4 サイジュベル侯爵の19年ごしの恋
サリー・サイジュベル
今夜は恐ろしい目にあった。舞踏会になんか参加するんじゃなかった。
聞くところによると、馬の頭をもった甲冑の化け物が、わたしに手を差しのべ、踊りのパートナーを求めたという。その化け物の姿を想像し、わたしは身震いした。目が見えていたら、どんなに恐ろしかっただろう。
舞踏会ではジュリアス男爵のお相手をさせられた。お父さまは、わたしと男爵を結婚させたいのだ。彼は、ゼルキン公爵の甥にあたり、サイジュベル家にとっては玉の輿になる。それは最高の縁組みなのだろう。わたしは嫌だ。わたしにはエドモンしかいないのだから。
疲れた体をベッドに投げだした。エドモンの匂いがする。わたしはハッと身を起こし、恋人の気配をうかがった。
「サリー。ぼくは初めて、きみの不意をうつことに成功したみたいだね」
「エドモン」彼の手がわたしの肩にかかった。わたしは恋人の体にしがみつき、そのほっそりした顔の輪郭に、自分の指を夢中ではわせた。
「どうしてもサリーに会いたくて、たまらなくなったんだ」
「わたしもそうよ。エドモンはいつだって家の者に見つからず侵入し、わたしの前にあらわれるのね。神出鬼没の怪盗みたい」
「ぼくはこの城の庭師だったからね。抜け道をちゃんと心得ているんだ」
エドモンの唇が、わたしの唇をもとめてくる。
「待って。お父さまと、誰かもう1人が階段を上がってくる。どこかに隠れて」
「わかった」エドモンの足音が遠ざかっていった。
ほどなく、寝室のドアが叩かれた。お父さまと連れだって入ってきたのは、わたしの目の治療のために呼んだ医者だという。
「わたしは大地の大精霊使いであり、世界最高の治癒師でもあるカラン・セシル・ヴァールです。あなたの瞳にかならずや光りを取りもどしてみせます。わたしに治せなければ、世界中の誰にも治せません」
ベッドに腰かけたわたしは、治癒師にされるがまま診察をうけた。治癒師の繊細な指で目蓋を持ちあげられ、瞳を上げたり、下げたりするように言われた。
「少し、ひんやりしますよ」
栓の抜かれる音がし、清涼感のある液体が目のなかにそそがれた。わたしの目蓋を閉ざした治癒師の指が、その上から眼球の輪郭をなぞっている。しだいに暖かみが広がり、目蓋の裏に光りの粒がおどりだした。
「では、ゆっくりと目を開けてください」
ぼんやりと、光りの点が左右にゆれている。わたしはそれを目で追った。
「おお、見えているのか」お父さまの声があがった。
そうじゃない。わたしの視覚野に映っているのは、ゆれうごく光りだけだ。
あとで聞いた話では、わたしの顔の前にかざされたロウソクの炎が左右に動くのに合わせて、わたしの瞳が動いていたそうだ。
お父さまと治癒師が治療費の交渉をはじめだした。「高すぎる」とお父さまが声を荒らげた。お父さまの足もとを見て、治癒師が値段をつりあげたのだろう。2人の話しあいが続いている。
そのとき、犬の激しい吠え声がした。ラブラドールの猟犬スクイーズだろう。スクイーズがものすごい勢いで寝室を駆ける。
エドモンの悲鳴が聞こえ、バルコニーのほうから慌ただしい足音がした。枝葉の折れる音に続いて、重い落下音が響いた。
「エドモン!」わたしはベッドから立ちあがった。
壁を伝わり、バルコニーに面した窓に向かった。窓外にエドモンの姿が見えるわけもなく、中庭を逃走する物音が夜の静寂をやぶっているだけだった。
窓のふちにかけたわたしの手に、狩猟犬のせわしなく吐く鼻息を感じた。スクイーズはとてもエドモンになついていたのにといぶかった。
お父さまが、侵入者を捕まえる指示を声高に出している。
はるか上空に、いままでは感じられなかった光りのかたまりがある。お月さまだろう。世界最高の治癒師の治療効果はそくざにあらわれたのだ。
やわらかくふりそそぐ月光を感じながら、人々の騒ぎや、地面をふむ足音、草むらをかきわける音に耳をかたむけていた。
わたしは失策に気づいた。恋人の名を思わず叫んでしまったのだ。
*
ランドは、屋敷に忍びこんだというエドモンの捜索に協力した。
