第9話(1-6-1)
金曜日の午後、お店には老夫婦とラーレさんと同い年くらいの女性二人がいる。
二組とも既に料理も紅茶も出してある。
他にお客様が来る様子はなく、私は呆然とお皿拭きをしている。
結局、昨日は件のお姉さんが無事であると云う知らせは来なかった。それが朝からずっと心に引っ掛かっているのだ。
テレビの特集で犠牲者の方たちの顔写真が流れた時、それらしき顔の女性はいなかったので、とりあえず亡くなっていないのだと思う。それでも、事故に巻き込まれて大怪我をしてるかもしれない。もしそうなら、私が最速で薬を買いに戻っていればあのお姉さんは事件に巻き込まれなかったかもしれない。
いや、私が薬を買う前に爆発音を聞いたので、どんなに脚が速いオリンピック選手でも間に合っていなかった筈だ。そう、そう信じたい。
私はそんな暗い事を思いながら、黙々と皿を拭き続ける。
不意にドアに付いたベルの音が聞こえた。
「あっ」
私は思わず声をあげた。
そう、今お店に入ってきたのは銀行で私に薬を頼んだお姉さんだ。
どこかに怪我を負っている様子もない。多分、この瞬間私の顔は一気に明るくなっていたと思う。お姉さんは無事だったのだ。心の中のモヤモヤが一気に晴れた気がした。少なくとも次の瞬間までは。
あのお姉さんに連れられる様に入ってきた女性にも見覚えがあった。
忘れもしない、事故現場で見たあの幻覚。張り付いた様な笑顔で事故現場を満足気に眺め、私の前から突然姿を消したあの女だ。
でも、今、目の前にいるあの女は間違いなく実体だ。現にお姉さんが一言、二言、話し掛けている。頭が混乱してきた。私は意図せず身震いをしてしまった。
「いっ、いっ、いらっ・・・あっ、いらっしゃい・・・・っませ!」
私は動揺する心を抑え、奥で休憩しているおじさんにも聞こえる様に大声で言った。
お姉さんと私の視線が重なった。その瞬間、少しだけお姉さんの瞼が大きくなった。
私はとりあえず後ろの女の事は考えないことにして、急いでお姉さんの所に走って行った。
「あっ・・・あの!」
「えーとっ、あの時、薬を頼んだ子だよね。覚えてるよ」
私が要件を言う前にお姉さんが私に言った。
「あの時、君に薬を頼んでおいて心底良かった。もし自力で買いに行ってたら一生の心残りになるところだった」
お姉さんは特に表情を変えずに言った。
「あっ、あのっ・・・おっ、お姉さんは・・・」
「私? 私は静かに座ってたからどこも怪我してないよ。少し怖かったけど」
お姉さんがそう話す後ろで例の女がニヤニヤ笑っているのが一瞬目に入った。
視線が合う前に私は急いでお姉さんに視線を戻した。
「えっ・・・・・えっとっ、その、お姉さんが無事で・・良かったです。それで、・・・あの時のお薬とお釣り・・・取って置いてあるので、・・好きなお席で・・・待っててください」
私はそう言って、急いでバックヤードにお薬とお釣りを取りに行った。
いつでも、渡せるように常に持っておくことにしていたのだ。私が戻ると、2人は先にいた2人の女性と同じテーブルに付いていた。どうやら知り合いらしい。
「こっ、これ。お薬と・・・・お釣りです・・・その、今更ですけど・・・」
私はそう言って、お姉さんにお金とお薬を差し出した。
「ああ、別にいいのに。まあ、頭痛薬は貰っておくよ。この前言ったような気がしない事もないけどお釣りは貰っていいよ」
お姉さんは頭痛薬だけ受け取ると、私のお金を持っている方の手を自分の手で優しく閉じさせた。刹那、氷に触れたような冷たさが私に伝わった。
私は思わずお姉さんの顔を見た。
「ああごめんね。冷え症なんだ」
お姉さんはいつもと変わらないどこか悲しげなトーンで言った。私も冷え症だが、氷の様に冷たくなっていた事は多分ない。なんとなく疑問があったが、本人がそう言うならそうなのだろうと、とりあえず納得した事にした。
それより、今はお姉さんが連れてきた金髪の女が気になって仕方がない。
折角、心のモヤが消えたと思ったら、新しいモヤが生まれてしまったのだから。
「あっ・・・・あの、隣の方は・・・・・」
失礼も承知で私はお姉さんに聞いた。
「これか。これはただの変な奴だから気にしないでくれ」
