第30話(2-6-3)
「目が覚めたか。なんというか、災難だったな。そもそもあれは初めての人間が数時間潜っていい代物じゃないんだ。少なくとも数日くらいは短い時間だけ潜って徐々にあの空間に脳を慣らしてやらないと。ただでさえ慣れていない状況の上、更に中で何度も殺されて。全く、脳がショートして当然だ。はっきり言って死んでもおかしくなかった。本当にイカれた女だ」
「・・・」
「おい、聞いてるか?」
「・・・」
「お前、まさか・・・・・・頭がやられたのか? 私が誰だか分かるか?」
「えっ・・・・えっ、うん。ごっ、ごめん・・・まだ、頭がボっーとしてて・・・そのっ、あっ、ありがとう、ジェシカ・・・・・・」
「いや、大丈夫ならいいんだ。とりあえず、今日は一日休め。あのイカれ女はビゴがブチギレして追い払ったからな。明日からもっと現実的な訓練をこちらで用意しよう。それにしても、あんなに怒ったビゴを見たのは久しぶりだ。ビンタ一発であのイカれ女が吹き飛んだのは爽快だったがな」
「びっ・・・・ビゴさんが?」
「ビゴもこの階の住人だからな。私やそのほかの奴らと同じ改造人間なんだ。ちなみにここの連中が本気で殺し合いをしたら多分最後に残るのはビゴだろうな。滅多に怒らなないが一番恐ろしい」
「そっ・・・・・そうなんだ・・」
「ああそうなんだ・・・・・」
「・・・」
「まだ頭がボーっとしてるのか?」
「あっ・・・・ええ、すっ、少し・・・・・」
「?」
「どっ、・・・・・・どうしたの、ジェ、ジェシカ・・?」
「んっ。いや、何でもない。なんとなく初めて会った時の事を思いだしてな」
「ジェっ・・・・ジェシカが、えっと、1人でお店に来た時の事? えっと、あっ、あの時はわっ、私が・・・そのっ、ミルクとレモンを出したら、ジェシカがそのっ、どっ
どっちも、こっ、紅茶に淹れたんだよね・・・・」
「そういう斬新な紅茶じゃなかったのか?」
「えっ・・・・うん。あっ、あれはどっちか選んで欲しくて・・・・・」
「そうか、ならそう言ってくれれば良かったのに。ところで、リヴァイアがお前と一緒に保健室で介抱されていた時、あいつが何で怪我して来ていたか覚えてるか?」
「えっっ・・・・・えっと・・・ごめん・・・・忘れちゃった・・」
「・・・そうか。なら仕方ない。一応聞くが、あそこでお前がヨルゲに悪態つかれながら介抱されていたことは覚えているよな?」
「えっ・・・・えっと・・・うん、・・・・そっ、それは、覚えてるよ」
「・・・・・なるほど、なるほど・・・・・。入れ替わった状態で気絶させられると宿主との記憶のリンクが一時的に切れるらしいな。参考になったぞ。ちなみにあの時お前を介抱していたのはヨルゲじゃなくエレクタだ。やっと、ボロを出したな」
「クソっ、鎌掛けやがったのかクソガキ! 離しやがれ!」
「馬鹿だな。まだ記憶が飛んだ振りも出来ただろうにさっさと出てきて。嗚呼、良い顔だな。あいつには言ってないが、私はそういう顔が好きなんだ」
クソっ・・・・最悪だ! 折角、入れ替われたのに!途中までは上手く真似できていたのに・・・・どこ、どこで疑われ始めた・・・・・・クソっ、クソっ。なんだこのガキ、力も馬鹿みたいに強くて全く腕が動かせない。
「ところで、お前、名前はあるか?紛らわしいから名称が必要だ」
青髪のクソガキが怪力で私の両腕を抑え込みながら涼しい顔で言った。
「はっ・・・・誰が教えるか!」
「じゃあ、『性格ブスちゃん』とでも仮に名づけておこう」
「ただの悪口じゃん・・・・。じゃあ、マルグリットでいいよ。仮名ね、仮名」
「・・・・お前、それ本名だろ」
「ぜっ、全然違う!カスってもないから!」
「お前、1回崩れると酷いな・・・」
「うっさい!死ね、クソガキ!!私はあんたみたいな可愛くないガキが大嫌いなの!さっさと離せ!」
