第15話(1-10-1)
居間の方から、口論する様な声が聞こえて私は目を開けた。真っ暗だ。きっと、寝てしまった私を見てママかパパが電気を消したのだろう。明日、怒られてしまう。それにしても、ママとパパが私の部屋まで届くほどの声上げて口論するなんて珍しい。というか、こんな事初めてだ。そもそもママとパパが喧嘩をした事なんて一度も見たことがない。きっと、ただならぬ事だろう。私は手探りで自分の部屋のドアまで行き、ドアをほんの少しだけ開いて、そこに耳を近づけた。あんまりよく聞こえない。ただパパは今まで聞いたことのないような強い口調でママを諭しているようで、ママは今まで聞いたこともないような泣きそうな声でそれに反論しているようだ。心臓の鼓動が早くなる。ママとパパは娘の私から見て完璧だった。意見が違っても二人で何とか妥協点を探し合い、お互いを尊重し合い、優しく時に厳しく娘である私に接していたと思う。そんな完璧な筈の二人が喧嘩をしている。余所の家ではときたま夫婦の衝突が起こるのかもしれないが、我が家ではありえない、ありえないはずだった。胸が苦しい。これ以上、二人の喧嘩する声を聞きたくない、でも、ドアの隙間から耳を離せない。
「僕だって今まで通りエーデルと暮らしたいよ、それが出来るならどれだけいいか」
パパが泣きそうな声でそう叫んだのが確かに聞こえた。
私の思考が一瞬で凍りついた。
それから、不意に意識が戻った。多分、数分間その場で固まっていたと思う。今はただママのすすり泣く声だけが聞こえている。パパは一体何を言ってるのだろう。意味が分からない。まるで、これから私がママやパパと離れるような話だ。そんなの有り得ない。有り得て良い訳がない。ママとパパがいなかったら、私は一体何を拠り所にして生きて行けばいいんだ。有り得ない、絶対有りえない。そうだ。私はまた悪夢を見ているんだ。幽霊が私の精神を疲弊させるためにこんな怖い夢を見せているに違いない。ママとパパと私はこれからもずっとずっとここで一緒に暮らすのだ。そうに決まってる。こんな夢早くなくなれ、早く覚めろ、早く覚めろ。私はドアの前で一人で念じ続けた。駄目だ、夢から出られない。何か夢から出る方法はないだろうか・・・・
そんな事を考えていると、今から誰かが歩き出す音が聞こえた。直感的に私は自分の部屋のドアを閉め、ベッドに戻った。誰かが居間から出て洗面所に入った。私は一息つきもう一度夢から覚める様に念じる。念じても念じても夢から覚めない。どうすればこの悪夢から抜けられる。私は少し考えた。そうだ、夢の中で死ねばきっと現実に戻れる。昔、映画でそんな話を見た気がする。我ながら強引な方法だがママやパパと離れる事になる世界から抜けられるなら多少の苦しみも仕方がないだろう。私は決心を決めて、自分の手で自分の首を思い切り締め上げた。苦しい。頭がぼっーとする。そういえば、前にもこんな事をした気がする。あの時は・・・・・・・
朝の光がカーテンから漏れているのを感じ、私は目が覚めた。頭がボーっとしていて何も考えられない。なんとなく時計を見る。7時。いつも起きる時間だ。とりあえず、寝巻から着替えないと。私はおぼつかない足取りのまま寝巻を脱ぎ普段着に着替える。そして、普段ならそのまま居間に向かうのだが、今日の私はタンスの前で立ち止まった。何か大事な事を忘れている気がする・・・・・。
しばらくしてから、昨晩の悪夢の事を思いだした。あんなの悪い夢に決まっているが、それとなく聞いてみよう。私はそう決めママとパパの待つ居間へ向かった。
居間へ行くと、いつもの様にパパがいて、いつもの様にママがいて普通に朝の挨拶をした。二人とも変わった様子はない。やっぱり、あれは夢だったんだ。私は少し嬉しくなった。
「エーデル、今度の水曜日に休みが取れたんだが一緒にどこかに遊びに行かないか?」
3人で食事をしていると不意にパパがそんな事を言いだした。
「本当に?」それを聞いた私の口から最初に出た言葉はそれだった。嬉しいより先に信じられないからだ。なんといっても、最後にパパとお出かけしたのは数か月前だ。
「ああ本当さ。仕事が一段落したから一日だけ休ませてもらう事になったんだ!」
多分、私はここ最近で一番笑顔になったと思う。
「しかも、驚く事なかれ今回はママも一緒だぞ」
パパが言った。私は目を輝かせたママの方を見た。
「本当よ、エーデル。3人揃って外で遊びに行くなんて何年振りかしらね」
ママが微笑みながら言った。そう。ママの言う通り私の両親はとってもとっても忙しい人なので奇跡でも起きない限り3人揃って外出することは殆どないのだ。そして、今週の水曜日、その奇跡が起きるのだ!
