第11話(1-7-2)
「お待たせ」
イズさんはそう言って、温め直したクッキーのお皿を改めて持ってきて言った。
既に美味しそうな甘い匂いが漂ってくる。
当然だが、猫にクッキーはいけないのでチャミたちは床に降ろしてある。
チャミとシュバルツがとても物欲しそうに私を見上げている。
「ねっ、ねぇ、・・・・ネコちゃんにもね、クッキー食べさせてあげて、いいかな?」
チェシャさんがクッキーを1つ摘まんで無邪気に言った。私は激しく首を横に振る。
猫に人間のおかしを上げるなんて、とんでもない。
「でっ・・・・でもね、この子がね、すごい食べたそうなんだよ」
チェシャさんは下にいるレインを一瞥してから少し潤んで目で私を見る。その目は反則だ、つい許してあげそうになる。それでも駄目なものは駄目だ。
私は尚も首を横に振った。
「エーデルちゃんは正しい、あんたネコちゃんたちをそんなに早死にさせたいの?
人の食べ物はね他の動物にとっては味が濃すぎて体に毒なのよ。良い機会だからよく覚えておいて」
中々分かってくれそうもないチェシャさんに対しイズさんが横から助け船を出して、私が言えなかった説明をきちんとしてくれた。
「そっ・・・・そうだったんだ。ごっ、ごめんね・・・わっ、私、馬鹿だから、そんな事もしらなくて・・・・・・わっ、私、本当に馬鹿だよね・・・・・・」
チャシャさんが露骨に悲しい顔でそんな事を言い始めた。これは心が痛い。何も間違ったことはしていないはずなのにチェシャさんの落ち込んだ様子はとても心が痛む。同性の私でもこの有様なのだから、こんなものを見せられた異性の人はさぞ大変だろう。
「ああ、ああ大丈夫、大丈夫。チェシャは馬鹿じゃないよ。チェシャは動物飼った事無いんだから知らなくても仕方ないよ」
落ちこむチェシャさんに対してイズさんが優しく言った。
「ほっ、・・・本当?」
「本当、本当」
それを聞いたチェシャさんは明るい顔を取り戻した。良かった、チェシャさんのあの顔を隣にして呑気にクッキーを食べるのは気が引ける。
かなり失礼な話だがやはりチェシャさんには年齢にふさわしい知識や振る舞いが備わっていないように思える。
私が偉そうにこんな事を言える立場ではないが、ママとパパのおかげである程度の常識は備わっているつもりだ。
ラーレさんとこの二人の関係も然り、チェシャさんの年齢にそぐわない振る舞いも然り、子供だけで高級マンションに住んでいることも然り、ここは謎だらけだ。
すごく気になる。気になるが触れてはいけない気がする。
「あっ、あのね、イズが作るクッキーはね、世界一美味しんだよ!」
いざ、クッキーに手を伸ばそうとすると、チェシャさんがそう横から言ってきた。
手作りなのか、なるほど。
「あっ、チェシャ言う事は気にしなくていいから、純粋に美味しいか美味しくないか教えてね」イズさんが言った。
「あっ、あの・・・・・そっ、それじゃあ、その・・・・いただきます」
そう言って私はクッキーを一枚摘まんだ。2人の視線が痛い。
まあ手作りなのだから、多少は味が薄くても美味しいと言うべきだろう。そんな事を考えながらクッキーを口に運ぶ。
・・・・・・・・・・あっ、普通に美味しい。私が食べた事のあるどの市販のクッキーよりも美味しいかもしれない。本当に手作りなのか怪しいレベルだ。
「・・・・・・どう?」
少し間を置いてから、イズさんが静かに聞いてきた。
「あっ・・・・あの・・・その、すごく、美味しかったです!」
私は正直に言った。
「でしょ、でしょ、でしょでしょでしょ!」
それを聞いた瞬間、横のチェシャさんがかなり興奮気味に言った。
「イズはね、・・・・やっぱりね、もっと、自分の作ったお菓子にね、自信を持っていいんだよ! イズのお菓子は世界一だもん!」
「チェシャ、頼むからそういう恥ずかしいの止めてよ。でも、エーデルちゃんが美味しいって言ってくれて少し自信が付いたかも」
イズさんは照れくさそうに言った。
「同居中のヨミは小麦アレルギー、私の周りにいるあなたくらいの年齢の子は皆甘いもの嫌い、先輩たちには怖くてお菓子出せなくて・・・・・」
それから私はイズさんが折角作ったクッキーを食べる人がチェシャさんしかおらず、味に自信が持てなかったと云う話を聞いた。
だから、あんなにお菓子を食べさせたがっていたのか。
「こっ、これで、先輩たちにもこれからは自信を持ってクッキーを出せるね!」
