12 エドモンとエドモン
サリー・サイジュベル
わたしの瞳にじんわりと暖かい感触がしみこんでいく。治癒師のカラン先生が『癒しの水』を処方した薬をさしてくれている。初回のときより、薬が水っぽく感じられるのは気のせいだろうか。
「以前に、いただいたお薬はもっと濃くありませんでしたか」
わたしは自室のベッドに腰かけたまま、治癒師にたずねた。
「錯覚です。この処方薬に慣れてしまった眼球がそう感じているのです」
確かに、あれから3日間、朝昼晩とずっとこの目薬をさしてもらっている。
「それで、わたしの目はいつ見えるようになるんでしょうか」
「あせってはいけません」先生の声は妙に優しい。「世界最高の治癒師が処方した薬を根気よく使用していれば、あなたの視力はかならず回復します」
わかりましたね、とカラン先生がわたしの肩に手をおいた。
「いま目の前にいるわたしは、あなたの目にはどのように映っていますか」
「なんだかぼんやりとした影のように見えます」
「ほら、見えているでしょう。あと数日で劇的に良くなりますよ」
もう少しの辛抱だと励まして、カラン先生がわたしの寝室を出ていった。
あの目薬を最初にさしてもらったときには、光りを感じられるまでいっきに良くなった。それからの回復が遅いように思える。
いままでは目が見えなくても、なに不自由ないと思っていた。光りを感じられるようになり、視力が戻る可能性が現実のものになってくると、いまではエドモンの顔をじかに見たいと心から願っている。そんな気持ちの大きな変化を、わたしは自分でも不思議に感じる。
わたしの目が光りをうしなったのは3年前の13才のときだ。義理の兄のエドモンは17才だった。わたしの指の感覚では、その3年間で兄の面立ちはそれほど変わっていないように思える。
わたしの脳裏にあるエドモンの容姿と、実際に見たエドモンとはどれほど違いがあるだろうか。ああ、兄の顔をこの目で見たい。見たい、見たい、見たい――。
ノックが聞こえた。エドモンが来てくれたんだ。わたしはベッドから4歩でドアに飛びつき、それを勢いよく開けた。
「サリー」驚いたようなジュリーの声だった。
「……ああ、お姉さまでしたの」わたしは落胆した。
「どうしたの? 婚約者のジュリアス男爵だと思った? わたしで悪かったわね」
「そんなわけないじゃない」わたしの言葉は思いがけずきつくなった。
「今日は、お母さまが亡くなった日よ。お花をまた供えに行きましょう。義理のお兄さまも、わたしたちといっしょにお参りをしたいそうなの」
「えっ、エドモン……お兄さまが? お姉さまはどうしてそれを知っているの」
「わたしがこっそりお手紙をもらったの。あなたは文字が見えないでしょう」
さあ、いますぐ行きましょう、とわたしの手を強く引いた。
わたしは姉に手をとられ廊下に出た。ランドール伯爵の部屋のドアは閉じられていた。イエイツ司祭が訪れていたようだ。伯爵に見つかれば、お供をするとうるさい。わたしは足を速め大階段に向かった。
玄関を出ると、兵士らしき男の声に止められた。どこに行くのかと問われ、外の空気を吸いにと姉が答えていた。
「午前中は城外が騒がしかったようですけど、なにかあったんですか」
わたしは姉と中庭を歩きながら、そうたずねた。
「聞いていなかったの? 昨夜、アディラお母さまが、エドモンに誘いだされ、玄関ホールで襲われたそうよ」
エドモンに襲われた――。わたしは驚いた。そんな話は聞いていない。お父さまは、わたしにあえて黙っていたのだろう。
「アディラお母さまがおっしゃるには、そのエドモンは偽者だったそうよ。午前中はその偽者を捜索していたの。お母さまは幸い無事だったけれど、お加減が悪くて、いまは休んでいらっしゃるわ」