「エーデル、どこか行きたいところはあるかい?」
パパがそう聞いてきた。一番行きたいのは遊園地だが、お金がすごい掛かってしまうから近場でどこか行きたいところを・・・・・・
「あなた、レーゲンパークはどうかしら?」
確か、都会の方にある大規模遊園地だ。
「いいね。あそこなら絶叫系以外の乗り物あるし、エーデルも楽しめそうだ」
なんだか、ママもパパもすごい乗り気だが・・・・そんな都会の大規模遊園地なんて行ってお金は大丈夫なんだろうか・・・・・私を喜ばせようと無理をしているのではないだろうか・・・・なんだか、とっても心配だ。
「ふふふ。安心して、エーデル。実は会社の人にチケット3人分貰ったのよ」
ママが少し得意気に言った。すごい!
「すごいな。ママにしては随分大胆な意見だと思ったが、そういう事だったのか」
パパが言った。その発言はまずい。案の定ママが咳払いをする。苦笑いするパパ。つられて私もはにかむ。自分で言うのもなんだが今の私を見たらラーレさんやフランはさぞ驚くだろう。そんな事を思うほど私は幸せな気分だった。
こんな機会、下手したら数年ないかもしれない、当日は思い切り楽しもう。私は心に決めた。夢みたいだ。そう思って私は不意に自分の頬をつねった。痛い。
「エーデルったら、大丈夫よ。夢じゃないわ」
ママは私がつねった頬を撫でて言った。
「火曜の夜は楽しみすぎて寝れないなんて事ないようにな」パパが私に言った。
「あなたもね」ママがパパに言った。
「君もね」パパがママにウィンクしながら言った。
ママとパパはどうか分からないが、私はきっと楽しみで中々眠れないだろう。でも、ちゃんと寝なくては。私は自分に言い聞かせた。
日曜のお昼頃。私は例の地下からしか入れない怪しいビルにまたピザを届けに来ていた。
相変わらず、暗くて嫌な階段だ。またこの前と同じ男の子が出てくるといいのだが、全く違う怖いおじさんだったら、どうしよう・・・・・。そんな不安を抱きながら恐る恐るドアホンを押した。
「ピザー!!」
前回と違い元気な女子の声と共にすぐに扉が開け放たれた。
私の顔を見た女の子は私の顔を見た途端キョトンとした顔でしばらく固まった。年は多分私と同じくらいだろう。ただフリフリの服を着ていて、顔も綺麗で、とっても可愛い。同じ生物なのだろうか・・・・
「にゃんだお前・・・・・可愛いなぁ!」
その女の子は私の顔を見るなりそんな事を言った。それは私の台詞だ。
「お前がピザ持ってきたのか?」
私は頷いた。
「偉いなぁ。可愛くて偉いなぁ!」
その子はそう言って、私の髪をヨシヨシした。私は猫じゃない。
「よし決めた。これからお前も一緒にピザ食べるぞ!」
その子は私の腕を引っ張って、中に引き込もうとする。
「あっ・・・・あのっ・・・おっ・・・お、・・・仕事・・・中・・だか・・・ら」
「にゃんだよ、硬い事言うなよー。ちょっとくらいいいじゃんかー」
女の子はそんな言葉などお構いなしで中に引きずり込もうとしてくる。って云うか、見た目に寄らず、とても力が強い。
「あのっ・・・・・ほっ・・・・本当に・・・そのっ・・・」
「にゃっぱっぱ、ちょっとくらい大丈夫だって」
可愛い口調に、可愛い顔。そして、悪魔のような怪力。
瞬く間に私は玄関から、廊下に引きずり込まれてしまった。早くお金を貰って帰らなければいけないのに。本当にまずい。
「可愛いピザ屋捕まえたぞー!!」
彼女はそう叫んで目の前のお洒落なドアを開け放った。
部屋はとても広く、軽いカフェのようだった。そこで同年代くらいの男の子が2人、女の子が2人、ラーレさんと同じかちょっと上くらいの男女が見た事ないボードゲームをやったり、下の子に勉強を教えていたり、ゲームをしていたり、本を読んでいたり思い思いの事をしていた。それらの視線が一気に私に集まる。
そのせいで動悸が起きた。苦しい。恥ずかしい。早く帰りたい。
「あらあら本当に可愛いピザ屋さんね。でもね、ロス。この子はお仕事中なんだから引き止めちゃ駄目よ」
