表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Magia Lost in Nightmare  作者: 宇治村茶々
第1章 悪夢の始まり
2/322

第1話(1-1-1)

部屋の電気を消すのが怖かった。

暗闇は怖い。どこに何がいるか分からないから。

この感覚は今日始まった訳じゃないが、今日は特別だった。

なぜなら、あの幽霊に会ってしまったからだ。部屋の電気を消せばまた現れ襲って来るのではないか、そんな恐怖が私を包んでいる。

本当は両親が帰ってくるまで電気を点けっぱなしにしておきたいが、両親が帰る頃に寝室の電気が点いていれば、前のようにきつく怒られてしまう。

となれば、もう諦めるしかない。私はチャミを抱き寄せ部屋の電気を消した。

電気を消すと、部屋は一瞬で不気味な闇に包まれた。

私はチャミを抱きかかえたまま急いで布団に潜った。布団に潜ったが、嫌に目が冴え全く眠りにつける感じではない。それでも私は無理に目を瞑り眠りに就こうと努めた。



どれくらいの時間が経ったか、誰かが玄関を開ける音が聞こえた。

ママかパパだ! 私は嬉しくなった。

やっと、この恐怖から解放されるのだ。早く寝室に来て欲しい。

しかし、家に戻って来た両親のどちらかは中々寝室に入る気配がない。

きっと、戻ってきたのはママで化粧を落とすのに時間が掛かっているのだろう。

そう思っているうちにママが廊下を歩く音が聞こえて来た。これで一安心だ。

段々と足音が寝室に近付いて来る。と思ったら、なぜか足音は寝室のドアを素通りし玄関へと流れて行った。足音は玄関まで行くと再び寝室のドアを素通りしリビングに流れていく。そして、また玄関の方へ。様子がおかしい。私はだんだん怖くなってきた。


「ママ?」


私は勇気を振り絞りドアの向こうの相手にそう語りかけた。

すると、廊下を往復していた足音が止んだ。しかし、返答はない。


「ママだよね?」


相変わらず返答はなく嫌な静寂が家中を包み込んだ。

いつまで待っても相手からの返答が無い。

もしかしたら、ドアの向こうに居るのは・・・・・


しかし、まだそうだと決まった訳ではない。なぜなら、前にうちのパパが夜中に私を驚かした事があるからだ。パパがまだ眠りに就いていない悪い子な私を脅かそうとドアの前で待機している可能性は大いにある。いち早く安心を得たかった私は恐怖を堪えドアを開ける事に決めた。


布団から身を出し、部屋の明かりを付ける。そして、ドアの方へ。

ドアノブに手を掛けると心臓の鼓動が異常に早くなった。ドアの向こうに居るのはパパ。

パパが私を驚かそうとしているだけ。心の中で自分にそう言い聞かせた。

「パパ、開けるよ」そう言って私は目を瞑り思い切りドアを開けた。

ゆっくりと目を開けると、そこに居たのはパパでもなければママでもない。そして、赤い目の幽霊でもなかった。白いワンピースを着た蒼い目の少女。

私はあまりにも予想外の事に言葉を失った。

その少女は私の顔を確認するなり眼を細め笑顔になった。その笑顔は最悪だった。口元がありえない程グニャリと曲がっている。

私は大きな悲鳴を上げ尻餅をついてしまった。


少女は最悪な笑顔を保ったまま私に近付き、私の首を両手で思い切り掴んだ。


「一緒に行こう。一緒に行こう。一緒に行こう。一緒に行こう。一緒に行こう。」


少女はそんな言葉を口にしながら、どんどんと首を絞める力を強くする。

徐々に頭が熱くなり、耳鳴りが始まった。自分の意思とは関係なしに目が潤み視界もだんだんと霞んでいく。声は出ない。苦しい。どうして私ばかりこんな目に合わなきゃいけないのだろう。

『どうして』その思考を最後に私の意識は失くなった。




気が付くと私はベッドの上に居た。時間は朝らしい。

部屋の外から水を流す音がする。きっと、パパかママが顔を洗っているのだ。

夢、今まで私が見てきた恐怖はただの夢だったのだ。私はそう悟った。

学校には行かず、毎日を薄暗い気持ちで過ごしていれば悪夢の1つや2つ見たところで何の不思議もない。私は気持ちを切り替えベッドから出て洗面所に向かった。

洗面所に居たのはパパだった。


「おはよう、パパ」私がそう言うとパパは少し困った顔をした。


「おはよう、エーデル。早速だが話さなきゃいけない事がある。何の事かは分かるね」

パパはそう言ったが、まるで、見当が付かない。私が何かしただろうか。

私は首を横に振った。

「それじゃあ、これを見れば思い出してくれるかな?」パパはそう言って水の張られていないバスタブから何かを取り出し。私に見せた。


チャミだ、そう猫のチャミ。しかし、おかしい。チャミがいるという事は・・・・

電流のように私の脳に夢の記憶が過ぎった。野良猫のたまり場。材木置き場。有り得ない程に白い肌。異常な力。血のように赤い目。赤くて深い目。そして蒼い眼の少女。


夢じゃない。チャミが家に居るという事は赤い目の少女は確かに現実で遭遇したのだ。あの時の恐怖が一気にぶり返し私は吐き気を催し、堪え切れずパパを差し退いて洗面台に嘔吐してしまった。