お姉さんはサラっと流すように言った。
「はーい、仔猫ちゃん。元気だった?」
突然、隣の女はニョキッとこちら側に顔を出し、あの笑顔のまま私に手を振った。
私は身じろいでしまった。間違いない、あの時の女だ。どういう理屈で一瞬で姿を消したのかは全く見当も付かないが、口調からして私の事を覚えている。あれは幻覚でも私の妄想でもなかったのだ。
言い知れぬ恐怖が私を包んだ。
「おい止めろ。怖がってるじゃないか」
あの女の対面に座っていた水色の髪の女の人が身を乗り出し私に手を振る女をそう言って制止させた。
「はーい」
女は素直にそれに従い、体勢を元に戻した。ひとまず助かった。
怖い。私にはあの女が恐怖でしかない。折角、お姉さんが無事でいて心が晴れるところだったのに。まさかこんな思いをするなんて。
とりあえず、バックヤードに戻って・・・・・
「仔猫ちゃーん、注文がまーだよ」
私が4人がいるテーブルに背を向けた瞬間、あの女が私の左腕を思い切り引っ張った。
「ひい!」
全身に悪寒が走った。表情からして別段力を込めている様子はなかった。それなのに下手したら脱臼していたのではないかと云う程の大きな力だった。
「いい加減にしろ!」
あの女の対面の女の人が声を上げた。
それを聞くと、女は再び生返事をして私から手を離した。私の左腕にはくっきりと掴まれた跡が赤く残っている。もう嫌だ。正直、既に泣きそうだ。
「脅かしてすまない、あんまり気にしないでくれ」
お姉さんはそう言った。でも、正直気にしないのは無理かもしれない。
「・・・ぁあ、それで注文・・・私はとりあえずミルクティーをお願い」
続けてお姉さんが言う。
「じゃあ、私はね。ホットケーキとホットケーキ、シロップはチョコレートね」
あの女が再び顔をこちら側にニョキッとだし言った。普通にホットケーキ2つと云えばいいのにいちいち気味が悪い。
「あっ、あの・・・ホっ、ホっ、ホットケーキ2つで・・・そのっ・・よろしいですか?」
「そーよー」
「かっ、かしこまりました・・申し訳ありませんが・・・シロップはハチミツしか・・」
「そーなのー。チョコシロップが良かったなー、」
「もっ、申し訳ありません」
女の話し方はどこか幼い感じがあり、そこもまた気味が悪いと思った。
「ねぇー、誰かチョコシロップ持ってないの?」
女が同席している他のメンバーに一通り目を向けてから言った。
「チョコシロップを常備してる奴なんている訳ないだろ」
水色の髪の女の人が言った。
「素直に諦めるんだな」お姉さんが言った。
「残念ながら私もないわ。裁縫道具なら常備してるけどね」眼帯を付けた女の人が言った。そういえば、この人たちは何の集まりなんだろう。
例の女が恐ろしいのはもちろんだが、よく考えれば平日のこの時間にラーレさんと同じくらいの学生さんがレストランに集まっているのも奇妙な気がする。
もちろん、何の集まりかなど聞く勇気はない。それでも、あの時、事故現場で見た女が確かにいる。それがどうしても引っ掛かった。
とりあえず、注文された品をお姉さんと例の女の所に運んだ。
「あっ、あのっ、追加の注文があれば・・・また呼んで、・・ください」
私は早口で言って、すぐにテーブルから離れようとした。
しかし、また強い力によって腕を引かれテーブルの前に引き戻された。
「仔猫ちゃーん。ハチミツがすくないから、もっとかーけて」
女が笑顔で言った。そして、また対面の女の人に怒られた。
心臓に悪いから、もうこの件は止めて欲しい。
「わっ、わかりました・・・」私は苦笑いを浮かべながら2つのホットケーキの皿を一旦回収する事にした。
怖いし、注文が多いし・・・・・最悪だ。
そんな事を思いながら、キッチンに戻ろうとすると、突然女に握られた方の腕から刺すような鋭い痛みが流れた。
「痛っ!」
私はあまりの痛みに持っていたホットケーキの乗ったお皿を両方落とし、その場に蹲った。自分でも何が何だか分からない。痛い。私は痛みがした腕を見ると、腕に小さなガラスの破片らしきものが刺さっており、そこから血が滲みだしている。私はほぼ反射的に蹲った体制のまま例の女のいるテーブルを見た。