エドモンをかたる何者かがいた。サイジュベル城や領内で、魔物の所業をしていたのは、お兄さまではなかったんだ。わたしの胸に喜びがわいた。それでは――。
「お姉さまが夜の海岸で出会ったのも、その偽者だったんですね」
「実は――その出来事はまるで覚えていないの。ごめんなさいね」
お姉さまは夢遊病のようにふらふら歩いているところを、エドモンと出くわしたと聞いている。その男は、お兄さまではなかったんだ。
エドモンも、それは自分ではないと否定していた。姉のいる町には足をふみいれてもいない。そんなでたらめを言うやつは絞め殺してやると憤っていた。
わたしは、エドモンの言葉を信じながらも、どこかすっきりしない気持ちが残っていた。そのわずかな疑いもこれで晴れた。お兄さまは魔物なんかじゃなかったんだ。わたしはあらためて安堵した。
「お嬢さま」威圧的な年若い声がした。「城外に出てはいけません」
庭園に出る、城壁の裏口に着いたらしい。足止めしているのは見張りの兵士だろう。お姉さまが墓参りの事情を説明している。
「いいじゃないか」年配のしわがれた声がわりこんだ。「曲者は城内にひそんでいる。庭園のほうがむしろ安全だ。母親の命日に花を供えたい気持ちはわかるよ。おれがお嬢さんがたの護衛をしよう」
わたしは、話しのわかる見張りだと感謝した。聞きわけが良すぎる気がしないでもなかった。彼はこの城に長くつとめるベテラン兵士で、生前のお母さまをよく知っているのかもしれない。
庭園に出たわたしの背後で、城壁の鉄扉が音をたてて閉まった。礼拝堂に向かう並木道の石畳を歩く。枝葉をゆらして鳥の鳴き声がする。お姉さまがしゃがんだ。墓前にそなえる花を花壇で摘んでいるのだろう。
そのとき、草むらに着地する音がした。いま来た城壁のほうからだ。「なんだ?」老兵の足音と、鎖帷子のたてる物音が遠ざかっていく。
誰かが胸壁から飛びおりたみたいだ。その不審な音を老兵が確かめているのだろう。姉はなにも気づいていないらしく、花壇にしゃがんだままだ。
ごん、と鈍い音に、うめき声が続いた。鎧を着た体の倒れる音がして、わたしは身をこわばらせた。老兵が何者かに襲われたらしい。
「お姉さま」わたしの呼びかけに、ジュリーはなぜか応えようとしない。
草をふむ速足が近づいて来た。「サリー。ぼくだよ。きみを迎えに来た」
エドモンの声だ! あふれる喜びに、わたしの胸はふるえた。
エドモンの腕が、わたしの体を強く抱きしめた。城の厳重な警備をかいくぐり、わたしを迎えに来てくれた。護衛の老兵は、エドモンになにかで打ち倒されたのだろう。その兵士には気の毒だった。
わたしは、愛しい彼の顔に指を這わせる。まぎれもなく、兄の顔の感触だ。
「お姉さまに渡した秘密の手紙のことは聞いたわ」
「――えっ?」エドモンの声には困惑の調子があった。
「お母さまの墓参りにみせかけて、城外に抜け出す計画だったんでしょう」
「そういえば、今日はサリーの母親の命日だったね」
エドモンはなにを言ってるの? いっしょにお参りをすると手紙に書いたんじゃないの? お姉さまがなんの反応もせず、黙りこんでいるのはどうして? 墓前に供える花をまだ選んでいるのかしら。
激しい吠え声がした。ラブラドール犬のスクイーズだろうか。その声が、城壁のほうから猛烈な勢いで石畳を駆けてきた。
「おい、スクイーズ、止せよ。ぼくだ、エドモンじゃないか」
エドモンがわたしから慌ただしく離れた。スクイーズが猛りくるったように吠えている。あんなにエドモンになついていたはずなのに――。
2日前の夜にも、寝室のドアを叩いたエドモンが、スクイーズに吠えたてられたのを思いだした。わたしの胸に疑いがひろがっていく。
アディラお母さまを襲ったのは、エドモンをよそおった魔物だったという。
「エドモン。あなたは本当にわたしのエドモンなの?」