「エーデル、大丈夫か!」パパは慌てて私の背中を摩った。

しかし、全く気持ちは落ち着かず私は再び洗面台に嘔吐した。

「ママ、エーデルが大変だ!」パパが叫んだ。

リビングの方から朝食の準備をしていたママが走ってきた。

「エーデル、大丈夫!?」ママは洗面所に来るなり、そう言って私の胸を摩る。

「分からない」私は正直に答えた。

「大丈夫よ、ママが付いてるからね。ゆっくり深呼吸して」


私はママの言う通りゆっくりと深呼吸した。すると、少し気持ちが落ち着き、吐き気が収まった。


「昨日の雨で風邪を引いたのね。あなたにもっと厚着をするように言わなかった私の責任だわ。ごめんなさい、エーデル」

ママは本当に申し訳なさそうな顔で私の頬に触れながら言った。そうじゃないと言いたいが幽霊の話をして信じて貰える確証はない。なにより、そんな不確定な存在に怯えていると知ったら余計な心配を掛けてしまうに違いない。私は赤い目の幽霊のことは秘密にしておくことに決めた。


「エーデル、これは前から思っていた事だが、お前まで無理に働かなくていいんだぞ。まだ、小学生なんだから。学校に行きたくないならそれでいい。学校に行ってないからって無理に働く必要なんかないんだ。もっと、お前はお前のやりたい事をするべきだ」


事が落ち着くとパパが突然そう語りだした。ママも無言で頷きそれに同調する。

「私のやりたい事は少しでもパパとママの役に立つことだよ」

私はパパの言葉にそう反論した。すると、パパがいきなり抱きついてきた。


「ごめんな、エーデル。貧乏で本当にごめんな」


違う、そんなつもりで言った訳じゃない。

「私も約束するわ、エーデル」ママが私の頭を撫でながら言った。

パパとママはどうも分かっていないらしい。私の幸せは目の前にある。ママとパパと一緒に居るこの時間こそが私にとって一番幸せなのだ。

しかし、私は気恥ずかしさからそれを言葉で伝える事が出来なかった。




それから、私は赤い目の少女の事を忘れ。両親と共にいつも通り質素な朝食を摂った。

ちなみに、チャミの件は今日中に元の場所に戻すという話で落ち着いた。

私が両親と話す事が出来るのは朝の僅か1時間足らずの時間だけ。また、二人は私を置いて仕事に行ってしまう。

「それじゃあ、行ってくるからね。くれぐれも今日はゆっくり休むのよ」

「パパも行ってくるからな。外で遊ぶ時は気を付けるんだぞ」

午前8時前、両親のそれぞれはそう語り玄関を後にした。


「行っちゃった」


私が呟くと抱いていたチャミが私の顔を見て小さく鳴いた。

チャミにはこの状況が理解できているのだろうか。

私はひとまず部屋に戻りベッドに横になった。というのも今朝の嘔吐のせいもありママがおじさんに仕事を休むと伝えてしまったからだ。

大丈夫だと言ったが、今日1日は休んで欲しいと懇願されたので甘んじてしまった。

家の本は殆ど読破してしまったので、やる事が無い。こういう時にゲーム機の1つでもあればいいなと思うが、我が家にそんなお金が無い事など承知の上だ。何もする事が思い付かず、ただなんとなく仰向けになり天井を眺める。



白い天井。私は天井の色から白いワンピースの少女の事を思い出してしまった。

あの恐ろしい笑顔。少女に首を絞められたのに、私が生きていると云う事は彼女に限っては幽霊ではなくただの『夢』なのだろうが、『夢』にしては余りにも苦しさがリアルだった。今まであんなリアルで怖い夢を見たことがない。

私は勝手に白いワンピースの少女の事を思い出し、一人で怖くなった。怖い気持ちになると、嫌でも赤い目の少女の事も思い出してしまう。

私は部屋に一人で居るのが耐え切れず学校に久しぶりに行くことに決めた。一人で怖い思いをするよりもまだ学校に居た方がマシだ。


学校に行くといっても、もちろんクラスではなく図書室。

今から学校に向かえば丁度1時間目が始まったくらいの時間に学校に着くので、図書室に生徒はいない。居るのは優しい図書委員のおばさんだけだ。

私はそうと決めるとすぐに着替えを済まし逃げる様に家を飛びした。

ちなみに、チャミをまたコートの襟の中に収めている。

チャミは襟元から顔を出しなぜか得意げな顔をしている。可愛い。


アパートを出て寂れた通りを抜けると人通りの多い繁華街に出る。

やはり、近くに人がいるだけで少し安心する。私は安心を噛み締めるようにゆっくりと進むことにした。ゆっくりと歩く私を仕事に向かう大人たちが次々と追い越していく。

こうして見ると朝の街はかなり忙しない。すごいスピードで人が行き交っている。まるで、自分だけスローモーションで動いているようだ。そんな中、一人の神父らしき男の人がゆっくりと反対側から私の方に歩いてくるのが見えた。顔立ちからヨーロッパ系の人種ではないとすぐに分かった。きっと、アジアの方の人だろう。