あの女と視線が合った。あの女はわざわざテーブルの下から顔を出し、私に笑顔で手を振っている。それを見た瞬間今まで私が抱いていた抽象的な恐怖は一気に現実の明確な危険に対する恐怖へと変わった。あの女は普通じゃない。あの女にガラスの破片を刺された。恐怖の余り、体が一気に凍りついたように動かなくなる。
心臓の鼓動が速くなり、息が苦しくなってくる、おまけに腕からは刺すような痛みが流れ続ける。このままだとまた倒れてしまう。
例のテーブルの4人が争う声がなんとなく遠耳に聞こえた。
「エーデルちゃん!」
倒れた私に気付き、おじさんがキッチンの方から走ってきた。
おじさんが私を抱きかかえて背中をさすってくれている。
少し意識を戻ってきた、おじさんに抱えながら横目を例のテーブルに向けると、あっちでもとんでもない事が起きていた。
水色の髪の女の人が何度も何度も例の女の顔面をテーブルに打ち付けており、テーブルクロスがドス黒く染まっている。例の女の顔が見えないが、下手したら死んでるんじゃないかってレベルの血だ。
「何度も、何度も、何度も、何度も。新しい店で問題おこしやがって!」
水色の髪の女の人はそう言いながら、尚も例の女の頭をテーブルに打ち付け続ける。
ついさっきまでも私の印象では水色の髪の人は年相応の常識がある人で例の女のお目付け役くらいの人だと思っていた。
でも、それは大きな間違いだった。あの人も狂ってる。
「ちょっと、君! なっ、何をやってるんだ!」
それを見たおじさんは私をソっと空いている席に座らせ、水色の髪の女に言った。
「あぁ、あぁ、本当にごめんなさい。超ごめんなさい。これ注文した物のお金とテーブルクロスのお金です。あと、テーブル買い換えのお金です」
おじさんの視線を遮るように眼帯の女が現れ、おじさんに半ば無理矢理大量の札束を押し付けた。
「お騒がせしました。すぐに消えます」
水色の髪の女は例の女の髪から手を離し、至って普通の口調で言った。
しかし、その顔は返り血まみれだし、例の女はテーブルに顔を打ち付けられた状態のままもうピクリとも動かない。頭がおかしくなりそうだ。
「そっ、そういう問題じゃない! 警察、警察を呼ばしてもらう!」
おじさんはそ鳴って、懐から携帯電話を取り出した。その瞬間、私を事故から救ってくれたお姉さんがその携帯に向けて手をかざした様に見えた。
「電源が入らない、どうなってる!」おじさんが叫んだ。
「サイク、メナシングを頼む」
「わっかりました」
「フェーズ、行こう。分かったよ、こいつを外食に連れて行くときは手錠が必要」
「そうみたいね」
3人はほぼパニック状態のおじさんと半ば放心状態の私を余所に淡々と会話を進める。
それから、サイクと呼ばれた眼帯を付けた女の人はピクリとも動かなくなった血だらけの例の女を背負い、フェーズと呼ばれた私を救ってくれたお姉さんはおじさんにした時と同じ様に老夫婦の方に手をかざした。すると、老夫婦のおじいさんが持っていた携帯が一瞬にして霜が降りた様に白くなり、おじいさんは驚いて携帯を落としてしまった。
3人と動かなくなった1人がテーブルから去っていく、その際、お姉さんが私の方に寄ってきた。今の私は最早この人を私を救ってくれたただの恩人としては見れない。目の前で人間が血だまりが出来るほど頭を打ちつけられていたのに眉1つ動かさず、少し呆れた様子で眺めているだけだった。おまけに手をかざした相手の携帯を霜が降りたかのように白くしたり。この人も本当は怖い人かもしれない。
私はお姉さんが私の前に来る前に既に泣いてしまった。
「怖がらせてごめんね、もう大丈夫」
お姉さんはそう優しい声で言って、震える私の
髪を優しく撫でた。その手は相変わらず冷たかった。
でも、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。私は無言で何度も頷いた。
お姉さんたちがお店から出て行こうとしている。
「待ちなさい!」
出口の直前でおじさんがそう叫んだが、誰も振りかえらない。
「これから奥の電話で警察を呼ぶから、君たちはここにいなさい!」
おじさんはお姉さんたちを止めようと走っていき、例の女を担いでいる眼帯の女の手を掴んだ。
