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戦え! 料理戦隊キッチンファイブ!

作者: 鈴村弥生



 穂樽虹一は、部室である家庭科室に足を踏み入れようとして、口を開けたまま立ちすくんだ。

「あ、穂樽君いらっしゃい」

「あ……ども」

 声をかけてきた部長の橋倉えみりに会釈するが、虹一の足は動かない。いや、動けなかった。

「そんなとこ立ってないで入りなさいよ。あれ、その袋は?」

 尋ねてきたのは二年生の立花文香で、虹一がぶら下げていたスーパーの袋を勝手にのぞき込んでくる。

「卵?」

「今日、プリン作るって言ってたから……」

 事前連絡でもなぜか材料などについて言及されていなかったが、えみりが忘れたのだろうと考えてわざわざ家から持ってきたのだ。ちなみに、今まで職員室の冷蔵庫に入れてもらっていた。

「材料はいらないって言ったはずだけど?」

 しかし、文香は怪訝そうに袋と虹一の顔を見比べている。彼も負けず劣らず疑問を表に滲ませて、部長の方を見やった。

「うん。特に何もいらないから、材料については言ってなかったはずだよ?」

「何でですか?」

 この高校の家庭科部はほとんど同好会扱いなので、部活動の際には各々持ち寄れるものを学校に持参することになっている。だから、よもや部費で賄うなどとはまったく考えもしなかったのだ。

「今日のメニューは特別なのよ」

 えみりは言いながら、足下に置いていた何かを机の影から持ち上げようとした。うんうん真っ赤な顔で小柄なポニーテールの彼女が唸っているので、虹一は遅ればせながら手伝おうと一歩踏み出したが。

「よいしょぉっ!」

 どーん! と音がした。ような気がした。

「あー重たかったぁ」

 机の上に投げ出された巨大なプラスチックの袋に、虹一の目は釘付けになった。

 銀色の鈍い輝きの上に、白いシールが貼られている。黒字で素っ気なく書かれた文字は、内容物だろう。

 だが。

「穂樽君、現実逃避してない?」

 『それ』のほうに歩み寄り、文香が苦笑していた。えみりと並ぶと、その背の高さと豊満な肢体がより一層強調される。大人びたその美貌もだ。

「しょうがないよ、去年は私達もそっこー退部したくなったもん」

「ああ、そうだったっけ」

 懐かしげに思い出に浸る先輩達に向けて、虹一はおずおずと右手を挙げた。

「はい、穂樽君!」

 びしっとえみりが指を突き出してくる。虹一はなるべく『それ』から視線をはずしつつ、至ってシンプルな質問を投げかけた。

「今日の料理って、プリンですよね?」

「そうよ」

 何を今更、といった調子でえみりはこくんと首をかしげる。文香の方は、さらに机の下から何かを取り出そうとしていた。

「うちの部には伝統行事があってね。毎年六月六日に部員総出でプリンを作るんだけど……」

 乾いた音を立てて、文香は『それ』の横にあるものを並べた。

 虹一は、すんでの所で気を失うところだった。

「五人以上いないとできないのよね。一年は穂樽君だけだけど、ちゃんと全部を見聞きして後世に伝えるのよ」

 何が起きようとしているのだろう。

 目の前にある、これらは何だ。

 銀色の袋には、こう書かれている。

『スペシャルプリンミランジェ(業務用)』

 そしてその横には――掃除当番の時に使うのと同じ、プラスチックの青いバケツが燦然と屹立していた。


「いつ頃から伝統になったのかは、定かじゃないんだけどね」

 脈々と受け継がれているというエプロンが入った段ボールをあさりながら、えみりはとつとつと語る。

「我が家庭科部では、いつの日か十五リットルバケツでプリンを完成させ、みんなで食い倒れるという悲願があるのよ」

「バケツ……」

 虹一は、改めてその異物を凝視した。どうみても各教室に一つ備え付けてあるあれだ。なぜあれでプリンを作ろうという発想に繋がったのか。絶対食欲が失せる。

「あ、もちろんあれはこの日のために用意した新品で、消毒もすませてあるよ」

「いやいやいやいやそういう問題じゃないですよ」

 食品衛生面ではなく、精神衛生上よろしくないという話である。

「この日のために、田村君はわざわざ実家の方で有名な天然水を用意してくれたのよ」

「うわあ、すごくお肌によさそう!」

「いやあれを材料にして食う時点で肌より身体全体に悪影響ですから!」

 『スペシャルプリンミランジェ(業務用)』は説明書きを読むまでもなく、ファミレスなどで大量にプリンを作るときに使用される、いわゆるプリンの素である。栄養成分表を見て、虹一は二度目の気絶の危機にさらされたばかりだ。

