第2話(1-2-1)
気が付いたとき、私は学校の保健室の白いベッドの上にいた。
誰かが倒れていた私をここに運んでくれたらしい。
一体、誰なのか検討が付かないが、確実にクラスの人間ではないだろう。
とにかく、私は深いため息をついた。
フランツィスカと友達になり、幸せ一杯の気持ちで家に帰ろうと思った結果がこの有様だ。どうしても、私には不幸が付いて回っているようだ。
そんな事をボッーと考えていると、突然、オデコの辺りに強い痛みが走った。
慌てて、痛みが来た場所を手で抑えようとすると、その手はオデコではなく湿布らしきものに当たった。これは保健室の先生が貼ってくれたのだろう。
更に私のベッドは全面がベージュのカーテンで覆われており、外から断絶されていた。これも保健室の先生の配慮かもしれない。
私はゆっくりと腰を上げ、ベッドから起き上がった。
すると、荷物置きのための緑色のカゴの中にチャミが収まっているのが見えた。
丁寧に彼女の下には白いタオルが敷かれている。
チャミは気持ちよさそうに眠っていた。見たところ、傷がないようなので私が倒れてからサラやミレーマに暴力を振られる事はなかった様だ。
私は胸を撫で下ろした。チャミが無傷なのが唯一の救いだ。
私はチャミの無事を確認すると、カーテンの隙間から外の様子を覗いた。
部屋には白衣を纏った保健室の先生しかいない。
とりあえずはここから出ても大丈夫そうだ。
私は眠っているチャミを起こさないように丁寧に抱きかかえ、カーテンを静かに開けた。
「折角、学校に来たのに散々な目にあったわね。」
カーテンを開け私が出てくるのを確認すると、すぐに保健室の先生がそう言ってきた。この先生には私がまだ学校に通っていた時、何度もお世話になっている。
そのため、この先生もまた私の事情を知っているので無用な詮索をしようとしない。
「本当に悪いわね。保健室の先生じゃ、あの子たちのクラスの担任にあの子たちを叱ってくれるようお願いすることくらいしか出来ないのよ」
先生は本当に申し訳なさそうに言った。この先生は私の悩みや苦しみを親身になって聞いてくれる学校にいる数少ない理解者だ。
「先生は悪くないよ」私は言った。
「有難う。でも、保健室の先生としてじゃなく一人の人間としてあの二人延いてはあのクラスの問題を解決する力が無いのは本当に心苦しいわ」
先生は意気消沈した様子でそう嘆いた。
「私が校長だったら、見て見ぬふりしてるあのハゲもろとも二人を学校から追い出してやるのに」それから、冗談めかしく言った。
うちの学校の保健室の先生は可愛い顔して結構大胆な事を言うのだ。
ちなみに、『あのハゲ』とはうちのクラスの担任の事だ。
「まぁ、とにかく。これからどうする? もう少しここで休んでいく?」
先生がそう聞いてきたので、私は首を横に振った。
「・・・・・そうだよね。こんな学校に長く居たくないもんね」
先生は苦い顔をしながら、そうこぼした。残念ながらその通りだ。
「はい、上着ね。外は寒いから風邪には気をつけて」
先生は洋服かけから私の上着を取り、それを私の肩の上に乗せた。私はチャミを一旦先生に預け上着の袖に腕を通した。
私は先生からチャミを返してもらい、お礼を言ってから保健室を後にした。
廊下を歩きながら昇降口に向かう途中、横から何か嫌な気配を感じた。
私が横をみると、そこには手洗い場があり、その上にある鏡に私が映っていた。
なんて事はない感じた気配は鏡に映った自分自身だった様だ。
私が鏡の前から立ち去ろうとすると、鏡に何かの文字が浮かんだ。
それを見た瞬間、慌てて瞬きをしたがその文字は消えなかった。
その文字は私が今まで見てきたどの文字とも異なっていた。感覚だけだが、この世の文字ではないような気がした。
私は擦って文字を消そうと鏡に顔を近付けた。すると、私の顔に合わせて文字は大きくなった。
嫌な予感がした。
私が自分のオデコの湿布が貼られていない部分に触れると、その文字は上手く私の手の下に隠れた。という事は不気味な文字が浮き出たのは鏡ではなく私自身!
