第12話(1-8-1)
「エーデル、何ボケっとしてんの?」
「あっ、ごめん」
「お前、眼が一瞬死んでたぞ」
「大丈夫。ちょっと、別の事考えてただけだから」
「いつまでも変わらないね、あんたは」
「そうかも」
「にしても、まさかこんな事になるとはな。あの時の俺たちからしたら想像も出来ないな、全く」
「実は罠でしたとかは絶対止めてよね」
「もうそんなガキじゃないつーの」
「そうだといいけど」
「これでアイツがいればな・・・・おかしな奴だったけど、いないとなんか寂しいな」
「おい、その話はやめろって言っただろ」
「まぁ、私たちが今こうやっているんだから、向こうのあいつも少しは浮かばれるんじゃないの。なっ、エーデル」
「そうだね。きっとそう」
「本当に馬鹿だった。いい加減、歩けるようになって欲しいよ」
「今すぐ両脚を切ったら、義足付けて歩けるようになるよ」
「冗談じゃない。絶対、自分の脚で歩けるように戻ってやるからな」
「はいはい。頑張ってね、お・ば・あ・ちゃん」
「てめぇ、だるまにするぞ!」
「まあまあ二人ともそれくらいにして。もうガキじゃないんでしょ」
「そういえば、あんたのお腹の方はどうなの?」
「ちょっと、つつかないでよ。まだ縫ってから日が浅いんだから中身が出ちゃう」
「あっ、悪い」
「なんてね。もうへーきだよ。大体、縫ってからもう大分経つし」
「お前なぁ。ちょっと、本気で心配したじゃねぇか!」
「ごめん、ごめん。そういえば、腕と脚、新しいのに変わったんだね」
「んっ、ああ、これね。武器じゃなくてちゃんとした義肢だから大分動きやすいよ。何より、ガチャガチャ言わないし、普段はこっちにしてるんだ」
「誰に作って貰ったの?」
「ヘイムゼルさんが資金集めのために作った義肢の試作品。意味分からない発明ばっかりじゃお金にならないって分かり始めたんじゃないかな、きっと」
「おいちょっとそこの二人、俺らの分からない世界の話は止めてくれよ」
「全く同感だな。お前たちがラブラブなのは充分分かったから、そろそろ行くぞ」
「LGBTでも良いんじゃない、私は応援するよ。差別は嫌いだし」
「お前ら!」サラが叫んだ。
「みんな聞いて、本物のレズビアンはこんなんじゃないから。もっとすごいから」
続けて、私が言った。四人が軽く笑った。
私も少し笑った。そして、なぜか少し悲しくなった。
「さっ、楽しいお喋りはこのくらいにして、そろそろ本気で行こうぜ。そろそろマヂで映画始まる時間だし」ニコラスが言った。相変わらずの減らず口だが殆ど廃人の無気力人間だった頃と比べれば数億倍マシだ。前に会った時より雰囲気も落ち着いていて、心なしかちょっぴりイケメンに見える。
「おい、ニコラスつまんなかったら、マヂで金返して貰うからな」
エグモントが言った。エグモントも口は相変わらずだが、いきなり物を投げつけてきたり、首を絞めてきたときとは比べ物にならないほどの落ち着きっぷりだ。
「寝てたら、誰か起こしてね」
ミレーマが言った。あの事件の後、初めて会った時はお互い気が動転していて、しっちゃかめっちゃかになってしまっていたが、フィンブルさんが上手い事、彼女の怒りを抑えてくれて、後にニコラスとエグモントにも直接謝る機会を作ってくれた。
もしあの日、彼女に会っていなかったら、こんな日は永遠に来なかっただろう。
最初から私たちがこんな関係だったらウルリヒは・・・・・
「ほら、ボケっとしない。行くよ」
サラはそう言って私の腕を少々乱暴に引っ張った。
「もしかして、お前ビビってんだろ!」ニコラスが言った。
「えっ、そんな訳ないじゃん!」私が言った。
「むしろホラー映画なんだからビビらせて貰わないと困る。金が勿体ない」
エグモントが言った。
「それは言えてる」ミレーマが言った。
何気ない日常。これがどんなに貴重なものなのか。私やサラは元より、ミレーマやエグモント、ニコラスもそれを分かっているだろう。