「本当にごめんなさい。テーブル1つ丸々駄目にしちゃって、おまけにこんな真似」
眼帯の女はそう言って、上着のポケットからハンカチを出し、おじさんの口を塞いだ。
その後、すぐにおじさんは糸が切られた人形のように床に腰を落とした。
おじさん自身も何をされたか全く分かってないようだった。ただどうしても立ち上がれない様子だった。
「それでは失礼しました」
眼帯の女の人が笑顔でそう云うと、お姉さんたちはお店の扉から出て行った。
その刹那、私はまだ意識が残っていたことを多分一生後悔する事になった。
担がれた例の女の頭がほんの一瞬ほぼ180度グリンと回転し、血で真っ黒に染まった顔でニカっと私に微笑み、すぐに元に戻った。
目が覚めると、私には毛布が掛けられており、お店は警察の人だらけになっていた。
例のテーブルの周りには黄色いテープが張られており、おじさんは警察の人と話し込んでいる。全て悪い夢であって欲しいが、どうやらそうでないらしい。
まだテーブルにはあの女のドス黒い血が残っていた。
私は頭を整理できないまま、その様子を呆然と眺めていた。
「目が覚めたみたいね、良かった。ちょっと話せるかしら?」
女刑事らしき人が私に気付き跪いて、言った。
私は何も言わず首を横に振った。警察の人には申し訳ないが今は何も話したくないし、思い出したくない。
左腕の硝子が刺さっていたところはいつの間にかガーゼで覆われている。
「そうね、怖かったわよね。もう少し休んでて」
私はその言葉に甘えて、再び目を閉じた。
全てがただの悪い夢でありますように。そう願って。
次に目が覚めた時、私は自分の家のソファにいた。
一瞬、願いが叶ったのかと思った。
「あなた、エーデルが起きたわよ!」
隣で私に寄り添ってくれていたママが叫んだ。
それを聞いたパパが急いで私の方に向かってくる。
「ぁああああ、エーデル。怖かっただろう」
そう言って、パパが私に抱きついた。ちょっと、苦しいくらいだ。
「とにかく、無事で良かったわ」ママが言う。
やっと、安心できる場所に来て、私は再び泣き出してしまった。
パパとママはそんな私をただただ優しくなだめてくれた。
あの事件は夢では無かった。でも、ここにはママとパパがいる。
ここなら、ここだけなら私は安心していられる。
次の日の朝、私は普通にママとパパと朝ごはんを食べている。
「ママ、人の首って真後ろまで回せるの?」
私はママにそう聞いた、これは私にとってある種の懸けだった。昨日の例の女の最後の動作が人間として可能なものなのか知りたかった。もし可能なら少しは恐怖が収まるからだ。でも、不可能だと言われたら・・・・・。
「うーん、どうかしらね。多分、どんなに訓練しても難しいと思うわ」
ママが言った。その瞬間、あの女の頭がグリンと回転した姿が頭にフラッシュバックしてきた。じゃあ、あれは・・・・あの女は一体・・・背筋に強い悪寒が走った。
「・・・いや、どうだろう。昔、テレビでそんな人を確か見た気がするぞ。訓練でどうにかなるレベルとは思えないが、元々それが可能な人間ならいるんじゃないかな」
パパはそう言った。私は少し安心した。つまりあの女は元から首を180度回転できる
ビックリ人間だったのだ、きっとそうだ、そう信じよう。
「ところで、エーデルどうしていきなりそんな事を?」ママがそう聞いてきた。
私は正直に例の女の顔が最後に回転して事を話した。
「つまり、被害者の女の人は少なくともお店から出て行く段階までは生きていたんだね。まぁ、ただそのタイミングで首を回転させるのは確かに怖いと思って無理はないよ」
ママの代わりにパパが苦笑いしながら言った。
「あなた、でもあの血の量でまだ生きてるなんて。有り得るのかしら・・・」
ママが言った。どうやら、ママもあの血だまりを見たようだった。
それを聞いたパパは一度私の顔を確認した。
「いや、有り得ない話ではないと思うよ」パパは言った。
私にはパパが一瞬私の顔を伺ったのが分かった。だから、多分パパは嘘をついている。普通に考えれば分かる、あの量の血を流して、普通の人間が生きているはずがない。パパは私を怖がらせないように嘘を言ったのだ。
馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、私には例の女が人の形をした何か別の悪い何かに思えて仕方が無かった。
突然視界から消えたり、あれだけの血の量を流しても頭を動かせていたり・・
もし私の目がおかしくないとすれば、明らかにそれらは常識から大きく外れている。
なんとなく、きっと、あの女は死んでないし、今はピンピンしている気がする。
きっと、私は本当に厄介な何かに目を付けられてしまったのだ。
まるで、宿命であるように次々と私の前に恐怖と不幸が現れる。
どうして私ばかり、どうして私なんだ。そんな思いがひしひしと湧き上がってくる。
朝食を終えるとパパとママはいつも通りすぐに仕事に出てしまった。
レストランのお手伝いは警察の人の現場検証か何かのせいで休みになった。
要するに今日も暇になってしまったのだ。いつもなら空いた時間が出来たらすぐにチャミたちに会いに行くのだが、またも外出を控える様に言われているので今日もうちでダラダラと時間を過ごす事になりそうだ。
私はとりあえず自分の部屋に戻って、ラーレさんに取って貰ったシロクマのぬいぐるみを抱きかかえながら何をしようか考える事にした。
この前の様にラーレさんが来て、私を連れ出してくれればいいのだが、そんな都合よくは来てくれないだろう。一日中テレビを観ているのは退屈だし、頭が痛くなる。
やっぱり、本当のところは外に出てチャミたちと遊びたい。でも外出をした事がバレたら、ママやパパに叱られてしまうかもしれない。
私は考えに考え抜いた。
チャミたちに会いに行こう。ちょっとだけ。
決めた。ママとパパの言いつけに背くのはかなり抵抗があるが、とにかく一人でいたくないのだ。そうと決めると私は素早くコートを着て、外出する準備を整えた。
「ママ、パパ、ごめんなさい!」
私は誰にもいない廊下に向かってそう言って家を出た。
外は快晴だった。しかし、その割に今の季節に相応しい冷たい風が吹いており、コートを着てきたのは正解だったかも知れない。
私はアパートの向こうの景色を見ながら深呼吸をした。
今日は大丈夫、今日は良い事がある。自分にそう言い聞かせた。
それから私はいつもの街の材木置き場に向かった。
今日は土曜日なので、一応フードを被って移動する事にしている。街でばったりサラやミレーマたちにあったらその時点で一貫の終わりだ。
私は怪しまれない程度に当たりを警戒しながら、通りを歩いた。
歩いているうちに反対側から見覚えのあるシルエットが見えた。
向こうも私に気が付いたらしく、こっちに小走りで寄ってきた。
「もしかして、エーデル?」
フランツィスカだ。
「あっ、えっ・・・えっと、おっ、おはよう」
突然の遭遇に戸惑いながらもフードを外して私は言った。
「ふふ、その喋り方はやっぱりエーデルね。良かった」
フランツィスカは笑顔で言った。右手にヴァイオリンのケースらしきものを持っているので多分習い事に行くところなのだろう。
「そういえば、エーデルが働いてるお店の名前ってドルチェじゃなかったかしら?」
フランツィスカは唐突にそう聞いてきた。私は正直に頷く。
「つまり事件の現場にいたのね、今から話を聞かせて!」
フランツィスカは目の色を変えて、私の肩を持ちそう言い放った。
今まで見たこともない雰囲気でなんだか目もギラギラ光っているようだった。
「あっ・・・あの事件?」
「あなたのお店で起きた傷害事件よ、エーデルは現場にいたのよね?」
私はそれを聞いて少し表情を曇らせた。
あの時の事を出来るだけ思い出したくないのだ。
「あっ、ごめんなさい。私ったら興味の事があるとすぐこうなっちゃうの。そうよね、目の前で傷害事件が起こったのだから思い出したくない事もあるわよね。軽率だったわ。許して、エーデル」
フランツィスカは私の表情の変化を察してそう謝罪した。
どうやら、世間ではドルチェで起こったあの事件は傷害事件として広まっているらしい。
「でも、私。どうしても知りたいの。だから話せる範囲だけでいいから教えてくれないかしら?」