慌ててオデコを擦るがその黒い文字はまるで消えない。
得体の知れない恐怖が一気に私を包んでいくのを感じた。
しかし、恐怖はそれだけはなかった。
廊下の電灯が次々とスパークして光が消え、廊下の両端にしか窓がない事もあり辺りが昼間なのにかなり薄暗くなった。
更に鏡の両側の壁からゆっくりと赤い血が滲み出し、それが文字を作っていく。
しかも、一箇所ではない。同じ現象が手洗い場の後ろ壁とそこに付けられた鏡全てに起こり同じ文字を作り出す。
新しく出てきた赤い文字はさきほどの文字と違い簡単に読む事が出来た。
『復讐しろ』、『殺せ』私の眼前は目の前の鏡以外赤いその言葉で埋め尽くされた。
後ろを振り向くと、後ろの壁も赤い文字の2つの言葉で埋め尽くされていた。
私が鏡に視線を戻すと、鏡の中の私の横に昨日夢で見た蒼い目の白いワンピースの少女が立っていた。
もう、何がなんだか分からない。怖い。
色んな不幸が重なり、気が触れてしまったのかもしれない。
私の隣にいる少女は昨晩の最悪な笑顔とは打って変わり、真顔だった。
その表情は悲しそうであり、怒りに満ちているようにも見えた。
しばらくすると、彼女は口を動かし私に何かを訴え始めた。
その声ははっきりと聞こえた。
「復讐しろ」と。「殺せ」と。繰り返し呟いているのだ。
私はそんな彼女の言葉より、彼女自身に消えて貰いたかった。
なぜか、体に力が湧き上がって来ているのを感じた。
私はその湧き上がる力に任せ、鏡に写っている白いワンピースの少女に向かって思い切りパンチを入れた。
その瞬間、目の前の景色は全て元通りになった。
ただ一箇所、目の前の鏡を覗いて。
私の目の前の鏡には私の拳が重なっており、大きくひびが入っていた。
私が恐る恐る鏡から拳を離すと、私がパンチを入れた箇所から赤いシミの付いた破片がボロボロと水道台の方に落ちていった。
私は背筋が凍った。悪夢を振り払うためとはいえ学校の鏡を破壊してしまった責任感のせいも少しはあったが、大部分はそうではなく私自身の力に対してだ。
ひ弱な私が1回のパンチだけで鏡を破壊出来る訳が無い。
しかし、私の指は確かに割れた鏡で切れ少しずつ血を垂れている。
どう考えても目の前の鏡を破壊したのは私自身だ。
でも、私にそんな力があるはずがない。なのに、目の前には割れた鏡があり、私の手の甲からは血が滲んでいる。訳が分からない。
不意に私は水道台に落ちた鏡の破片の1つに映った自分自身を見た。
その鏡の破片には私の血が付いており、そのせいで鏡の中の自分の顔は血飛沫を浴びているように見えた。それはまるで先ほど人を殺し、返り血を浴びた殺人鬼のように映った。
その像を見て私は恐怖した。鏡に映った自分が自分でないような気がしたからだ。
私はすぐに鏡の破片から目を背け、向かいの壁を見て気持ちを落ち着けた。
いち早くここから離れねばと思った。ここにいては今度こそ本当に頭がおかしくなってしまう。
私はそう決めると、逃げるようにその場を後にし、学校から飛び出した。
気持ちを落ち着けたつもりだったが、未だに心臓が高鳴っている。
なぜ白昼夢を見てしまったのか、本当に私が鏡を破壊してしまったのだろうか。色んな疑問が残る。
いくら考えてもその問題は解決出来ず、私の心の中を黒いモヤモヤが包む。
それから私は手の甲の痛みを堪えながら帰路についた。
手の甲から流れる血はまるで収まる気配がなく、私が通った道に血の跡を残していく。保健室に戻り処置を受けるべきだったと後悔したが、もう遅い。
私は使いたくなかったがママに貰った白いレースのハンカチで手の甲の出血部分を軽く抑えた。ママから貰った白いレースのハンカチに徐々に赤い模様が広がっていく。