「それにしても、お前・・・・なんか気持ち悪いな」
「お前の方が気持ち悪いんだよ、死ね!」
「そういう話じゃないんだ。お前、魔女なんだよな?」
「は? だから、何??」
「魔女のクセに随分知性も情緒も残っていると思ってな。はっきり言ってここまで知性も情緒も残っていると最早新種と言っても過言じゃない。多分、お前はお前が思っているよりずっと特別だ。特別で危険だ。人間の知性を使う怪物。こんな恐ろしい事はない。お前が馬鹿側の人間で本当に良かったと思うよ」
「いいから離せ!怪力!」
「本当に馬鹿で良かった」
クソガキがそう云ってから間もなくお喋りロボットとラジコン女が駆けつけ私はあっと云う間にベッドに拘束されてしまった。
「気絶させるのは少し待ってくれ。こいつには少し話を聞かなくちゃいけない」
「だっ、駄目ですよ!早くラヴィちゃんを助けないと!」
「そうなんだが。こいつは、いや、こいつと同じ系統の魔女が多分これからの私たちテンプル騎士団の最大の敵になる。出来ればもっと情報を引き出したい」
「ジェシカ、それどういう事?」
「こいつ、魔女のクセに知性も情緒も恐ろしく残っているんだ。現にさっきまでラヴィの口真似で入れ替わった事を悟らせないようにしようとした。おまけに状況や相手の特徴を捉えて悪口も叩ける。宿主の負の感情に呼応して現れ、ただ暴れ回る今までの魔女と全く違う。きっと、新種だ」
「そっ、そんな・・・・今はあんまり知性を感じないけど・・・」
「うっさい、ラジコン女! あんた、どうせ元がブスだからそんな可愛いロボットのスキンにしてるんでしょ!ブス、ブス、ブス!」
「うっ、うわぁ! 本当だ!私の事、ちゃんと観察して的確に悪口を言ってくる!このボディを遠隔操作で動かしてるからラジコン女って言ったんだね!」
「そうこんな感じでな。わざわざ協力してくれて有難う。余計な説明が省けた」
「わっ、きまずい顔もしました! この子、本当に魔女なんですか?」
「自分ではそう言っているが、どうだろうな。なぁ、マルグリット少し話をしないか。お前が魔女なら魔女になった時の事を覚えてるのか?お前みたいな奴は他にいるのか?」
クソガキは馬鹿にしたり、嘲る様子もなく真剣な表情で私に聞いてきた。でも、話す義理なんてない。だいたい、私も悲惨な成り行きで魔女に堕ちたが、それは多分罹り人にとっては特別な事ではない。当たり前の様に魔女に堕ちれば知性を失い獣に堕ちるのだと思っていた。でも、私はある日を境に意識が、心が戻った。その原因については当然心当たりなんてないし、そういうものだと思った。でも、どうやら、私は特別だったらしい。思えば私も生前に沢山の魔女憑きを見たが、今の私ほどお喋りな魔女はいなかった。私は特別・・・・・特別・・・・・・特別。
「私は特別・・・・・・特別・・私は特別・・・・・特別・・・」
「おい、聞いてるか・・・・?」
「特別・・・・・・特別・・・・特別、・・・_______アハハハハハハハ!! 教えてれくれてありがとう! お礼にこの子は一旦返してあげる!目が覚めたわ!!流石に魔女がテンプル騎士団の本拠地にいるのは分が悪いわよね!あなたたちは優しいからそんな事をしないとは思うけど、あのイカれ女みたいなのにバレたら、この子ごと殺されかねないものね。気付かせてくれて本当に有難う! さようならね!」
「待てっ!」
「やっ、やってしまった・・・・・・」
「いっ、いや、ジェシカは悪くないよ・・・・・」
「ラヴィちゃんが戻ったから結果オーライではありますが、なんていうか大変なモノが野に放れてしまったような気がしますね・・・」