エドモンは、義理の妹のサリーに手を出し、サイジュベル城を追い出されたと聞いている。城に来る途中、ランドの乗る馬車を怪力で引っくりかえしたのもエドモンだ。彼の鼻すじのとおった細おもてに、らんらんと凶悪な目を光らせた容姿をランドは思いかえした。
篝火のたかれた中庭に侵入者は見つからなかった。城壁の裏手から庭園に出る扉が開け放たれていた。エドモンはそこから逃走したに違いない。
庭園は手入れがいきとどかず荒れていた。その庭の管理をしていたエドモンが追放されて2週間がたつという。新しい庭師を雇っていないのだろう。
月明かりのなかに、石畳をしいたケヤキの並木道が続いている。その道の反対側は、季節の草花を植えた花壇になっている。ランドは10人の兵士と1匹のラブラドール犬とで庭園を探しまわった。
石畳の道の先にも、並木が交差している。その木立の向こうに、石造りの平屋の礼拝堂が、その長い側面を横に向けて建っていた。礼拝堂のなかや、その地下の納骨堂も捜索したが、エドモンの行方はついにわからなかった。
ランドたち捜索隊は探すのをあきらめ城に戻ってきた。月光をあびた城館のベランダに、サリーのたたずむ姿が悲しげだった。
ランドはサイジュベル侯爵に会い、エドモンの素性をくわしくたずねた。エドモンが、侯爵の後妻の連れ子なのは聞いている。
「わしが4年前にアディラと再婚したとき、妻は、16才のエドモンを連れていた。それ以来、あいつはサリーの4才違いの兄として過ごしてきた」
侯爵はエドモンの剪定の腕をかい、庭師の仕事にあたらせていた。それを――。
「血のつながりはないとはいえ、ともに暮らした妹に手をつけおった。母親のアディラは17才のとき、人気劇団の看板女優をつとめていた。エドモンには、芸人風情のうわついた血が流れているに違いない」
ランドは、アディラの貴婦人らしくないあでやかな雰囲気に思いあたった。
「わしは19才だった。芝居が好きで、アディラの舞台に足しげく通ったものだ。わしはアディラとの結婚を望み、彼女もそれを受けいれてくれた」
しかし、身分の違いでそれはかなわなかった。サイジュベルは20才のとき、侯爵家の娘と結婚した。その先妻は10年前に亡くなったという。4年前に、侯爵は独断で、アディラをあらためて妻に迎えたのだと打ち明けた。
侯爵はいま42才。アディラとの19年ごしの恋がついに実ったのだ。
「しかし、わしのその判断は間違っていたのかもしれない」
サイジュベル侯爵が、ひげにおおわれた口を苦悩にゆがませた。
ランドは、あと数日の滞在をサイジュベル侯爵にすすめられたが、自分の領地をずっとあけていられないと断った。サリーの目の治療にあたっているカランに、正体をいつ見破られるかわからないのだ。
翌日、ランドは、カランと同じ食卓につくのをさけるため、自分の部屋に朝食を運ばせた。午前中に廊下に出ると、サイジュベル侯爵と、侯爵に手をとられたサリー、それにカランが大階段を下りていくところだった。
すると、玄関ホールから、来客を告げる声が聞こえてきた。
「デズリー・ペンデルトンさまの使いの者がまいりました」
——デズリー・ペンデルトン? ランドの知らない名前だった。
ランドは、変装のため儀礼用の白いかつらをかぶり、玄関ホールにおりた。
ホールで対面したペンデルトンの使者は心身の疲労にまいっている様子だった。よほどの大事に馬をとばしてきたのだとランドにはわかった。
「実は、ジュリー奥さまが『枯れ死病』にかかられたみたいなんです」
使者の報告に、サリーが小さい悲鳴をあげた。
枯れ死病にかかった——ランドは身震いした。宿屋の主人の、枯れて朽ちるように亡くなった恐ろしい最期が脳裏によみがえった。
ランドは、ジュリーとは誰かとサイジュベル侯爵にたずねた。
「ジュリー・ペンデルトンはわしの長女だ。サリーの3才違いの姉だよ」
そのジュリーの夫がデズリー・ペンデルトンだという。デズリーは4隻の交易船の船主だと侯爵が教えた。