ただ、それだけの事なのになぜか悲しい気持ちになる。ママから貰ったハンカチが赤い血で穢されていく。それを見ているのが辛かった。
しかし、傷口を放っておいて倒れたらそれこそ一大事なのでそれをグッと堪えた。
白いハンカチは既に半分以上が赤い血で染まってしまった。
それは私を一層暗い気持ちにした。
そんなどんよりとした気持ちの中、繁華街にさしかかった。
街の時計を見ると、フランツィスカと別れてから1時間もの時間が経っていた。
そういえば、お腹も減っている。
私はママから貰ったお金でお昼を買うことにした。
もっと小さい頃にお金が無駄になると思って貰ったお昼代を使わず、そのまま返した事があったが、「食べることは欠かしてはいけない大切な事よ。私たちの事を思ってくれるなら毎日ご飯をきちんと食べて」とママに怒られてしまった事がある。その日からはご飯だけはきちんと食べるように心がけている。
私がコンビニに入ろうとすると、突然後ろから声がした。
「やっと、見つけた!」
私が慌てて振り向くと、そこには小学校の低学年ほどの背の低い可愛い少女が立っていた。少し息が上がっている。髪は薄紫色で眼はエメラルド色に光っている。その子は子供にしてはきっちりとした服を着ている。そして、なぜか赤十字のマークの入った白いカバンを肩から下げていた。
少し不思議な感じもしたが、怖い気はしなかった。
「ちょっと、見せてね」
少女はおもむろにそう言うと半ば強引に私の手を取り、抑えていたハンカチをどかし私が鏡で切った手の甲を見た。
「良かった。血はだいたい止まっているみたいね」
それから、そう言うと赤十字のマークが入った白い鞄を肩から下ろし、中から茶色の瓶、綿の詰まったプラスチックの容器、ピンセットを順々取り出した。
そして、慣れた手つきでピンセットを使ってプラスチックの容器の中の綿を1つ取り、それを茶色の瓶の中の液体に浸けた。
「ちょっと、染みるけど我慢してね」
少女はそう言うと、それを私の傷口にペタペタと塗り始めた。
それは学校で怪我した人が保健室で受ける処置そのものだった。
どうして、こんな小さな子がそんな芸当が出来るのだろう。純粋にそんな疑問が湧いた。そんな事を考えているうちに少女は傷口に小さな布を乗せ、それを白いテープで固定し、素早く私の手に包帯を巻いていく。
あっという間に傷の処置が終わってしまった。この少女は一体何者なのだろう。
「あっ、ありっがとう。でも、こっ・・・・こんな事、誰に習ったの?」
相手が年下な事もあり私は遠慮なくそう聞いた。
すると、少女は少し考え込んでから口を開いた。
「んー、そうねぇ。パパがお医者さんだからその真似なの」
少女は一瞬考える素振りを見せてから、そう言った。それにしても凄い手際だ。
「あなた、お名前は?」
私が二の句を考えていると、少女が先に声を掛けてきた。
「わっ、私はえっ、エーデル。このっ、こっ子は、チャミ」
もしかしたら、襟の中の猫の方の名前を聞かれているかもしれないので一応自分の名前と猫のチャミの名前を同時に言った。
「そう、エーデルちゃん。良い名前ね。大事にするのよ」
少女は優しい笑顔でそう言った。聞いていたのは私の名前で良かったらしい。
「それじゃあ、エーデルちゃん。私、用事があるからもう行かないと。今度、街で会ったら声掛けてね」少女はそう言うと幼い体を一心に動かし、どこかへ走り去ってしまった。なんとなくだが、彼女とも友達になれる様な気がした。そういえば、名前くらい聞いておけば良かった。私は彼女のお陰で少し心持ちが楽になった。しかし、彼女はいつから付いて来ていたのだろう。謎だ。
まぁ、細かいことを気にしすぎるのもよくないのでそこは余り考えないことにした
