第3話(1-3-1)
「すまないが配達を頼まれてくれないか?」
「嫌よ。大体、いつからそんなサービス始めたんですか?」
「別にサービスを始めた訳じゃないが、断る道理もないだろう」
「暇だから?」
「それを言わないでくれ」
「じゃあ、店長が自分で行けば良いんじゃないですか?」
「少ないけどお昼にお客様が何人かいらっしゃるだろうから、それは出来ない」
「仕方ないわね。エーデルちゃん、お姉さんは見ての通り読書で忙しいから代わりに配達して来てちょうだい」
なんとなくだが、そう来るのは予想出来た。ロクに料理も出来ない私が云うのも難かもしれないがラーレさんはもう少し真面目に働くべきだと思う。流石にアルバイト中に紅茶を啜りながら、優雅に洋書のページをめくるのはよくない。ちなみに、紅茶は私が淹れた。紅茶を淹れる事は私に出来る数少ない仕事の一つだ。
「私は大丈夫です」
私は店長とアルバイトのラーレさんにそう言った。
「エーデルちゃんには他にやって貰いたい事があったが、仕方ないか」
店長は優雅に読書にふけるラーレさんを一瞥しながら諦め気味に言った。
そもそも、店長がラーレさんに強く出られないのは休日ラーレさんを目当てで来る男子学生が少なくないからだ。ラーレさんは確かにモデルさんの様に顔が整っていて美形だ。しかし、今までのやり取りでなんとなく分かると思うが、かなりワガママな人だ。同年代の男の人の前では上手くそれを隠している様だが。
「それじゃあ、これを頼むよ。6ユーロちょうどだからね」
店長はそう言って私に平らな箱を渡した。多分、中身はピザだろう。
「場所は地図に印を付けておいたから、迷わないようにね。それと渡す時はピザが冷めてると思うから、アルミホイルで包んでから中火のフライパンで4~5分ほど熱せば美味しく食べられると伝えておいてくれ」
「分かりました。」私はそう言って地図を受取った。地図を見ると印があるのはギリギリ隣町じゃないくらいの少し遠い場所の様だった。
「それじゃあ、行ってきます」
私はそう言って扉の方に向かった。
「時間はあるから急がなくて大丈夫だからね。あと、車に気をつけて」
後ろから店長のそんな声が聞こえた。
私は後ろを向き、店長に一礼した。その時、ニコニコした顔で私に手を振るラーレさんの姿が見えた。本当に調子の良い人だ。
私はそんな事をぼんやりと考えながら、街中に入っていく。
曜日は土曜日。下手をすれば同級生に会ってしまう可能性がある。
なので、街中では出来るだけ顔を俯いた状態で歩いた。こんな所でサラやミレーマに会ったら、ひとたまりもない。
それから、30分程街中を歩いたところでやっと目的の場所まで付いた。
正直、普段から長距離を歩く機会が全くないので、かなりヘトヘトになっている。
そこは繁華街の裏路地の寂れた雑居ビルだった。雑居ビルと言っても看板は無く、何かの店という訳ではなさそうだ。ただなんとなく、その雑居ビルは嫌な雰囲気を漂わせていた。目の前には地下に続く階段があり、見たところそこ以外でビルの中に入る方法なさそうだ。出来るなら行きたくはないが流石に怖いからと言って引き返すわけにはいかない。別に幽霊がピザを注文した訳じゃない、ビルの中には普通の人が居て、何の問題も起こらずピザを渡して帰るだけ。怖いことなんて何もない。
私はそう自分に言い聞かせて、地下へと続く階段に向かった。
階段には明かりがなく、ピザを両手で持っている私はかなり慎重に階段を降りる必要があった。なんとか踊り場まで着くと、横の奥に古臭い電球に照らされた鉄扉が見えた。私は踊り場からその鉄扉に向けて、更に階段を降りた。
鉄扉に近づくにつれ徐々に空気が重くなっているような気がした。
鉄扉の前につくと、私は一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
ピザを注文したのは幽霊でも怖い人でもなく、普通の人。普通の人。普通の人。
頭の中で何度も自分にそう言い聞かせ、私は扉の横のドアホンに手を伸ばした。