そのまますれ違うと思ったが、その男の人は私の前で立ち止まり姿勢を落として私に会釈した。

「おはよう、お嬢ちゃん。君はそんなにゆっくり歩いてていいのかい?急がないと学校に遅刻してしまうよ」男の人は笑顔でそう言い腕時計を見せてきた。

完全に余計なお世話だ。わざと間に合わないようにしているのに。

私が少し困った顔をすると、男の人は私の背中を軽く押し走るように促してきた。

「さぁ、走らないと間に合わないよ」

間に合わなくていいのだ。私は頭の中でそう反論した。

しかし、口に出して反論すると面倒な事になりそうなので適当な返事をして形だけ走ることにした。クラスの人に会ってしまわないか心配だ。


私はある程度直線に進むと本来通るはずのない路地に入り、走るのを止めた。

とりあえず、男の人の視線から外れたのでもう走る必要はない。

私が入った路地は独特の雰囲気があり、少し探検してみたいという気持ちになった。図書室に行くのは急ぎの用事ではないので少しくらい迷ってもいい。そんな軽い気持ちで私は路地を進むことにした。人通りはないが、怖いという気持ちはあまりなかった。


最初の角を曲がると、遠くにまた角が見えた。この路地は想像より長く続くようだ。

私は辺りを見回しながらゆっくりと足を進めていく。次の角を曲がり少し歩くと、ある民家の窓に綺麗な首飾りが飾られているのが目に入った。その首飾りの真ん中には金色の縁に囲まれた緑色の宝石で出来た見事な四葉のクローバーがあった。四葉のクローバーは幸運の象徴。しかし、それがあるのは他所の家の窓の向こう。私のものではない。


ここに来て私は少し憂鬱な気分になった。憎たらしいほどに美しい首飾り。それは私に幸せそうに外食をしている家族を連想させる。私もパパやママと一緒に外食をしてみたい。どこかへ遊びに行きたい。もっと、長い時間話をしていたい。しかし、両親は共に休日もなく働いているのでそんな簡単な願いすら叶わない。そう、目の前の四葉のクローバーの様に近くにあっても届かない願いなのだ。

私はため息をつき、首飾りのある通りを後にした。こんな思いをするなら路地に入らなければ良かった。しかし、後悔をしてももう遅い。


この路地はまだまだ続く。街にこんな所があったなんて。

歩いている途中、襟元に収まっていたチャミが突然横を見ながら毛を逆立て唸りだした。

「どうしたの?」

私はそう聞きながら彼女が見ている方向に視線を移した。

すると、横の道の少し先に大きなドーベルマンが見えた。驚くべきことにそのドーベルマンは首からリードを垂らし放し飼いの状態になっている。嫌な予感がした。

ドーベルマンと私の視線が重なった。その瞬間、伏せをしていたドーベルマンはゆっくりと立ち上がり牙を剥き出しにして低く唸った。そして、ジワジワとしかし確実にこちらの方に迫って来た。

私は息を呑んだ。逃げなくては駄目。私の本能がそう言っている。

ドーベルマンは横の道の先から向かって来ているので、このまま真っ直ぐに走り抜け振り切るしかない。私は前方に向き直り、覚悟を決めて深呼吸をした。

『お願いだから追ってこないで』私は心の中でそう願い一気に走り出した。その瞬間、横の道からけたたましい声を上げながら凄まじい勢いで走ってくるドーベルマンが一瞬だけ見えた。最悪だ。


ドーベルマンは耳を裂くような声を上げながら全速力で私の方に迫ってきている。

しかし、私も負けてはいなかった。私は普段から運動するタイプではなく、足はかなり遅いのだが、今日は自分でも驚く程のスピードが出ている気がする。

それでも犬と人間がかけっこをすれば犬の方が速いに決まっているので、元からあった差はみるみるうちに埋まっていく。

更に最悪な事に走っているうちにだんだんと横腹が痛くなって来た。どんどんとペースが落ちていく。もう限界だ、追いつかれてしまう。私が半ば諦めた瞬間、私が走り抜けて来た道の方から怒鳴ったような声が聞こえた。

「サヴァン、戻れ!」


その声を聞いた途端、ドーベルマンは怯えた仔犬のような声を出して走るのを止め、元来た道を戻って行った。どうやら、飼い主が来たらしい。姿は見えないが大人の声ではない。飼い主が何者なのか、何を思って凶暴なドーベルマンを放し飼いにしていたのか、気になることは山ほどあるが、自分からドーベルマンの方に向かいたくはなかったので戻ることはせず先を進むことにした。


