1話 - 境界の子供たち
世界の全てが黄色い霧に飲み込まれているなんて、誰が信じられただろう。
僕たちの村「クラハイト」は、神様がうっかり落としていった指輪の裏側みたいに、静かで、おだやかな場所だった。朝露に濡れた麦の穂が、昇ったばかりの太陽を浴びてキラキラと弾ける。村の入り口では早起きの羊たちが、のんびりとあくびをしていた。
僕、アハトは羊飼いのおじさんが病気で休んでいるので羊の面倒をみている。
「アハト、今日はいい風が吹いているね」
隣で、幼馴染のイーリスがふわりと笑った。 彼女の瞳には、僕たちが見ているこの青い空や、黄金色の麦畑は見えていない。けれど、イーリスの手は魔法の手だ。彼女が細い指先で毛糸を操ると、まるで春の陽だまりをそのまま編み込んだような、温かくて柔らかい手袋が出来上がる。
「ああ。テルおじさんが、今日は森の奥まで鹿を追いに行くって言ってた。夕飯はごちそうになるかもしれないよ」
そう答えると、どこからか「ガッハッハ!」という、雷が笑ったような大きな声が響いてきた。村の守護者、テルおじさんだ。 熊を素手で捻りあげたという噂があるその腕は、僕の腰よりも太い。けれど、その大きな手は、僕とイーリスを拾い上げたときからずっと、壊れ物を扱うみたいに優しかった。
「アハト、イーリス! 腹を空かせて待っていろ。今日の獲物は、森の精霊も驚くほどの特大だぞ!」
おじさんは自慢の散弾銃を軽々と肩に担ぎ、銀色の髭を揺らしながら歩いてくる。その背中は、この小さな村を丸ごと守りきれるほどに大きくて、頼もしい。そして何より、親のいない僕とイーリスを拾い、育ててくれた恩人だった。
僕たちの毎日は、昨日と同じ今日が来て、今日と同じ明日が来る。 麦を刈り、編み物をし、テルおじさんの冒険譚に耳を傾けながら、暖炉の火を見つめて眠りにつく。
黄色い霧の境界の向こう側に、恐ろしい怪物が潜んでいるなんて。 世界を分かつ黄色い霧が、平穏な村の目隠しだったんて、その時の僕たちは、まだ何も知らなかった。 ただ、イーリスの編む毛糸が奏でる「カチカチ」という優しい音と、テルおじさんの力強い足音、そして風に揺れる麦の歌に包まれて――。
僕たちは、あまりにも幸せな「子供たち」だったんだ。
―――
僕は朝から働いていた。まず村長の家の薪を割り、次に鍛冶屋の火起こしを手伝い、昼前には粉挽き小屋で麦を挽く。どの仕事も人並みにこなせる。特別上手いわけではないが、失敗もしない。村の誰もが「アハトに頼めば何とかしてくれる」と知っていた。
「アハト、ありがとうね。いつも助かるよ」
村長の妻が焼きたてのパンを持たせてくれた。僕はそれを布に包み、家路についた。
「ただいま」
扉を開けると、イーリスが糸車の前に座っていた。彼女の指先が器用に糸を紡いでいく。目は見えないが、触れただけで羊毛の質を見分け、美しい布を織り上げる。
「おかえりなさい、アハト。今日はパンの匂いがするね」
「ああ、村長さんの奥さんから貰った。まだ温かいよ」
僕がパンを置くと、奥の部屋から大柄な老人が現れた。テルおじさんだ。
「おう、戻ったか。今日は東の森へ狩りに行く。お前らは留守番だ」
「テルおじさん、僕もついて行っていい?」
僕が訊くと、テルおじさんは首を横に振った。
「駄目だ。今日は境界に近い所まで行く。お前たちには危険すぎる」
「境界……」
僕は窓の外、遠くの地平線を見た。そこには常に薄い黄色の霧が立ち込めている。毒の霧。近づけば命を落とす、禁忌の領域。
「あそこには絶対に近づくな。いいな」
テルおじさんの声は厳しかった。僕とイーリスは頷いた。
だが、好奇心はそう簡単には消えなかった。
「……ねえ、イーリス」
テルおじさんが出かけて しばらくして、イーリスに小さな声で言った。
「何?」
「テルおじさんの狩り、見に行かない?どんな風に獲物を追うのか、少しだけでも」
イーリスは一瞬迷った。
「……わかった。でも、遠くからだよ。絶対に境界には近づかない」
僕はイーリスの手を引き、森に入り木々の間を進む。
「アハト……待って」