ドアホンを鳴らした。いや、音がこっちには聞こえないタイプらしく本当に鳴っているかは分からない。ただ確かにボタンは押した。
十秒・・・・二十秒・・・三十秒・・・・・・・・・・一分。
まるで、反応がない。私は仕方なくもう一度ドアホンを押した。
相変わらず反応がない。もしかしたら、ドアホンが壊れてるのかもしれない。
私は扉をノックしようと、ピザを肩と左腕で抑え扉に手を伸ばした。
「あっ」
私が扉に手を伸ばした瞬間、扉が思い切り開け放たれた。
中から顔を出したのは私より少し年上くらいの金髪の少年だった。
「見かけない顔だな、こんな所で何してんだ? 事によってはただで返す訳にはいかないぞ」
少年は訝しげな表情で私にそう言った。
「あのっ、そのっ・・・・」
私は少年の静かながら高圧的な気迫に押され、上手く言葉を紡げなかった。
「・・・・・あぁ、ピザか。脅かして悪かったな」
少年は私が片手に持っていたピザを確認すると、先ほどのまでの表情が嘘のように優しい顔を私に向けてくれた。
「いや、こっちもまさか子供が来るとは思ってなかったから驚いたぜ。はい、金」
少年はそう言いながらピザと引き換えに私にお金を差し出してきた。
「あっ、ありがとうございます。それでは失礼します」
私がそう言ってから後ろを向いて立ち去ろうとすると、少年は私の肩を力強く引っ張り私を元の位置に戻した。
「えっと、あのっ、ごめんなさい。何か粗相があったなら謝ります!」
私はしどろもどろになりながら言った。今の短いやり取りで何か彼の気に障る様な言動や行動を取っただろうか。確かに最初に言葉を詰まらせてしまったが、それが気に入らなかったのだろうか。もう訳がわからない、泣きそうだ。
「いや、金数えなくいいのかなって思って・・・数えるだろ普通」
彼は少し動揺した様子で私に言った。とりあえず、怒らせてはいないようだ。
「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚・・・はい、確かに6ユーロ頂きました!」
私は急いで貰ったお金を数え言った。
「おっ、おう。渡されたお金はちゃんと数えた方がいいからな」
少年はかなり複雑な面持ちでそう言った。これは私の勝手な想像だがこの少年は過去にお金を数えなくて痛い目を見たことがあるのかもしれない。以後気を付けよう。
「いっ、以後気を付けます」
私はそう言って頭を深めに下げた。
「別に頭下げる事はねぇだろ。とにかく、ピザは確かに受け取った。また機会があったらよろしく頼むぜ」
少年はそう言って私に一瞬微笑みかけてから玄関の扉を閉めた。
とりあえず、当たり前だがピザを注文したのが幽霊でなくて良かった。1回目のドアホンで反応しなかったのはきっと家の事で忙しかったのだろう。
何も怖いことがないと分かったので帰りの階段は比較的スムーズに上がることが出来た。さて、お店に戻ろう。
少年の居た雑居ビルから離れようとすると、何か言い忘れているような気がして私は立ち止った。
出掛ける前に店長に言われたことを思い出してみよう。
「あっ」
思い出した、ピザを温めなおしてもらうことを伝え忘れた。
しかし、それを伝えるためだけに戻るだろうか。
そこまで大事な事でもないないと云えば、そうだろう。
冷めたピザがなんだ、食べられればいいじゃないか。
冷めたピザ、冷めたピザ、冷めたピザ、少し湿気っているピザ。
私は頭の中で冷めたピザを食べている自分を想像してみた。
「やっぱり、戻ろう」
私は踵を返し、地下へ続く階段に戻った。
冷めたピザより、温かいピザの方が良いに決まっている。
扉の前に着くと、私は再びドアホンを鳴らした。今度は早く出てきてほしい。
十秒・・・・二十秒・・・・あっ
ドアホンを鳴らしてから二十秒過ぎたあたりで、扉の後ろから鍵を開ける音がした。
中から出てきたのは先ほどと同じ少年だった。
「ん、まだ何か用か?」
彼は少し不思議そうに私を見ながら言った。そんな彼の右手にはピザの切れ端が乗っていた。間一髪、口はまだつけていないようだ。
