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 それは、突然私の目の前にあらわれた。


 やみくもに山の中を歩いていた私は、ふいに気づいた匂いに汗だくの顔をあげる。

 そこはかとなくあたりに漂っているのは、微かな甘い匂い。ええとこれ、知っているような……何の匂いだっけ。


 私は一度立ち止まって少し考えると、目の前の枝をさらにかきわけてその匂いをたどることにした。

 足元には道なんてないから、前に進もうとするなら、背の高い草や枝をがさがさと踏み分けていくしかない。おかげでスカートの裾は、あちこち破れてもうぼろぼろだ。去年、10歳の誕生日にママが作ってくれた大切なスカートだったのに。


 ああ、お腹すいたなあ。もう丸一日、何も食べてない。最後に食べたのだって、硬いパンがひとかけらだもの。そんなのとっくにお腹の中でどっかに行っちゃってる。一日中歩き続けて、足もくたくただし。それでも、こんなとこで座りこむわけにはいかない。


 頭上にこれでもかと生い茂る木の向こうには、そろそろ茜色に染まり始めている空がちらほらと見え隠れしていた。

 じきに、夜が来る。


 甘ったるい匂いは、そんな山の中でやけに場違いだった。もしかして、そんな匂いがしている、って、私が思っているだけなのかな。あんまりお腹がすいて、幻の匂いを感じているだけとか。だったら、いっそのこと焼きたてのパンの匂いとかの方がいいのに。ママの焼いてくれたパンなんて、どれくらい食べてないんだろう。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、目の前にぶらさがった蔦を払い続ける。固いその弦が手の平をひっかいて、じわりと血がにじんだ。息を切らしてがさごそとしていると、次第に前の方が明るくなってくる。がさり、と大きな枝を動かした瞬間、私の視界が急にひらけた。


 そこにあったのは、一面のバラの庭だった。


 今までの景色とのあまりのギャップに、私はあっけにとられて立ち尽くす。

 えと……幻? 私、夢でも見ているの?


 ピンク、黄色、白、赤、黒、紫……縁取りをされたような2色のものまである。大輪の見事なバラから、小ぶりのかわいらしい花がたくさんついたアーチまで、ありとあらゆるバラがそこにはあった。庭の向こうには、レンガ造りのそこそこ大きな屋敷が見える。

 でも、庭も屋敷も、しん、としてまるで人気がない。


「……ここ」

 私は、疲れ切った足をなんとか動かしてその庭へと降りて行った。

 むせかえるほどの甘い匂いは、このバラが原因かあ。

 そ、と手元にあった一つに触れてみる。大きな濃いピンクのバラ。しっとりとしたその花びらの手触りは、幻なんかじゃなかった。


「綺麗でしょ?」

「きゃっ……!」

 背後からいきなり聞こえた声に、私は文字通り飛び上がって振り向く。そこにいたのは、私より少し年かさの一人の少年だった。


 その少年の髪は、夜の闇を切り取ったような黒色をしていた。東の方の国に住む人たちがそんな髪の色をしていると聞いたことがある。でも、私がそんな色の髪の毛を見たのは初めてだ。瞳は、夏に見た抜けるような空の青色。シミ一つない白い肌。にこにことほほ笑むその手には、大きな水桶が下げられていた。どうやら、バラの手入れをしていたようだ。



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