勉強を教えていたであろう青髪のいかにも綺麗で気品のありそうな女の人が立ち上がり、私を引っ張ってきた少女に言った。
「でもー」
ロスと呼ばれた少女は不満そうに言った。
「捨て猫の次は人間? いい加減にして」
見た事ないボードゲームをしている目の細い少女が私の横の少女を一喝した。この人たちは一体どんな集まりなのだろう・・・・
「全く」そう言って本を置いて立ち上がったのはこの前に会った少年だった。
「うちのバカが迷惑掛けたな」少年はそう言って、私の腕からヒョイとピザの箱を取り、代わりに横の少女のポケットに入っていたお金を私の手に入れた。ちょうどある。
「早く戻りな」少年はそう言って、私の腕を掴んで玄関まで連れてってくれようとした。「待てよ、ブレア! お前、まさかその子と外で良い事する気か!?」
「しねーよ、バカ!」
「とにかく、駄目だぞ。こいつと一緒にピザ食べるって決めてんだから!」
少女がもう片方の私の腕を両手で掴む。
「離せバカ!」
「嫌だー!!」
って云うか痛い。両サイドから腕を引っ張らられて腕がもげそうだ。二人とも力が強すぎる。冗談じゃない。とにかく腕を離して!
「あのさぁ。どっちか離さないとその子脱臼すると思うよ」
奥でゲームやっていた男の人がボソっと言った。それを聞いた少年はハッとした顔になり、パッと私の腕を離した。いきなり逆方向の力がなくなったので、私と少女の体は吹っ飛ばされ床に叩き付けられた。
「いってぇーなぁ!いきなり離す奴があるかー!!」
「いや、普通、お前も離すと思うだろ!」
「2人とも大丈夫?」青髪の女の人が私たち二人を優しく立たせてくれた。
「リベ姉。本当、あいつはひどい奴だよ」ロスと呼ばれた少女が言った。
「とにかく、この子を引き止めちゃ駄目。この子はお仕事でここに来ただけなの。分かるでしょ」
「でも・・・・」
リベ姉と呼ばれた人は優しく少女を諭すように語った。
「分かった。でも、次会った時は一緒にご飯食べたり、遊んだりしようにゃ」
少女はそう言って、私の両手を固く握った。だから、痛い。
「いや、なげーよ! いつまで手握ってんだよ!」
しばらくしてから、目の細い少女が後ろからそう突っ込みを入れた。
「いいじゃんかぁ。ちょっと余韻に浸ってたんだよ!」
「その子、本当に面倒くさそうだよ」
目の細い少女の対面に座っていた男の子がここに来てあきれた様子で口を開いた。
「にゃあ、なあ、私、めんどくさい女か・・・・?」
ロスと呼ばれた少女は私の手を握ったまま少し潤んだ目で私に言った。手は痛いし、はいそうだと言いたいところだが、潤んだエメラルド色の瞳がそれを躊躇わせる。
「そっ・・・・・そっ・・・そんな、そんな事ない、ないよ・・・・でも、今は、その仕事中だから・・・・また、今度、今度、遊ぼうね・・・・」
「良かったぁ!絶対、絶対、今度遊ぼうにゃ!」
彼女はそう言って私に抱きついた。想像通り力の強いハグだったが、不思議と嫌じゃなかった。また友達が出来たかもしれない。
「余韻がしつこい」
勉強を教わっていたショートの女の子が席から立ち上がりしばらく私に抱きついていたロスの頭をパーで挟んで持ち上げた。なんという怪力・・・・
「ぐにゃああああああああああ!!」可愛い断末魔が部屋中に響き渡る。
ショートの少女は目で今のうちにここを出る様に促す。その目は蒼く宝石の様に輝いていた。
「そっ、それじゃあ・・・・そのっ・・・まっ、またね・・・・」
私は相変わらず頭を挟まれ叫んでいるロスにそう言って部屋を後にした。
「ばっ・・・・バダにゃぁああああああああああ!!!」
玄関を占める途中、部屋の奥からそんな叫び声が聞こえた。多分、頭を挟まれたまま「またね」と言おうとしただろう。私はクスっと笑った。
暗い階段がなんとなく明るく感じる。私は満たされた気持ちでその場を後にした。
とはいえ、早くお店に戻らないと。
私は息を思い切り吸いこんで全身に力を込めた。
その瞬間、力を込めた拳に痛みが走った。涙が出るほどの痛みではないが、同い年くらいの子が普通あんな力を出せるのだろうか。わざと力を込めている様に見えなかったし、一体あの力はなんなんだろうか。そもそも、あの場所は何なのか。彼女たちは何の集まりなのだろうか・・・・思えば、謎ばかりだ。