「えっと、・・・・そのピザ冷めてると思うので、アルミホイルで包んでから中火のフライパンで4~5分ほど熱せば温かさが戻って美味しく食べられると思います・・」
私は店長に言われた通りの事を言った。
しかし、少年はそれを聞いてなんとも形容しがたい表情で私を見つめている。
既に何枚か食べていて、言うのが遅かったのかもしれない。
少年は相変わらず私を見つめ続けている。視線が痛い。
「もしかして、お前それ言うためだけに戻ってきたのか?」
少しの沈黙が続いた後、彼がそう切り出した。
私がその通りだと無言で頷くと、彼は盛大に吹き出して笑い始めた。
「お前、律儀な奴だな。俺ならその程度こと言うためにわざわざ戻らねぇぜ」
彼は楽しそうにそう言いながら私の背中をバシバシ叩いてきた。本人的には軽くやっているつもりだろうが、普通に痛い。
「気に入った、ちょっと待ってな」
その後、彼をそう言い残し再び建物の中に戻って行ってしまった。
正直、勝手に気に入られても困る。
しばらくすると彼はピザの切れ端の代わりにコーラーの缶を持って戻ってきた。
「ほら、これやるよ」
そして、ほぼ予想通りにそのコーラーの缶を私に差し出してきた。
純粋に考えて、ただでジュースを貰えるのだからこんなに嬉しいことはないだろう。
しかし、私にはそれを素直に喜べない理由があった。私は炭酸が駄目なのだ。
「あのっ・・・えっと・・ありがとうございます・・・・。でも、・・・」
私がそう言い終える前に彼は私の背中を先ほどよりも強めに叩いて、笑顔で言った。
「まぁ、遠慮すんなって軽いチップだよ。それとも現金の方が良かったか?」
『はい、炭酸より現金の方が良いです』と言いたいのは山々だが流石に品正と云うか何というか、それを言ったら色々駄目な気がする。
仕方なく私は一しきり礼をして自分では飲めないコーラを受け取った。
「必ずまた頼んでやるから、そん時もお前が来いよな」
彼は清々しい表情で別れ際にそんな事を言った。
飲めないコーラを持った私はなんとも言えない気持ちで「おっ、お待ちしております」と事務的な事を言った。ジュースをただでくれたりと、全く嫌な人という訳ではないが人の背中を考えなしにバンバン叩くのは勘弁して貰いたい。
帰りは幽霊の事や暗いことは殆ど忘れていた。
店に帰ると、ラーレさんが何人かの男子学生に囲まれ楽しそうにお喋りしながらお茶を飲んでいた。
「エーデルちゃん、お帰り~」彼女は男子学生の間からひょっこり顔を出し、ご機嫌そうに手を振ってきた。正直、ちょっとだけ腹立たしい。
しかし、彼女の周りにいる男子学生が店の休日の売り上げにかなり貢献していると云う歯痒い事情があって、店長も私も何も言えないでいる。
ラーレさんはあんまり真面目な人ではないが、男の人を会話で楽しませると云う点では群を抜いていると思う。それを証拠にラーレさんに話しかけている男子学生たちは終始笑顔でいる。ラーレさん自身もおおよそ興味ないであろうネットゲームの話題なども嫌な顔1つせず知らないなりに笑顔で丁寧に受け答え反応している。要するに聞き上手なのだ。自分が今のラーレさんと同じ年に成長しても、まず同じような事は出来ないだろう。話し相手に興味のない話をされたら、十中八九会話に乗れない。
そもそも、私の顔では周りに男子が集まらないだろう。ママは美人なのに・・・
私は羨ましいような憎らしいような目で、ラーレさんを眺めていた。
残念ながら、今お客様は彼女の周辺にしかいない。
「あっ、エーデルちゃん。この人に紅茶おかわりしてあげて」
不意にラーレさんは私に向かってそう言ってきた。彼女は自身も店の店員の一人であると云うことをちゃんと分かっているのだろうか。
そんな文句を言っても仕方がないので、私は渋々ラーレさんの取り巻きの一人のティーカップを下の皿ごと持ってカウンターの中に入った。
うちのお店ではマルコポーロと云う少し香りが強い紅茶を扱っている。
