見て、思わず声を出してしまった。
ミルクを注いだ紅茶の中に彼女はレモンの切れ端を浸したのだ。これは完全に予想外だ。まさかのダブルだ。
彼女はさも当然の様にそれを口元に運び一杯飲んだ。そして、私の顔を見た。
「意外とおいしい」
そして、言った。
えーとっ、つまり、彼女は意図してミルクレモンにした訳じゃなく私がミルクとレモンの両方を持ってきてしまったから仕方なく両方を使ったと。それが意外と美味しかったと。なら、良かった。うーん、良かったのか・・・・・
「ケーキ、まだか」
彼女はティーカップをテーブルに置き、また蒼い眼で私の方をギロッと睨みつけた。
相変わらずの鋭い視線に私はまた身震いをしてしまった。
「えっ、あっ、あのっ・・・・・ケーキのほうは・・・あっ、後、10分程お待ち頂いて・・・・」
「待つのか、分かった」
理解が良いんだか、悪いんだか、よく分からない子だ。
「それでは・・・・」
「待て」
私がテーブルを去ろうとした瞬間、彼女はそう言って私を静止した。出来れば、『やっぱり、ケーキはなしにする』以外の要件が良い。
「座れ」
彼女はそう言って、私と同じくらい細い腕を伸ばして向かいの席を引いた。キャンセルではなかったが中々厄介の注文だ。
「あのっ、・・いっ、今は・・・・勤務中だから・・・・・その・・・」
「いいから、座れ」
私はキッチンの方を見て、視線でおじさんに助けを求めた。すると、おじさんはジェスチャーで座るように促した。どうせ、他にお客様がいないからその子の話に付き合ってやれと云う事だろうか。仕方なく、私は席に着いた。
「お前、獣の匂いがする」彼女は開口一番そう言った。いきなり何てことを言うのだ。私は自分の服の袖や襟の匂いを嗅いでみたいが、それらしき匂いはしない。
大体、チャミと最後に遊んだのは四日前だ、しかも服も違う。匂いが残ってる筈がない。
「そっ、・・・そうかな・・・」仕方なく、曖昧な返事をした。
「首が赤い、何があった?」私の返事を無視し、彼女は次の質問を投げかける。
「うっ・・・・あっ、あの、これは・・・・自分で・・・その・・痒くて・・」
私は言葉を詰まらせながら、言う、この少女は中々痛いところをついてくる。とりあえず、幻覚を見て、自分で掻き毟ってしまったなど言える筈もないので嘘をついた。
「なぜ痒くなった」
痒くなったと云う話は嘘なので、そこを聞かれても困る。
「たっ、あっ、・・・多分、蚊に刺された・・・・のかも」
「なぜ嘘をつく」
間髪入れずに彼女はそう言い放った。何て事だ、もう嘘がバレてしまった。
私は無意識に眉を潜めた。
「本当は何があった? 何を見た? 何を感じた? どんな匂いを嗅いだ? 本当は何があった? 何を見た? 何を感じた? どんな匂いを嗅いだ? どんな悲劇を見た? 本当は何があった? 何を見た? 何を感じた? どんな匂いを嗅いだ? どんな悲劇を見た? 」
彼女は呪文のように何度も何度も同じ言葉を繰り返す、彼女の言葉に従い、朝に見た醜悪な夢を鮮明に思い出された。血塗られていく病室、枯れ朽ち行く花、醜悪な匂いを放つ異形の怪物、悲しい焦燥、生暖かい異形の怪物の吐息。
私は強烈な吐き気に襲われ、口を抑えた。それでも目の前の彼女は同じ言葉を繰り返し続ける。視界が徐々に滲んでいく、また倒れてしまうかもしれない。
「やっと見つけましたよ、ジェシカちゃん」
突然、間の抜けたような緊張感の無い声が響き、私は正気を取り戻した。
目の前の青髪の少女は年上のお姉さんらしき人に抱きかかえられ、不機嫌そうな顔をしていた。その人はラーレさんと同い年くらいの見た目で右目に眼帯を付け顔はニコニコしている。如何にも人が良さそうな人だ。
