雨森雫
一限は数学Ⅰ、二限は世界史の授業だった。多少授業の進行スピードは速いかもしれないが許容範囲内であり、毎週あるという小テストについても僕としては問題ない、クラスではブーイングが起こっていたが。何なら歯ごたえがあって退屈せずに済みそうでうれしい。
僕は世界史の教科書を机にしまいながら二つ隣にいる飯田春奈を確認する。授業中の彼女の姿を観察したが、板書をとり、前を向いて授業を受ける。世間一般の優等生そのものの動きだ。だからこそ違和感があった、このレベルの集中力で満点回答が可能なのかという違和感だ。これまで見てきた成績優秀者の中にこの程度の優等生は無数にいたが、誰も僕より優秀な人間ではなかった。
入学試験の結果は運が良かっただけで、普通に勝負したら僕が勝つのではないだろうか。
そう思ってしまったのは事実だった。
「この学校小テスト多くないか?」
そう声をかけてきたのは3番だった。あまり勉強は好きではないらしい彼は一限も二限も船を漕いでいた。
「確かに多いかもしれないけど、各教科週に一回だとしたらなんとかなりそうじゃないか?」
「ならない。おれは一秒たりとも勉強しない自信がある。」
「くその役にも立たなそうな自信だな。」
「違いない。」
僕は次の化学の教科書を机の中から引っ張り出す。同様に新しいB5のノートも取り出す。理科系科目には何となく緑色のノートを使いたくなるのは僕だけではなかったようで、周りの机には似たような緑のノートが置かれることが多かった。それを見て僕は緑のノートを使う気をなくし、青色のノートを取り出して緑色のノートをしまった。
化学の授業は実験の班分けがあった。高校の理科の授業は実験を省略する先生も少なくはないという噂を聞いていたのでこれには少し驚く。班分けと言っても一班あたりの人数は二人なのでペアと呼ぶほうが適切かもしれない。僕のペアは出席番号1番の雨森雫だった。
「吉野は雨森さんとペアなのか。なんというか、苦労しそうだな。」
3番はことあるごとに僕に声をかけてくる。暇なのか、僕を慕っているのかはわからないが。
「どんな人なんだ?」
「なんだ、俺の名前は覚えようともしないくせに女の子の素性は気になるのか?」
にやにやと笑う顔が絶妙に腹立たしく、3番をにらみつける。
「そんな睨むなよ。雨森さんがどんな人かは俺も知らない。」
「でも苦労しそうってさっき言ってたじゃないか。」
「素性を知らなくとも苦労するかどうかくらいは昨日の自己紹介を見ればわかる。」
「どういうことだ?」
言っている意味が分からず首をかしげる僕に3番は言う。
「教えてほしいのか?高いぞ。」
「金をとるつもりか?払ってもいいけどそれに見合う情報なんだろうな?」
「冗談だ。言ってみたかっただけさ。吉野が来なかった昨日の話なんだけどな、朝も言ったけどオリエンテーションの一環で自己紹介の時間があったんだよ。
持ち時間は一人一分。名前と出身中学、趣味とか特技なんかを発表するありきたりな奴だ。」
「へえ、そこで雨森雫は盛大な失敗をしたということか。」
3番は少し考えてから答えた。
「失敗、そうとも言えるかもしれないがそうじゃないかもしれない。」
「お前、いちいちもったいぶらないと喋れないのか?」
少しだけ3番は笑う。
「辛辣だな、そんなことはないさ。でも、あれを失敗と呼ぶかはわからない。」
「誰もが様子見で当たり障りのない趣味や特技を言っていく中でニッチでコアでマイナーな共感しづらい趣味を暴露したりでもしたのか?自己紹介としては失敗だが間違ったことをしたわけではない。そんなところか?」
「いや、違う。」
「じゃあなんだよ、いい加減言ってくれ。」
「出席番号1番の雨森雫は自己紹介で自己紹介をしなかった。」
「じゃあ何をしたんだ?」
「《《なにもしてない》》。雨森は自己紹介で与えられた一分間の間何もしなかった。立ち上がって僕らのほうを向いていた。その間、一言も話すことなくだ。」
「それを人は失敗と呼ぶんじゃないのか?」
少なくとも僕はそう思った。3番が失敗と呼ばない理由がわからなかったからだ。仮に失敗じゃないとすれば、それはいったい何だというのだろうか。
「いや、俺の見る限り雨森は入学してから一言もしゃべっていないんだよ。
例えばだけど、歩けと言われて歩ける奴が走ったり歩かなかったりしたらそれはたぶん失敗だろ?
でも、もともと歩けないやつが歩かない場合、少なくとも俺はそれを失敗とは呼ばないと思う。」
「つまり、要点だけ確認すると雨森雫は喋らないのではなく喋れないということか?」
「可能性はある。まあ、だからきっと苦労はするだろうってことだ。」
なんだか厄介そうな事案を抱えてしまったぞと僕は頭を抱えるのだった。
昼休みになり、教室で昼ご飯を食べ終えた僕は図書室にいた。朝借りれなかった本を借りるためである。
朝とは違って図書室にはそれなりに人がいた。机に座り参考書を開く生徒から、本棚で探し物をする人、ソファで寝る人まで様々だ。ソファで寝ている人物については心当たりがないでもなかったので声をかけることにした。
「五十嵐先生、お昼寝とはいい身分ですね。」
開いた本を顔に乗せていたのでそれをとりあげる。
「なんだ吉野。何か用か?」
「いえ、とくには。先生が顔に乗せていた本を借りたかっただけですよ。寝るなら国語科研究室にしては?」
先生は上体を起こして伸びをする。
「来客がいて使えないかったんだよ。というか、お前は教室で友達作りに励まなくていいのか?」
「心配いらないですよ。一人でも生きていけるので。」
「へえ、じゃあ俺にもちょっかいを出さないでほしかったな。」
先生は僕のことを馬鹿にしたような目で見た。腹立たしい限りだ。
「ソファで寝てる邪魔な人を注意したかっただけですよ。」
「それはまた優等生なこって。じゃあ、俺はお昼寝スポットを探しに行くから。」
「授業に遅れないように気を付けて。」
これではどちらが生徒でどちらが先生なのかわからない。
そして図書室から出て行く先生を見て僕は言わなければいけないことがあったのを思い出した。
「先生、昨日のプリントありがとうございました。」
「ん、ああ。別に《《俺には》》礼を言う必要はないぞ。じゃあな。」
そう言って彼は去っていった。意外と謙遜屋なところがあるのかもしれない。
先生から取り上げた本を借りるべく、貸出カウンターに持っていく。図書委員と思われる生徒にそれを渡し、チェス盤に目をこぼす。
黒のポーンが2マス前に進んでいる。僕は思わず一人で笑う、対局開始というわけだ。