私は好きだが、香りのせいもあって苦手な人も少なくない。そういう方には諦めて別の飲み物を頼んで頂いている。とりあえず、ポットから紅茶を注ぎ終えた私はカップを元の男の人のところに戻した。
「おっ、ありがと。ラーレさん、この子いくつなの?」
紅茶を受け取った男の人はそう私に言ってからラーレさんの方を見た。
「まだ、十一よね?」私は黙って頷いた。
「すっげぇな、その年からもうバイトしてるのか。」
「そうだ、紅茶のお礼にこれやるよ」男の人はそう言って鞄からジュースの缶を一つ出した。赤い色の缶、嫌な予感がした。
予感は的中してしまった。男の人が取り出したのはコーラの缶。本日2本目だ。
「あ、あの・・・・・」
「いいって、いいって。遠慮しないで持って行って!」
男の人は私の髪を撫でながら、半ば強制的に私の手の中にコーラの缶を収めた。
「エーデルちゃん、良かったわね」ラーレさんは満面の笑みを私に送った。ラーレさんに至っては私が炭酸を苦手な事を知っているはずなのに、ひどい。
私は2本目のコーラー持って、複雑な気持ちでカウンターに戻った。
「まぁ、生きてればそんな事もあるさ」隣でおじさんが言った。
パパに渡せば少しは喜んで貰えるだろうか? 私はそんなことを考えながら皿を洗い始めた。今日はフランツィスカがお店に来てくれる約束になっている。さっき店長に聞いたところ私が外に出ている間にはそのような子は来てないらしい。
フランツィスカは私にとって猫以外での初めての友達だ。そのせいもあって期待と不安でとても待ち遠しく感じる。もし来てくれたらどんな話をしよう、もし来てくれなかったら・・・とにかく、私の頭はフランツィスカの事でいっぱいだった。
それから、4時間経ったが彼女は未だ来ない。既にラーレさんの取り巻きの男の人たちはいなくなり、ラーレさんはまた独りで読書に耽っている。
時間は5時半過ぎ。私の心は既に俯いてきている。
「きっと、忘れちゃってるんじゃない?」ラーレさんは不安そうな顔をしている私に気付き、サラっと恐ろしいことを言った。
初めての友達、初めての友達との約束。まさか、それが忘れられてしまうなんて。
でも、私にとってどんなに重要な事であっても彼女にとっては取るに足らない陳腐な約束なのかもしれない。確かに彼女と私では全く釣り合わない。
彼女が『友達』と言ったのも口だけなのかもしれない。そう思うと悲しくなってくる。どうせ、私なんか・・・・
「ちょっ、ちょっと、泣かないで! 私が悪かったから! きっと、習い事か何かで忙しくてまだ来れないのよ。まだ時間は2時間以上あるし、必ず来るわよ!」
ラーレさんは涙を零してしまった私を見て、慌てて言った。
「大丈夫、大丈夫よ」
彼女はそう言って私の方に来て、私を抱きしめ優しくそう言った。
自分でもよく分からないが、ラーレさんに抱きしめて貰い少し気持ちが落ち着いた。
彼女が離れた後、ふと彼女の座っていた席の方を見ると大事な本が床に落ち、しおりが本に挟まれておらず、机の上に残されたままだった。
なんだかんだで、ラーレさんは私の事を気にかけてくれる良い人なのだ。
私はラーレさんに感謝しながら、フランツィスカを疑ってしまった自分を恥じた。
ラーレさんは嫌な顔ひとつせず、本を拾い上げ読んでいたページを探した。
ここで本を閉じて、店の掃除でも始めれば素直に尊敬できるのに。
それから、お客さんが何人か来たがフランツィスカはまだ来ていない。
時間は6時過ぎ、丁度夕飯時だ。それにも関わらずお店にはラーレさんを含めて4組しかテーブルについていない。時期は9月、既に日は落ちている。
寂しいが、もうフランツィスカは来ないだろう。きっと、別の急な用事が入ってしまったのだ。忘れられた訳ではない。私は自分のそう言い聞かせながら、コーヒーとオレンジジュースを隅の席座っている親子の所に運んだ。
「コーヒーは静かな所で飲むに限るな」父親らしき男がコーヒーを受け取りながら、向かいの子供に向かって言った。よく見れば向かいの子供は昨日の包帯を巻いてくれた髪が薄紫色の少女だ。
