罰のさじ
ここは午後12時、郊外にある駅のホーム。すでに帰宅ラッシュは過ぎ、人の流れはまばらである。
明日も早いのだろう、スーツを着た男が早足でホームから出てくる。定期をかざし、改札を抜け、安息の家へ帰るはずだった。
一人の女性が倒れている。女性の年齢はおそらく30代後半、スーツ姿にローファー、老練なキャリアウーマンと言ったところだ。いやそれだけではない、胸に黄色のピンがある。
男は、あたりを見回すが、自分の他に誰もいない。自動車学校で学んだ安全講習が脳をよぎる。
「大丈夫ですか。返事はできますか。」
大きな声で女性に尋ねるが、返事がない。呼吸を確認するが、呼吸がない。顎を上げさせ気道を確保し通報する。
「119番ですか、女性が倒れているので救急車をお願いします。場所は、…」
つぎに脈を確認するが無い。男に冷や汗がにじみ出る。親の最後を思い出したのだろう。教科書通りに、上着を脱がし、心臓マッサージを行う。
次第に野次馬が集まったので、それらにAEDを持ってこさせる。AEDをとりにいった中年男性もいるが、若い男女は立ち止まり携帯をいじっている。もはや何らかの見世物である。
AEDが届くと下着を脱がし、電極パッドを張る。一回目の電気ショックが終わり心臓マッサージを続けていた中、ようやく救急車が来た。ここで若い男女がそろって口を開く。
「AEDをやる必要は無かった!あなたが心臓マッサージを続けていたら、あの女性は裸を晒さず救護されたはずだ。」
「痴漢だ、卑劣だ。反省も謝罪もしないとは、とんだ糞野郎だ。」
男は口論の時間を睡眠にあてたかったのだろう。救急隊員と交代すると、そそくさと帰っていった。
翌日、男は出勤するやいなや、辞令を言い渡される。営業部から書類管理部へ、つまり窓際へ追いやられたことになる。勤務してはや15年、心身を削り課長まで昇りつめた男はこの辞令に抗議した。しかし、
「すまないが、取引先と株主の意向だ。今週中に退職届を出せ。」
の一点張りで話にならない。部下は目も合わさず、口も利かない。腫れ物とは自分のことだと男は悟った。
与えられた部屋にはプリンターは無く、あるのは一台のPCのみ。つまり、"追放部屋"である。PCをつけ、すでにブックマークにある転職サイトに行き、この日を潰した。
夕暮れ時、家に帰る途中と「重要」と書かれた封筒が一つ、弁護士の名と民事訴訟と書かれている。原告は「へびいちごの会」、男はまだ理解できてない。男の電話が鳴る、弟からだ。
「兄さん大変だ。昨日、女性を救護してAEDを使ったろ?いまSNSでは、救護活動を利用して痴漢をした卑劣男ってことになってるよ。」
「そんなことはしてない。一部が騒いでいるだけさ。」
「いやいや、動画や写真でみんな信じ切ってる。意識のない女性に卑猥なことをした挙句、貶めるために服を人前で脱がしたこととも。」
「大丈夫、俺は何もしていないよ。世間もわかってくれるはずさ」
男は電話を切り、民事訴訟の手続きを始めた。
結果から言えば、世間は理解しなかった。へびいちごの会とは、いわゆるフェミズムグループであった。刑事訴訟は不起訴となったので、女性の権利を踏みにじったこの男に何とか罰を与えようと民事訴訟を起こし、名誉と資産を奪いにかかったのだ。
何度も裁判では男の罪や賠償責任はないとされたが、そのたびに裁判のために資産は消えていった。親の残した遺産をすべて売り払い、親類に頭を下げてまで資金を捻出した。
住所がSNSで公開されたらしい。投げられた石で窓はすべて割れ、飼っていた犬には傷が増え、目の吊り上がった面識の無い集団に囲まれ、罵倒と暴力を浴びせられた。今は、弟の家に居候しているが、いずれ出ていかねばならない。年はもうすぐ50代に届く。就職先は無く、行き先も未来もない。
テレビをつけると、助けた女性がワイドショーに出ている。恥を捨て、悪を訴えた勇気ある女性として未来を語る。
「現在の刑法は男性に有利で、女性にとって不公平である。私は数年前、意識不明の状態で、卑怯な強姦魔に襲われた。被救護者が女性であることを考慮しない法律によって、この犯罪者は守られたが、これは決して許されないことだ。私たち「へびいちごの会」は、このような理不尽に立ち向かい、男女が平等に寄り添う社会を築くことを約束する。理性的で誠実な社会の実現を目指して。」