 水を持ってきた田村浩志は、温厚な笑みで三人のやりとりを離れたところで見守っていた。普段は頼れる優しい先輩なのだが、今の虹一には彼すら彼岸の人である。

「さ、穂樽君もこれつけて」

「はぁ……」

 えみりから差し出された青いエプロンを、しかたなく虹一は広げた。

「ん? どうしたの? あ、ちょっと汚れて見えるけど、いちおう昨日洗濯してきたから大丈夫だよ?」

「いや……あの……」

 ぎぎぎと首を動かして、虹一はそこに見てはいけないものを見出してしまった。

「去年からずっと夢だったの! この『キッチンレッド』のエプロンをつけるのが!」

「はい、田村君はグリーンね」

「ということは、ブラックは鏑木か」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 裏返った声で叫んだ虹一を、先輩三人が一斉に振り返る。

 彼はその六つの目の前に、青いエプロンをつきだした。

「何ですか、これ!?」

 さも当たり前のように、先輩三人が身につけたエプロン。えみりが赤、文香がホワイト、浩志は緑。そして虹一は青だ。色こそ違えどデザインはすべて同じで、上から下まで斜めがけにバーニングな書体で文字が入っていた。

「料理戦隊キッチンファイブって何なんですか!?」

「だから、伝統よ」

 えみりは、やや大きめのエプロンに覆われた薄い胸をぐっと張った。

「さあ、穂樽君! もたもたしてるヒマはないわ! 早く取りかからないと、敵が来る!」

「て、敵?」

「来たぞっ!」

 廊下を覗いていた浩志が叫ぶのと、ほぼ同時だった。

「ふははははははは!」

 謎の哄笑が響き渡る。キッチンファイブ……もとい、えみりと文香は、素早く珍妙なポーズを取った。どうやら戦闘態勢らしい。

 虹一は、エプロンを持ったまま謎の声の主を捜してあちこちを見回す。しかし、家庭科室の中には部員以外の人影は見あたらない。

「穂樽、上だ!」

「なっ……!?」

 虹一は、開いた口がふさがらなかった。

「はははははは! 今年こそ邪魔してやる!」

 輝くばかりの白衣。丸い眼鏡、ぼさぼさの髪。

「何やってんですか片桐先生!!」

 家庭科部顧問の片桐が、なぜか天井にべったりと張り付いていた。

「くそっ、鏑木はまだか……!」

「残念だったな! あいつは今日は化学室の掃除当番だ!」

「何だって!? さては化学教師にして鏑木のクラス担任という立場を最大限に利用したんだな!?」

「ふっ、これも戦略だ!」

 何が何だかわからないが、浩志と片桐の周囲に得体の知れないオーラが漂っているように、虹一には思えた。

「穂樽君、先生は頼んだわよ!」

「へ?」

「私達は、プリンを用意する。材料を混ぜて冷蔵庫(業務用)へ入れられたら、こっちの勝利なのよ」

「ちなみに、十年前はプリンが固まるまで攻防は続いたそうよ」

「そんな昔からこんなあほな行事あったんですか」

 うんざりと呟いた虹一だが、ふとあることに気がついた。

 にらみ合いを続ける片桐と浩志は、家庭科室の後方にいる。そのさらに後ろには、ぴかぴかに光る大きな金属の扉。

 すなわち、冷蔵庫(業務用)はそこにあるのだ。

「……先生を何とかしないと、プリン冷やせないんじゃないですか?」

「だから早く先生を倒してって言ってるのよ!」

 文香は口調に焦りを滲ませてそう言った。その手はすでに忙しく動き、『スペシャルプ(以下略)』と水を攪拌している。まさしく神速と呼ぶべき鮮やかさだった。

「鏑木君がいないと、つらい戦いになるかもしれないけど……お願い、穂樽君」

 えみりも可憐な眼差しで、上目遣いでお願いしてくる。しかしやはり水と『スぺ(以下略)』を混ぜていた。よって両手を胸の前で組んではいない。非常に残念だった。

「いつまでそうして突っ立っている。こちらから行くぞ!」

 視線での攻防に、先に痺れを切らしたのは片桐だった。

「うわあっ!」

 その光景に、浩志だけでなく端で見ていた虹一達も悲鳴を上げる。

「あ、あれは……!」

「なんてことを! 先生!」

「ふはは! 勝負とは無情なものなのだよ!」

 片桐は、手が八本に分裂したかと思うほどの動きで、浩志に向けて赤い物体をマシンガンのように連射している。

 いや、そうではない。

 虹一は目を疑った。

「り、リトマス紙!?」

 中学のころよく理科の実験の時に活躍した、酸性中性アルカリ性により色が変わったり変わらなかったりするあのおもしろペーパーが、あたかも蜂の如く鋭く浩志を襲っていたのだ。

