10 エドモンとアディラ侯爵夫人
夕食後、ランドは自分も城の警備にあたるとサイジュベル侯爵に申し出た。侯爵はおおいに喜び、武具庫の備品を自由に使っていいと言ってくれた。
ランドとチビットは、玄関ホールの大階段の下を通って武具庫に入った。チビットが魔法の『明かり』を灯す。壁ぎわの台座に、頭部のへこんだ馬用の兜と、甲冑のブレストプレートが置かれてあった。
ははあ、とランドは『サイジュベル城の幽霊武者』の出どころをさとった。
庫内に複合弓はなかった。しかたなく、ショートボウと矢、それに短剣を拝借した。ゴーラには戦槌を選んだ。
玄関ホールに出ると、大階段の踊り場でアディラ夫人とジュリーが立ち話をしていた。「侯爵夫人」とランドは呼びかけた。
義理の母親から、さっと離れたジュリーが階段を駆け上がっていった。
「ジュリーさんと、なんの話をされていたんですか」
ランドは、踊り場で立ちつくしているアディラ夫人にたずねた。
「なんでもありませんわ。侯爵の融資に対するお礼です」
今日はこれで休ませていただきます、とアディラ夫人が視線をそらした。夫人が嘘をついているとランドは直感的にさとった。
「では、わたしが寝室までお供しましょう」
ランドはアディラ夫人と2階の回廊に上がった。大階段をはさんで、ランドの部屋の反対側にある夫婦の寝室までつき従った。
就寝のあいさつをかわしたさい、戸口にのぞいた侯爵夫人の表情にはよそよそしさが感じられた。ランドの目の前で、ぴしゃりとドアが閉ざされた。
自室に戻ったランドとチビットは作戦会議を開いた。そのそばでは、バスケットに山盛りの残飯を、ゴーラがおうせいな食欲で食べている。
「エドモンと、魔物の手下となった2人が行動を起こすのはやはり夜間だろう」
ランドはそう切りだした。いままでもそうだったのだ。
「昼間に、魔物の息を吹きこむのは人目につきやすい。はたから見ればキスシーンだ。昨夜と同じ手はずで監視にあたろう」
ランドは、ジュリーとデズリーの寝室の窓を同時に見張れるバルコニーに身をひそませる。その廊下側からは、ゴーラがドアの前に張り込む。居眠りするゴーラの監視をチビットがすると決まった。
ランドは弓矢と短剣を装備し、城館の2階に巡らされたバルコニーに出た。館の壁面に並んだ窓の板戸から明かりはもれていない。ジュリーとデズリー夫妻はもう就寝しているのだろう。
城壁や中庭の各所には篝火がたかれている。城の兵士による警備におこたりはないようだ。ランドは手すりのそばにしゃがんだ。
クスノキの枝葉の影が頭上でざわざわ揺れる。かさなる雲のすきまから月光がにじみだしている。バルコニーの先の、城館の角は闇にしずんでいた。サイジュベル侯爵夫妻の寝室はその角を折れた先だ。そこまでは監視の目が行き届かないのがランドには歯がゆかった。
「エドモンが動きだしたわ」
チビットが翼をはためかせ、寝室の板戸のあいだから飛び出してきた。
アディラ・サイジュベル
ベッドの隣で、サイジュベル侯爵の寝息が聞こえてきた。わたしは夫を起こさないように静かに起きあがった。
エドモンがわたしに会いたがっているとジュリーから伝言があった。息子は自分の身にふりかかった疑いをはらしたいのだという。
わたしは、エドモンが魔物の手先だとは思わない。そこにはなにか誤解があるはずだと確信している。息子の体に流れている芸人の不埒な血が、魔物を引き寄せただなんて、ひどい言いがかりだ。
わたしは、寝入っている夫の背中をにらみつけた。
エドモンが伝えてきたのは、城館が寝静まったころ、大階段の下の、別棟に続くドアの前でわたしを待っているというものだった。
わたしはランプを手に、そっと寝室を抜け出した。
ロウソクがぽつりぽつりと灯る回廊はほの暗い。ごうごうと風が洞を抜けるような音がする。回廊を曲がった先の手すりごしに、岩影がうかびあがっていた。ドゴーラ男爵が警備にあたっているのだろう。
男爵に見とがめられたくない。わたしはランプの使用をあきらめた。
手すりに身をもたせるようにして、足音を忍ばせ大階段を下りる。玄関ホールは薄闇につつまれていた。階段の踊り場の下には、いっそう濃い影がわだかまっている。わたしはその闇にふみだした。
別棟に続くドアが、壁のロウソクに照らされている。エドモンはあのドアの前で待っていると伝言していた。
不意に飛び出した人影に手をとられた。わたしは悲鳴を押しころす。
「お母さん、ぼくです。エドモンです。お約束どおり、会いに来ました」
それは息子の声だったが、どことなく違和感をおぼえた。わたしの手を握るその指には—―じゃりと土の感触があった。
わたしはエドモンに連れられ、別棟に続くドアに向かった。ドア口のロウソクに照らしだされた息子の姿に、わたしはハッと息をのんだ。
エドモンの髪も顔も衣服も土にまみれていたのだ。
「ああ」とエドモンがわたしの視線に気づいたらしい。「ぼくは追われている身ですから、見つからない場所に隠れていたんです」
エドモンの顔も土に汚れていた。それでも、その細い鼻筋、とがったあご、面長の輪郭は、見まがうことなく息子のものだ。
わたしは安堵し、理由のわからない不安を胸におさえこんだ。