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目を開けると、自分の部屋の天井が見えた。左側にベッドが見える。ベッドから落ちたみたいだ。私は夢見心地のまま当たりを見回した。当然、サラもミレーマもエグモントもニコラスもいない。あまりにもリアルの夢だった。
こんな夢を見てしまうくらいだから、まだ心の奥底でサラたちと仲直りしたいと思っているんだ。
私は馬鹿だ、そんな事は無理に決まっているのに。
それでもサラたちとあんなに対等にお喋り出来たらどんなに幸せだろう。フランツィスカにラーレさん、イズさんにチェシャさん、皆私によくしてくれてるけど、結局私が一番仲良しになりたいのはあの四人なんだ。それが悔しくて悔しくて悲しい。
どういう選択をしていれば夢で見た未来にたどり着けるのか考えずにはいられない。
またいつの間にか涙が溢れてきた。こんな事ではまたママとパパに余計な心配をさせてしまう。私は涙を拭って体を起こした。なんとなく体が重い。カーテンを開けると空にはどんよりと厚い雲が広がっている。窓に薄らと映る冴えない自分の顔、額はまだ少し赤く腫れている。私が夢の中の様に家族以外の人間ともはきはきと喋れて『普通』に学校に行けていたならママやパパの気持ちがどれだけ軽くなったのだろう。
私は軽く自分の頭を窓に打ち付けた。
窓に額を密着したまま、しばらく何の気力も出ず、その場を動けずにいた。そのままの体勢でふと横を見るとラーレさんに貰ったぬいぐるみ軍団が視界に入った。そういえば、今日は土曜日だからラーレさんがお店にいる日だ。そろそろ動かなくては、ずっとこんな事をしている訳には行かない。私は窓から額を離し、手早く着替え、部屋を出た。
リビングに行くと、いつも通り私の分の朝食が既に用意されている。
「おはよう、エーデル」
パパとママが言った。私は沈んだ心を悟られないように出来るだけ普通に挨拶を返した。
「ラーレさんのお友達から頂いたクッキーとても美味しかったわ。今度また二人に遊んでもらった時にそう伝えて、エーデル」ママが言った。私は無言で頷いた。
どうやら、イズさんのクッキーはママも気に入ったらしい。貰った当日にパパも食べたがパパも絶賛だった。美人でお菓子作りも上手なんてなんだかずるい。
「全くラーレさんには助けられっぱなしだな、いつか会ってお礼を出来る日が来るといいんだが」パパが言った。
「本当にねぇ。新しい友達まで紹介していただいて・・・・・」
今回の件はラーレさんではなく、チャミたちのお蔭の出会いだが話がこじれるので黙っておこう。
「本当に良い人に出会えて良かったな、エーデル」
パパはそう言って、私の頭を軽く撫でた。それはまさにその通りだと思う。ラーレさんには特に良くしてもらっている。何で私なんかをこんなに気にかけてくれるんだと不思議に思えるほど。
「ところで、エーデル。おでこはまだ痛む?」
ママがそう言って、優しくおでこのコブを撫でた。私は首を横に振った。
「良かった。私もあなたと同じくらいの時はよく何もないところで転んだわ」
ママが言った。なんとなくだがママは適当に話をでっちあげて私に合せてくれている感じがする。なんといっても、ママが私みたいに何もないところで間抜けに転ぶなんて想像できない。まぁ、今回は転んだ訳ではないのだが。
いつも通りの朝食。これが私の最高の幸せだ。
そして、幸せの時間はあっという間に過ぎていく。
またママとパパは行ってしまう。仕方ない事だ。それなのにいつも悲しい。
もう少し、もう少しだけ傍にいて欲しい。
ママとパパが玄関から出て行く背中を見る度にそればかり考えてしまう。
当たり前の風景なのに当たり前に思えないのだ、玄関から出る二人の背中はどこか悲しげで、朧げで、なくなってしまいそうに見えるのだ。
2人は玄関で私に背を向けた時、どんな表情をしているのだろう。想像もつかない。
私はまた誰も居ない玄関の前から動けずにいる。
夜にならないと2人が帰って来ないと誰よりも分かっているのに。
こんなところで立ち尽くしていても何も変わらない。部屋に戻ろう。
そう思った瞬間、玄関のドアノブをガチャガチャする音が聞こえた。
ママかパパが忘れ物を取りに来たのかも!