私は今まで犬派でも猫派でもなく、どちらも可愛いと思っていたが、この一件で完全に猫派の方に傾いた。犬があんな凶暴な生物だとは知らなかった・・・・。

もうこんな路地はこりごりだ。私は少しでも早くこの路地から抜け出そうと早足になった。探検してみようなんて思わなければ良かった。

残りの道は分岐がなく何も考えずに進むだけで難なく路地を抜ける事が出来た。

路地を出ると見たことのない大通りに出た。とりあえず、辺りを見回してみると反対側の歩道の最果てに学校が見えた。これなら路地に戻らなくて済みそうだ。



それから、私は歩くペースを元に戻しゆっくりと学校に向かった。街の時計で確認したところ時間は9時を少し過ぎておりバッチリ1時間目の授業が始まっている。

この時間ならクラスの人間には会わなくて済みそうだ。

そんな事を考えながら歩いているうちに学校の正門の前に辿り着いた。

さて、学校に来るのは何ヶ月ぶりだろうか。私は久しぶりに学校の敷地内に足を踏み入れた。相変わらず無駄に大きい校舎が見える。


そんな校舎を見ていると、ここに来て少し気が重くなってきた。

学校に私の居場所はない。この場所には苦しい思い出しかないのだ。

しかし、ここまで来て引き返す事は出来ない。

もし、ここで引き返せば無駄にドーベルマンに追い回された事になってしまう。

私はため息をつき渋々と昇降口に吸い込まれていった。


どうせ、クラスの人間には会わない。そう自分に言い聞かせ、靴を履き替えるためにロッカーの一つに手を掛けた。

ちなみに、このロッカーに鍵は付いていない。

私がロッカーを開けると、そこには校舎用の靴が入っていた。

いや、違う。靴だったもの。今は靴ではない。

私は自分の目を疑いたくなった。

私の校舎用の靴は無残に引き裂かれ、最早靴としての役目を果たすことが出来なくなっていた。おまけに赤いマジックで酷い落書きをされている。

のろま、貧乏人、死ね、バイ菌、泣き虫、死ね、意気地なし、穢れし者、馬鹿、呪われた子供、臭い、消えろ、死ね・・・・・

読める文字だけ見てもこれだけ大量の悪口が書かれている。息が詰まる。

これがどうしようもない私の現実なのだ。気の弱い私は言い返すこともできず、半年間ずるずるとこんな事を言われ続け、殴られ、物を隠され、壊された。

その末、学校に行かず近所のレストランの手伝いをするという今の生活に至る。

目の前の破壊された靴は私が虐められてきた象徴なようなものだった。

やはり、無闇に学校に来るべきではなかったのだ。

私は唇を噛み締め、涙を堪えた。泣いても何も解決しないのは分かっている。


しかし、僅かな涙が瞳から溢れ私の頬を伝っていく。

どうして、こんな状況になってしまったのか私にも分からない。確かにのろまで馬鹿で泣き虫だが、なぜ、ここまでの事をされなければならないのだろう・・・・。

この世界は理不尽だ。弱いものばかりが損な目にあう。

嘆いても、嘆いても何も変わらない事は分かっている。しかし、辛いのだ。涙を零さずにはいられないのだ。


私は長い時間その場で立ち止まり涙を流した。

一通り泣き終えると少しだけ気持ちが落ち着いた。

今が授業中で本当に良かったと思う。こんな姿を見られたら余計に虐められてしまう。正直、このまま帰りたい気持ちはかなりあったが、このまま手ぶらで帰れば本当に不幸な目に遭うためだけに学校に来た事になってしまう。

せめて、本の一つでも借りて帰ろう。私はそう決意し廊下へ出た。

ちなみに、授業靴が破壊されてしまったので来客用のスリッパを借りている。


図書室は1階にあり、このまま廊下を直進すればすぐに着くのだが、直進すれば自分のクラスの前を通る事になってしまう。それだけはなんとしても避けたいので私は一度2階に上がり、遠回りする事にした。先生たちに授業時間中に廊下を闊歩している姿を見られたくないので窓付きのドアに差し掛かる度に身を屈めながら進んだ。

廊下を進み、階段を下るとすぐに図書室の前に着いた。


私は何の警戒もなく図書室のドアを開けた。

というのも図書委員のおばさんは私の事情を知っているからだ。

2ヶ月くらい前にも授業時間中に本を借りに来た事があったが、おばさんは私が事情を話すとすんなり本を貸出してくれた。


ドアを開けると、そこには予想外の光景があった。

図書委員のおばさん以外に少女が一人居たのだ。

その少女は茶色の髪で眼鏡を掛けており、知的な雰囲気を漂わせながら分厚い本を目で追っていた。歳は多分私より1つか2つくらい上だろう。

その生徒は私に気が付くと笑顔で私の方に歩み寄ってきた。

「あなたも学校の授業がつまらなくて本を読みに来たの?」

彼女は開口一番にそんな事を言った。

そういう訳ではない。私は首を振って否定した。

「遠慮しなくていいのよ。実際、ドイツの中等教育はレベルが低いわ。もっと、アメリカの様に小さいうちから高度で専門的な教育をするべきなのよ、あなたもそう思うでしょ?」彼女はそう話しながら私の肩を軽く叩いた。