「ぼくは魔物の手先ではありません。サイジュベル侯爵の怒りをかい、領内から追い出されたうえ、あらぬ疑いをかけられているんです」
「あなたの『魔物の所業を見た』という人が何人もいるのはどうしてなの?」
「それには理由があるんです。ぼくは悪魔と取引をしてしまいました。その結果がこのありさまです。くわしい事情は、お母さん以外に聞かれたくありません」
舞踏室に行きましょう、とエドモンがわたしをうながした。
「ぼくの言葉を信じてくれますよね」
最愛の息子がじっと見すえてくる。その微動だにしない瞳が、わたしの胸をさざなみだたせる。いったんはおさめた違和感がまたうかびあがってきた。
「お母さん」近づいてきた息子の口から、すえた枯れ葉の臭いがした。
わたしは反射的に相手の手をふりはらっていた。
「あなたはエドモンじゃない。母親の目はごまかせないわ。あなたは誰なの」
にやりと笑った。「ぼくはエドモンに決まってるじゃないか」
「あなたは偽者よ。誰か!」わたしは声を荒らげ逃げだした。
玄関ホールに出たとたん、ものすごい力がわたしの肩をつかんだ。わたしは床に押したおされ、なすすべもなく引きずられていく。大きな影がおおいかぶさり、らんらんと赤く燃える瞳が迫ってきた。
*
エドモンが動きだしたとチビットがランドに伝えてきた。
「大階段の下の暗がりで、アディラ夫人がエドモンに襲われてるみたいなの」
夫人はその襲撃者を偽者と大声でとがめていたという。
チビットは『魔法の矢』を放とうとしたが、相手を視認できない暗闇では命中しない。ゴーラは居眠りしていて、チビットの腕力では揺り起こせそうにない。そこでランドに急を知らせに飛んだ。
チビットの報告を聞きながら、ランドは寝室を通って回廊に出た。手すりから身を乗りだし、大階段の下に目をこらす。
わだかまる闇よりいっそう濃い人影が、床におおいかぶさっている。
「チビット、明かりだ」ランドは弓に矢をつがえる。
チビットが呪文を唱え、『明かり』が玄関ホールを照らしだした。
あお向けのアディラ夫人から体を起こした襲撃者と、ランドは目があった。それは間違いなくエドモンだった。その瞳が凶悪に燃えあがっている。
ランドは手すりのあいだから矢尻を向ける。大階段の踊り場の床が邪魔をして、エドモンにうまく的をしぼれない。下を狙いすぎれば、そこに倒れているアディラ夫人に当たってしまう。
ランドは場所を変えようとする。チビットの『魔法の矢』が光りのすじとなって飛び、弧をえがいてエドモンの肩に命中した。
苦悶の声をあげたエドモンがアディラ夫人から離れた。
ランドは回廊を駆けだした。ゴーラが戦槌にあごをのせ熟睡している前を過ぎ、大階段を二段とばしで下りる。踊り場の陰に回りこんだ。
青白い魔法の光りのなかに、アディラ夫人が気をうしなっていた。その顔が土気色に変色している。――遅かったか。
ランドの転じた視線の先に、別棟に続くドアが開けはなたれていた。
「おい、なにがあった? アディラが寝室にいないんだ」
2階の回廊の手すりから、寝間着姿のサイジュベル侯爵が大声をあげた。
「アディラ夫人は階段の下にいます。エドモンに襲われたんです」
ランドは、サイジュベル侯爵に夫人をたのみ、エドモンのあとを追った。飛んでついてくるチビットと舞踏室にふみこむ。
だだっ広いダンスホールに、何本もの月光がさしこんでいる。その床には、土にまみれた足あとが点てんと続く。エドモンの姿はどこにも見当たらなかった。ステージの横の裏口がぽっかりと空いていた。
裏口の鉄扉は、蝶番からまるごとむしり取られていた。人間の力とはとても思えない。エドモンの正体は魔物そのものだったのではないか。
『きっと偽者に違いありません。魔物がエドモンに化けているんです』
アディラ夫人の母親の直感は当たっていたのかもしれない。
「チビット、『増強魔法』だ」
ランドは弓を差しだした。エドモンが魔物にあやつられた人間なら、通常の武器で間にあう。相手が魔性の存在だったら話は別だ。
ランドは、戸口からふみだした足をとっさに引いた。地面に直径90セントほどの、噴火口のようにふちの盛りあがった穴が開いていたのだ。巨大なモグラ穴じみたその痕跡には見おぼえがあった。
「ランドール伯爵、どうされましたか」
松明を手にした中庭の兵士が駆けつけてきた。
「エドモンがあらわれた。そっちに逃げていったはずだ」
兵士は否定し、鉢合わせていないと首を振るばかりだ。篝火に照らしだされた中庭には、何十人もの兵士の影があわただしく動きまわっている。サイジュベル侯爵から捜索の指示があったのだろう。
ランドは、足もとの穴を照らすよう兵士に頼んだ。
そのモグラ穴の深さは1メートル半ほどだった。これを埋め戻せば、主塔のわきに見つけた盛土と同じものになりそうだ。
ランドはかつて、地面から這い出すエドモンを想像し、それをうち消した。あの魔物の化身は土中に自由にもぐりこめるのではないか。だとしたら、城内をいくら探しても無駄だ。中庭のいたるところを掘りかえす必要がある。
ランドとチビットは玄関ホールに戻った。サイジュベル侯爵が心配そうに見守るなか、治癒師のカランがアディラ夫人にかがみこんでいた。
診察を終えたカランが厳かに告げる。
「アディラ奥さまも『枯れ死病』にかかっておられます」
続