死
祖父をおくった晩、久しぶりに会った叔父は何も聞かずに私のグラスに酒を注いでくれた。
私と叔父は言葉もなく、ただ酒を酌み交わした。
そんな私たち(とくに私に対してだが)に、叔父の娘は蔑むような視線を向けていたが、やがて諦めたように目を逸らすと、いつの間にか席を外した。
「爺さんはお前に会いたがってたな」
叔父は私の方を見ることなく、グラスを片手に呟いた。
私はなにも応えなかった。ただ俯いてどんな罵倒も受け容れる覚悟を決めていた。
「なにもお前を責めてるわけじゃない。お前の気持ちもわからんでもない」
私の心を見透かしたような叔父の言葉に、思わず顔を上げた。
「遠慮するな。ここはお前の家なんだから」
叔父はカラになった二つのグラスに酒を注いだ。
私は叔父に深く頭を下げ、注がれた酒を一息に飲み干した。
喉を焼くようなその酒は今まで飲んだどの酒よりも辛く、こころに深く沁みいってくるようだった。
叔父にしこたま飲まされ、微酔いで床に就いたのは日付が変わるころだった。
以前私が使っていた部屋は、結婚した叔父の娘の子供・洋輔の部屋になってしまっていた。
この日、私の為に用意されたのは北の八畳間、いつか祖父が言っていた『奥の間』だった。
実はこの部屋に足を踏み入れたことはあまりなかった。昼間でも薄暗いこの部屋は、子供の頃の私にとっては薄気味悪い場所というイメージが強く、しかも祖父の言う『神様が棲む部屋』だ。ある種の畏怖のようなものを感じていたとしても不思議ではない。
私は中央に座り、部屋中に視線を這わせた。
一間半ほどある床の間には沙羅双樹が描かれた掛け軸が下がっているが、それ以外に装飾品の類はない。古いということ以外には特徴のないシンプルな作りの部屋だった。
私は灯りを消して布団に潜り込んだ。そしてそのまま吸い込まれるように眠りに落ちていった。
どのくらいたったのだろうか? 私は気配を感じて目を覚ました。灯りの消えた真っ暗な部屋の中で目を凝らすと何かが私を見おろしている。
―神様だ。 私は直感した。
目の前に現れたのは一升瓶ぐらいの太さがある白い蛇だった。驚きはしたが不思議と恐怖感はない。
彼は白い躰をうねらせ、時折ちろちろと紅い舌が覗かせている。
私は蛇に睨まれた蛙のような状態だった。
彼は鎌首を擡げたまま私を見下ろしている。
私は彼の白い躰と妖しく蠢く舌の紅さに目を奪われていた。彼から視線を逸らすことすらできずに硬直していたのだ。私たちは暫く睨み合っていた。
しかし、ふと懐かしい気持ちに包まれた。祖父と過ごした子供の頃を思い出した。祖父に聞かされた昔話を思い出した。
私は思わず呟いた。「爺ちゃんに会いたい」。
「おはよう。よく眠れた?」
起床した私の姿を認めた叔母は、朝食の支度をする手を止めて笑みを浮かべた。私も静かに頷き、笑みを返した。
昨夜のことは誰にも話さなかった。
酔っていたというのもあるが、夢だったのだろうと自分でも判っていたし。それに言ったところで『んなこと言ってるから、いつまで経っても嫁の来手がないんだ』って信じてもらえないどころか、説教されるのがオチだ。何れにしても早々に退散することにしよう。
「もう少し、ゆっくりしていったらどうだ?」 叔父は言ってくれた。
私としてもその気持ちは嬉しかったのだが、私は実家を捨てた人間だ。いつまでも甘えるわけにはいかない。
丁重にお礼を言い、実家を後にした。
私が昨夜、夢の中で神様に向かって呟いた「爺ちゃんに会いたい」という言葉。絶対に叶わないであろう『願いごと』をクチにしたのにはワケがあった。
もし叶いそうな願いごとをしてたら、叶わなかったときに『祖父の昔話』を私自身が否定してしまうことになるんじゃないだろうか。だったら最初っから絶対に叶うことのない荒唐無稽な願いごとにしておけば叶わなくても当然だし『祖父の昔話』を汚すことにもならない。
私にとっても祖父にとってもそのほうが幸せなんじゃないだろうか、そんな気がしたのだ。
昨日、祖父は骨になった。火葬場の煙突から煙が上がるのを不思議な気持ちで眺めていた。その祖父が生き返ってくるなんてことはあるはずもないのだから。
東京駅で電車を乗り換え、錦糸町へ。私の住まいはここから歩いて十五分ほどのところにある賃貸マンションだ。
実家から帰ってきたというのに、私の格好は普段の通勤と何ら変わりがなかった。
一昨日、私は叔父からの電話を受け、慌てて会社を飛び出した。自宅にも寄らずに電車に飛び乗った。喪服は親戚の一人に借りた。
会社には実家からも連絡は入れてあったが、上司にはあらためて報告しなければいけない。そんなことを考えながら交差点を渡ろうとしたとき、後ろから強い衝撃を受けた。
なにが起こったのかわからなかった。
視界がぐるりとまわって天地が逆転し、再び全身に強い衝撃を受けた。
次の瞬間、私は俯せになっていた。
髪の長い女の人が顔を歪めて駆け寄ってきた。
私に向かって何かを叫んでいるようだったが、何も耳に入ってこなかった。
遠巻きにこちらを見ている人達が目に入ったが、やがて輪郭がぼやけ視界が紅く染まっていった。カラダにチカラが入らない。
私は抗うのをやめ、ゆっくりと瞼を閉じた。薄れゆく意識の中で静かに、でも確かに死を悟った。