わたしは恐ろしい疑惑から逃れるように、一歩ずつ退いていく。
「そうだよ。ぼくは本物のほうだよ。痛い! スクイーズ、やめるんだ」
本物のほう? まるで自分の偽者がいるのを知っているみたい。彼はエドモンなの? わきあがった恐怖につき動かされ、わたしはその場から逃げだした。方向なんかわからなかった。草花をふみわけ、むやみに走る。
「サリー、待って。スクイーズ、放すんだ。ぼくを行かせてくれ」
小石につまずき、わたしは芝生に倒れた。上半身を起こした腕を、誰かの手がつかんだ。わたしの体がびくりと震えた。
「サリー、待っていたよ。ぼくが本物のエドモンだ」
彼が本物――? 聞きおぼえのあるその声に間違いはない。わたしは彼の顔に両手をのばそうとする。その腕が強くつかまれた。
「そんなひまはないよ。さあ、早く。ぼくと逃げるんだ」
わたしは腕を引っぱられ、彼のうしろにいやおうなく従わされた。
「エドモンが庭園にいるぞ」城壁のほうから声があがった。「お嬢さまを連れ去ろうとしている。スクイーズが追いかけてる」
スクイーズの声で、城壁の見張り兵が庭園の騒動に気づいたらしい。兵士の怒号と、鎧のたてる金属音で、城のほうがにわかに騒がしくなった。
スクイーズの吠え声が追いついてきた。
「サリーを離せ」エドモンの声があがり、わたしの手をつかんでいた相手の足が止まった。わたしは足をもつれさせ、その場に膝をついた。
「うわあ!」エドモンの悲鳴があがった。数秒後に、ずしんと鈍い地響きがした。
いったいなにが起きているの? エドモンと、彼をよそおった魔物が争っているの? わたしは頭が混乱してきた。
「サリー、大丈夫かい。1人で起きあがれる? ぼくが手をかしてあげるよ」
エドモンの吐く息が濃くなっている。そこに、すえた腐葉土のような臭いがまじった。『枯れ死病』にかかったジュリーから漂っていた悪臭――。
「違うわ。あなたはエドモンじゃない! あなたは誰なの?」
「なにを言ってるんだい。ぼくはエドモンに決まってるじゃないか」
わたしは腕をつかまれた。それは腕の骨が折れるかと思うほどの力だった。
*
ランド、チビット、ゴーラ、イエイツ司祭が、エドモンに化けた魔物にどう対処するか話しあっていると、窓の外が騒々しくなった。
ランドはバルコニーに出た。夕陽に赤くそまった中庭で、何人もの兵士が、城館と主塔のあいだに駆けこんでいる。その先には城壁の裏口がある。
隣のバルコニーから、兵士の動きを見ているカランに気づいた。
「これはカラン殿。サリーさんの目の治療はいいんですか」
「とっくに終わっています。サリーさんはジュリーさんと出かけたようですよ。さっき階下におりていく姿を見かけました」
なんだって。ジュリーがサリーを誘いだしたに違いない。兵士が城壁の裏口に集まりだしたのは、サイジュベル姉妹の外出に関係しているのではないか。
ランドはすぐさま室内に戻り、チビットとゴーラに声をかけた。弓矢と短剣ですばやく武装をととのえる。
ランドは、2階のバルコニーから中庭に飛びおりた。どすん、とゴーラの地響きが続いた。走るランドの横を、チビットが飛翔する。
鉄扉の開けはなたれた裏口に、4人の兵士がかたまっていた。
「なにがあった。どうして扉が開いている?」ランドは勢いこんでたずねた。
「エドモンです」1人の若い兵士が答えた。「そいつがサリーお嬢さまをさらい、礼拝堂にたてこもっているんです」
エドモンをよそおった魔物にだしぬかれたらしい。どうやって城を抜け出したんだ。ランドは歯がみした。
兵士がランドに顔を向けている。その兜の下からのぞく、日焼けした顔から、彼が『魔物化』しているかどうかはわからなかった。裏口の見張り兵のなかに、魔物の手先がいたのではないかとランドは察した。
続