私は急いで玄関の鍵を開けた。
「何か忘れ・・・・・・・・」
玄関の前に立っていたのはママでもパパでも無かった。
スーツ姿の怖い顔の男の人が二人。
「あのっ・・・・・・・」
私は既に鍵を開けたことを後悔し始めている。
「お嬢ちゃん、ママとパパはまだいるかな?」
若い方の男が言った。私は首を横に振った。
「悪いけど、少し確認させて貰うよ」中年の方の男がそう言って、家の中にあがり込もうとした。そんなの駄目だ、駄目に決まってる。
「あっ・・・・・・あっ・・・・・あ・・・・・・」
「少し家の中を確認させて貰うだけだから、心配しなくて大丈夫だよ」
若い人はそう言って、通せんぼする私の肩を優しくつかみ、そのまま優しく私をどけた。私の力じゃ大の大人二人を追い返すのは無理だ。ここは素直に従うのが身のためかもしれない。怖い、なんなんだこの人たちは・・・・・・
家にいきなり上がり込んだ二人は問答無用で色んな部屋を見て回る。
私の部屋も例外ではない。
「ぬいぐるみがこんなに・・・・・子供にぬいぐるみを買い与える前に早く借金の返済をして貰いたいものですねぇ」
「全くだ。お嬢さんには悪いがこれも立派な私財だ。このまま返済が滞れば差し押さえねばなるまい・・・・」
2人は私の部屋を見ながらそんな事を言い始めた。
反論したいのに怖くて声が出ない。
「冷蔵庫は最低限のものしか入っていませんね。流石に食事は切り詰めている様です」
「だろうな。ぬいぐるみ以外に差押えできそうな嗜好品はあったか?」
「目ぼしいものはテレビとビデオプレイヤーくらいですね」
「なるほど、つまり自宅は殆ど空か・・・・・」
「そうみたいですねぇ」
「会社に踏み込みたいところだが、会社の財を奪ってしまえば本当に返済が不可能になってしまうだろうからな。困ったものだ」
「最終的には別の手段を使うしかないかもしれませんね」
「その様だな」
2人はそう言って、まるで物を見るかのように私を見た。
怖い、嫌だ、もう無理だ。
私は二人の目の前で泣き出してしまった。
そのまま気持ち悪くなり、酷いえずきを何度も繰り返した。
「えっ・・・・あっ、えっと、ごめんね。別にお嬢ちゃんを怖がらそうとしてる訳じゃ・・・・・僕たちもう帰るから、泣かないで、ね」
若い人が慌てて私の背中を撫でながら言う。
「ただママとパパにこのお手紙を渡して欲しい。大事なお手紙なんだ」
中年の人が言う。
私はどうにかえずくのを抑え泣きながら、頷いた。
「良い子だね。それでは私たちは失礼するよ。もう会えない事を祈っているからね」
中年の男の人は私が手紙を受け取ると、そう言って若い人を引き連れ家から出て行った。
2人が去って涙が落ち着いても、悪寒と震えが収まらない。
私は逃げる様に部屋に帰り、ラーレさんに貰ったくまのぬいぐるみを抱きしめてベッドに倒れ込んだ。なんで朝からこんな怖い目に遭わないといけないんだ・・・・。
気持ちが落ち着くまで私はぬいぐるみを抱きしめ続けた。
ふと時計を見るとそろそろお手伝いに行く時間になっていた。
いつまでもくよくよしていても仕方がない。遅れたらラーレさんやおじさんに迷惑が掛かってしまう。だから、行かなくては。
私はぬいぐるみを元の位置に戻し、部屋の電気を消そうとスイッチに手を掛けた。
その瞬間、左目に鋭い痛みが走った。
「―っ」