私が返答を渋っていると、彼女は勝手に自己紹介を始めた。

「あっ、ごめんね。いきなり教育の話なんかしちゃって。自己紹介がまだだよね。私はフランツィスカ・ディーゲルマン。あなたは?」

彼女は早々と自己紹介を終えると、今度は私に自己紹介を求めてきた。

「わっ、私はエーデル。エーデル・ヴァイデンヘラー」私は彼女の勢いに押され少し言葉を詰まらせながら言った。

「エーデルちゃんね、よろしく。ところで、その襟の中に入ってる可愛い子は?」

彼女は私の襟元を指差しそう聞いてきた。

「この子はチャミ。私の友達」

私は襟元から顔を出す彼女を見ながらそう答えた。

「チャミちゃんね、こんにちは」

彼女がそう言ってチャミに微笑みかけると、チャミはそれに応えるように低い声で鳴いた。

「猫ちゃんと一緒に学校に来るなんてエーデルって少し変わってるね」

彼女は清々しい顔でそんな事を言って来た。中々、痛いところ突いてくる。


「そういえば、エーデルはどんな本を探しにきたの?」彼女はそう言って横にずらりと並んでいる本棚たちの方に目を向けた。

「とっ、特に決まってないよ・・・・」私は小さくそう言った。

なにしろ、読みたい本があってここに来た訳ではないのだから。

「そう・・・。でも、そんな時ってあるわよね。読みたい本が無くても不思議と図書室に吸い込まれてきちゃうこと」

彼女は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに気を取り戻し楽しそうに語りだした。

私の勝手な偏見かもしれないが、きっと、フランツィスカは本が大好きなんだろう。


「そうだ。読みたい本が決まってないなら、私が何かオススメしてあげる」

彼女はそう言い残し一人で遠くの本棚に向かって行ってしまった。引き止める理由もオススメを断る理由もないので、とりあえずは待つことにしよう。

果たしてどんな本を持ってきてくれるのか?


5分程経った頃に彼女はようやく戻ってきた。手には少し大きめの本を持っている。

「これなんかどう?」

彼女は持っていた本を半ば強制的に私に手渡した。

タイトルは『星の全て』。星を眺めるのは好きだし、良い本を選んで貰ったかもしれない。私は早速本を開いて読んでみることにした。

目次には『ビッグバンの起源』、『原始惑星形成』、『ケプラーの法則に基づく惑星の振る舞い』『地球の形成・進化』、『超新星爆発による星の消滅』、『ブラックホールの誕生』といういかにも難しそうな題目が並べられている。思っていたのと大分違う・・・。

目次だけ見て本を返す訳にはいかないので、一応、適当なページを開いてみるが完全に想像通りちんぷんかんぷんだ。更に他のページも見てみるが、どこもかしこも難しい言葉ばかりで私には難しすぎる。私は黙って本を閉じた。


「あら、気に入らなかった?」

彼女は残念そうに言った。

「ちょっと、私には難しすぎるかな・・・・」

私が言うと彼女は本を回収しおもむろに適当なページを開いて自分で読み始めた。

「そうかしら?」

彼女がページを読みながら独り言の様に呟いたので、そのページを覗いてみると如何にも難しそうな式がこれでもかと並べてあった。

「分かるの?」率直に疑問に思った。上級生とは言え流石にこんな難しい式が分かる訳が無い。大学生が解いているような難しそうな式だ。

「分かるよ。丁度、ノート持ってきてるし1つ噛み砕いて見せてあげる」

彼女はそう言って自分の居た机に私を連れ込み、ノートに式を写し、それを私の目の前で解き始めた。確かに解けている。いや、正直自分の頭では解けているのかどうかすら分からないが、式を全く理解せず滅茶苦茶に書いているという感じではない。

彼女は3分もしないうちに本に書いてあった式を展開してしまった。


「すごい」素直にそう思った。彼女が最初に『あなたも学校の授業がつまらなくて本を読みに来たの?』と言ったが、確かにこのレベルの式が解けてしまうなら、彼女にとって中学校の授業は簡単すぎてつまらないのかもしれない。

「このくらいちょっと勉強すれば、すぐ分かるようになるわ」彼女は自慢する素振りもなく至って当然の事のように言った。どうやら、彼女は本当に頭が良いらしい。

「とにかく『星の全て』はなしね。別の本を探してくるわ」


彼女はそう言うと再び遠くの本棚の方に行ってしまった。



ところで、斯く言う彼女は何を読んでいたのだろう?