お店に戻ると、エミリーさんとフランがチェスをやっていた。ラーレさんが逆座りでそれを見ている。
「おかえりなさい、エーデル」フランが笑顔で言った。
「お疲れー」ラーレさんが軽く言う。
「あっ、おかえりね」エミリーさんは振り向いてそう言うと、すぐにチェス盤に視線を戻した。どうやら白熱しているようだ。近付いてチェス盤を見てみるがどっちが勝っているのか全然分からない。でも、エミリーさんは険しい表情をしていて、フランは私と目が合うと涼しげに微笑んだ。多分、フランが勝っているのだろう。
「すごいわね、フランちゃん。エミリーがチェスでこんなに押されている事なんて見た事ない」ラーレさんが言った。
「小さい頃からチェスは好きだったので」
フランがそう答えた。確かにフランはこういう頭を使う遊びは得意そうだ。そんな余裕綽々のフランとうって変わってエミリーさんはついに唇をギリギリと噛みしめ始めた。まるでただの遊びじゃないような表情だ。その様子を察してかラーレさんも自然と口を閉ざす。場の空気が張り詰めて、お店にいる全員が真剣な表情になる。こんな状態が数分続いた。
「私の負けね、お見事」エミリーさんは一度息を深く吸ってから、そう言って笑顔になった。良かった。これ以上張り詰めた空気が続いたら私の胸まで苦しくなっている所だった。ラーレさんは店長にチェスで負けるとすぐ機嫌が悪くなったりするが、エミリーさんは全くそんな様子はない。大人だ。
「あれ、もういいのか。まだ中盤くらいじゃないか」
「既に押され気味でこれ以上続けても盤面を返す事が出来そうになかったので、私は先輩と違って悪あがきはしない主義ですから」
「コラコラ、さり気なく先輩をディスるな」
さっきの張り詰めた空気が一気に解け、場に暖かい空気が流れた。
「エミリーさん、良い試合でした。また、やりましょう」
フランはそう言って、エミリーさんの方に手を差し伸べた。
「そうね、あなたに対する考えを改めたわ」
エミリーさんはそう言って、フランに握手に応じた。前はお互いに相手の事を気を付けた方が良いと言っていたが、無事打ち解けられたのかもしれない。良かった。
おじさんが二人の健闘を称えて二人にチョコケーキを持ってきた。美味しそうだ。
「ありがとうございます」
二人が丁寧にお礼を言った。
「エーデル、横に座って。一緒に食べましょう」
私は首を横に振った、私は見ていただけだ。
「喜びは分かち合うものよ」
フランは椅子を引いて、ケーキをフォークで半分にした。何でこんな出来た女の子が私なんかの友達でいてくれるのか不思議で仕方ない。
「ほら、遠慮しないで」
フランは半ば無理やり私を席に座らせ、切った半分のケーキを新しい小皿に乗せ、私の前に置いた。
「あっ・・・・ありっ・・ありがとう」
「いいのよ、それより早くいただきましょう」
というわけで、フランのご厚意でチョコケーキを半分頂いた。美味しい。
「なぁ、エミリー悲しみは分かち合って半分・・・・」
「あげませんよ」
「なんだよ、つれないなぁ」
「なんて、嘘ですよ。はいアーンして下さい」
「なっ、なんか屈辱・・・・・」
向こうの二人も楽しそうだ。なんというか幸せだ。家以外でこんな幸せな気持ちになれるなんてちょっと前の私には全く想像も付かなかっただろう。私の周りで物事はいつも悪い方向に進むものだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。新しい友達が出来そうになり、四人の仲は深まっている。少しずつ良い方向に向かっている。
「いやぁ、今夜は一段と寒いねぇ」
仕事終わり、ラーレさんはお店を出て開口一番に言った。確かにまた一段と寒くなって気がする。十月下旬、冬がすぐそこまで来ている。
「いつもありがとうございます」
「いいの、いいの。そもそも平日こんな時間にあなたを1人で帰らせてる方がおかしいんだから。平日は送ってあげられなくてごめんね」