左目が熱い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い、痛い。私は左目を抑えたまま、その場にしゃがみ込んだ。尚も左目の熱と痛みが増す。痛い、痛い、痛い。痛い、痛い。
左目を抑えた左手にじっとりと熱い液体が伝うのを感じる。それが血なのか別の液体なのか確かめたいが、左手を離したら痛みが爆発して、左目がが潰れてしまいそうだ。まるで眼球を中から針で刺されている様な痛み。とても痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
「ぁあああああああああああ!」
私は叫び、思わず右手の爪を床に立てた。ギリギリと音を立て、床が捲れ五本の線が入って行く。それでもまったく痛みが収まらない。私は床に爪を突き立てたまま。自分の下唇を思い切り噛んだ。それでも目の鋭く熱い痛みは少しもマシにならない。でも、少しでも踏ん張っていないと、左目が爆発してしまう。そんな気がする。噛みしめる下唇からも熱い液体が伝う。左目が焼ける様に熱い。熱い、痛い。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い、熱い・・・・
「ぁああああああああああああああああああああああああああああああああッー!」
無限に強まる痛みに私は獣のような叫びを上げ、より強く床を引き摺り、より強く下唇をかみしめる。全てが壊れてしまう。どうして私ばかりこんな目に、私は『普通に』生きたいだけなのに。どうして私なんだ。なぜ、私なんだ。どうして私なんだ、どうして!
「がッあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
私は再び獣の様に声を上げた。
その直後、何かが解き放たれたように一瞬にして、左目の痛みが消え去った。
しばらく、その状態のまま放心して動けなかった。
少し落ち着いたところで恐る恐る抑える左手を離し、左目を開けてみた。見える。いつもと変わらない。『普通に』見える。私はホっと胸を撫で下ろそうと右腕を引っ張った。しかし、動かない。右腕の方に目を向けると、床が五本線に捲り上がり、その先端には殆ど文字通り爪が突き刺さっており、周りには血が滲んでいる。惨状だ。
私はこれ以上爪を痛めないように出来るだけ垂直に爪を床から引き抜いた。爪の隙間から血が滲んでいる。先ほどの目の痛み程ではないが、こちら軽く泣きそうになるくらい痛い。でも、そんな事より床にこんな傷を・・・・・・流石のママやパパでもこれは許してくれないだろう。今までの人生の中で一番怒られるかもしれない。困った。私はそう思い何気なく左手を床に置いた。ベチャっと嫌な音がした。
左手を床から離した。案の定、床にはどす黒いがベットリ付いている。おまけに下唇から滴り落ちたであろう鮮血もポタポタと、もうどこもかしこも酷い有様だ。怒られるにしても、シミになる前に床は拭いておかなくては。
とりあえず、洗面台の下にある雑巾を取りに行こう。
「ひっ」
私は洗面所にあった鏡を見て、のけぞった。確かに鏡に映ってるのは自分だ。自分の筈だ。でも、いつもの自分じゃない。左目が青い。私の記憶が正しければ私の瞳の色は茶色だ。もちろん、両目とも。昨日まではそうだったはずだ。それなのに鏡に映る私の目は青い。しかも、獲物を探す狼の様に左目だけ充血している。