「赤が青に変わってる! アルカリ性ね!」

「しかもこの匂いはアンモニア……まずいわ、このままじゃ田村君が!」

 額に脂汗など浮かべ、ご丁寧に熱血調で解説を入れつつも、二人の先輩方は依然としてプリンの素をかき混ぜるのに専念している。

 それほどプリンとの戦いが熾烈を極めるのか、単に変態化学教師を相手にするのがいやなのか。

「く……ほ、穂樽!」

 苦しげな浩志の声に、虹一ははっとした。

 勝負はこの上なくアホだが、このままでは彼が危険なのは確かだ(たぶん)。

 この場を何とかできるのは、自分しかいない。

 手にした青いエプロンを見下ろす。握りしめていたため、くしゃくしゃになっている。

 虹一は、勢いよくそれを広げた。

「穂樽君……!」

「先輩達はそれを準備してください。田村先輩は俺が」

 制服の全面を覆う、青い布地。腰の後ろで、紐がきゅっと快い音で締まった。

「田村先輩、もう少し持ち堪えてください!」

 叫んでおいて、虹一は素早く家庭科室の中を見回した。

 何か、武器になりそうなものは。

 掃除用具――だめだ。それもやはり片桐の背後にある。包丁、フォークなどは万一のことがあるので使いたくない。となれば、あとは。

「これだっ!」

 虹一は、右手にある机まで跳んだ。そこには、部活の時だけ出してこられる調理器具がずらりと並べられている。

 彼が取り上げたのは、すりこぎ。

「くらえっ!」

 いざというときにはつまみ食いすら撃退する武器は、芸術的なまでの直線を描き、リトマス紙をどんだけ仕込んでるんだという勢いで未だ投げ続けている片桐へ迫る。

 決まった。キッチンファイブの面々は、皆そう思ったに違いない。

 だが。

「甘いな!」

 目の前で起きたことが、信じられなかった。

「なっ――!?」

 すりこぎが、固い音を立てて床に落ちる。

「その程度の攻撃で、この私をどうにかできるとでも思ったか!」

 すりこぎの先端に、赤い紙が突き刺さっている。

「そ、そんな! リトマス紙一枚で止めたというの!?」

「噂には聞いていたけど……これが片桐流リトマス殺法の力!」

「ちょ、どんどんわけわかんない設定できてますけど!?」

 反射的につっこみを入れるが、その間に片桐は眼鏡の煌めきを虹一へと移していた。

「先輩!」

 田村は、倒れていた。周囲にはリトマス紙の紙片が散らばり、何だかそこはかとなく刺激臭がした。リトマス殺法に屈したのか、アンモニアの匂いで気を失ったのか。

「さて……」

 片桐が、虹一を振り返る。某テレビから出てくる怖い女の人のような動きで。

 虹一は、動けなくなった。

 ワイシャツの背中が、ぴったりと張り付いて気持ちが悪い。