ラーレさんにも家の事情があるだろうから、仕方ない。本当はいつも家まで送って欲しいがそこまで甘える訳には行かない。そういえば、ラーレさんはどこに住んでいるのだろう。もう長い事一緒に仕事をしているが、まだ私は彼女の家を知らない。
街中を歩いていると、突然ラーレさんのポケットからけたたましいアラーム音が鳴った。
慌ててラーレさんがケータイを出し、画面を見た。そして、表情が変わりどこかに電話をかけ始めた。
「こちら、A10568 。信号受理。急行します」
そして、それだけ言うとすぐに電話を切った。
「ごめんね、エーデルちゃん。どうしても外せない用事が出来ちゃったみたい。本当に気を付けて帰ってね」
ラーレさんは早口でそう言うと、元来た道を走って行ってしまった。悲しむ間もなく行ってしまった。私は遠くなるラーレさんの背中を唖然として眺めていた。何かあったんだろうか・・・・心配だ。付いて行きたい気持ちもあるし、ラーレさんの言う通りまっすぐ家に帰るのが一番いい気もする。私がどうすればいいか考えながら当たりを見回していると、パトカーが数台止まり、お巡りさんが通行人に話しかけているのが目に入った。なんだか、嫌な予感がする。
どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・・・・あっ、猫。
フっと視界に猫らしい影が横切り、裏通りに入って行くのが見えた。私はほとんど無意識にその猫を追った。なぜかあの猫を追わなければいけない気がした。どんどん奥に入って行く。私は息を切らしながら走った。猫がまた角に曲がるのが見えた。私も遅れて角を曲がる。
「え?」
角を曲がると、そこにいたのは猫ではなく、青い短髪で色白の人間だった。しかも、お腹に刃物で切られたような跡がある。ジェルで止血はしているようだが、傷跡がまだ生生しくとても痛そうだ。ただごとではない。
「あっ・・・・・あのっ・・・・あのっ・・・・えっお・・・・きゅっきゅっきゅ救急車・・・・呼ばないと・・・・あっ・・でっ・・・でも、でも、私、電話が・・・・あのでも・・・・お腹が・・・・あっ、あっ・・・・」
「はっ・・・・はは。地獄に天使が来たぜ・・・。まぁ、落ち着けお嬢ちゃん、俺は大丈夫だ。それより、おじさんがここで落書きしてる間、誰かが来ないか角で見張っててくれないか」
お腹を大怪我しているのにこの人は一体何を言っているんだ。そんなことより早く人を呼ばないと。
「あっ・・・・あのっ、だっ、誰か・・・・その、大人の人を、そのっ、呼んで・・・」
「駄目だ、時間がない、頼む。角で人が来ないか見張って、誰か来たら靴を鳴らして合図してくれ、そしたら俺はそこのゴミ箱に隠れる。人が行ったら靴を二回鳴らせ。分かったか!?」
「はっ、・・・はい」
私は気迫に押され、この人の良く分からない頼みを受け入れてしまった。
「そっ、それじゃあ、そっ、そのっ・・・えっと、行ってきます」
「ああ、頼むぞ。未来がかかってる」
色白のお兄さんはそんな事を言ってピンクのチョークでよく分からない模様を道に描き始めた。なんだか、とんでもない事に巻き込まれてしまった気がする。
角の端っこから前方を眺めていると、向こうの角から足が見えた。私は指示通り靴を鳴らした。それから、自分も頭を引っ込めた。
そして、後ろを見るとおじさんがゴミ箱に急いで入っているのが見えた。いい大人がゴミ箱に急いで隠れるのは中々シュールな絵面だと思った。それにしても、何を描いていたのだろう。私は描きかけであろう変な模様に近づきそれを見た。全くなんだか分からない。ただ少し不気味だ。投げ捨てられていたピンクのチョークを取ってみた。特に変わったところはない。多分、普通のチョークだ。
「君、何をやっているんだ!?」
突然、後ろから声がして私は慌てて振り向いた。チョークを持ったまま。
お巡りさんだ、二人いる。私は自分の持っているチョークを見て、その後、道路の変な模様を見た。まずい、これじゃあ完全に私が落書き魔だ!