私は机の上にある彼女の読みかけの本の中身を少しだけ覗かして貰った。

見たことない単位や文字が織り交ぜられた謎の公式。理解不能な用語の群れ。たった1ページを覗いただけでも気が遠くなりそうだ。

一体、何の本なのだろうか? そう思い本をひっくり返して表紙を見た。

『特殊相対性理論による絶対座標系の否定』

表紙には大きくそう書かれていた。如何にも難しそうな本のタイトルだ。

「エーデルも特殊相対性理論に興味があるの?」

遠くから声がした。どうやら、見られていたらしい。

当然、彼女の問には首を横に振って否定した。

「そっか・・・。でも、面白いから気が向いた時に読んでみるといいわ」

彼女が笑顔でそう言ってきたので愛想笑いでごまかしながら適当な返事をした。

多分、一生この本に気が向くことはないだろう。

それから、十分程経った後にようやくフランツィスカが戻ってきた。

今度は一冊ではなく五冊も本を抱えている。


「さぁ、この中から好きそうなのを選んで!」

彼女はそう言って持っていた五冊の本を得意げに机の上に広げた。

正直な話、これまでの事から考えると彼女が私が読みたくなるような本を持ってくるとは思えない。なぜなら、私はこの歳になっても普通の本より絵本の方が好きだから。

それでも、彼女が勧める本を全て断っていると角が立つので仕方なく彼女が持ってきた本のタイトルを見る。

『ファーブル昆虫記2・狩りをする蜂』、『動的平衡・なぜ生命はそこに宿るのか』、『ハッブル宇宙望遠鏡』、『電気の誕生』、『よくわかる物理基礎』

これが5つのタイトルだ。蜂は嫌いだし物理の勉強はしたくない。

となると、『ハッブル宇宙望遠鏡』あたりがマシだろうか。どうせ、難しそうな事が書いてあるのだろうが。

私は『ハッブル宇宙望遠鏡』という本を手に取りページを開いた。そこには予想通り難しい事が書いてあったが、隣のページに緑色のオーロラを纏った星の綺麗な写真が大きく載っていた。

次のページをめくると同じ様に難しい文章と共に綺麗な写真が載っている。次のページもそのまた次のページも。この本に載っている星の写真はどれも綺麗で幻想的なもので、私はつい目を奪われてしまった

「気に入ってくれたみたいね」フランツィスカはそんな私を見て満足げに言った。

私は黙って頷きそれを肯定した。気に入ったのは文章ではなく写真の方だが。

「さぁ、座ってゆっくり読んで」フランツィスカはそう言って席を1つ出し、私を自分とは対面の席に座らせた。そして、彼女自身は例の難しい本を読むのを再開した。

お互い向かい合って本を読むと中々に気まずいものがある。しかし、彼女はそんな事は全く気にする素振りもなく憂いた様な目で文字をなぞっている。

何か話し掛けたい所だが、どうも話し掛けられる雰囲気ではない。

私は諦めてチャミと一緒に星々の綺麗な写真を眺める事にした。

しかし、写真を眺めているだけではすぐに本を終えてしまうので分からないなりにも一応、付属の文章も読むことにする。ある程度、本を読み進めたところでふと時計を見ると1時間目の終わりの時間が近付いていた。


それでも、フランツィスカは微動だにしない。きっと、2時間目もここにいるつもりなのだろう。

1時間目の終わりのチャイムが鳴ると、さっきまで完全に本の世界に吸い込まれていたフランツィスカは突然本を読むのを止めて私の方に顔を向けた。

「エーデルは2時間目もここにいる?」そして、彼女はそう聞いてきた。

「そのつもり」私が答えると彼女はとても嬉しそうな表情を見せた。

「賢明な判断だと思うわ。最初の1年って殆どが小学校の復習で最高につまらないのよね。絶対、図書室で本を読んでいた方が良いわ」

彼女は涼しい顔でそんな事を口にした。

最初の1年? どうやら、彼女は私を1年生だと思っていたらしい。

「私、2年生・・・・」少し言いづらい感じではあったが1年生とは思われたくなかったので勇気を出して口にした。すると、彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。

「あら、ごめんね。エーデルってなんかあどけない感じが残ってるから、つい1年生かと思っちゃった」謝っているのか、貶されているのか正直分からない。

「あ、ちなみに私は4年生ね。どっちにしろエーデルの先輩だけど、呼び方はフランで大丈夫だから」彼女が言った。

フランツィスカは私の知っている先輩像とは大きく違っていた。先輩というのは後輩に威張り散らし、呼び捨てなど言語道断の存在だと思っていた。現に私は3年生に先輩だからと言って酷い目に合わされた事がある。

それを考えるとやはりフランツィスカは頭も良いし出来た人間に思う。

きっと、育ちもいいのだろう。


それから、私とフランツィスカは時々会話を交えながら図書館で時間を過ごした。

この彼女と過ごした時間は私にとって特別なものだった。なにしろ、彼女は学校の中で初めて私と普通に接してくれた生徒なのだから。

しかし、満たされた時間は長くは続かない。2時間目の終わりの時間が刻一刻と近付いていた。これ以上、ここに居座っていると休み時間になりクラスの人間と鉢合わせしてしまう可能性がかなり高くなる。どうしても、それだけは避けたい。私は名残惜しいがフランツィスカと別れなければならなかった。