とりあえず、私はコンビニに入りいつもはお店の休みの曜日に買って食べる筈のスティック状のパンが5本入った袋と幼児用の小さい野菜ジュースのパックと猫用のおやつを手に取りレジに向かった。
私がレジに商品を置くと、レジの男の人が訝しげな表情で私を見てきた。
いつもと違う曜日なので私にとって目の前の男の人は初対面だ。
それは目の前の男の人も同じなわけで、未だ学校が授業をやっている時間に私くらいの子がコンビニで物を買っているのは確かに妙に映るだろう。もしかしたら、襟元のチャミがそれに駄目押しをしているかもしれない。襟元に猫を収めている少女など世界にそう何人もいないだろう。
しかし、こうしておくと事実今の寒い季節は結構暖かいのだ。
チャミも同じ事を考えているのか、全く嫌がったりしない。
レジの男の人は私とあまり関わりたくないといった様子で淡々と作業をこなし、私もそれに合わせて無言でお金を払い商品を受け取る。
商品を差し出す際、男の人の手は小刻みに震えていた。
しかし、店内の暖房は厚着の私には暑い程によく効いている。
とりあえず、私は商品を持ってコンビニを後にした。
「なんだろうね?」
コンビニからある程度離れた所まで来たところで私は下を向いてチャミにそう訊ねた。チャミは可愛い声で鳴き、首を傾げた。
当然、チャミがさっきの男の人が震えていた理由など知るはずがない。
この疑問は忘れて、私は材木置き場でご飯を食べる事に決めた。正直、あそこには二度と行きたくない気持ちはあるが、あそこがチャミたちの住処だし、なにより私を救ってくれたシュバルツの安否を確かめなければならない。流石に赤い目の少女もこんな明るい時間帯には出ないだろう。
大丈夫、大丈夫。材木置き場に行っても赤い目の少女はいないし、シュバルツは無事。私は心の中でそう唱えながら、材木置き場に向かった。
空気は冷たいが、空は青々と広がっており世界は明るい。
それなのに材木置き場に近づくにつれ、心臓が高鳴り出す。
異様に白い肌、少女とは思えない異様な力。彼女の綺麗でいて悍しい歌声。
それらの記憶が頭の中に一気に蘇る。
私の小さな体はそれらを思い出してしまったことで小さく震え上がった。
正直、いち早く家に帰りたい気持ちだ。
しかし、命の恩人であるシュバルツの安否も確認しないまま家に帰るなど、私には出来ない。
ついに材木置き場の前に着くと、私は大きく息を吸い込んだ。
シュバルツに無事でいて欲しい。余計な事は考えず頭の中をその事だけにした。
「ミャーオ」
私はいつものように材木置き場の前で声を上げた。
しかし、材木置き場の中の方から返答がない。
きっと、まだ遠くて聞こえてないだけ。私は材木置き場の中へ進むことにした。
ある程度、進んだと思ったところでもう一度声を上げてみた。
しかし、相変わらず返答はない。シュバルツどころかレインも・・・・・
最悪の状況が頭に浮かび嫌でも歩く速度と心臓の鼓動が早まっていく。
二匹とも無事であって欲しい。その想いだけが頭を巡る。
ここまで来ると、私の息も荒くなってくる。
チャミもやはり自分の友達が心配なのか必死に当たりを見回している。
彼女のためにも必ず二匹の安否を確認しなければ。
曲がり角に差し掛かった時、なぜかこの角を曲がれば二匹に会えるような気がした。
私が一気に角を曲がると、そこには高く積まれた土管たちの前でシュバルツとレインが折り重なるように倒れていた。
「嫌・・・・嫌ッ!」
私はそう叫んで二匹の元にすぐさまかけよって、二匹を抱き上げようと彼らの背中の後ろに手を伸ばした。
すると、シュバルツの体が突然動き出し、慌てた様子で立ち上がった。その際、レインの尻尾を踏みつけてしまい、それに応じてレインも目を覚ました。
そう、二匹は無事だったのだ!