「まぁ、あなたはそうでしょうね。私は騒がしい方が好きよ」少女はそう言ってから、私に気付いた。
「あっ、昨日の子じゃない? 怪我は大丈夫?」
少女はそう話しかけてきたので、私は黙って頷いた。不意に話しかけられると言葉が出てこないのだ。
「なんだ、知り合いか?」
「昨日、道で血痕を見つけてもしやと思って辿って行ったら怪我したこの子がいたの」
「そうか。それで、魔女はいたのか?」
「いなかったわ。大体、魔女ならこんな怪我じゃ済まないでしょう」
「それもそうか。なら放っておけばいいだろう。ただの他人だ。うちの患者と比べて保護責任もない」
「あなたねぇ。そんな事だから皆に冷血漢って言われるのよ」
「別に冷血漢で構わねぇよ。そもそも俺にはもう人間の血なんて通ってないかもしれないしな」父親らしき男は自嘲気味に言うと付けていたマスクをわざとらしく一瞬だけ少し浮かせた。
その時、見えてしまった。その人の口は頬の途中まで避けており、歯は獣のように鋭く尖っている。そして、口周りは痛々しいほど血管や腫瘍のようなものが広がっていた。私はあまりの光景に持っていたトレーを床に落としてしまった。
「あっ、あっ、あっ、あの・・・・申し訳ございません!」
私は急いでトレーを拾い上げカウンターに戻った。ラーレさんが不思議そうな顔でこっちを覗いている。
よく考えればあの親子はおかしな事だらけだ。親子なはずなのに少女の方が男と対等な体で会話をしているし、男もそれを全く気に留めていない。
おまけに『魔女』がどうのと、助けてもらった相手にこんな感情を抱くのは失礼かもしれないが、どう考えても普通じゃない。
極めつけは男のマスクの下の怪物のような口。言い知れない恐怖が私を包んでいく。
いつの間にか私の体は小刻みに震えていた。更に最悪な事にこのタイミングで目の赤い少女の事も思い出してしまった。震えは加速し、息が苦しくなる。
何で私ばかりこんな思いを・・・・・・
「エーデル!?」
突然、ママの声を聞こえた。その声のお蔭でなんとか私は我に帰った。声のした方に体を向けると、そこにはママではなくラーレさんが立っていた。
「嘘、大丈夫?」
ラーレさんはそう言うと、私をお客さんから見えないカウンターの奥に連れて行き、椅子に座らせてくれた。
少し落ち着いたところで私は例の親子の事を彼女に話した。
ラーレさんは少し考えたような素振りを見せた後、「私が見てくる」と言って行ってしまった。この位置からはお客様のテーブルの様子は見えない。
しばらくすると、ラーレさんは何事もなく私の方に戻ってきた。
「マスクの下のあれ、病気らしいよ。脅かして悪かったって」
そして、至って普通のトーンでそう語った。そうか病気か。でも、口周りが怪物のようになる病気などあるのだろうか。疑問は残るが、病気なら恐怖する必要はなさそうだ。でも、ラーレさんは『魔女』については何も聞いてくれなかったらしい。
気になるがあの親子に直接聞くような勇気はない。とりあえず、私は立ち上がり出来るだけ親子から離れた位置で仕事をこなした。料理を食べ終えた親子が席を立つと、少女の方がちょこちょこと私の方に歩いてきた。
「
さっきはうちの連れが驚かしちゃったみたいでごめんね。あの人も別に悪気があったわけじゃないから、許してあげて」
少女は申し訳なさそうに言った。もうどっちが親だか分からない。
「これお詫びに持って行って、たいした物じゃないけど」
少女はそう言って、手提げカバンから赤色の缶を取り出した。私は絶句した。
少女の後からラーレさんの顔が見えた、明らかに笑いを堪えるのに必死そうだ。
私が複雑な面持ちでコーラの缶を見つめていると、ついに後ろのラーレさんが吹き出してしまった。
少女が何事かと振り向くとラーレさんは笑いながら語り始めた。
「ビゴさん、この子炭酸駄目なんですよ。それなのにこれで今日貰ったコーラが3本目で! あはははははッ」いくらなんでも笑いすぎだ、ひどい
あれ、ビゴさんって誰?