イーリスが立ち止まった。
「匂いが変なの。いつもの森の匂いじゃない。何か……苦くて、冷たい」
彼女の嗅覚は鋭かった。僕には何も感じられないが、イーリスが言うなら間違いない。
「大丈夫。まだ境界は遠いから」
僕はそう言ったが、心のどこかで不安を感じていた。
そして——見つけてしまった。
地面に倒れた巨体。テルおじさんだった。
「……テルおじさん?」
僕の声が震えた。頭部は無惨に潰れ、首が不自然な角度に折れ曲がっている。散弾銃は傍らに転がり、地面には大量の血が染み込んでいた。
「アハト?……どうしたの!?」
イーリスには何も見えない。だが、僕の呼吸の乱れと、異様な沈黙から全てを察した。
「血の匂い……それと、知らない匂い。鉄みたいな、でも生きてるような……」
彼女の声も震えていた。
「村に……知らせないと」
境界間際の黄色い霧が、生き物のようにうねりながら吹き抜けた。
その中から現れたのは、村の誰もが着たことのない鮮やかな 黄色い外套を纏った影。彼らの顔は不気味な蝿のような顔の黒い仮面で覆われ、その奥底にある感情を読み取ることはできない。
死体となったテルおじさんの傍らに、その異形たちは音もなく立ちつくした。
「……おまえ、たちが……やったのか……?」
震える声で僕が問いかけると、中心に立つ男が、ゆっくりと首を傾けた。仮面の口の先っぽから「シュウ」と冷たい音を立てる。彼は、まるでおじさんの死体を珍しい石ころでも見るかのような、あまりにも淡々とした手つきで手袋を直した。
「プラント。これを。交渉の材料になります。個人を識別できる内に、村まで運びましょう」
「へいへい。人使いの荒いこった。……こりゃまた、ずいぶんと派手にやられたもんだな」
中心に立つ男の指示に従い、黄色い外套を着崩した大男、プラントが一歩前へ出る。
彼は分厚い腕を使い、おじさんの巨体をまるでおもちゃのように軽々と肩に担ぎ上げた。その光景は、僕の目には「獲物を持ち去る略奪者」そのものに映った。
「返せ……! テルおじさんを、返せよ!」
僕が泣き叫びながら駆け寄ろうとすると、もう一人の男がひょいと前に立ち塞がった。黄色い帽子を指先で弄びながら、彼は薄ら笑いを浮かべているように見えた。
「よせよ坊主。俺たちが殺したのかって顔してるが……あいにく、俺たちが売るのは『真実』と『嘘』であって、『死』じゃねぇんだ」
その男の声は人を食ったように軽く、それでいて背筋が凍るような冷たさを孕んでいた。中心に立つ男が不気味な蝿のような顔の黒い仮面をゆっくりと脱ぎ捨てる。現れたのは、どこか体温を感じさせない口だけは微笑んでいる細目の商人の顔だった。
彼は、怯える僕とイーリスを値踏みするように一瞥すると、懃懃に、しかし拒絶を許さないトーンでこう告げた。
「私はレビオ。見ての通り、この境界の外より来た者です。私たちは貴方たちの村の長と、非常に重要な『取引』をしたいと考えています。ご案内いただけますか?」
僕は村に案内した。その人達がテルおじさんの死体を持っていき、村は恐怖に包まれた。
「テルが……あのテルが殺された?」
「何者だ。熊か? 狼の群れか?」
「いや、首の折れ方を見ろ。獣の仕業じゃない」
村人たちは広場に集まり、口々に噂した。子供たちは怯え、女たちは祈りを捧げた。
レビオが村長に話しかけた。
「初めまして。私たちは境界——黄色い霧を越える越境者と申します。この村一の守護者であるテルさんがお亡くなりになったことをお悔やみ申し上げます。では何に襲われたか?——それは外国の人間によるものです」
その声は妙に落ち着いていた。村人たちは後ずさりしたが、レビオは構わず話し続けた。
「皆様は、この世界に四つの大きな国が人類の覇権を争っていることをご存じですか?」
僕は首を傾げた。四つの国? この村の外のことは聞いたこともない。
「それぞれの国は、境界の黄色い霧で分断されたこの世界で独自の技術を極めています。ある国では、人は決して老いることがありません。永遠に若く、美しいまま生き続けます」