フランツィスカは手を合わせ私にお願いしてきた。年上の人にこんな事をされたらとても断りにくいから困る。
「わっ・・・・分かった。はっ、・・・話よす」
私は渋々彼女の要求を呑むことにした。出来るならあまり思い出したくないのだが。
「ありがとう、エーデル! それじゃあ、立ち話も難だからどこか落ち着ける場所に移動しましょうか!」
フランツィスカはとても嬉しそうに言った。
あれ? ヴァイオリンはいいのかな・・・
私はそう思いながらも口に出さず、ヴァイオリンのケースに視線を向けた。
「あぁ、これ? いいのよ、1回や2回稽古を休んでくらいで下手になんかならないから。それより、場所はどこがいいかしら?スターバックス? ドトール? エマ・ラウンジ? ヘンゼルハウス?」
「わ、私の・・・・えっと、落ち着く場所じゃ、そのっ、駄目かな・・・」
私は言った。なにしろフランツィスカが言ったようなおしゃれなカフェで過ごすお金など一銭もないからだ。
「全然大丈夫よ、あなたが一番話しやすい場所にして!」
フランツィスカが言った。というわけで私は遠慮なく私が落ち着ける場所に彼女を案内する事にした。一番の落ち付ける場所はもちろん自分の家だが、それはママやパパがいるときの話だ。パパやママがいない今は・・・・・・
そんなこんなで私が彼女を連れてきたのは当初の目的地。つまり街の材木置き場だ。
少し当たりを見回す。作業員らしき人はいない。
「エーデルの落ち着ける場所って、まさかこの材木置き場じゃないわよね?」
フランツィスカが若干引き気味に言った。そのまさかである。
私は慣れた身振りで立ち入り禁止のテープをくぐった。
「エーデルって意外とワイルドなのね」
フランツィスカはテープの外からそう言った。笑顔が少しひきつっている。
「やっ、やっぱり、止めておく・・・・? ほっ、他の場所でもいいよ」
私は言った。
「いやでも、時にはルールを破る事も必要な時もあるわよね。ここで大丈夫」
フランツィスカは半分自分に言い聞かせる様にそう言っておっかなびっくりテープをくぐった。フランツィスカは頭が良いだけではなくとても真面目らしい。
少し奥に入った当たりで私はいつのものアレをやる事にした。
「ミャーオ」
私は皆に聞こえる様に少し大きめに鳴いた。
「えっ、今のエーデル・・・よね? 本当に猫の鳴き真似が上手いのね。でも、突然どうしたの?」フランツィスカはかなり驚いた様子だった。
「つっ、付いてくれば分かるよ・・・・」
私はそれだけ言って、材木迷路を進んだ。曲がり角から黒くて小さいものが見えた。
「シュバルツ!」
私は姿勢を低くし、手を大きく広げた。そうすると前方にいた黒い塊は私の方にテコテコと歩いてくる。私は云を言わせず歩いてきた彼を抱き上げた。
「えっ・・・えっと、紹介します・・・。この子はシュバルツ。えっと、クールでとっても良い子です!」
私はフランツィスカの方に向き直り、至って真面目に私の友達を紹介した。
それを聞いたフランは少し吹き出した様子だった。
「エーデルって本当に猫ちゃんが好きなのね」それからそう言った。
正直少し恥ずかしい気持ちになった。でも、猫好きなのは事実だし仕方がない。
それから私はシュバルツを抱き上げたまま更に奥の土管置場まで向かった。
道中シュバルツが『早く降ろせ』と言いたそうな目でチラチラ見てくる。可愛い。
ちなみに奥の土管置場は高い確率でチャミがいる場所だ。
「ミャーオー」
私は土管置場に着いたところでもう一度鳴いてみた。特に反応は無い。チャミは留守かもしれない。とりあえず、シュバルツは離してあげよう。
私がシュバルツを丁寧に離してやると、シュバルツはすぐに私の後ろにいたフランを威嚇し始めた。
「こらっ」
私はすぐさまシュバルツを再び抱き上げた。毛がビンビンに逆立っている。
「大丈夫、悪い人じゃないよ。大丈夫。大丈夫だからね」
私はママやパパが私にそう言う様にシュバルツを宥めた。
言葉が通じたのか、しばらくするとシュバルツの毛並は元に戻った。
「すごいわね、その猫、人の言葉が分かるのかしら?」
フランツィスカが言った。私は「分からない」としか答えられなかった。