 やられる。

 直感的に、そう思った。

「プリンは私のものだああああ!!」

 ばっと白衣が中に広がる。内側一面がピンクと青のまだら模様で、狂った色彩の乱舞が虹一をさらに絶望させる。

 もう。

 もう、駄目だ。

 がくがく震える足が、未だ身体を支えていることが不思議だった。咄嗟に両手で顔をかばい、きつく目を閉じる。

「諦めるな!」

 だがそのとき。

 凛々しく家庭科室を貫いた声と一緒に、後方の出入り口から何かが飛び込んできた。

「な、き、貴様は!」

 初めて、片桐が動揺した。えみりと文香が歓声を上げる。

 そろそろと、虹一は目を上げて。

「鏑木先輩……!」

「待たせたな!」

 親指を立ててぐっと身体の前に突きだし、キラーンと歯が光りそうな爽やかスマイルで、キッチンファイブ最後の一人、鏑木史郎がそこにいた。

「鏑木! 貴様、準備室の片づけはどうした!?」

「ふっ、そんなの、通りすがりの奴に強制的に押しつけてきたに決まってるじゃないか! よくもただでさえめんどくさい準備室の掃除を増やしてくれたな!」

 通りすがりの人を巻き込むなよ、と虹一は思ったが、とりあえず今はつっこみを入れるのは保留しておく。

「鏑木先輩、田村先輩が!」

「わかってる。……ダチをこんなにされて、これ以上お前の横暴を見過ごすわけにはいかない!」

「鏑木君!」

 えみりが、大きく振りかぶって何かを投げる。史郎は振り向きもせずに伸ばした手で、正確にそれを受け止めた。

 キッチンブラックの、エプロンを。

「穂樽、援護を頼む。こいつは俺が抑えるから、プリンを冷蔵庫へ」

「は、はい。でも先輩一人で……」

「プリンが無事に冷蔵庫へ入れば、俺達の勝利だ。目先のことで惑うな!」

 スケールがでかいんだか小さいんだかよくわからない言葉だったが、なぜか虹一は感動した。

 そう、プリンだ。

 プリンを、あの冷蔵庫(業務用)へ。

「わかりました!」

「頼むぞ!」

「くく……二人出かかってきた方がよかったんじゃないか?」

 会話の間、律儀に待っていてくれた片桐はせせら笑ったが、史郎も負けてはいなかった。

「そんな台詞は、俺に勝ってからにしろ!」

 そして史郎は、宙に舞った。


 激しい攻防が続いている。もう十分以上、片桐と史郎はリトマス紙だのシャープペンの芯だのルーズリーフだので面妖な技を繰り出し、一歩も譲らない。

「穂樽君、プリンが用意できたわ」

「でも、冷蔵庫までいけそうにないわね……」

 バケツを二人がかりで抱え、えみりと文香は歯がみしている。史郎は何とか片桐を冷蔵庫から引き離そうとしているのだが、片桐の方もそれがわかっているので、まったく動こうとしない。

