臣籍降下
「剣を打ち直して鋤とし、
槍を打ち直して鎌とする
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない」
――イザヤ書 二章四節
講和条約が締結され、少なくとも書面の上では戦争は終わった。順次、軍事境界線付近での散発的な戦闘も収まるだろう。
戦地から帰って来ると、父・皇帝陛下は涙を流して息子の無事を喜んでくれた。しかし僕の方では、戦地と、復員船の中とで流せるだけの涙を流してしまっていたので、ただ空虚な気持ちで苦笑いを浮かべることしかできなかった。
7年前に勃発した戦争によって多くの命が失われた。ここ百年のあいだ、魔物の活動の鎮静化がもたらした平和と人口の増加は、魔法や錬金術を著しく発展させ、国々は大いに発展した。その結果が、過去に類を見ない大規模な、魔物との戦い以上に悲惨な人間同士の争いであった。
「折角、血みどろの歴史が繰り返される世界が嫌になって、異世界くんだりまで来たというのに……。一体、あの無責任な女神様はどういう了見なのだろう」
思わず、僕をこの世界へと転生させた新米女神に対する不満が漏れ出る。「少しはマシな世界かもしれませんよ」という甘い言葉を信じてしまった結果、僕の手は再び汚れてしまった。
僕はただ、飢えに苦しむ人を一人でも多く救いたかっただけなのに。
条約が締結されたとはいえ、未だ完全には軍事的緊張状態が解消した訳ではないため、戦勝祝賀会を兼ねた僕の凱旋パーティーは、宮廷内の有力者や大貴族に限ったごく小規模なものであった。
それでも、一度戦地の惨状を、搾取された田舎の窮乏を目にしてしまえば、この都市で饗される贅の限りを尽くした美酒や美食の数々は、どうしようもなく僕に居心地の悪い思いをさせる。
「さて、リヒトよ。この度の戦争での活躍、本当にご苦労であった。これほど早く敵国が降伏したのも、リヒトの力によるところが大きい。これは是非とも褒美をやらねばなるまい。お前は第二皇子でありながら、最年少で我が国の最高学府で学位を受けた上、実戦技術である“拳剣錬魔”に秀で、王族のなかでも滅多に持つものがいない従魔獣術師の才にも恵まれておる。お主が望みさえするなら、このインウィクトス帝国の次期皇帝の座は……」
「私が望むものは、昔も今も変わっておりません。政治の喧騒から遠ざかり、帝都を離れ、田舎で静かに暮らすことです」
その言葉に、父は残念そうな表情を隠さなかった。家臣や貴族の間にもどよめきが広がる。僕は構わずに言葉を続ける。
「陛下。生憎ではありますが、私が天から授かった才は、帝都の心地の良い玉座に座ったままでは、十分に発揮できるものではないのです。それだけではありません。国家の元首として君臨し、政を為し国を繁栄させ、隣国を打ち倒して大帝国を建設する……私には、自分の気質がこういったことには不向きとさえ思えてならないのです。その才は、第一皇子のフランビード様か、第三皇子のグリューヴルム様がお持ちでいらっしゃいます」
皇帝陛下は、僕の言葉を遮ることなく、じっと耳を傾けていた。喧騒は止み、家臣貴族が見守るなかで、僕ははっきりと自分の希望を口に出した。
「私は、皇位継承権を返上し、臣籍に降下したく存じます。不便な地方で構いません。痩せている土地で構いません。小さな領地で構いません。生きていくのに必要なだけで十分です。自然に囲まれた静かな土地を、どうか私に下さい。私の望みは、それだけなのです」