下唇からは血が伝った後の赤い線が通っている。左手で左目の周りを触れてみる。鏡の中の私も全く同じ動作をする。確かに鏡の向こうにいるのは私だ。でも、左目が青い。
「どうして・・・」
私は鏡の中の自分に言った。もちろん返事はない。こんな事がありえるだろうか。
下唇から、少量の血が再び滴り落ちる。とっ、とりあえず、唇の血を抑えよう。
私はテッィシュを一枚取り、優しく唇に当てた。鏡の中の私が訝しげに私を睨む。別に睨んでいるつもりはないが鏡にそう映っているなら私が鏡の中の私を睨んでいるのだろう。深く青い左目。
洗面台の上の時計がふと目に入った。
「あっ」
今すぐ家を出ないと遅刻だ。とりあえず、床だけ拭いて行こう。私は素早く雑巾を取り、部屋の血を拭った。すぐに雑巾を元の場所に戻し、下唇に当てていたティッシュを離す。右手で軽く触れてみる。血はついてない。血は止まったようだ。
捲れあがった床は元に戻らないし、左目は青くなるし、右手の爪はぐずぐずだし、下唇は赤く爛れている。血は止まっても問題は山積みだ。
とりあえず、一応正常な左目に眼帯をするのも変だし、唇だけでも隠した方が良いだろう。私はそう思って、洗面台の下の棚から開いているマスクの入っている袋を見つけ、そこから1つ取って、自分に付けた。鏡を見る。左右の目の色が違って、マスクもしてて、大分変だ。でも、爛れた下唇を晒すよりはマシだろう。もう行かないと。
私は急いで部屋中の電気を消して、家を出た。
まだ死ぬ気で走れば間に合う時間だ。右手の爪の間の痛みなど気にならないほど一心不乱にお店までの道を走り抜ける。いつもなら、すぐ途中で疲れる筈なのに今日は全く呼吸が落ちない。肺の当たりから、血の気が湧き上がらない。それなのにいつもよりかなりスピードが出てる気がする。これなら間に合う。
「ヴっ!」
飛ばし過ぎて、何かにぶつかり弾き飛ばされてしまった。私が顔を上げると、もの凄い怖い顔の男の人が私を見下ろしていた。
「ごっ・・・・・・ごっ・・・ごぎゅっ・・・」
余りにも緊張しすぎてごめんなさいの言葉が出ない、殺される。そう考えたものの流石に殺されることはないと思っていた。でも、それは大きな間違いだった。
顔に傷のある黒い修道服の男は片手で私の首を掴みそのまま持ち上げた。これ本当に殺されるパターンだ。私の頭はなぜか冷静にそんな事を考えていた。
「俺様にぶつかっておいて謝罪も無しとは。その度胸だけは誉めてやろう」
首を絞める力がどんどん強くなり、喉から変な音が鳴る。ママ、パパ、出来の悪い娘でごめんなさい。床を捲ってごめんなさい。両目から涙が伝うのを感じる。
謝罪の言葉が口に出ていれば、もっと前を見て走っていれば。後悔は絶えない。
遠のく意識の中でメキメキと何かが軋む音が聞こえた。
お蔭で少し目が覚めた。私の小さい右手が男の太い腕を握っている。軋む音は明らかに男の太い腕から響いている。何がどうなってる。
「てめぇ、カガリトか!」
男はそう謎の言葉を叫び右手を強引に引き剥がし、私を道に放り出した。
「獲物が自分から会いに来てくれるとはな、今日はツいてるぜ!」
男は嬉しそうにそう言って、服のポケットから白い棒を2本取り出した。
その瞬間、たまたま通りかかった知らないおばさんがこの状況を見て悲鳴を上げた。