 不動の体勢でも史郎の攻撃を悉く受け流しているのだから、やはり大したものと言えよう。

 虹一は、とりあえずえみり達を手伝って十五リットルバケツになみなみとプリンの素を溶かし入れることに成功していた。

 だが、このままではこちらの勝ち目はない。戦闘の援護も直接的には無理な以上、何か他の方法を考えなければ。

 何かないのか。

 武器は。

「後ろから何か投げてみるとか?」

「駄目よ、先生の後ろは窓よ。ここから攻撃するなら、側面か前面からしかいけないわ」

 そしてキッチンファイブのうち唯一片桐の背後を取っている田村は、未だ気絶したままだ。彼の意識が戻ってくれることも期待したのだが、どうやらそれは無理なようだ。

「負けるのかな……」

 それまで弱音を吐かなかったえみりが、ぽつりと呟いた。

「やっと、キッチンレッドになれたのに……今年が最後なのに……」

「えみり、何を言ってるの。諦めちゃ駄目よ。諦めたらそこで試合終了なのよ!」

「わかってる。わかってるけど……」

 虹一は、胸を突かれた。

 えみりの腕は微かに震えている。怖いのではない。泡立て器を力の限りかき混ぜすぎて、腕がぷるぷるしているのだ。

 歯を食いしばり、虹一は拳を握る。

 その腕のぷるぷるを、無駄にしてはいけない。

「ん……?」

 ふと、目の端に留まったものがあった。

「あれは……」

 ぽつんと、机の上に放置されているそれ。

「穂樽君?」

 いきなり腰を上げた虹一を、えみりと文香が怪訝そうに見上げてくる。彼は、強くうなずいて見せた。

「今はもう午後五時。それに賭けてみます」

「は?」

 聞き返してくるのには答えず、虹一は走り出した。片桐と史郎が、まったく同じタイミングで振り返る。

「援護か! 無駄だといったぞ!」

「穂樽! プリンは!?」

「先輩、すみませんが先生をこっちに来させないように頼みます!」

 机の下に備え付けられている物入れから、虹一は調理器具と調味料を取り出した。

 フライパン。

 塩。

 そして、バター。

「な、何をするつもりだ!」

 こちらを警戒したのか、片桐が右手を振りかぶる。しかしそれは、史郎の拳によって投擲動作に入る前に撃ち落とされる。

 虹一はもう、戦闘に目をやってはいなかった。

 フライパンを熱する。火が通る前に、素早くボウルにそれを入れてかき混ぜる。

 卵。虹一が、家から持参してきた新鮮パック十個入り。まさかこんなところで役に立つとは。

 軽やかに卵を溶く音が家庭科室中に響き渡る。黄身と白身がとろりと解け合ったとき、フライパンも十分に熱が通った。

 一かけに切り分けておいたバターを、そこへ落とす。

 小さなじゅっという音と一緒に、香ばしい香りが広がっていく。

 史郎が、えみりと文香が、そして片桐が、一斉に虹一に注目した。

「そろそろ、夕飯の時間ですからね」

 溶き卵をフライパンに注ぎ込み、手早く菜箸で寄せていく。

「お腹空いてませんか、先生?」

 ふわふわ、とろとろ。

「おお……おおおお……!」

 片桐が呻く。すでにリトマス紙の吹雪は止んでおり、両手がだらりと下がっている。

 その目は、虹一の手元を穴が空くくらいに凝視していた。

 ほどよくこんがりきつね色の、柔らかそうな黄色の固まりが、実に魅惑的な弾力でもって皿へと移る。

 その上に、虹一は最後の仕上げを施した。

「な、何とぉぉぉ!」

 ケチャップでハート型。

「ハート……だと……!?」

「何という最終兵器!」

 えみりや史郎がよろめいていた。

 虹一は、にっこり片桐に向かって微笑みかけ、とどめの一言を口にした。

「召し上がれ」

「うおおおおおおおおおお!!」

 片桐が突進してきた。その背後に立ち上る炎が見えた気がして足が後ろへ下がりかけるが、気合いで虹一は踏みとどまる。

 その間に。

 えみりと文香が、動いた。

 ああ、よかった。あの二人はわかってくれたのだ。虹一が、おとりになってオムレツを作ったことを。

 片桐の手が伸びてくる。虹一は引きつりそうになる笑みを何とか留めて、温かい皿を差し出し――。

「もらったぁぁ!」

「な、何ぃ!?」

 皿がすごい勢いでもぎ取られ、弾みで虹一は後ろへ倒れた。背中の痛みで一瞬片桐への注意が途切れ、あわてて身体を起こす。

「橋倉先輩!」

 えみりと文香は、すでに冷蔵庫の扉に手をかけていた。足下には、プリンのバケツ。

 そこへ、迫っていた。オムレツを秒速で口へかき込み「あちっ!」とか言っている片桐が。

 空になった皿を、片桐が律儀に手近の机へ置く。同じタイミングで跳躍し、両手を大きく振りかぶって二人に飛びかかる。えみりが悲鳴を上げた。文香は体を張ってバケツを守るつもりか、その上に覆い被さった。