猫たちは私の言葉を聞いてくれることもあるし、無視して勝手に付いて来ちゃうときもある。その時々によって曖昧なのだ。でも、人が動物相手にそうする様に猫も仕草や表情で相手の気持ちを読み取ろうと試みているということはありそうだ。
「ぁあ、えーと、それでそろそろ話を聞かせて貰っていいかしら?」
フランは遠慮がちだが少し急かす様に私に言ってきた。フランはあまり猫が好きじゃないのかもしれない。正直猫を見て「可愛い!」とか言ってくれるのを期待していたので若干寂しかった。あくまでも彼女の興味はあの事件の事だけらしい。
私は頷き、シュバルツを抱っこしたまま適当な土管に腰かけた。出来るなら思い出したくないし、喋りたくないがここまで来てもらった以上仕方がない。
私は4人が揃った時の状況から女の首が回転するまでの一部始終を持っている言葉の範囲で事細かく説明した。その間、フランはとても真剣な表情で時折メモを取りながら無言のまま話を聞いていた。
「エーデル、変な事聞いちゃうかもしれないけど、魔法や幽霊って存在すると思う?」
フランは開口一番にそう告げた。その言葉を聞いた瞬間、一気に過去の恐怖たちが押し寄せる様にフラッシュバックし始めた。ありえない力、ありえない現象、そんな事が何度も私の身に訪れた。はっきり言ってフランの言う通り魔法や幽霊じゃないと説明が付かないような現象ばかりだ。何度も怖い思いをした。
だから、私は言った。
「・・・・・存在するかも・・・・」
私のその言葉を聞くと、フランは無言で何度か頷き、突如話を始めた
「そう、不可解な出来事に遭遇したら殆どの人はそう考えて無理はないわ。でも、こんな話があるの。国際テロ組織『アイシル』の残党から新たに生まれた『ヴィジャーズの火』彼らを掃討するためにある兵団が組織された。その兵団は使用者自身に悪い影響を起こすような恐ろしい武器ばかりを持たせた兵団だったと聞いてるわ。その恐ろしい武器の中には光学迷彩アーマーを用いた自律行動ユニットやマイナス100度の熱で対象を凍りつかせる魔法の様な武器もあったそうよ。おまけにいくら撃たれても死なない不死の兵士までいたって噂。信じられないでしょ?」
私は無言で頷いた。
「でも、さっき自分で話したことを思い出してみて。まずその店長さんがケータイを落とした時、ケータイに霜が付いてなかった? 普通の人なら死んでいる様な出血をした女の首が動いたって話をしたわよね? 私の話と合致する事が無い?」
フランが興奮気味に言う。言われてみれば老夫婦やおじさんが突如手放した携帯電話は白く霜が降りていたかもしれない。不死の兵士と大量出血しても死ななかったあの女。
なんとなく話が見えてきたような気がする。
「あなたの話を聞いて確信したわ。あの兵団の噂は本当で私たちの知らないところで技術革新が起きていたのよ。それもパラダイムシフトと言っても過言でないレベルのね。銀行襲撃の事件もおかしいと思ったでしょ。あれだけ派手に暴れたにも関わらず関係者の1人すら捕まえられていない。主要なマスコミには話が上がらなかったけど犯人たちを乗せたトラックが一瞬で姿を消したのを何人もの人が目撃したって話もあるの。きっと人知れず完成していたのよ、光学迷彩の技術も!」
フランはそう熱く語った。
ちなみに私は『パラダイムシフト』も『コウガクメイサイ』って言葉も知らない。だから、私的にはただ犯人たちを乗せたトラックが姿を消したと云う新しい不可解な情報が入ってきただけだ。とりあえず、私は分かったように何度も頷いてみせた。
「とにかく、とても貴重な情報を有難う、エーデル。ヴァイオリンの稽古より数千倍は有意義な時間だったわ」
フランは私の両肩を掴んで熱いまなざしを送りながら言った。
それからフランはすぐに帰ってしまうと思ったが、予想外にこの場に留まり一緒にシュバルツを撫でたり、他愛のない猫ちゃん談義をしたり、昨日の事件の事など吹き飛ぶほどのとても楽しい時間を過ごした。
きっとそれはフランの方も同じように見えた。もし演技であんなに自然な笑顔を作れるなら是非女優になるといいだろう。
私はこんな風に同年代くらいの友達と一緒に外で話したのは初めてだったので、今日のことはきっと一生忘れないだろう。
 