「さぁ、お家に帰りましょうねぇ。先生も心配してましたよ!」
「まだ話の途中だ」
「あなたがジェシカちゃんの話相手になってくれたんですね、ありがとうございます!」
そのお姉さんらしき人は少女の言い分を無視して、私に向かってそう言ってウィンクをした。
「降ろせ、話が残っている」
「駄目ですよ、今戻らないと美味しい美味しいが食べられなくなっちゃいますよ!?」
「馬鹿にするな」
「とにかく、ジェシカちゃんを連れ戻さないと私がまた先生に怒られちゃいます!」
「知るか、怒られてろ」
「そんな、酷いです! でも、なんと言おうと連れて帰っちゃいますからね!」
それを聞いた彼女は抱きかかえられたままの体勢でおもむろにスカートのポケットから薬などを入れるタイプのタブレットを取り出した。
その瞬間、今までニコニコしていたお姉さんらしき人の笑顔が消え去り、目にも止まらぬ勢いで彼女が取り出したタブレットを叩き落とした。
「市街地でお薬飲もうとするなんて、何考えてるんですか! この件は先生に報告させていただきますからね!」姉らしき人はさっきのニコニコしてゆとりを持った口調と全く異なり、声を荒げそう怒鳴った。
「それではうちのジェシカが迷惑をお掛けしました、お茶まで出していただいたみたいで本当にありがとうございます」
姉らしき人は口調と表情を元に戻し私に向かって微笑み、叩き落としたタブレットを拾い上げ、青髪の少女が座っていた椅子をテーブルに戻した。
「お前の近くによくない気配がする、用心しろ」
青髪の少女はテーブルから離される間際、私にそう言い放った。その後、姉らしき人に抱えられたまま店を後にしようとする。でも、それはまずい。
「あっ、あっ、あの! けっ、ケーキ、ケーキの方がまだ!」私は叫んだ。
「いえいえ、そこまでいただくわけにはいけません。本当にご迷惑おかけしました。あと彼女はキョゲンヘキがあるので、言われたことはあんまり気にしなくていいですから!」
お姉さんらしき人は微笑みながらそう言って、お店の扉に手を掛けた。
あぁ、最高にまずい。
「あの、まだお代が!」
おじさんがそう叫んだ時にはもうお姉さんらしき人と青髪の少女はお店にはいなかった。おじさんは急いで店の外に出たが、すぐに戻ってきて頭を垂れ首を横に振った。
「あっ、あのっ、・・・・・その、さっ、探して、きましょうか?」私は言った。
「いや、いいよ。全く今日は厄日かもな・・・」おじさんは頭を抱えて近くにあった椅子に腰かけた。
「あの、ケーキ焦げちゃいますよ・・」私は言った、最早、誰のケーキでもないが。
「あぁ、そうだな」おじさんは力なくそう言って席を立ちキッチンに戻った。
それから新しいお客様が来ないまま20分ほどの時間が経ち、店は幸か不幸か落ち着きを取り戻した。
「あのっ、おじさん、『キョゲンヘキ』って、何ですか?」私はほとぼりが完全に冷めたと読み、店長にそう聞いた
「虚言癖ね。虚言癖っていうのは簡単に言うと、日常的に嘘をついてしまう癖の事さ。さっきの子が同じ言葉を何度も繰り返していたようだけど、それは気にしなくていいって事なんじゃないかな」
なるほど、・・・・・本当にそれだけならいいが、彼女が残した言葉がどうにも引っ掛かる。『何を見た? 何を感じた? どんな匂いを嗅いだ? 』今思えば彼女の言葉はまるで私の夢の内容を聞き出そうとしているようなものだった。
あの夢と『魔女』は何か関係があるのだろうか、それとも全てはただの彼女のうわ言なのか。出来ればただのうわ言であって欲しい。