ヴァッハフォイアー辺境伯領
「よろづのことどもをたづねて、
末を見ればこそ、事は故あれ。
いと幼きことなり。かは虫の蝶とはなるなり」
――虫めづる姫君『堤中納言物語』
インウィクトゥス帝国の都から東へ走ること約一五〇キロ。帝国の構成国のなかでも最も大きな地方都市の一つ・ヴァッハフォイアー辺境伯領との国境に到達した。
「今さらですが、オステンヴォルケへ向かうのにヴァッハフォイアー辺境伯領を経由するのは、少々遠回りになる気が致しますが、リヒト様には何かお考えがあるのでしょうか?」
本日の宿になる某子爵家別荘の客間に荷物を運び込みながら、クララはそう僕に尋ねた。
クララの疑問はもっともである。オステンヴォルケは帝都の東北に位置し、ヴァッハフォイアー辺境伯領は帝都の真東に位置している。真っすぐ目的地へ向かえば三日で済む距離だが、辺境伯領を経由すると丸四日かかってしまうのだ。
「うん。いくつか理由はあるのだけど……まず直接オステンヴォルケへ行くには、整備されていない山道をたくさん通らなくちゃいけないから、馬や身体への負担が大きいかなと思って。それに、山賊や魔物が出るかもしれないしね」
ヴァッハフォイアー辺境伯領はエイルリフィアをはじめとして、近隣諸国との重要な玄関口なのである。そのため街道もきちんと整備されており、兵士が巡回しているので治安も良い。
「そういえば、マウルドレッシャー公爵家が御取り潰しになって以来、オステンヴォルケへの道はほとんど整備されなくなり、魔物の目撃情報も増えていると噂で聞いたことがあります。それにヴァッハフォイアー辺境伯領周辺であれば、このような貴族の別邸も数多くありますから、宿に困ることもありませんしね」
「そうなんだ。クララを連れて野宿する訳にはいかないからね。ただでさえ戦後の混乱で治安は悪くなっているだろうし」
戦争によって食いつないでいた傭兵が終戦で職を失い、帰国後に山賊や追剥になったり、被災者から略奪を行ったりという話はよくある話だ。
魔法を使いさえすれば、大抵の賊や魔物は追い払えるだろうが……退役する際に軍医から「少しでも長く今の健康状態を維持したければ、魔法を使うことは控えるように」と言われているのだ。
ただでさえ短い寿命を賊や魔物のために縮めてやることもない。避けられるリスクや災難は、少しでも避けて生きていきたい。
「そうそう。ヴァッハフォイアー辺境伯領へ寄ったのはそれだけじゃなくて、領主に渡さないといけないものと、預からなくちゃいけない人がいてね。本当は戦地から帝都に戻る途中で寄るべきだったのだけど、復員船のなかで体調を崩しちゃったから……」
辺境伯領内にあるベスパー軍港に降り立ってすぐ、帝都から派遣された寝台付き八頭立て馬車によって王宮へとノンストップで移送されたのである。
「ええ。あのときエイルリフィアの大学に居た私のもとにも、リヒト様が復員され体調を崩されているので即時帰国せよとの伝令が届きました。ホーエンハイム様が、エイルリフィア皇国のなかでも指折りの早馬を融通して下さいました」
「そうだったんだ。クララにも賢者様にも、いつも心配と迷惑をかけてばかりだね」
主に体調の面で。つくづく、健康な身体が欲しかったものだ。
「迷惑だなんてそんなことは全くありません。心配するのは当然のことです。それよりも、辺境伯に渡さなくてはいけないものと、預からなくてはいけない人、というのは……?」
「うん。詳しくは明日の馬車のなかで話すけど……渡すものは遺品。預かる人は、魔蟲愛づる姫君――辺境伯のご息女なんだ」