私は目の前の少女を見た後、ラーレさんの方を見た。
「あっ、しまった」ラーレさんはそう口にして急いで片手で口を噤んだ。
「シャング、『私たちの関係は秘密にしておいて』って自分で言っといてそれはないだろ。勝手に自爆しやがって」店を出ようとした、マスクの男が呆れた口調で言った。
「うぅっ・・」ラーレさんは男の言葉を聞くとばつが悪そうに肩を竦めた。
「まぁ、私たちが知り合いって事が分かっても別に困ることはないでしょう、ね?」
少女はラーレさんに向かってそう言った。
対するラーレさんは相変わらずバツが悪そうな顔をしたままだった。
少女の言う通りラーレさんと親子に関係があったことを知られても、ラーレさんに何かしら不都合があるとは思えない。むしろ、私は得体の知れない親子がラーレさんの知り合いだと分かってかなり安心している。
少し考えてみた。この3人が知り合いという事はラーレさんは実は『魔女』の事を知っているかもしれない。このまま心の中に留めておくのも気持ちが悪いので私は思い切って聞いてみることにした。
「あっ、あの、ラーレさん、『魔女』って何の事ですか?」
私がそう言うや否やラーレさんは頭を抱え、親子の目つきが変わった。
しばしの沈黙の後、口を開いたのは少女だった。表情は元に戻っていた。
「隣町で傷害事件を起こした犯人の事をそう呼んでるの。凶器に用いられた薬品が未知の薬品だったから、そう呼ばれているの。まだ捕まっていないからあなたも気を付けて」
なるほど、さっきの二人の話の通り出会ったら確かにたたでは済まなそうだ。
「そうそう、隣町の犯人の事なのよ」ラーレさんが後ろで頷きながら言った。
「お前はもう喋らない方が良いんじゃないか?」それを見た男がボソリと呟いた。
すると、再びラーレさんは肩を竦めた。誰かに言い負かされているラーレさんは見ていて新鮮だ。店長に対しても図々しい態度を取れるあのラーレさんが肩を竦めるくらいなのだから、あの男の人はよっぽど恐ろしいのであろう。
「それにしても炭酸が駄目なんて、今どきの子にしては珍しいわねぇ。今度来るときはオレンジジュース持ってきてあげる」少女は二人をよそに私に言った。
「あっ、ありがとう」私は頭を下げた。すると、少女は嬉しそうに微笑んだ。
そんなこんなで奇妙な親子が店から去ると、どっと疲れがきた気がした。
隣を見ると、どうやらラーレさんも同じようだった。
「そう。別に隠しても仕方がない事だから一応言っとくと、あの二人は親子ではないし、小さいほうの人はああ見えても私よりも2つ上の先輩なのよ。病気で成長が6歳で止まってるだけ。本人は全く気にしてないけど、言葉遣いは将来のために気を付けた方がいいと思うよ」ラーレさんはサラりと衝撃の事実を口走った。
ラーレさんは今十七歳、つまりあの小さい子は十九歳ということになる。
道理でラーレさんが彼女に対しても敬語を使っていた訳だ。
そうなると私は8つも年上の女性に昨日からなんと生意気な口調を使っていたのだろう。私は先ほどとは全く違う恐怖で身を震わせた。
彼女たちが去ってまた時間が経ったがまだフランの姿は見えなかった。何かの用事で来れなくなってしまったと自分にいくら言い聞かせても、やはり寂しい。
私は外を眺めながら、ゆっくりと溜息をついた。
流石にこの時間に来ることはないだろう。
私は自分の気持ちに諦めを付け、窓拭きに集中する事にした。
そして、結局閉店時刻の8時まで彼女は現れなかった。最後のお客さんが店を出たのを確認して、外の『OPEN』看板を裏返し『CLOSE』に替える。
その後、ラーレさんがカーテンを閉じている間に私が床を軽く箒で掃く。
一通り閉店作業が終わるとラーレさんが私の方に寄って来た。
「人生こんな事もあるから、あんまり落ち込まないで」彼女はそう言って私の頭をクシャクシャに撫でた。なんだか、泣きそうだ。