私は嬉しさのあまり若干嫌がるシュバルツとレインを強く抱きしめた。
私が彼らを抱きしめている間、襟元のチャミは彼らの額を交互に舐めていた。
きっと、彼女も友達が無事でいて嬉しいのだろう。
彼らが無事だと分かり、一気に肩の力が抜けた。
ある程度、二人の無事を悦び終えると私は3匹を地面に下ろし、先程買っておいた自分用のご飯と彼らのおやつをビニール袋から取り出した。
おやつをだいたい三等分に千切り、ソっと地面に置く。
「ちゃんと、人数分あるから他の子の分は取っちゃダメだよ」
それから、そう言って3匹におやつを食べるように促した。
シュバルツとレインは最初は訝しげな顔をして中々食べようとしなかったが、チャミが食べているのを見て、安心したのか一緒に食べ始めた。
そんな彼らを見ながら私も自分の分のご飯を食べる事にした。
なんて事はない、友達との食事。ただ、これだけでも心が癒えるのだ。
幼児用の野菜ジュースにストローを挿し、それを咥えながら空を見上げる。
空はあの曇天の夜とは正反対で青く澄んでいる。
今日1日で色々な事があったが新しい友達が出来て、置き去りにしてしまった友達は無事だった。少しずつ物事が良い方向に向かっている。そんな気がした。
昼食が終わった頃、チャミは私の方に来て仰向けになりお腹を出してきた。
どうやら、撫でて欲しいらしい。
私は彼女の要求に応じ、彼女のお腹を優しく摩ってあげた。
彼女は私が撫でている最中体をコロコロと動かし満足気な様子だった。
これが本当に可愛いのだ。きっと、お金持ちの家の子供がこの子を見つけたらすぐに自分の家に持って帰ってしまうだろう。
彼女には申し訳ないが、このままずっと野良猫のままでいて欲しいと思う。
そんな事を思いながらチャミを撫でていると、レインも私のほうにやって来た。
レインは私の真横に来て体を密着させると、『僕も撫でて』と言わんばかりに私の脚に可愛い小さな足を乗せてきた。
「大丈夫、忘れてないよ」
私はそう言ってレインの首筋を軽く撫でた。
すると、レインは嬉しそうに目を閉じ、喉を鳴らした。
その表情は本当に笑っているように見える。
レインとの付き合いは昨日が初めてだが、ご飯を分け合ったからか随分と懐いてくれている。私を助けてくれた勇敢なシュバルツはと云うと、自分から撫でて貰いに来ることは滅多にしない。かと言って撫でられるのが嫌いな訳ではなく、私から撫でに行けば満足そうに微睡み始める。要するに彼はクールな性格なのだ。普段はそっけないが、いざとなれば自らを犠牲にしてでも仲間を助けようとする。もし、シュバルツが同年代の男の子だったら私の初恋の相手になっていたかもしれない。私は感謝の意味も込めて、彼の体をいつもより丁寧に撫でた。
時がゆっくりと流れているように感じる。彼らといると心が落ち着き優しい気持ちになってくる。
私は少し移動し、近くに積まれていた材木に背中を預け再び座り込んだ。
「おいで」
私がそう言うと、チャミが一目散に私の膝下に乗ってきた。本当に可愛い。
続いてレインが私の隣に腰を下ろす。可愛い。
シュバルツは『動くのが億劫だ』と言うような目で私を見ている。
少し寂しい気もするが無理矢理連れてきて嫌われたくはないので、仕方がない。
私はそうして仔猫たちに囲まれながらゆっくりと目を閉じた。
チャミやレインの温もりを感じる。心地よい風が吹いている。