すると、男はバツが悪そうな顔をして白い棒をポケットにしまい、急いでこの場を去って行った。どうやら助かったみたいだ。
「おっ、お嬢ちゃん大丈夫?」
走り寄ってきたおばさんが言った。
何か返事をしようと思ったが、全然声が出ず喉から変な音が出ただけだった。
「怖かったねぇ。もう大丈夫だからね」
知らないおばさんはそう言って、私を抱きしめた。滴っていた涙が一気に滝の様に流れ出す。ぶつかったのは私のせいだが、こんな仕打ちあるだろうか。どうして世界はこんなに私に厳しいのだろうか。
「もう大丈夫だからねぇ、もう大丈夫」
おばさんが私の頭を撫でながら、優しく云う。
いつの間にか何事かと周りに人が集まってきていた。おばさんが周りの人と何か話している。でも、自分が泣いているせいでよく聞こえない。悲しくて、苦しいがお手伝いに遅れたら迷惑を掛けてしまう。
「あ・・・・り・・うっ・・ぉお」
『ありがとうございました。急いでいるのでもう行きます』とおばさんに言おうとしたが、言葉の途中でドロっとした血の塊が口から溢れ出して、全く言葉にならなかった。でも行かないと。
私は背中をさすってくれたおばさんを半ば無理やり振り払い。その場から駆け出した。男にぶつかる以前とは違い、いつも通り走るとすぐに横腹が痛くなり、ただの早歩きになる。私は何度も何度も涙を拭いながらお店に向かった。そして、なんとかお店の前に辿り着いた。
お店の扉を開けようとすると、扉の方から勝手に開き目の前にラーレさんが現れた。
「すごい事件に巻き込まれてる・・・・・・」
そして真顔で言った。
私は自分のコートを見た。先ほど溢れ出した血反吐がベッタリついている。いつのまにかマスクも取れて爛れた下唇が露わになっている。私はラーレさんの顔を見てまた泣き出してしまった。
今は色々と手当を受けている。幸いお店にはおじさんとラーレさんと私しかいない。いや、お店にとっては全く幸いではないのだが。
ラーレさんもおじさんも私が今うまく喋れないのを知ってか知らずか、殆ど何も聞いてこない。消毒用の綿棒が爪と指の隙間に染みる。
「あ。あーあー、あー。おっ・・・・・」
声を出そうと思ったが、途中で乾いた咳が出てまだ駄目みたいだった。
「あー、まだ無理に声出さない方がいいよ」
ラーレさんが言った。
私は黙って頷いた。色々な事がありすぎて頭が真っ白だ。
お仕事の手伝いに来たはずなのに、2人のお仕事を増やしてしまっている。
傷の処置が済むと、ラーレさんは自分の鞄からケータイを出し、陽気な感じの曲を流し始めた。どうやら英語の歌らしい。なので、歌詞は全く分からないがなんだか良い感じの曲だ。サビに入ったあたりでラーレさんがその曲に合わせてドイツ語の歌詞を静かに歌い始めた。
英語の歌詞を無理矢理ドイツ語に変えたのだから、音程はかなりズれて格好悪く聞こえるが、優しい歌詞だった。
「やっと、笑った」
ラーレさんが私の頭を撫でながら言った。
なんだか少し恥ずかしかった。おじさんはラーレさんが曲を勝手に流した事を怒るどころか、曲に合わせて首をゆっくりと上下に揺らしている。
私の人生は不幸の事が多いが、今はなんだか幸せだ。
それから、しばらくの時間が経った。お客様は1人も来ない。ラーレさんはなぜか私の前でホットケーキを食べている。随分と落ち着いてきた。
「あっ・・・・あー、あー、あー」声を出してみた。やっと、声が戻った!