「それじゃあ、二人とも今日はお疲れ様」後ろからおじさんの声が聞こえた。
ラーレさんと一緒に店の外に出ると、外は意外と寒くなっていた。
「うぅ、寒いねぇ。まだ秋なのに」ラーレさんは空を見ながら呑気に言った。
「まだ待つの?」彼女にそう聞かれ、私は無言で頷いた。
「別にいいけど、風邪ひかないようにほどほどにしときなね」彼女はそう言って夜の街に消えて行ってしまった。確かにラーレさんの言う通りこの寒空の下、長時間待っている事は心身共に辛いものがある。あと十五分だけ待って、こなければ私も家に帰ろう。私は街の時計を確認し、コートのチャックをキュッと閉め、出来るだけ寒くないように身を小さくして待つことにした。
街行く人が時々私に気付き、一瞥し、そのまま過ぎ去っていく。
冷たい視線が、孤独感が、私の体を更に冷たくさせる。
楽しそうに会話をする家族、友人同士、そんな人たちが私の前を何気なく通り過ぎるたびに胸のあたりが焼ける様に熱くなってくる。
徐々に息が上がり、呼吸がし少し辛くなり、ゼェゼェと息を吐く。
しかし、まだ十五分は経っていない。もう少し、もう少しだけ彼女を待っていよう。
もう来ないかもしれないことは十分分かっている。でも、彼女が来た時に私がいなければ私が彼女を裏切ったことになる。思えば曖昧な約束だったので、そこまで責められる云われはない様に思えるが、もう少しだけ彼女を信じていたい。
私は思考を止め、夜空を見上げた。雲の合間に鈍く光る月が見えた。
少しだけ私の顔は微笑んだように思う。
「多くの人は満月を美しいと崇めるけど、私は雲の合間の朧に光を放つ月の方が貴く美しいと思うの」隣から聞き覚えのある声がした。
視線を空から戻すと、目の前にフランツィスカが立っていた。
「本当にごめんなさい。5時までには間に合わすつもりだったけど、全然ママが家から出してくれなくて。隙を見て家を出た時にはもう日も落ちてて・・・・とにかく、本当にごめんなさい。そして、こんな時間まで私を待っていてくれて本当にありがとう」
彼女はそう言って、私を抱きしめた。とても暖かく救われた気がした。
「でっ、でっ、でも、ママに黙って外に出て大丈夫だったのかな?」
救われた気がしたが、彼女の「隙を見て家を出た」と云う話がどうも気になった。
「いいのよ、あんな人の事なんか気にしないで。それより、あなたとの約束の方がずっと大事だから」
彼女は笑顔でそう言った。嬉しいような悲しいような複雑な気持ちだ。彼女は母親をよく思っていないようだ。
「あっ、あの、でも、勝手に出て行ったらママも心配に・・・」
「私のママの話なんていいの。無意味だから。大体、あの人が心配するのは私じゃなくて、娘が落ちぶれて自分の輝かしい経歴に傷がつくこと。あんな人間の事、どうでもいいの」
彼女は私の言葉に対して、少し怒った様子で言った。
彼女が語った事がどれだけ真実かは定かではないが、うちのママとは随分事情が違うようだった。
「エーデルのママはどんな人なの? 優しい? それとも厳しい人?」
彼女は表情を戻し、私にそう言ってきた。
「わっ、私のママはすごく優しくて、いつも私の事を気にかけてくれて、それで・・・」
「本当に羨ましいわ。私もあなたの家に生まれたかった」
フランツィスカは私が言い終える前にそう漏らし、少し微笑んだあと溜息をついた。
「えっと、その・・・・フランツィスカのママも同じだと思う・・・本当は・・」
「いいえ、それは違うわ。あの人は本当に自分の事しか考えていないの。私の事なんて自分のステータスを上げるための道具だと思っている。誰もがエーデルのママみたいに良い母親ではないの。会ってみれば必ず分かるわ」
彼女は少し声を荒げて言った。そこまで言われると会ってみたい気がする。娘を自分のステータス上げる道具だなどと考える母親が本当にいるだろうか?