体をそれらの心地よい感覚だけに委ねる。すると、徐々に意識が遠のいて行った。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。誰かに口を舐められた感覚で私は目覚めた。目を開けると、チャミが心配そうな目で私を見ている。隣にはシュバルツもいる。どうやら私は横に倒れていたらしい。心配してくれるのは有難いが、口を舐めるのは勘弁してほしい。
「大丈夫だよ」
私はそう言って地面に手を付き元の体勢に戻った。
「皆はもう寝なくていいの?」
私がそう聞くと、チャミが私の膝に猫パンチを当ててきた。
どうやら、遊んで欲しいようだ。
私はそれから彼女たちと時間が許す限り、思い切り遊んだ。
気付くと空は既に橙色に染まっていた。そろそろ、帰る時間だ。
「日が暮れてきたから、また今度遊ぼうね」
私は名残惜しいが彼女たちにひと時の別れを告げ、彼女たちに背を向けた。
それから、材木置き場の中をとぼとぼと歩いていく。
材木置き場を出かかったところで何かの気配を感じ、後ろに振り向くと何食わぬ顔でチャミが付いて来ていた。
「ごめんね、パパやママと約束しちゃったからもう連れていけないの」
私は彼女にそう告げ、再び歩き出した。すると、チャミも同じ方向に歩き出す。
「だから、駄目だってば」
私は彼女を抱きかかえ材木置き場に戻り、レインとシュバルツがいるところに彼女を戻した。
「また、すぐ会えるから大丈夫だよ」
それから、そう言って再び彼女たちに背を向けて歩き出す。少し経ってから後ろ向くと今度は付いて来てないようだ。
私だってチャミをあそこに置いていくのは辛い。いや、チャミだけではなくシュバルツやレインも本当は連れて帰りたい。
しかし、我が家には彼女たちを養える余裕はない。仕方ないことなのだ。
私はそんな事を考えながら、帰り道を行く。
だんだん日が落ちていき、辺りが薄暗くなっていく。なんとなく駆け足になる。
特に理由はないが、日が落ちる前に家に帰らなければいけない様な気がした。
しかし、走り出すとすぐに息が苦しくなり、私は立ち止まってしまった。
暗闇はすぐそこまで迫っていた。私はもう一度気合を入れ直しそこから力を振り絞り残りの道を一気に駆け抜けた。
そして、なんとか日が沈む前に家に戻る事ができた。
もちろん、家には誰も居らず部屋はほの暗く静まり返っている。私は電気を点けすぐに手を洗いとうがいをしに洗面所に向かった。その後、おもむろにテレビの前のソファに腰掛ける。そして、テレビを点けた。テレビを点けたのは別に観たい番組がある訳ではなく単に孤独を紛らわすためだ。適当にチャンネルを回していく、最初のチャンネルはニュース。次はクイズ番組。次はテレビ討論。次はサッカー、次はテレビショッピング、次はアニメ。この中ならアニメが一番明るそうだ。私はそう考えチャンネルをアニメで止めた。幼児向けのアニメだが、点けていると確かに部屋が賑やかになる。
私はソファから降り、ママがあらかじめ作っておいてくれた夕食の皿を冷蔵庫から出し、レンジで温めた。その皿をテーブルに置き、自分はテレビが観える位置に座る。
最後にパパやママと一緒に夕食を食べたのはいつだっただろうか。
それほどにこのシチュエーションは私にとってありふれている。
今日も独り。いつものこと。
でも、こんな暗いことを考えていても仕方がないので、私は『グゾルブのいたずら大作戦』に集中することにした。
夜も深くなった頃、私は寝るために洗面所に顔に貼ってある湿布を剥がしに行った。