「ほー、ほほっひゃひゃん」
ラーレさんが言った。口にホットケーキが入っていて何を言っているか分からないけど、多分声が戻った事を喜んでくれているのだろう、たぶん。
「あー、うん。それじゃあ、そろそろ何がったか少し聞いていい?」
ホットケーキを呑み込み、口周りを少し拭いてからラーレさんが言った。私は無言で頷き、起こった事を時々言葉を詰まらせながらも順を追って話した。ラーレさんはフォークを皿に置き、真剣にその話を聞いてくれた。
「何ていうか・・・・・うん、大変だったね。でも、目は青って云うか、私には赤く見えるけど」全てを聞いた後にラーレさんが言った。
そんなはずはない。鏡に映った私の左目は確かに青かった。
「ほい、鏡」
ラーレさんは私の表情で察したのか、バッグから手鏡を取り出して、私に手渡した。
・・・・・赤い・・・ただ充血してるだけだ・・・・・・
「あっ・・・・・あのっ・・・・・でも・・・・家では・・・・」
それを聞いたラーレさんは少しだけ眉をしかめた。それから、いきなり身を乗り出して、私の身体をじろじろと見まわした。
「見て分かったら苦労しないか」それから独り言のように言って腰を戻した。
「エーデルちゃん、最近いつもと違ったところとか行ってない?」
ラーレさんが聞いてきた。何かを探っているような雰囲気だ。思い出してみよう。
いつもと違う場所。材木置き場は・・・いつも行ってる。最後に行ったのはチェシャさんとイズさんと会った時だ。という事はいつもと違う場所と云えば、チェシャさんとイズさんの家だ。
「えっ・・・・この前、えっと、チェ・・・・・あっ!」
危ない所だった。チェシャさんたちの話はラーレさんに話してはいけないんだった。
「じゃっ、じゃなくて・・・・とっ、友達のお家に・・・・・・・」
ラーレさんが一瞬不思議そうな顔をしたが、あんまり気にしてない様だ。良かった。
「むぅ・・・・」
それを聞くとラーレさんは1人で考え込み始めた。
それから、しばし無言の時間が続いた。今回が初めてではないが何かを深く考えているラーレさんはまだ目新しいものがある。
「あっ、そういえば。何か変なお薬とか拾って飲んだりしてないよね?」
私は首を横に振った。そんな事は断じてない。
「だよねぇ・・・・。一応、お友達の家以外でここ2か月で行った特別な場所を・・・・あっ」
ラーレさんは明らかに大事な何かを思い出したという顔をした。
「えっ、えっと、何かあったんですか・・・・・?」
「んん。あー、違う。やっぱり、ホットケーキのシロップはチョコの方が良かったなって思っただけ」
なんて分かり易い嘘だ。きっと、ラーレさんの中で何か私に起きた体の異常や例の男について何か分かったに違いない。しかし、私はそこまでぐいぐい聞けるタイプじゃないし。私の力ではラーレさんから真実を聞き出すのは難しいだろう。なんだかんだ魔女の話もはぐらされてしまっている状態であるし。ラーレさんは私にとても優しくしてくれているが、実は私自身ラーレさんの事は知らないことが多いのだ。
どこに住んでいるのかも、フルネームも知らない。言ってしまえばラーレさん自身も私にとっての謎の1つなのだ。大袈裟かもしれないが、ラーレさんはなんと云うか私の知らない世界を知っているような気がするのだ。自分でも何を言ってるかよく分からないが。
「とりあえず、これから外出する時は人目の少ない通りは注意した方がいいわね。その襲われた男に顔を覚えられてるだろうし・・・・・」
ラーレさんが言った。
なんて怖い事を言うんだ。だが、その通りだ。
「わっ、わかりました・・・・・」
私は顔を引き攣らせながら言った。
これから日々、あの男の影におびえて過ごさないといけないと思うと辛くてしかたない。確かにきっかけを作ったのは私自身だが、たかがぶつかったくらいでなぜ日々命を狙われる危険に晒されなければいけないんだ。理不尽だ。
「まぁ、ほら今流れてる歌みたいに何もかもうまくいくから大丈夫。ラーレお姉さんを信じなさい!」
ラーレさんはそう言って自分の胸を叩いた。口元にはさっきからずっとはちみちが付いている。ちょっと、心配だ。