私は本を閉じ、席を立った。

「あっ、あの・・・私、もう行かなきゃ」

そして、そう言った。すると、それを聞いた彼女はとても驚いた顔をした。

「もしかして、教室に戻るの!?」彼女は机から身を乗り出し今までにはない強い口調で私に聞いてきた。

そうじゃない、そうじゃない。私は首を横に激しく振って否定した。

「なら、どうして?」彼女は言った。

単純に言ってしまえばクラスの人間に会えば虐められてしまうからだ。しかし、今日初めて逢った人にそんな自分の惨めなところは知られたくない。

「わっ、私。レストランの手伝いをしていて、もう行かないといけない時間なの」

私は咄嗟に嘘を言った。本当は休みになったから学校に来たというのに。


「エーデルってもう働いてるの!?」

彼女は図書室中に響き渡るほどの大きな声を出した。

「働いてるってそんな大層な事じゃなくて、本当に少しのお手伝いくらいだよ。お皿を洗ったり、机を拭いたり、おしぼり作ったり、注文を聞いたり・・・・」

私は正直に白状した。なにを隠そう料理の1つも作れないのだ。

以前、おじさんにスープの1つでも作ってみないかと勧められたので、コーンスープを作って飲んで貰ったのだが、おじさんはそれを飲んだ直後に乾いた笑顔を私に向け、それ以来私に料理を作ることを無理に勧めなくなった。

私的にはレシピ通り作った筈なのだが・・・・。

「いやいや、それも立派な仕事じゃない。その年で学校に行かないで働いてるなんてエーデルすごいわ。やっぱり、他の学校の人間とは違う」彼女は目を輝かせながら言った。

完全に私を買い被っている。私はそんな立派なものじゃない。

「決めた、エーデル。私と友達になりましょう。ね、いいでしょ?」

彼女はそう言って手を差し伸べ握手を求めてきた。


私はあまりにも突然の出来事に息が止まりそうになった。なにせ、こんな事を言われたのは十一年の人生の中で初めてだからだ。

「私なんかでいいの!?」私はつい大きな声を出してしまった。

「もちろんよ。むしろ、あなただからいいのよ!」フランツィスカが言った。

「ほ、本当に本当?」

「本当に本当よ、エーデルは私の友人にふさわしいわ」

彼女は私に微笑みかけそう言った。

私は彼女が差し伸べた手にゆっくりと自分の手を近付けた。

すると、彼女は私が近付けた手を半ば強引に掴み握手を成立させた。


「これで私たち今日から友達ね。よろしく、エーデル」

彼女は確かにそう言った。私を友達と。

私の心を幸せが包んでいくのを感じた。

私は嬉しすぎて、なんと言い返していいか分からずただ頷いた。

彼女はそんな私を見て少し微笑んだ。

「それじゃあ、エーデル。お仕事頑張って来てね」

その後、彼女はそう言ってゆっくりと握っていた手を離した。

彼女の手が離れると、私の手の中に不思議な喪失感が残った。

今度はいつ会えるかな? 私は勇気を振り絞りそう云うつもりだった。


しかし、私が言葉を紡ぐより先に彼女は私が今まさに口にしようとしていた言葉を口ずさんだ。正直、驚いた。

彼女の言葉を耳にした途端に手に残った不思議な喪失感は消え失せた。

この子は本当に私のことを友達と思ってくれているのかもしれない。

多分、先ほどの不思議な喪失感は彼女との関係が今日限りで終わってしまう。そんな恐怖心から来たものだろう。

「きょ、今日は特別でいつもは午前中からお手伝いしているからお店に来てもらわないと・・・・・」私は彼女の問いにそう答えた。

いや、そう答えざるを得なかった。暇を貰わなければ学校には行かないし、お店が閉まる頃の夜8時に呼び出すのは不躾だと思ったからだ。

「その年で午前中から仕事なんて本当に大変ね。尊敬に値するわ」

彼女は頬に左手を当てながらそう呟いた。

「とにかく分かったわ。なんて名前のお店?」

それから、間髪入れずに彼女はそう聞いてきた。これは私の個人的な感覚だが、彼女は話のペースがとても早い。

「えっと、ドルチェってお店で・・・・」

私が店名を告げ場所を教えようとすると彼女はそれを遮るように服のポケットから四角い端末を取り出し、その端末を弄り始めた。

「はい、ここでしょ」

彼女は少し得意そうに言って、端末に映った地図を見せてきた。

確かにその地図の中心は私が手伝いをしているお店を指していた。

「すごい」私は素直な感想を述べた。

「まぁね。一応、先週出たばかりの端末だし通信速度はピカイチよ」

私は機械に『すごい』と言ったのではなく彼女自身に『すごい』と言ったつもりだったのだが、どうやら言葉足らずで伝わらなかったらしい。

「場所も分かったから、今日の放課後お邪魔させて貰うわ」

彼女は続けざまにそう言った。

しかし、それはまずい。早速、嘘がバレてしまう。

「えっと、・・・・今日はずっとお店の厨房とかおトイレとかの掃除をしているから今日以外でいい?」私はそう言った。

「・・・・そう残念ね。それじゃあ、明日お邪魔するわ」

彼女は少しも疑う様子もなく予定をずらしてくれた。それを確認した私はひとまず安心してふと時計に目を向けた。


時間は2限目が終わる2分前を丁度過ぎた所だった。今まで幸せに満たされていた気持ちに一気に暗雲が立ち込めた。走っても間に合うかどうか微妙な時間だ。

「ごめん、もう行かなきゃ」私は彼女にそう告げ、読んでいた本を片付ける事もせず走って図書室を飛び出した。その時から心臓が嫌というほど高鳴っていた。



今からクラスの前を通るのを避けて2階に上がってから昇降口に迎えば確実に間に合わない。となると、取るべき行動は1つ。授業が終わる前に自身のクラスの前を突っ切る。私は覚悟を決め大きく息を吸い込んだ。