「ある国では、傷ついた身体を取り替えることができます。腕を失っても、足を失っても、すぐに新しいものと交換できるのです」
「ある国では、人の心そのものを知識を持つ箱に移し、永遠に生き続けます。肉体が滅んでも、思いは消えません」
「そしてある国では、全ての民の心が一つに繋がっています。誰かが見たものを皆が見る。誰かが感じたことを皆が感じるのです」
「我々越境者はその脅威の情報を事前に知らせ、境界の交通網を維持することを生業とします。是非とも今後の自衛の為にも私たちと協力関係になりませんか?」
村人たちはざわめいた。あまりに荒唐無稽で、信じられるはずがなかった。
「嘘だ……そんな馬鹿な……」
村長が呟いた。すると、レビオの後ろから別の男が進み出た。
無精髭を生やし、ニヤけた笑みを浮かべた男。
「だから言ったろ、レビオ。まともに話したって誰も信じやしねえって」
「確かにここの文明レベルではあなたの嘘と対して変わらないかもしれませんねダレカ」
その男、ダレカは村の人達の方を向いた。
「俺達の言葉が信じられねぇのも無理はねぇ、だがよぉじゃあ証明してみろよ。境界の黄色い霧が全部消えない限り、いないって証明はできねえだろぉ」
村人たちは黙り込んだ。
その時、広場の端で激しい音が響いた。
「血が足りねぇ!肉が!胃袋が!空っぽなんだよぉぉ!この村の食い物全部俺に差し出せ!」
荒々しい声。僕が振り向くと、村の住人を絞め落とし立っていた。
「こちとら、テメェらのデケェジジイに右腕を破壊されてんだ。当然の権利だぜぇ」
筋骨隆々な見た目。だが、その『破壊されたはずの右腕』は——明らかに異様だった。その男と肌の色が違う。関節に黒い継ぎ目がある。まるで別の人間の腕を無理やりくっつけたような。
「待ってくれ、我々も今何が起きているか——」
「待ってくれ?交渉ってのは対等な立場でないと成立しないもんだぜっ」
その男が次々と僕の村の人たちを殴打し首を不自然な角度に折れ曲げさせた。
越境者のプラントが一人が前に出た。体格の良い男。耳が潰れ、額に古い傷がある。仮面を外したその顔は、義憤を持っているかに見えた。
「悪いが、ここは俺たちの商談の場だ」
襲った男は鼻で笑った。
「何だテメェは!邪魔すんなら——」
言い終わる前に、越境者のプラントがその男の体を捉えた。
「あのプラントって人、匂いが変わったよアハト」
隣で怯えていたイーリスが呟いた。
僕は目を見張った。一瞬の動き。だが、その技は完璧だった。関節を極め、継ぎ目——あの異様な右腕の黒い繋ぎ目——に正確に圧力をかけている。
「ぐっ……!」
襲った男は身動きが取れなくなった。
レビオが静かに歩み寄った。
「あなた、ハリドは身体を取り替える不死の国オブシディアから逃れてきた方ですね。私闘の罪で追われている。そして、散弾銃を持つ監視官に深い恨みがある——違いますか?」
その男、ハリドの目が見開かれた。
「……何で知っている」
「私たちは情報を扱う者です。そして、あなたが欲しいものも知っている。あの男の弱点——それと引き換えに、この村から手を引いてもらえませんか? 少しばかりの食料も差し上げましょう」
しばしの沈黙の後、ハリドは頷いた。
「……わかった」
拘束が解かれ、ハリドは食料の袋を受け取ると、黄色い霧の中へと消えていった。
僕は呆然としていた。今、何が起きたのか。あの男は——テルおじさんを殺したのは——。
その夜、村の集会が開かれた。
村長の家に村人たちが集まり、口々に意見を述べた。
「テルを殺した化け物が来た。もう安全じゃない」
「あの二人の子供が境界に近づいたからだ。禁を破ったんだ」
「イーリスは盲目だ。役に立たない。アハトも村の秩序を乱した」
「村の人口は限られている。テルが亡くなった今、養える者の数も限られている」
僕とイーリスは扉の外で、その声を聞いていた。
やがて扉が開き、村長が現れた。
「アハト、イーリス。申し訳ないが……村を出て行ってもらう」
予想していた言葉だった。それでも、胸が締め付けられた。
「わかりました」
僕は頭を下げた。イーリスも、震える手で頭を下げた。