チェシャさんがとても嬉しそうに言った。
「待って、それはまだ早い気がする。よく考えたら、あんたとエーデルちゃんしか美味しいって言ってない」
イズさんがおでこに指を当てながら言った。まあ最もな話だとクッキー食べながら思った。それにしても本当に美味しい。こっそり持ち帰ってママとパパに食べて貰いたいくらいだ。
・・・・・・ママとパパにも・・・・・
「あっ!」
私のその声で2人は会話を止め、私の顔を見た。
「・・・・・あっ、あの・・・・・その・・・・こっ、このクッキーを持ち帰らせてもらえれば・・・・・そのっ・・・わっ、私の、ママとパパにも食べて貰えて・・・・それで、感想を言って貰って・・・・そのっ・・・・・・・」
私は図々しい思いつつも思いついたことをそのまま伝えた。
本当はママとパパと3人でこのクッキーを食べたいだけだ。
「それよ!」
想像以上にイズさんが嬉しそうに喰い付いてくれた。
「それじゃあ、来週の木曜日にまたあの材木置き場に来て!」
私は少し気圧されながらコクコクと頷いた。
「良かったね、良かったね、イズ!」
チェシャさんもなぜか我が身の事の様に喜んでいる。
そんな様子を見て思う。本当にこの二人は言葉通り家族なのだと、血は繋がってなくとも家族なのだと。
それから私は夕飯が食べれなくならない程度にクッキーを食べさせて貰った。
それでも、普段の私の生活から考えれば、かなりの贅沢だ。なにせ本当は誰かに貰ったクッキーはリスの様に小さく小さくかじかじして食べているくらいなのだから。ママから家の人間以外が見ている場所ではその食べ方はやめた方がいいと注意されて封印していただけだ。
紅茶も少し頂いたので少しトイレに行きたくなってきた。
私はイズさんに場所を軽く教えて貰い一旦廊下に出た。
なぜか自然に二人も付いてきた。
左側から2個目の扉くらいなら流石の私でも間違わないから、付いてこなくてもいいのに・・・・・そんな事を思っていると、2人がなんとなく部屋の扉を塞ぐ様に立った。
なるほど、2人とも自分の部屋を見られたくない訳だ。それなら納得だ。
私は気付いていない振りをして、トイレに入った。
きっと、2人ともあんまり部屋が片付いていないのだろう。
私がトイレから出ると2人は相変わらず自分の部屋と思われる部屋の扉にぴったりと張り付いていた。そんなに露骨に隠されると逆に見たくなってしまう。しかし、頼んでも見せてくれる訳はないだろうし、普通にリビングに戻ろうとすると、チェシャさんが張り付いてる方の扉の中から猫の鳴き声が聞こえた。
「えっ?」
チェシャさんが素っ頓狂な声を出した。
それとほぼ同時にイズさんの顔が露骨に歪んだ。
「チェシャ、リビングの扉ってちゃんと閉めてたよね?」
「うっ、うん。でっ・・・でも、ちょっと、開いてたのかも・・・・」
「・・・・・わかった。ごめんね、エーデルちゃん。すぐに猫ちゃん連れて戻ってくるから先にリビングで待ってて。チェシャの部屋って意外と散らかってるから・・・」
「そっ、そうなの!・・・・・チャシャの部屋・・・・そのっ、服とか、・・・・・服とか・・・・お人形とか・・・・・とにかく、一杯、散らかってるの!」
なんとなくだ。
本当になんとなくだが今のやり取りから2人はきっと嘘をついているのだと思った。
本当は二人とも部屋なんて散らかってないのだろう。大体、こんな綺麗な2人が人には見せられないほど汚い部屋で暮らしているとはとても思えない。もし本当に2人がだらしないのなら、少くなからずリビングにその片鱗が見える筈だ。
何かを隠している。この家にはまだ秘密がある。
気になって仕方がなくなってしまったので、一旦リビングに戻った私はリビングと廊下を繋ぐ扉に耳を密着させ聞き耳を立てた。
「ありえない」静かにイズさんがそう言ったのが聞こえた。
「でっ・・・・でも、たっ・・確かに部屋から猫ちゃんの声が・・・しっ、したよね?」
「とりあえず、部屋見てみよっか・・・・」
なんだか、要領を得ない会話だ。それにしても、知らない間に勝手にチェシャさんの部屋に潜り込んでしまったのはどの子だろう。今、私の目の前で聞き耳を立てる私を不思議そうに眺めているレイン。いつの間にかソファに我が物顔で寝転がっているシュバルツ。何か言いたげな蒼い眼で少し離れたところから私を見つめるチャミ。といことは残りは・・・・・あれ? 連れてきた猫は3匹だ!
