ミス
高校生活一日目が終了したかのような感覚に襲われていたが、教室を出ようとした僕に五十嵐先生が声をかけてきた。
「吉野。集合。」
走って逃げようかとも考えたのだが、もっと面倒なことになりかねないのでここはおとなしく従っておくことにする。僕は五十嵐先生のもとへ集合した。
「何の御用ですか?」
「自分の胸に聞くんだな。」
僕は自分の胸に手を当てる。
「心当たりがないとのお返事をいただきました。帰っていいですか。」
とぼけてはみたが、十中八九座席表のことだろう。なぜ犯人が僕だとわかったのか、疑問はいまだ消えていない。よもや本当にクラス全員の顔と名前が一致しているのかもしれない。
「都合のいい胸をお持ちのようだな。ほら、いくぞ。」
僕を置いて教室を出て行こうとする五十嵐先生に僕は問う。
「行くってどこへ?国語科研究室ですか?僕は帰り道に喫茶店にでも寄ってゆっくり読書でもしたいんですけど、先生は僕に、このプラン以上に魅力的な時間を提供してくれるとでも?」
「生意気だな、吉野は。安心しろよ、コーヒーくらいは出してやる。」
そうして振り返って僕を見る。
「ミルクも砂糖もたっぷり入れて、な。」
子供を馬鹿にするようなその表情は僕を苛立たせるには十分以上の効力を持っていたが、ここで挑発に乗っては思うつぼなのでぐっとこらえ、彼の後に続き歩き出す。
「ブラックで十分です。」
「へえ、そりゃよかったよ。実は砂糖の用意もミルクの用意もなかったもんでな。」
「なんて適当な。」
「誉め言葉として受け取っとく。」
「残念ながら、褒めてませんよ。」
僕はなれない校舎内を迷わないようにしっかりと五十嵐先生の後ろを歩いていた。四階から二階へと階段を降り、連絡通路を渡って特別棟へと向かう。どこに何の教室があるのかを把握するためにも僕は周りを注意深く観察する。廊下に飾られた進学実績や体育系部活がとったと思われる賞状が廊下には所狭しと飾られていた。ここを通るだけでなんだか自分がえらい人間なのではないかと錯覚してしまうほどの華々しさだった。
「気になるのか?」
「ええ、まあ。」
「賞状ってのは好きか?」
「好きか嫌いかで言えば好きですよ。自分の努力の証が残りますからね。」
そんな僕の言葉を先生は鼻で笑った。
「努力、ねえ。若いな、吉野は。お前はここに飾られている賞状のすべてが努力の証だと思うか?」
「そりゃそうでしょ。多かれ少なかれ努力している人間でなきゃ獲得できる代物じゃない。」
先生は廊下を曲がり、職員室と思われる部屋の前を進んでいく。
「なるほど。まっとうな意見だ。正しくて、綺麗で、理想的で、そして、青臭い。」
「褒めてます?」
「さあ、どうだろうな。とりあえず、その青臭さをうらやましく俺がいるのは事実だな。そんなことより、」
先生は一つの教室の前で立ち止まりドアを開く。振り返って僕を見る。僕は教室のドアの上部を確認して、そこに『国語科研究室』の文字があるのを見つけた。
「ようこそ、国語科研究室へ。ゆっくりしていけよ。」
できれば手短に済ませたいです、と言おうか迷ってやめた。この先生と話すことを面白いと思う自分がいたからだ。僕は先生に続いて教室に入り、言われるがままにソファに腰かけた。
「コーヒーでいいか?インスタントしかないけど。」
「コーヒーでいいです、ありがとうございます。」
「気にすんな、今年度のお客第一号だ。」
先生は新品のインスタントコーヒーの封を開けて僕のコーヒーを淹れてくれた。机の前にマグカップが置かれ先生は僕の対面に座る。
「それで?お前が席順を勝手に変更したことへの言い訳は?」
「何の話ですか?」
僕はコーヒーを一口飲みながらとぼける。しかし、口に含んだインスタントコーヒーは僕が想定しているよりも二倍は濃い代物で思わず顔をしかめた。
「なんだよ、コーヒー飲めねえじゃんか。」
「違います。このコーヒーが苦いんです。」
「あ、すまん。普段コーヒーなんて飲まないから分量わかんなくて適当に入れたんだ。」
「そんなものをお客第一号に出さないでくださいよ。」
「うるせえ、文句言うな。というか、話逸らすなよ。とぼけてもいいけど、生産性のない嘘は時間無駄にするだけだぞ。」
「逆になんで僕だと?」
これは純粋な疑問だった。証拠と呼べるようなものはなかったはずだ。
「それ、ほとんど自供だぞ。」
「まあ、僕がやりましたからね。」
「正直で何よりだ。」
「それで?どうして僕だとわかったんですか?」
「お前は二つミスをしたんだよ。ミスと言えるようなものは実際一つだけどな。なんだと思う?」
ミス、その音を頭に響かせながら僕は数瞬の間に考える。
自分が3番に声をかけたあの瞬間からの一連の動作を思い返していく。
座席表を破り自分のポケットに入れたこと。しかし、その座席表は今も僕のポケットにあるので証拠としてはありえないだろう。
黒板に文字を書き3番に席を選ばせた。ここで僕は一つ引っかかった。3番の口にした「リスクマネジメント」という言葉である。本人は僕に敬意を払うという口実を使っていたが、あの時のリスクという言葉はこのような事態になることを想定していたのではないか。
そう思い至った僕は自分なりの答えを口にする。
「僕があの席に座ったことですか?」
席を変えた人間が一番人気の席、つまり窓際の最後尾の席に座ろうとするのは自明だろう。
「正解、欲張りすぎたな。」
「でも、根拠としては薄くないですか?」
「間違いない。だから言ったろ、もう一個ミスしてんだよ。お前が黒板に書いた文字だ。筆跡で分かった。」
「なんで先生が、」
初対面である僕の筆跡を知っているのか?という言葉は途中で飲み込んだ。答えは一つだからだ。
「先生が、僕の入試の採点官だったんですね。」
にやりと笑った五十嵐先生が僕を指さし笑った。
「理解が速くて助かるよ。数学100点、英語100点、そして国語99点の吉野圭介。」