「私の責任だ。おかしなスイッチを入れてしまったらしい。必ず私が見つけてこの手で殺す。だがこれはもう私たちだけの問題じゃない。私が自分で司教に進言しよう。『人間の知性を持った魔女が現れた』と」
「私も一緒に行くよ」
「いや、私一人でいい。あとの事は頼んだぞ」
「ちょっと、これでお別れみたいな事言わないでよ。だいたい、あんな簡単に宿主から離れられるなら遅かれ早かれ逃げられてたよ」
「そうですよ、ジェシカちゃんは何も悪くありません。誰も何も知らないまま知性魔女が野に放たれると云う最悪の事態を防いだのですから称賛されることはあっても、責められる事はないはずです!」
「そーそー。そもそも、新種が『アレ』だけとは限らないし。人と同じ知性を使う魔女が存在するって事が周知になる事はだいぶ大きいよ」
「それはそうだが、ミスはミスだ。極刑になっても文句は言えない」
「もーだから、ジェシカのせいじゃないってば。防ぎようがなかったよ、本当に」
「・・・・まぁ、それは御上が決める事だ。もう行くぞ。この報告は早い方が良い」
「本当に1人で行くつもり?」
「ああ、そうだ。一度魔女に憑かれた事がある私だから知っていた、私だけが知っていた。そうした方が収まりがいいだろう、色々と」
「ジェシカ、正気??」
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「あっ!」
目を開いた途端、目の前にいたアイさんが私に抱きついてきた。重い。
「ご無事で良かったです!」
アイさんは私をきつく抱きしめながら言った。頭がぼんやりとしていて、何のことかさっぱり分からない。とりあえず、苦しい。
「あっ、すみません。つい感極まって抱きついてしまいました。えっと状況を説明させて頂きますと、ラヴィちゃんはシュミレーターの負荷に脳が耐えられなくなって気絶していたんです。あのシュミレーターはそもそも最初から長時間潜れるようなものではないのでラヴィちゃんには一切の責任はありません。明らかに、10割方、あの鬼ババが悪いです!」
鬼ババ・・・・・多分、ノクターンさんの事だろう。本当に酷い目にあった。最後は病院の少女の幻覚まで見えたほどだ。ノクターンさんの残虐行為はもちろんのこと、病院の少女に口から脳味噌を吸い出されそうになった事も、思い出すだけで背筋がひんやりして気持ち悪い。本当に死んだかと思った。本当に彼女に取って代わられてしまうのだと・・・・・まだ腕が小刻みに震えている。
「怖かったですよね。でも、もう大丈夫です」
アイさんはそんな私の様子を見て、手を握って言ってくれた。
その機械の手は冷たいけど、温かかった。
「心配ないよ、大丈夫 全部上手く行くからね______」
そして、彼女は優しく歌い始めた。どこかで聞いた事がある歌。でも、よく思い出せない。正直に言うと、音程は少し外れているような気がするが、心が落ち着く。彼女は歌いながら私に微笑みかける。私も微笑みを返す。最早、アイさんは私にとって優しいお姉さんのような存在だ。ここを離れても絶対何度も会いに来よう。
「たっだいまー!」
彼女の歌に聞き入っている最中急にそれを打ち消すエレクタの元気な声が部屋中に響いた。どうやら、どこかに行っていたエレクタが戻ってきたらしい。
「皆さん、ご無事で何よりです!」
カーテンを開け放ったアイさんが大声で言った。そこにはエレクタだけでなく、ジェシカにビゴさん、ヨルゲにスマイル、おまけに一度もまともに話した事もない、いつもマスクをしている男の人もいた。
「当たり前だ。これだけ大挙して行けば向こうも下手な事言えないだろう。俺たちがマルっと敵になったら最早戦争だからな。ただでさえ上級生の半分以上が敵になったってのに・・・これ以上敵を増やしたくないだろ。全く、俺様まで引き摺り出して」