「あっ・・・・・あのっ・・・・これは・・・そのっ・・・あのっ・・・・違くて・・・えっと・・・・あのっ、あっあっあっあっ・・・あっ・・・・あっ、おっ」
パニックで完全に呂律が回らない。このままじゃ私が逮捕されてしまう。
「お嬢ちゃん、こんな所で隠れて落書きしちゃ駄目だよ。はい、チョーク渡して」
私は言われるがままチョークを渡した。というか、そうせざるえなかった。
「あっ、あのっ・・・・わっ、わたし、そのっ・・・たっ、逮捕、そのっ、されちゃうんですか?」私はしどろもどろになりながら聞いた。
「大丈夫、このくらいじゃ逮捕しないさ。でも、もうこんな遊びはしちゃ駄目だよ。今日は早くお家に帰りなさい」若い方のお巡りさんが言った。
「あっ、あのっ、えっと、このあたりで、そのっ、なっ、何かあったんですか?」
逮捕されないと分かって安心してついでに聞いてみた。
「泥棒が出て、政府の大事なデータを取ってしまったらしいんだ。僕も詳しくは知らないけど、これだけ警察が駆り出されているんだからよっぽど大事なデータだったんだろうね」
それがどれほど大事な物かは分からないが、とりあえず殺人犯が暴れている訳ではないと知り少し安心した。それから、私は2人のお巡りさんに連れられ裏通りを出た。
「落書きは駄目」と私に念を押してから、二人は巡回に戻ったようだった。
さて、無事逮捕されなかった事だし、お家に帰ろう・・・・・・あれ、そもそも何で私が落書き魔に間違われてしまったんだっけ・・・・・あっ!
ゴミ箱に急いで入るお兄さんの姿がフラッシュバックした。あの人のせいで私は落書き魔に間違われてしまったんだ。このまま帰ってもいいが、もし私が合図をださなかったせいで怪我が悪化して死んでしまったら、とても心持ちが悪い。一応、ゴミ箱からは出してあげよう。そう思い、私は裏通りに戻り、さっきの場所で靴を二回鳴らした。
お兄さんがゴミ箱からひょっこり目だけを出して当たりを見回した。それからやれやれと云う感じでゴミ箱から出てきた。相変わらずお腹が痛んでいるようだ。
「まさか、自分が落書き魔になってポリ公の目を逸らさせるとはな。どんくさそうに見えて意外とやるじゃねぇか。引き続き見張りを頼むぜ。チョークなら心配するな、こんな事もあろうかと予備は大量にある」
やりたくってやった訳じゃない。大体、どうして私がこの人の落書きの手伝いなんかを・・・と思いながらも結局断れない私。また角から顔を出し、人が来ないか見張る。今度は誰も来る気配がない。
5分くらい経ったところで背後から蒸気が一瞬だけ吹き出した様な不思議な音が二回した。後ろを向くと、そこには誰もいなかった。ただ完成したであろう謎の模様から黒い蒸気が少しだけ上がっていた。それも数秒のうちに消え去った。頭の中がはてなで一杯だ。私はさっきお兄さんが入っていたゴミ箱の蓋を開けてみた。誰も居ない。隣の蓋が半開きのゴミ箱を開けた。猫だ、さっきの猫がゴミを漁っている。私は猫を抱き上げ、お腹を見た。怪我はない。この猫がお兄さんという事はなさそううだ。ならお兄さんはどこだ?
確かにここは行き止まりになっていて、私の横を通らないと外には出れない筈だ。おまけにここから一番近い窓は3階くらいの高さにあって空でも飛ばないと入れない。そう考えると、背筋がゾっとした。いくら当たりを見回してもお兄さんは見当たらない。頭が変になりそうだ。もう一度変な模様を見た。さっきは気付かなかったが変な模様の横に文字が書いてある。『Thank you so much!』、このくらいの英語なら分かる。どうやらお兄さんは助かったらしい、多分。自分の頬を軽くつねる。痛い、夢じゃない。完全に今起こった出来事に関して頭が追い付いていないのが分かる。お兄さんは幽霊?いや、幽霊なら人を憚る理由がない。そもそも、この世界に幽霊なんていない!
ママやパパに話をしたら、また余計な心配を掛けてしまうから今度フランに聞いてみよう。
どうして、ロスと呼ばれていた女の子はあんなに力が強かったんだろう。突然ラーレさんに出来た用事はなんだったんだろう。青髪のお兄さんは一体何者で、何をして怪我して、感謝の言葉だけを残してどこに消えてしまったんだろう。思い返すと疑念は尽きない。いつかこの疑念が晴れる日が来るのだろうか。私はベッドに仰向けになり天井に手をかざしながら考えた。もう眠らないと。暗いのは嫌だな。




