一粒の米もし死なずば
稲は他の穀類と比較して収量が多く、一粒から700~1000粒という驚異的な生産力を持つ。
元の世界では、稲の原産地は東南アジアなど熱帯地域であった。日本列島はその北限にあたると言われている。
十五世紀のヨーロッパでは、小麦の種子を撒いた量に対し、収穫できたのはその3倍から5倍だったが、十七世紀の日本では種子の量に対して20~30倍もの収量がある。2000年代に入っても稲は110~140倍なのに対し、小麦は20倍前後でしかなかった。
1haの農地で10人を養うという理想値は、この稲という作物なしには実現し得ないのである。賢者の贈物であるこのオリーゼという稲の種も、この領地の食糧危機を救う作物のひとつであることは間違いないのだ。
「ということで、その大切な稲の豊作を祈って水口祭を行います」
クーボー先生に頼んで、領民の方々に声をかけてもらった。
そういえば僕が領主になってから、これだけの人数の領民の前に立つのは初めてだ。
「はじめましての方も大勢いるようですので、改めて。私が、この土地の新たな領主となりました、オステンヴォルケ公リヒト・クヴェーレです。痩せ衰えてしまったこの土地の地力を回復させ、財政を立て直し、領民ぜんたいが魔獣や盗賊、飢えや貧困の脅威に怯えずに安心して、幸福に暮らせるような平和で豊かな国にする……それが領主として私に与えられた使命だと思っております。この水口祭は、その国づくりの第一歩です。豊かに刈り取るためには、豊かに撒かなければなりません」
領民たちは、僕の呼び掛けに応えるように鍬や鋤を掲げた。
「苗代を作り、種を撒くのです。秋にこの土地を黄金色に輝く稔りでいっぱいにするために。空っぽになった腹を、幸福で満たすために」
聴衆は沸き立った。フェロニア教の宣教師たる僕は、お米の司祭としての役割を果たせたと言えるだろう。
「それでは、豊穣の女神・フェロニア様に祈りを捧げましょう」
水の取入口に土を盛り、そこに季節の花――今朝、フェロニアの眠る桜の樹の下で拾った、花付きの枝――を挿した。
いつか、この土地で採れた米で作った酒を、貴女に捧げられる日が来ることを祈って。
「公爵様……フェロニア様というのは?」
クーボー先生がそう疑問を挟んだ。他の領民も首を傾げている。
「豊穣を司る女神様です。かつてこの土地の地力や領民の方々を搾取し尽くした悪しき領主を追い出し、私にこの地の再生を命じた方こそフェロニア様なのです……訳あってその名は歴史に埋もれていましたが、何を隠そう泉の傍に佇んでいる桜の枯木こそ、フェロニア様の依代なのです。女神様は、いつも我々を見守ってくれているのです」
僕の言葉に、特に年配の一部の農民が反応した。
「……あの、種まき桜のことですな。かつて、この地で稲を育てていた頃は、それは見事に咲いていたものです。前領主がこの地に来てからは、とんと花を付けることは無くなってしまいましたが……しかし今日、その枝に花が付いているところを見ると、あの枯木も?」
「ええ。僅かではありますが、花が咲いていました。あの桜は、死の底から再生しつつあります……この村も同じように、再び豊かな稔りに覆われるようになるかもしれません」
領民たちの顔に、希望の光が溢れた。良かった。フェロニアは彼らに受け入れられた。彼らは豊穣の女神を必要としているのだ。
「そして、ここにいらっしゃる聖女カーモス・キュルマ=マッラスクー様こそが、森の奥の教会でたった一人、ひっそりとその信仰を守って下さっていたのです」
僕は彼女の手を引いて、隣に立たせた。
「この聖女様のことを誤解されている方が大勢いるようですが、彼女は孤独にも負けず信仰を守り続けた偉大なお方です。どうかこれからは、彼女を豊穣の女神・フェロニア様の第一の使者として、愛し、尊敬して下さい」
聴衆のなかから、自然と拍手が沸き起こった。
こうして、それまでカーモスに向けられていた忌避の目は一転し、カーモスは正真正銘の“聖女”となったのである。




