皇子と賢者
「賢者殿、リヒトの病状は如何でしょうか。このまま落ち着いてくれると良いのですが」
僕の病室に父である皇帝陛下が、赤の法衣の上から白衣を羽織った老人を連れて入ってきた。宮廷御抱えの侍医とは別に、どこか他所から招聘した高名な医者らしい。
「うむ。ひとまず危ない所は越した様ですな。今日一日、熱がぶり返さなければ、あとは快方に向かうでしょう。熱による脳へのダメージは後遺症に繋がることがありますから、頭は冷やし続けてあげなさい」
賢者と呼ばれた老人は、僕の手首に指を添えながら手短に答えた。
「さて、リヒト殿下。少しで良い……何か食べられそうなものはあるかね? 薬さえ飲めれば、すぐに体から悪い病を追い出すことができるのじゃが……」
賢者が懐から瓶を取り出すと、周囲の視線が彼の手に集まった。
「おお……それが噂の、不治の肺の病をも癒すという秘薬でございますか。そこまでしていただけるなんて、なんとお礼を申せば良いのやら……リヒト、果物はどうだね? 丁度、庭の柿が熟して食べごろなんだ」
「果物なら食べられると思います」
柿の熟しているということは、今は秋の暮れぐらいだろうか。その割に室内は暖かく、寒さを感じることなく快適そのものだ。
クララに剥いてもらった柿を二切ほど食べると、早くも満腹感がやってきた。四歳児の胃の小ささを侮っていた。きっと消化も早いのだろうけれど。
「どうした、リヒト。柿はあまり好きではなかったか?」
手を止めた僕を見て、皇帝がそう気遣いの声をかけた。
「いえ。とても美味しいのですが、おなかがいっぱいで」
「どれ、病み上がりなことじゃし胃が縮んでいるのじゃろう。無理して食べることもあるまい。胃に食べ物が入っているうちに、薬を飲むといい」
賢者はそう言うと、僕のベッドに腰かけて薬の瓶を差し出した。
「ありがとうございます……賢者様。これは、なんという薬なのでしょう」
「これこれ、リヒト。それは賢者殿の一族に伝わる秘密の薬なのだから、聞いてはいけないよ」
皇帝は笑いながら、たしなめるようにそう言った。賢者は気にする必要はないとばかりに手をひらひらさせた。
「秘薬といっても、儂は別に何も秘密にしとらんよ。言っても、誰も信じないだけじゃよ。のう殿下、この薬は何からできていると思う? これはな、なんとカビからできているんじゃよ」
賢者は僕に耳打ちするように、しかしその場にいる誰しもに聞こえるようにそう言った。皇帝を始め、誰もが小粋な冗談を言われた時のように、小さく笑った。
「カビ……ペニシリン?」
ふと、靄がかかった前世の記憶の中から、薬品の知識がぼんやりと浮かび上がった。どうしてそんなものがこの世界に? 抗生物質が実用化されたのなんて、前の世界でもほんの100年前の話なのに。
建築様式や王政という体制から推察するに、この世界の文明水準はせいぜい中・近世あたりだろうと予想していたから、薬草を煎じたものか何かを飲まされるのだと思っていたが……
「さて、これでもう数日安静にして様子をみることにしよう。エイルリフィアには、殿下が全快してから帰ろうかの」
「賢者殿がいて下されば、心強い限りです。感謝いたします」
父・皇帝陛下は賢者に深々と頭を下げた。いくら息子の命の恩人とはいえ、一国の元首がそう易々と頭を下げることは無いだろうから、この賢者と呼ばれる医師は相当身分の高い人なのだろう。
「礼には及びませんよ、陛下。エイルリフィアの第二皇女も、リヒト殿下と同い年でしての……見捨てては行けません。皇女殿下の花婿候補に、今のうちから恩を売っておくのも悪くない」
「ははは、賢者殿も抜け目のないお方だ」
賢者は皇帝と冗句を交わしながら薬瓶を懐に仕舞うと、今度は僕にしか聞こえないようにこっそりと耳打ちをした。
「……君は、もしかして違う世界から来たのではないかね?」