そして、鏡の前に立ちおもむろに自分の顔を見る。
「ひっ!」
私は思わず声を上げてしまった。左眼の白目の下半分が赤く染まっていたのだ。
それはすぐに忘れつつあった白い肌と赤い眼の少女の事を私に思い出させた。
何度瞬きしても、いくら目を擦ってもその赤は引かなかった。
頭の中で彼女が唄っていた歌が狂ったように何度もリピートされ始める。私はそれを止めたくて、赤い眼を消したくて必死で目を擦った。しかし、頭の中の歌は止まらず、赤色は一向に引かない。
怖くて、悲しくて私は鏡の前で泣き出してしまった。涙を流しているうちに次第に気持ち悪くなり、吐き気に襲われた。
息が詰まりそうになり、だんだんと呼吸が苦しくなる。意識が遠のいて行く。
「エーデル。エーデル!」
消え行く意識の中で私を呼ぶ声が聞こえた。
その声の主は洗面台から崩れ落ちる寸前の私を抱きかかえ、尚も私の名前を呼び続けている。その腕に抱かれ、少し気持ちが落ち着いた私は顔を上げ声の主の顔を見た。
なんて事はない。それはパパだった。私は安堵から再び意識が飛びそうになった。彼の帰宅はいつもより2時間も早かった。しかし、間違えようがなくパパだった。
「どっ、どうして?」
私は思わずそう聞いた。
「仕事中になんだか無性にお前の事が気になって居ても立っても居られなくて、つい飛び出して来てしまったんだ。それで急いで家に戻ったら、お前の泣き声と苦しそうな声が聞こえたから…….とにかく、間に合って良かった。本当に良かったよ」
パパは息を切らしながらそう話した。
「それで、その傷はどうしんだい?」
パパは私の顔に貼ってある湿布と手に巻かれた包帯を見てすぐに言った。
「あっ、えっと….学校に本を読みに行った時に転んじゃって」
私は思わず嘘を言った。学校でいじめっ子に怪我させられた話や自分で鏡を殴って出来た怪我などと言える訳が無い。
「それで保健室の先生に手当てして貰ったんだね。明日の朝、保健室の先生にお礼の電話をしておこう」
手の包帯は保健室の先生ではなく見知らぬ少女だが、それを話すと話がこんがらがりそうなので言うのは止めておいた方が良さそうだ。
「ところで、エーデルはさっきまでどうして泣いていたんだい?」
私は言葉を詰まらせながら正直に話した。
「鏡を見たら、目が赤くなってて…….それが怖くて、そしたら、寂しくなって」
パパはそれを聞くと難しい表情をした後、私をきついほど強く抱きしめた。
「いつも寂しい思いをさせて本当にすまないエーデル。でも、今日はもう大丈夫だ。今日は私が一緒に付いてる」パパは私の耳元でそう口にした。
ふと見ると、パパの目から一粒の涙が零れ落ちていた。
それから、パパは目が赤くなった原因について優しく教えてくれた。
簡単に云うと、頭を打った時に内出血して、その血が目元まで下ってきただけの話らしい。私はそれを聞いて心底安心した。
内心、赤目の幽霊に取り憑かれたかと思い恐怖していたからだ。
この夜は久しぶりにパパと一緒のベッドで眠りについた。そのお陰か悪夢に襲われる事なく翌朝までゆっくりと眠ることが出来た。
翌朝、その話を聞いたママも大いに心配してくれた。今日も仕事を休むかと云う話が出たが、丁重に断っておいた。2日連続で休むのはあまり良くないと思うし、今日はフランツィスカがお店にくるかもしれない。なにより、昨日の経験から変に暇が出来るのはよろしくないと思ったからだ。
午前8時前、私は両親を見送り、仕事に行く準備を始めた。