そして、一気に走り出した。まず、一つ目の教室を越えた。次に二つ目の教室、三つ目の教室。それから、最後に自分の教室に差し掛かった。その瞬間、チャイムが鳴り響き教室内の一人の少女が伸びをするついでに横を見た。

一瞬だがばっちりと横を見た少女と私の視線が重なってしまった。

「エーデル!!」私を見た少女が叫んだ。

私は足を止めず教室の前を走り抜けた。そして、昇降口に着くとスリッパを履き捨てすぐに自分のロッカーの中に入れた外履きに手を伸ばした。

私が靴を掴み下に置こうとすると、あまりにも慌てていたせいか手が滑り持っていた靴を両方とも落としてしまった。急いで拾い上げその靴を履き昇降口から出ようとした瞬間、真後ろから声が聞こえた。


「ねぇ、エーデル。挨拶もなしで帰る気?」

私が恐る恐る後ろへ振り向くと最悪の相手がそこに立っていた。サラだ。

彼女は私と目が合うなり私の方へ近付き、私の髪を思い切り掴んだ。

「生意気なんだよ!!」そして、そう叫び私の顔をロッカーの1つに思い切り叩きつけた。とてつもない痛みが額と鼻のあたりを襲う。

彼女は私の髪の毛を握ったまま一旦ロッカーから私の顔を離した。その時、ロッカーに血痕がついているのが見えた。

そして、すぐもう一度ロッカーに顔を叩きつけられた。

痛みはもちろんだが、惨めさ、悲しさ、怒り、そんなものがふつふつと湧き上がる。

サラが私の髪から手を離すと、私の体はロッカーに血を擦り付けながら崩れ落ちた。

今は彼女の足だけが見える。そこに、もう一人の足が加わったのが分かった。


「えっ、サラ何やってんの?」後から来た少女が言った。

「やるなら、こいつ自身のロッカーにやれば良かったのに。そこのロッカー使ってる人が可哀想」そして、そう続けた。

「あっ、そうか。後でちゃんと拭いておかないとな」

サラと後から来た少女はそんな会話をした。


どうして、私ばかりこんな目に遭う。どうして、私ばかりに不幸が。

私は彼女たちの顔を見上げながら、何度も心の中で唱えた。


「なに睨んでんだよ!!」後から来た少女はそんな私を不満に思ったらしく、私の腹部を思い切り蹴りつけた。

あまりの痛みに私は口から液体を吹いてしまった。

「うわっ、汚っ。バイ菌飛ばさないでよ」少女が言った。

「たくっ、汚ねぇもん飛ばしやがって」サラがそう言って私の顔面を蹴り飛ばそうとした時、襟元に潜っていたチャミが私の顔の前に立った。

「何だ、この猫?」サラは訝しげな顔で言った。どうやら、チャミもシュバルツと同じ様に私を守ろうとしてくれているらしい。


「チャミ、私の事はいいから逃げて」私は薄れいく意識の中でそう言った。それは自分が傷つくよりチャミが傷つくのが嫌だったからだ。


しかし、チャミは全く私の顔の前から動こうとしなかった。

「見てよ、ミレーマ。こいつ猫とお友達らしいぜ。超ウケる」

サラは後から来た少女にそう言った。

「笑える。貧しい生活してる者同士で意気投合しちゃったんじゃない」

ミレーマはいかにも小馬鹿にした口調で言った。

「なるほど、どっちも恵まれてなさそうな顔してるしね。それにしても、人間の友達が出来ないからって仔猫を友達にしちゃうなんて、あんた最高。最高に面白い」

サラは私を見下ろしながら腹を抱えて笑いだした。

憎い、怒りたい、言い返したい事があるのに、体がまるで動かない。

「ちょっと、サラ。笑いすぎでしょ」ミレーマはそう言いながら自身も笑いだした。

意識が遠のいているせいか彼女たちの厭らしい笑い声にエコーが掛かり頭の中を反響する。それはまるで悪魔が私を笑っているかの様に不快だった。


その厭らしい笑い声はまるで止む気配がなく。頭がどうかしそうになる。

このままでは気が狂ってしまう。そんな気がした。

私はすがる思いで横を向いた。もしかしたら、誰かが来て彼女たちを止めてくれるかもしれない。そう思ったからだ。しかし、そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれ、誰もいない隣側のロッカーが見えるだけだった。


私は助けを求めるのを諦め視線を下に下ろした。

最早、何をする力も残っていない。只、意識が遠のいていく。

「ごめんね」

私は目の前の白い毛並みの仔猫にそう告げ、厭らしい笑い声に包まれながら意識を失った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