「お父さま」サリーがサイジュベル侯爵の腕にすがりついた。「お姉さまのお見舞いをしないといけませんわ。どうしてもその容態が知りたいんです」
娘の言葉に侯爵が苦りきっている。目の不自由な娘を外出させたくないのだろう。それ以上にエドモンだとランドは気づいた。野放しになっているエドモンが、いつサリーに近づこうとするかわからないのだ。
『枯れ死病』についてはランドも気になっていた。ランドール伯爵をかたり、隠れて暮すのに退屈していたおり、ランドの冒険者の血が騒ぎだした。
「わたしがサリーお嬢さんのお供をしましょう」
ランドの申し出に、サイジュベル侯爵がよろこびをあらわにした。内心はランドに頼みたいと思っていたのかもしれない。カランの滞在している屋敷から出られるなら、それはこっちの望みでもある。
「では、世界最高の治癒師であるわたしも同行いたしましょう」カランが割りこんできた。「枯れ死病には興味がありますからね」
ランドは密かに舌打ちした。カランが『枯れ死病』を治せるかどうかはわからないが、そこに金のにおいを嗅ぎつけたに違いない。
「サリーが見舞いをするなら、ぼくも行くよ」
大階段の下から、赤毛で小太りの男がひょっこりあらわれた。昨夜の舞踏会でサリーのお相手をしていた青年紳士だとランドは思いだした。
「ねえ、閣下。いいでしょう」と青年はなれなれしい。「なにしろ、ぼくはサリーの婚約者で、サイジュベル家のじき当主なんだから」
彼はジュリアス男爵だと、サイジュベル侯爵がランドに紹介した。ジュリアスは、ゼルキンという有力な公爵の甥らしい。
サリーがジュリアス男爵から顔をそむけている。その態度から、ジュリアスに対するサリーの心情がランドには理解できた。
御者が馬車の用意がととのったと知らせてきた。ランドはコートのふところにチビットを忍ばせ、玄関に向かった。ゴーラは『枯れ死病』の感染を恐れ、ついて来ようとしなかった。
城館の前には、二頭立ての箱型馬車が待機していた。ゴーラは同行しないので、石材運搬用の馬車は必要なかった。イエイツ司祭は、『枯れ死病』と聞いて、首を振って辞退していた。
客車の前列にランドとカラン、後列にサリーとジュリアス男爵が座り、馬車が動き出した。カランが端整な横顔を窓外に向けている。
ランドはカランと顔を合わせないようにしていた。口ひげをのばしているが、仮装用の仮面をいまはつけていない。カランがランドの正体に気づいた様子はなかった。金にしか興味がないカランは、かつての冒険仲間を忘れているのだろうか。用心にこしたことはない。
「その、かつら」不意にカランが口を開いた。「暑くはないですか」
「いえ。侯爵令嬢をお見舞いするのですから、これも貴族のたしなみです」
「それは高貴なお心がけですね」カランが、からからと笑った。
後部座席からは、ジュリアス男爵の軽口が聞こえている。
「昨夜の舞踏会はとてもエキサイティングでしたね」
うわの空のサリーはうつむいたままだ。姉のジュリーが『枯れ死病』にかかったのではと心を痛めているのに、ジュリアスが気づいた様子はなかった。
港に近いデズリー・ペンデルトンの邸宅に到着したのは、午後3時の鐘がなるころだった。昼食は途中の馬車宿でとっていた。
使用人の案内で、ランドたち4人は、ジュリー・ペンデルトンの寝室に通された。とたんに、すえた葉の臭いがした。20才前の痩せ細った女性がベッドに横たわり、そのかたわらに、30がらみの恰幅のいい男性がうなだれている。ジュリーとその夫のデズリーだろう。
ジュリーの肌は土気色で、半ば開いた目は虚空に向けられている。ランドは暗い気持ちにしずんだ。『枯れ死病』で亡くなった宿屋の主人と同じ、魂の抜け殻のような患者の有様だった。
カランがジュリーにかがみこんで診察にあたりだした。怯えもあらわなジュリアス男爵の横で、サリーが不安そうに視線をさまよわせ、しきりに寝室の臭いをかいでいる。死臭を感じとっているのかもしれない。
おもむろにカランが立ちあがり、ランドのほうに向きなおった。
「間違いありません。ジュリー奥さまは『枯れ死病』にかかっておられます」
続