一番、最初に喋ったのは名前も知らないマスクの男の人だった。確か、口が裂けていて恐い人。
「文句言いながら、結局付き添ってくれるマッド先生。ツンデレ~ツンデレ~」
エレクタが横から茶々を入れた。
「殺されたいか、クソガキ!」
マスクの人がマスクを取ってエレクタを怒鳴った。やっぱり、口が恐い人だった。前にビゴさんと一緒に来た時は動悸がするほど怖かったが、スマイルのぐしゃぐしゃの顔やボタンの眼のオペラに見慣れた後だと前程は恐いと感じない。
「よもや先生にまで出張って貰って。本当に面目ない」
2人のやり取りを聞いてか、ジェシカがマスクの男の人にペコリと頭を下げた。
「気にするな。一人でも欠けられたら俺様に無駄な仕事が増えるからな」
マスクの男の人、改め、マッド先生はそう言ってジェシカの髪をくしゃくしゃと撫で、奥の部屋に1人で入っていってしまった。どうやら、この人も良い人らしい。ここにいる人は皆良い人だ。そんな人たちに囲まれて私は幸せだと思った。
「いやぁ、見事なまでのツンデレだったね」
「だから、言ったでしょ。先生も絶対来るって」
「『一人でも欠けられたら俺様に無駄な仕事が増えるからな』キリっ!」
「やめなさい、スマイル」
「いや、でも本当にかっこ良かったよ。どさくさに紛れて予算の増額も承認させちゃうし、流石僕たちのボスだよ」
「そこは確かにしたたかだったわね」
「ジェシカにデコピンして結局殆ど1人で話したしね。この教会で物怖じせず司教様に物申せるのはマッド先生くらいだよ」
「本当ですか? やっぱり、なんだかんだ言っても私たちの先生ですね!」
「今回ばかりは本当に感謝しているよ」
「こらこら、あんまり云うと扉の向こうの先生の顔が真っ赤になっちゃうわよ」
私は隣にいるアイさんも含めた6人の楽しそうな会話を羨ましく思いながら聞いた。事情は分からないがほっこりする。きっと、ここの階の人たちは私の想像を遥かに越えたレベルで繋がっているのだろう。それはとても温かくて、新参者の私にはちょっぴり冷たかった。皆、其々が私なんかよりずっと付き合いが長いのだから当たり前なのだろうが、彼女たちの輪に入りきれていないのがちょっぴり寂しい。
「待って、待って、待って!私の話聞いてた!!?!?」
「うっ、うん・・・・せっ、折角、そのっ、あっ、新しいメニュー用意して貰ったのに・・・ご、ごめん・・・・やっ、やっぱり、行かないと・・・・・」
「自棄になるのは早いよ、ラヴィ。全然、あんな無理な訓練なんて必要ないからね。現実的な訓練をしよう!ねっ!」
「でっ、でも、・・・・にっ、逃げちゃ駄目だって・・・そのっ、思って・・・・」
「逃げていいんだよ!ここは逃げるところだよ、ラヴィ!」
「わっ、わたし・・・・・そのっ、ここの皆に甘えすぎだと、思うから・・・」
「そんなこと全然ないから。ちょっと、ジェシカもなんか言ってやってよ」
「うーん、別に本人がやる気ならいいんじゃないか。熱があるうちにしっかり叩いて貰った方が良い。だいたい、本気のビゴにあんな派手にビンタされて吹き飛ばされたんだから反省して少しは現実的な内容になっているだろう」
エレクタから話を振られたジェシカが言った。ビゴさんがノクターンさんをビンタで吹き飛ばした!?!?!?! 一体、何があったのだろう。状況が想像出来ない。とても気になる。
「マシになってるといいけどね。だいぶ怪しいよ。あの人だし」
「そうだな。じゃあ、行って駄目そうだったら戻ってくればいい。その時のためにちゃんと、こっちでもきつめのメニューを新調して待ってる」
「あっ、ありがとう、ジェシカ。行ってくるね!」
「ああ」
ジェシカはそう言いながら、持っていたポトシンくんのぬいぐるみの手をヒラヒラさせバイバイさせながら私を見送ってくれた。・・・・・可愛い!!