「あのっ!」
「猫!」
私が事に気付いて扉を引いて開けようとした瞬間、イズさんがそう叫んで廊下側から勢いよく扉を開け放ち、私は派手にぶっ飛ばされた。
「あっ・・・・・・」
イズさんが非常に申し訳なさそうな顔をしている。イズさんの顔が涙でにじんで見える。痛い、不幸だ。
「ごめんなさい!そんなつもりは・・・・・その大丈夫・・・・な訳ないよね!ちょっと待って、すぐ救急セット持って来る!」露骨に慌てるイズさん
「あわっ、・・・・・あわっ・・・・・あっと、えっと・・・・」慌てすぎて言葉が紡げなくなったチャシャさん。
「あっ、あの・・・・・だっ、大丈夫です・・・・・」
半べそかきながら嘘を言う私。
鼻の下が熱い。ああこれは鼻血も出てる・・・・・。
サラに打ち付けられた額がずきずきと痛みを取り戻す。
私は痛みのあまり、無様にうめき声を上げながら身をよじる。
救急箱を持ったイズさんが近付いてくるのが見える。
「やっぱり、3匹ともここにいたのね」
事が落ち着いてから、私たち3人はテーブルごしに向かい合っている。
ちなみに、私の鼻にはテッシュが詰められてる。おでこには大きな湿布だ。
「でっ、でも・・・・・たっ、確かに部屋の中から・・・・声が・・・したよね?」
私は頷いた。確かにチャシャさんが張り付いていた扉の中から猫の鳴き声が聞こえた。でも、私の連れてきた猫は3匹ともずっとリビングにいた。変だ。
「まっ、魔女・・・・魔女の仕業だったりして・・・・・」
不意にチャシャさんがそうもらした。
すると、イズさんがキッとチェシャさんの顔を睨んだ。
「あっ、そうだよね・・・・まっ、魔女は、えっと、おっ、お伽噺の中の存在だもんね・・・・くっ、くだらない事言ってごめんね、・・・・」
チェシャさんは慌ててそう繕った。魔女。私が何度か聞いたことのある言葉だ。
確か、ビゴさんやラーレさんの話では、魔女は隣町で傷害事件を起こしている犯罪者の通り名みたいなものだったはず。魔女は知らないうちに人に家に入ることも出来るおばけの様な存在なのだろうか・・・・それともラーレたちが言ってる魔女とチェシャさんが言っている魔女は別物なのか・・・・
ただ1つ分かることはチェシャさんが言葉通りおとぎ話に出てくるような魔女の事を言った訳ではないという事だ。
普通は、普通ならこういう時は『魔女』なんて単語は使わず、『猫のお化け』と言うはずだ。それなのに敢えて『魔女』と云う単語を使ったのだから、それなりの意味があるはずだ。一旦、隣町の犯罪者として落ち着いた魔女についての疑問が再燃してしまった。
私が魔女の事を聞こうかどうか迷っていると、突然、イズさんが窓の方を見ながら立ちあがった。完全に日が沈んでいる。時計を見ると、もうすぐで夜の8時になろうとしているところだった。いつの間に。
「やばい、このままじゃ私たち誘拐犯だ!」
イズさんが声を上げた。
「あっ・・・・・もう、もう、こんな時間になってる!」
チェシャさんも立ち上がった。
「家まで送ってあげるから、今すぐ帰りの支度してくれる!エーデルちゃんのママとパパが捜索願を出す前に!」
イズさんはそう言いながらリビングにあるバッグを取ったり、最低限の外出する支度を始めた。チェシャさんはあわあわ言いながら、部屋に散らばった猫を追っかけまわし始める。私は送って貰えると聞いて少し安心して、落ち着いた気持ちで目の前のチャミをとりあえず抱き上げた。少なくともあと2時間は両親とも家に戻らないし、そこまで慌てる必要はない、多分。
