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05、残酷な外科手術と男性ソプラノの真実

「息子さんをオペラ歌手にしませんか?」


 (うまや)の陰に隠れたまま、リオはポカンと口を開けたまま固まっていた。


 私は身を乗り出したいのをこらえて、全身を耳にして息を殺す。


「何言ってるんだい? うちには音楽の教育なんぞにかけるお金はないよ」


 さっさと話を切り上げようとしたアンナおばさんに、都会風の男が追いすがる。


「逆ですよ、奥様(シニョーラ)。あなたは受け取るんです」


「どういう意味だい?」


 アンナは足を止めて振り返った。


「リオネッロくんの歌声なら、特待生としてナポリの音楽院に受け入れられるでしょう。授業料は一切かからない上、完全寄宿舎制で生活の面倒も見てくれる。音楽院といっても歴史をたどれば孤児院でしたからな」


「ナポリ、かい……」


 男の早口に圧倒されたのか、アンナはかすれた声でつぶやいただけだった。


「そうですとも。ナポリにはハイレベルな教育を施す音楽院が四つもあるのです。文字の読み書きからラテン語の勉強、発声にチェンバロなどの楽器演奏、対位法や作曲まで学ぶのです」


 専門用語を並べられて、あっけにとられたアンナは突っ立ったままだ。


「音楽院で数年学べばナポリの大聖堂で歌えるようになるでしょう。それからナポリの劇場で合唱の仕事も始められる。そのうちちゃんと役ももらえるようになって、大歌手として成功する。息子さんがスター歌手として大富豪になれば、家族もみんな楽できますよ」


「そんなうまい話があるものかい! あんた人さらいだろう? 子供をあたしからだまし取って、どこかに売り飛ばすつもりだね!?」


 夢から覚めたように、アンナはまくし立てた。


「とんでもない!」


 胡散臭い男は両手をぱたぱたと顔の前で振り、


「息子さんを私に預けてくれるなら、今すぐあなたにお礼をお渡ししますよ!」


 男は気取った仕草で腰をかがめ、唇をアンナの耳元に近づけた。


「そんなに!?」


 金額を耳打ちされたのか、アンナの声が裏返った。


「いや、やっぱり信じられないね」


 だが彼女はすぐに冷静になった。


「リオネッロが音楽家になったって、あんたになんの得もありゃしないじゃないか」


「いいえ、奥様(シニョーラ)。私の仕事は音楽好きな貴族の(めい)を受けて各地の教会を回り、歌のうまい男の子を紹介してもらい、音楽院へ連れていくこと」


 男は観念したのか、商売人の作り笑いを消して説明を始めた。


「私は少年たちの後見人となります。最初の数年間、少年が稼いだお金は私と声楽教師が半分ずつ受け取ります。その後は少年自身と教師と私とで三等分する。少年自身が受け取る割合は次第に増えていき、やがて全額が彼自身の(ふところ)に入ります」


「それであんたも得するし、声楽教師もタダで教えるってわけか」


 話を聞きながら私は、大人たちの不気味なネットワークに身震いした。


 私自身が大人になった今から考えれば、リオネッロを男に推薦したであろう老神父も、いくばくかの紹介料を受け取っていたはずだ。


「だが―― 待っておくれ」


 疑り深いアンナはまた首を振った。


「寄宿舎で生活の面倒も全て見てくれるって言ったね? 孤児院が母体とはいえ、今はあたしらがリオネッロの親代わりじゃないか。本当にちょっと声が綺麗なだけで、学費だけじゃなく生活費まで出してくれるのかい?」


 男はゆっくりとうなずいた。


「貧しい家の子は無料です。特に不具となった子は」


「不具?」


 アンナが問い返した言葉の意味が分からず、私とリオは顔を見合わせた。


「そうです。息子さんを手術するなら早いうちがよい。今おいくつですか?」


 手術ってなんの―― 私の頭が答えを見つける前に、アンナが答えた。


「あの子はもうすぐ十歳だよ」


「ふむ、それならあと数年は猶予がありますが―― 声変わりが始まってしまったら手遅れですからね」


 リオネッロがごくりとつばを飲み込む音が、私の耳に届いた。


「それってつまり、あの――」


 声をひそめたアンナの言葉は、途中までしか聞こえなかった。


「そうです。腕利きの理髪師を紹介しますよ」


 理髪師は刃物の扱いがうまいから、外科手術も請け負うのだ。


「教会の前でこんな話はまずいだろう?」


 後ずさるアンナに、男はふっと笑みを漏らした。


「賢明なご判断だ。禁断の手術に関わった者は破門ということになっていますからね」


 二人は連れ立って姿を消した。


「リオ?」


 震える彼の肩に、私は両手を置いた。


「オリヴィア。僕、先生(マエストロ)やロレンツォさんの秘密が分かっちゃった」


 リオは瞳を恐怖の色に染めながら、口元には皮肉な笑みを浮かべていた。形容しがたい面持ちのまま、


「オリヴィアにはちょっと、こんな話できないな」


 急に大人びた口調で、私を突き放した。


「どうして?」


「恥ずかしいもん」


 リオがくるりと背を向けたとき、私は突然、旅芸人の女性歌手が、男性ソプラノの話をしていたのを思い出した。


 公演後いつも彼らは、村に一つしかない酒場へやってきた。村人たちと酒を()み交わすうち、子供には分からない話が始まる。


 デコルテを大胆に見せた衣装のまま、女性歌手は葡萄酒片手にけらけらと笑った。


「貴族の奥方様ってのは、お宝のない男が好みなんだってさ! スター歌手ってのはあっちこっちで浮き名を流して、貴族の男に命を狙われたりしてんのよ。都会って面白いわぁ」


「浮き名流すったって、取っちまってるんだろ?」


 腑に落ちない顔で尋ねる私の父さんに、


「でもほら、アレは残ってるから」


 女性歌手は左手の人差し指と親指で輪を作り、右手の人差し指を差し込むジェスチャーをして見せた。


 父さんは品のない笑い声を上げ、


「取っちまってんのに()つのかよ?」


 私には分からない話で盛り上がった。


「立つって何が?」


 葡萄酒で香りをつけた井戸水を飲みながら私が尋ねると、父さんは慌てた様子で振り返った。


「バッ、オリー、まだそこにいたのか!? 早く帰って寝なきゃだめだぞ!」


 今になって私は、ようやく彼らが話していた意味を悟った。


 美声を持つボーイソプラノがどんな手術を受けて、あの輝かしいソプラノの声を保ったまま大人になるのか、想像できた。


 私は背を向けたままのリオをうしろから抱きしめていた。


 なんとしても、こんな野蛮なことは止めなくちゃ!

 リオを守らなくちゃ!

非力な子供でしかないオリヴィアは、組織化された大人たちの陰謀を止められるのか!?

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