これでいいんだ。楽な道を選んでばかりじゃきっと駄目なんだ。自分の居場所は自分で勝ち取らないと駄目なんだ。どんなに苦しくてもここで逃げちゃ駄目なんだ。ママやパパ、フランに、ここにいる皆。皆に恥じない人間にならないと。私は再び決意を固め、ノクターンさんのオフィス兼自室のドアを叩いた。
「『はぁ? てめぇ、どの面下げて戻ってきやがった』って気持ちです」
ドアが開いた途端、お人形の様に美しい顔の女性がその綺麗さを崩すことなく朗らかな表情のまま私に言った。・・・・・もう、決意が砕かれそうだ。
「およしなさい、フィンブル。話を聞いてあげようではありませんか」
少し離れた所で真剣な面持ちで書類を書いていたノクターンさんがペンを置いて、ゆっくりと立ち上がった。左頬が赤くなり、ところどころ内出血していた。かなり痛そうだ。これをあのビゴさんがやったなんてとても信じられない。
「さてさて、今日はどんなご用件でしょうか?」
ノクターンさんはゆるりと、しかし、言葉に重みを乗せながら私に問いかけた。思わず、息を呑んでしまう。言うんだ。ちゃんと、自分の言葉で。
「きっ、昨日の続きをお願いします! がっ、頑張ります!」
私はそう叫んで深々と頭を下げた。しかし、何の反応もなく苦しい時間が続いた。いつ顔を上げていいか分からないが、返事がくるまでズっとこうしていよう。
「____ふむ。思っていたより、根性はあるようですね。良いでしょう。顔をお上げなさい。またじっくり可愛がって差し上げます」
ノクターンさんは気まずい沈黙の果てに言った。私はゆっくりと顔を上げた。
「と言いたいところですが、見ての通り私は今この退屈な書類の世話でとても忙しいので、フィンブル、代わりにあなたが遊んでやって下さい」
ノクターンさんはそう言って、手振りで私にお人形の様な整った顔の女性、改め、フィンブルさんの方に行くように促した。
「かしこまりました。改めて、よろしくお願いします。ドブネズミさん」
フィンブルさんは視線を私と同じところまで落として、優しく私に右手を差し伸べてきた。その手に自分の手を重ねる・・・・・・・・冷たっ! 私はすぐにその差し伸べられた手から自分の手を離してしまった。いや、冷たすぎる。氷の塊に触れたみたいだ。
「よろしくお願いします」
彼女は満面の笑みで再びそう言って、私の右手を強引に引き寄せ両手で掴んだ。左手も冷たい!冷たすぎて、もはや痛い! 薄氷の張った水に手を突っ込んでいるような感じだ。千切れちゃう、千切れちゃう!痛い、痛い、痛い、痛い、痛い! そんな苦悶の表情をした私を余所に彼女は無邪気に手をぶんぶんと振る。悪魔だ、この人も悪魔だ!