「それより、呼び方。フランツィスカじゃなくて、フランでいいわ。呼び辛いでしょ」
彼女は打って変わって曇りない笑顔で私に言った。
「でっ、でも・・・・」彼女は年上だ。
「歳なんて関係ないわ、だいたい私がそう呼んで欲しいの、駄目かしら?」
しかし、彼女はそう言った。そう言われたら、断る理由はないだろう。私は首を横に振って、彼女を『フラン』と呼ぶことに同意した。
彼女と母親についての話題を深めても、彼女の考えは変わりそうにない。なにより、彼女の嫌いな話題を無理やり進めて嫌われてしまったら、かなわない。
私は早急に別の話題を考えることにした。
「ねっ、ねぇ、口が怪獣みたいになる病気って知ってる?」
先ほどの事がまだ気になっていた私はそう話題を振ってみた。話題を振った直後、彼女の顔が露骨に歪んだ。口には出さないが明らかに『は?』って顔をしている。
明らかに言い方が悪かった。しかし、他に良い言い回しが思いつかなかったのだ。
「んー。怪獣に見えるかどうかは分からないけど・・・」
フランは苦笑いしながらそう前置きし、思い当たる病気について語り始めた。
「口から鼻にかけて裂け目があったなら、口唇裂って病気。横に裂けているなら横顔裂って病気になるわね。あと考えられるのは単純にアレルギー反応で口周りに疱疹が出てるとか。もし肉食動物みたいに尖った歯が並んでいたって話なら、それは病気じゃなくて体に起きるちょっとしたエラーみたいなものね。歯が全部八重歯になるってケースも稀だけど、ないわけじゃないし。他には何が考えられるかしら・・・」
『口が怪獣みたい』と云う曖昧なワードからよくこんな多くの知識が出てくると、手放しに関心してしまう。
話を聞く限り、あの男の人の口は呪いでも何でもなくただの病気か生まれつきと云う事で正しいらしい。私はかなり安心した。
「エーデル、聞いてる?」
不意に声がした。申し訳ないが、途中から聞いてなかった。
「えっ、うん。聞いてたよ」しかし、私はそう言った。
「そう。それで、何か心当たりはあった?」
彼女は首を少し傾けそう言ったので、私は2回ほど無言で頷いた。
「それ良かったわ。ところで、そういう人をどこかで見かけたの?」
「あっ、えっと、さっきお店にそういう人が来てたから、そのっ、気になって」
「まぁ、世界には色んな病気があるのよ。だから、あんまりそういう人たちを奇異な目で見るのはよくないわ」
彼女は最後に私を少し叱るように言った。確かに、その通りだ。他人から怪物なんて思われるのは誰だって良い思いではないだろう。フランは知識だけでなく考えも大人の様だ。
それから、お互い喋り出せず無言の時間が続いてしまった。
私はもともと家族以外と会話するのが下手なのだ。何より初めての人間の友達なのでどんな話をすればいいのかも全く分からない。猫の話ならのってくれるだろうか。でも、もし彼女が猫嫌いだったら・・・・でも、このまま無言が続くのはとんでもなく気まずいので何か話さなくてはいけない。
「あっ、えっと・・・」
「そういえば、エーデルが吃るのはいつもそうなの?」
私が話を切り出そうとすると、フランはそれを遮るように言った。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に耳鳴りが響いた。そして、思い出したくない記憶が呼び起される。眩暈がし私は思わず口を抑えた。
「えっ、ごめんなさい。そんな責めるつもりなかったのよ。ただ誰にでもそうなるのか知りたかっただけで!」
私のただならぬ反応を見て、フランは慌てて釈明した。
「大丈夫・・・・大丈夫・・」私はそう言って深呼吸して気持ちを整えた。
「ごめんなさい。配慮が足りなかったわよね。私ったら何してるのかしら」
フランの言葉に私は首を振った。
「いっ、いいよ。変だもんね。でっ、でも、家族と話すときはこうじゃないんだよ。家族以外の人と話すと上手に言葉が出なくて・おっ、・・おかしいよね、なっ、なんか気持ち悪いよね・・・」
私は自分で言いながら、涙を流していた。
学校での私へのいじめの始まりは私の『吃り』だった。これさえなければ私はサラやミレーマと友達になれていたかもしれない。学校に行くことに怯えることはなかったかもしれない。そう思うと頭が、心が、ずきずき痛むのだ。フランも最初から私を気持ち悪いと思っていたのかもしれない。
やっぱり、私には友達など・・・・・・。
「変じゃないし、おかしくないし、気持ち悪くない!」
私が諦め、俯きかけた瞬間、彼女は大きな声を上げた。そのあまりの大きな声に街を歩く人たちも一瞬歩みを止めた。
「えっ・・・あっと、いっ、今、何て・・・・」
「だから、エーデルは別に変じゃないし、おかしくないし、気持ち悪くない! もしあなたの喋り方を悪く云う人が居るなら、その人の器が小さいだけ! 誰にだって得意、不得意はあって当たり前じゃない!」フランは私の両腕を思い切りつかみ大声で叫んだ。街の視線が一気に私たち二人に集まっている。それでも、良かった。彼女の言葉にどれだけ救われた事だろうか。
私は人目を気にせず、彼女の先ほどの声に負けないくらいに大泣きした。
今日の事はきっと一生忘れないだろう。