それでも二人は本気で慌てている。本当に誘拐犯にされると思っているみたいだ。
とりあえず、ネコちゃんたちを捕まえるのにかなり苦戦している様子のチェシャさんを助けてあげよう。
「シュバルツ、こっち」
私が言うと、シュバルツはとたとたと早足で私の方に寄ってきた。良い子だ。
私は寄ってきたシュバルツを優しく抱き上げた。これで私の準備は終わり。
チェシャさんもなんとか逃げ回るレインを捕まえたようだ。
「よし、それじゃあ行こうか」イズさんが言った。
なんだか不思議な体験だった。あまりにも部屋が広くて、なんだか落ち着かなかった。またここに来ることはあるのだろうか・・・・・・
外に出るとすっかり暗闇が満ちており、空気もなんだか冷たかった。
「あのっ・・・・材木置き場まで送って貰えば・・・・・・あっ、後は1人で・・・」
「いやいや、もう遅いし、ちゃんと家まで送るからね」
ということで、結局二人に最後まで付いてきて貰う事になった。自分ではああ言ったが、ちょっぴり嬉しかった。1人で夜道を歩くのはやっぱり怖い。
3匹のネコちゃんたちとはいつもの材木置き場でお別れし、街の中を歩いて行く。
なんとなく道行く人が私たちを見ている気がする。正確には私たちではなくチェシャさんとイズさんを見ている。要するに街ゆく人の視線を集められるほど二人は魅力的なのだ。私のママと同じだ。
「えっ、・・・エーデルちゃんが一緒にいると、ぜっ、全然話し掛けられないね!」
不意にチェシャさんが嬉しそうに言った。
やっぱり、私がいないと話し掛けられてしまうのか。所謂、ナンパと云うやつだろう。チェシャさんの様な可愛い人とイズさんのような綺麗な人が一緒に歩いていれば話し掛けたくなる気持ちも分からないこともない気がする。
「小さい子がいるから向こうも気後れしてるんでしょ、有り難い事じゃない」
イズさんが言った。なんだか私が男避けの役割をしているみたいだ。
なんだろうこの複雑な気持ちは・・・・・
そんなこんなをやっている内に繁華街を抜け、人気の少ない道に入って行く。
私の家の近くは街頭も少ないし、年上のお姉さんが二人付いていてもやっぱり不安だ。
「えっ、エーデルちゃんの家って本当にこっちの方で合ってるんだよね・・・」
イズさんが心配そうに聞いてきた。私は無言でコクコクと頷いた。
「エーデルか!?」
薄暗い道を歩いていると、突然聞き覚えのある声が後ろから響いた。
「パパ!」
私は声の主の方に走って行った。
「やあ、エーデル。その怪我はどうしたんだい?」
「えっと、転んじゃって・・・・イズさんとチェシャさんが手当てしてくれて・・・」
私は後ろを見て言った。ドアにぶっ飛ばされて怪我したと話したら、イズさんがちょっと気まずいと思ってそう言った。
「もしかして、うちのエーデルと遊んで頂いたのですか?」
パパが二人に向けて言った。
「えっ、あっ、はい」 イズさんが言った。
「どうもありがとうございます。うちのエーデルは内向的な子で中々自分から人と遊びたがらないもので・・・・ところで、御二方はどういった経緯でうちのエーデルと知り合いに?」
それを聞かれたイズさんは少し困った様子だ。確かに私が二人と知り合った経緯を簡単に話すのは難しい気がする。
「ラーレさんの友達だよ」
イズさんの代わりに私がパパに言った。嘘は言っていない。
「そうですか。ラーレさんにもうちの子をよく気にかけてくれていて感謝していると伝えておいて下さい」パパが言った。