それから私は例のカプセルが沢山ある部屋に連れていかれ、促されるままカプセルの1つに入った。ちなみにここまで来る間に何度も息を吹きかけ冷やされた両手を温めようとしたが、全く凍った様な感覚は抜けず、そうした本人もそんな私の行動を全く気に留める素振りも無かった。最早、不安しかない。
目を開けると、私は豪華でとても大きい聖堂のような場所に立っていた。綺麗なステンドグラスに美しい模様の彫られた豪華でどっしりとした柱たち、天井は見上げるほど高く、中心あたりに神聖そうな絵画が飾ってある。目の前の奥の方には立派なパイプオルガンが堂々と聳え立っており、ステンドグラスから漏れる優しい光がそれをより神々しく照らし出していた。私はそれらにただただ圧倒され一瞬何でここに連れてこられているのか忘れかけた。
「綺麗でしょう。ここは私のお気に入りなのです」
空間の歪みから出てきたフィンブルさんは、現れるなり周りを見渡しながら言った。
「このように椅子がない方がすっきりとして美しいと思いませんか?」
彼女はわざとらしくコツコツと床を鳴らしながら歩き言った。確かに聖堂のような場所ではあるが椅子がない。サッパリしているが、なんというか、そのせいで冷たい印象があって、個人的にはあまり好きじゃないかもしれない。綺麗なのに冷たい。なんだかフィンブルさんそのものを表わした様な場所だ。もちろん、口が裂けてもそんな事を言えないが。
「さて、空間に慣れるまでのんびりお話でもしましょうか。あまり事を急ぐと、また過保護の改造人間どもが殴り込みを掛けてくるかもしれませんから。全く、困ったものですね」
彼女は少しジャンプして祭壇の上に座り、そう口にしてから隣においてあった聖杯のようなものを手に取った。教会の人間なのに祭壇の上に何食わぬ顔で腰を下ろす行為も目に余るが、私がお世話になっている6階の人を侮辱するような事を言うのでなんとなくカチンときた。
「口が裂けたマッドサイエンティスト、口うるさいチビ大人、政府に棄てられた欠陥人工知能、顔面崩壊したサイクロプス、肝心な時に喘息になる役立たずの目つきの悪いブス、やかましいラジコンに生意気な大人気取りのクソガキ・・・・・憐れな、憐れな、教会のモルモットたち」
彼女は手に取った聖杯を愛おしそうに眺めながら言った。
どうやら、私はこの人の事を勘違いしていたようだ。ノクターンさんと同じように怖くて残酷な人だと思っていた。でも、それは違って、多分、この人はもっとタチが悪い。
私はいつの間にか、両手の拳を握りしめていた。凍り付いていた手に熱がこもる。
「そうだ。きっと、彼らはあなたを自分たちの真のお仲間に。つまり、『改造人間』にしようとしているのではありませんか? 無事試験に合格すればあなたは下の階で他の同年代の誰かと同じ部屋で暮らすことになる。折角、久しぶりにお友達が出来たのにそれはあまりにも面白くない。でも、改造人間にしてしまえば否が応でも6階に押し込まれる事になる。彼らの真の目的はそこにあると云うのは邪推でしょうか」
彼女は聖杯の底を私に向け、ぐるぐる回しながら言った。
意識する前に勝手に眉間にしわがよる。6階の皆がそんな事を考えている筈がない。『改造人間』にはさせないと直接言葉で言ってもくれた。いい加減な事を好き放題言って、この人は・・・・最悪だ。最低だ。
「道連れを欲する、憐れで、惨めで、卑しい、モルモットどもよ!」
彼女は私の表情を確認すると、少し微笑んでから畳み掛ける様にそう叫び、聖杯を投げ捨てた。その彼女の声は『悪魔』のようというより、『悪魔』そのものだった。怒りと憎しみで体がプルプルと震えてきた。
「とまあそろそろ頭も慣れてきたと思うので、無駄話は終わりしてゲームの説明に移りましょうか」
彼女は何食わぬ顔でそう言って祭壇から降りた。心では我慢しようと思っても体が勝手に彼女を睨んでしまう。
「ルールは簡単。あなたはその腰に着いたナイフで私の身体のどこでも傷を一つ付ければいい。そうすれば、あなたの勝ち。このゲームは、私とのお遊びは即終了です。腰に着いたナイフホルダーは抜けば即時に新しいものが補充される魔法のナイフホルダーなので好きだけ投げて大丈夫ですよ。傷一つ、かすり傷一つで構いません。以前、体験した通りここで傷を負っても現実の私に直接的な影響は全くありませんから、遠慮は一切いりません。簡単でしょう」
彼女は自分で放り投げた聖杯を拾い上げながらそう説明した。ルールは分かった。そして、確かにいつの間にか腰にナイフホルダーが付いていた。私は怒りと憎しみの感情のままそこからナイフを抜き取った。
「準備は出来たようですね。それでは楽しみましょう」
彼女はわざとらしく両手を大きく広げて言った。