 史郎が走る。虹一も立ち上がって駆けつけようとしたが、遠い。机の上を走って直線距離で向かったとしても、片桐は彼らよりも一秒ほどの時間をすでに手にしている。

 ――敗北。

 二文字の決定的な言葉が、虹一の脳裏によぎる。

 史郎が手を伸ばした。その指先の遥か遠くで、片桐が文香の守るバケツに落下していく。

 もう、駄目だ。

「させるかぁぁ!!」

 裂帛の気合いは、家庭科室の隅から空を裂いた。

「何ッ!?」

 今まで全員の記憶からロストしていた田村が、片桐の真正面から跳んできたのだ。

 二人は、空中で出会い。

 そして。

 激突した。

 彼らの真後ろにいた史郎が、あわてて横に身をかわす。

 虹一は見た。

 すごい音を立ててスライディングしていく片桐と田村を尻目に、文香がバケツを冷蔵庫へ投入するのを。

 すぐにえみりが、厳かとも言える動作で、銀色の扉を閉めるのを。

 ぱくん、と。

 この激闘に不似合いな音が、なぜか大きく響き渡る。

 冷蔵庫が、しまったのだ。

 そう。そして。

 これが、闘いの終わりを告げる合図だった。


「いやぁ、参りましたよ」

 弦の歪んでしまった眼鏡をポケットにしまいながら、片桐は苦笑いをしている。その笑みのどこにも、さっきまでリトマス試験紙を投げつけまくっていた変態の影は見いだせない。何故ここまで変貌しているのだろう。

「去年は先輩達の負けでしたからね。絶対勝つつもりでいたんですよ!」

「うーん、気迫の勝利ですね」

 えみりは未だにキッチンレッドのエプロン姿のまま、和やかに片桐と談笑しながらオムレツをせっせと口へ運んでいた。さっき虹一が作るのを見て食べたくなったらしい。

「固まるまで一日かかると思うから、明日のお楽しみね」

「何人分くらいになるんだろうね。あ、カラメルソースとか作らなきゃ」

「甘いだろうからフルーツも盛った方がいいぜ。あとクリームな」

「わあ、豪華豪華!」

 異様に盛り上がる先輩四人を、少し離れた位置で眺めながら、虹一はぐったり壁にもたれていた。強制的に全員分のオムレツを作らされたことだけでなく、今日の部活の数時間で一週間分くらいの疲れがたまった気がする。

 なんだって、プリン。しかもバケツサイズ。

 家庭科室は先ほどの阿鼻叫喚で酸鼻を極めており、明日のこの時間はまず大掃除をしなければならないのが必至だ。

 こんなになるまでアホな騒ぎをして、彼らはどうして屈託なく笑っていられるのだろう。

「穂樽君、大丈夫?」

 いつの間に近づいてきたものか、えみりが心配そうに虹一をのぞき込んできた。驚いて飛び退いて、後頭部を思い切りぶつけてしまう。

「大丈夫?」

「あ、はい……」

 頬が赤くなっているのに、気づかれていないだろうか。

 えみりは、こくんと首をかしげた。後ろで束ねた髪の毛が、さらりと流れる。

 少しの間目を奪われ、彼はあわてて目を伏せた。

「明日、プリン楽しみだね」

「……そうですね」

 何のための行事。誰がためのプリン。

 そんなことが、どうでもよくなった。


 虹一がそれを思いだしたのは、家に帰って風呂に入り、まったりとベッドで本を読みながらくつろいでいるときだった。

「あれ?」

 彼もパソコンを持っているので、インターネットを嗜む。無作為にいろいろなことを調べて回ったりしているのだが、ふとバケツプリンという単語が記憶に引っかかった。

 急いでパソコンを起動させ、ブラウザを開く。検索サイトに当該の言葉を入力すると、一発で出てきた。

「あった、確かここ……」

 思いの外バケツプリンという化け物にチャレンジする猛者が多いらしく、そのサイトには様々な戦歴が載っていた。

 しばらくスクロールバーを下降させた虹一は、やがて小さく笑ってブラウザを閉じた。


 ――翌日。

 バケツプリンは、大掃除のあととうとう巨大な皿の上にあけられた。ゆっくりと、少しずつバケツから抜かれ、その勇姿が全貌を表した瞬間、全員が歓声を上げた。

 虹一を覗いて。

 そして彼が昨日ネットで見た通り、巨大な化け物はあたかもその存在自体なかったかのように、崩れ去ったのだった。

 バケツでプリンを作ると、自重崩壊する。

 語り継がれてきた伝説が真実だったことを、図らずも彼らは目の当たりにしたのだ。


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