「あっ、あの・・・・・あのっ、また、その、エーデルちゃんの事・・・・遊びに誘っていいですか・・・・?」
さっきまでイズさんの後ろに隠れていたチェシャさんがひょっこり顔を出し、そんな事を言った。
「ええもちろんです、むしろ私からお願いします。またうちのエーデルと遊んでやって下さい」パパが言った。
「そういえば、お二人は歩いてエーデルを送ってくださったのですか?」
「えっ、あっ、はい」
「こんな薄暗い道を歩かせてしまってそれは本当に申し訳ありません。よろしければ、家までお送りしましょうか?」
「あっ・・・・・いや、それは大丈夫です・・・・えーとっ、もうすぐ友達のシフトが終わって、その子に一緒に乗せて貰う感じなんで・・・お気持ちだけでも有り難いです、はい」
なんだかイズさんの喋り方がたじたじになっている。
「分かりました。今日はエーデルと遊んで頂き本当に有難うございます。お気をつけて」パパはそう言って二人に会釈して、私の手を握った。
それを聞いてボーッしていたイズさんの肩をチェシャさんが人差し指でつんつんと叩いた。
「・・・・あっ。あっ、あのっ、このお菓子。つまらないものですが、良かったら、どうぞ」
イズさんは慌てて持っていたお洒落な紙袋をパパに手渡した。
「そんなお土産まで・・・・本当によろしいのですか?」
「えっ、あっ、はい。お土産に・・・・良かったら、ご家族皆で・・・・そのっ・・」
「何から何まですみません。エーデル、良いお友達が出来て良かったな」
私は無言で頷いた。確かに謎は多いが、2人とならこれからも仲良く出来る様な気がする。パパはもう一度二人に会釈した。
「今日はありがとうございます」
私もパパに習って二人にお礼を言った。
「ちょっと、エーデルちゃんのパパ超イケメンじゃない!」
去り際にイズさんがそう私に耳打ちした。そう、私のママは超美人で私のパパは超イケメンなのだ。それなのに私は不細工。おかしい。
「本当に良かったね、エーデル」
私は頷いた。色々あったが、全体的には楽しい時間を過ごせたと思う。
「でも、今日みたいに夜遅くならないように気を付けるんだぞ。夜遅くになると向こうのお家にも迷惑だからね」
「はい。そういえば、今日はどうして早く帰って来れたの?」
「あーいや、会社のパソコンが故障して、明日まで待たないとデータの復旧作業をしてくれる業者さんが来てくれなくてね・・・・困ったものだよ」
パパが苦笑いで言った。
多分、私が思っているよりも遥かに深刻な問題な気がする。
パパには申し訳ないが、そのお蔭で私はこうやって朝以外にパパと話す機会が出来たのだ。やっぱり、パパやママと一緒にいる時が一番安心する。
高級マンションに行った後だから、より一層うちのアパートが寂れて見える。
駅から超遠い、ちょっとカビ臭い、夜は薄暗い、生気の少ないご近所さん。さっきまでいた高級マンションとは殆ど対極にあるのがうちのアパートだ。でも、このカビっぽい匂いを嗅ぐとなんとなく家に帰ってきたのだと思える。
アパートから先ほどまで私たちがいた場所を見たが、既に二人はいなかった。
何があの二人とラーレさんを引き裂いてしまっているのだろう。あの時チェシャさんの部屋から聞こえた猫の声は結局なんだったのだろう。
「魔女・・・・・・」私は暗闇を見ながら小さく呟いた。
「エーデル、今、何か言ったかい?」
私は慌てて首を横に振った。いつもより暗闇が恐ろしく見える。
私はパパの腕を取り、暗闇から逃げる様に足早で部屋に入った。