翌朝。
僕とイーリスは、村はずれの小さな墓標の前に立っていた。昨夜、村人たちが急いで作った、テルおじさんの墓だった。
簡素な木の十字架。その下に、テルが愛用していた散弾銃が供えられていた。
「テルおじさん……」
僕は膝をついた。
「僕たち、村を出ます。でも……テルおじさんに教えてもらったこと、全部忘れません。
どこに行っても生きていけるようにと、薪の割り方、火の起こし方、罠の仕掛け方。そして何より、どんな時も諦めないこと」
「だから、テルおじさんのこの散弾銃持っていってもいいよね」
僕は備えられた散弾銃を肩に下げた。
イーリスも墓標に手を伸ばした。指先が木の十字架に触れる。
「ありがとうございました……テルおじさん」
イーリスの声は震えていた。
「……怖い。これから、どうなるの……」
僕はイーリスの手を取った。
「大丈夫。僕が必ず、テルおじさんの代わりに守るから。一緒にいよう」
「アハト……」
二人は立ち上がり、墓標に最後の祈りを捧げた。
村の入り口で、越境者たちが待っていた。
「この村との通商の契約も済んだことですし、私たちと一緒に来ませんか?越境者として生きる道もあります」
レビオの提案を、僕は首を横に振って断った。
「盲目のイーリスを危険な目に遭わせるわけにはいかない」
レビオは少し考えてから、四つの可能性を語った。
「なるほど、盲目の彼女がいる以上我ら越境者としては活動できない。確かに論理的ですね。では解決する術を持つ国を紹介しましょう」
「第一候補として肉体を取り替える不死の国なら、目を取り替えることができるでしょう。ただし、力こそが全ての世界です」
「心の国では、人の心そのものを知識を持つ箱に移せば見ることができます。もっとも、肉の身体は失いますが」
「思いを一つにする国では、他者の目を通して見ることができます。ただし、自分という存在は失われます」
「不老の国なら……その美しさを見込まれれば、治療を受けられるかもしれません。代わりに、永遠に生きることになりますが」
どの道も、あまりに重かった。
その時、ダレカが口を開いた。
「風の噂じゃ、どんな人間も受け入れて、治してくれるような理想の国があるらしいぜ」
その言葉に僕は唖然とした。
「ま!嘘なんだけどな、世の中まだ未知に溢れてんだ。レビオ、おまえさんのつまらねぇ真実より、俺の信じてぇ嘘を信じた方がいいぜ」
彼は飄々とした笑みを浮かべた。
「これを持っていきなさい。境界を越える時、必ず役に立ちます」
僕はレビオから黄色い外套と蝿のような顔の黒い仮面を受け取った。重い布地。しかし、不思議と温かかった。
「ありがとうございます」
レビオが小さく微笑んだ。
「……無事でいてください」
僕はイーリスの手を取った。
「行こう、イーリス」
「行こう……アハト!一緒に」
僕ら二人は歩き出した。村を後にして、境界へと向かって。
黄色い霧が立ち込める未知の世界へ。四つの国が待つ、異質な人類の坩堝へ。
越境者たちはその背中を見送った。
―――
「レビオ、ご自慢の審査眼からあいつらの値段はいかほどだ?」
ダレカは旅立つアハトとイーリスを見つめた。
「珍しいことですが、彼らに値がつけられません。……今思うと私が何故彼らに越境者のコートとガスマスクを無償で授けたかわかりません。そう引きつける魅力があったからでしょうか?」
ダレカがボソリと呟いた。
「クソ真面目の越境者の鑑であるお前でも嘘はつくんだな」ダレカが肩を竦めた。
境界の霧が、二人の姿を飲み込んだ。
こうして、アハトとイーリスの旅が始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これからアハトとイーリスの、過酷で長い旅が始まります。
少しでも「面白い」「続きが気になる」「雰囲気が好き」と思っていただけましたら、
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※本作はカクヨム等にも重複投稿しています。




