第4話 恐怖という名の鈍痛
(頼むっ、言うことを聞いてくれ!)
私は力任せに触手を引っ張ったが、触手は木から離れず、逆に巻き付いていた木を根っこから引き抜く結果となった。
木を丸々一本持ち上げるなど、どこからこんなパワーが出ているのだろう。先程捕食した4匹の狼も、骨も残さず傷口に呑み込まれたのに、私の腕が太ったりはしておらず、明らかに物理法則を無視した力だ。
触手はなかなか思い通りにコントロールするのは難しいが、方向を定めれば自動的に伸び、最も近くにある物を捕獲すること、そして腕を引けば締め上げ、伸ばせば緩めることが判明した。
今持ち上げている樹木を離し、かつ狼どもの逃亡を阻止する方法は、私の思いつく限り一つしかなかった。
(これを奴らに向かって投げるしかない)
私は、狼の群れの位置を俯瞰して確認するため、足に巻きついたバネ状の触手で高く跳躍した。
群れは、およそ100メートルほど先を走っている。まだ力加減を完全に把握したわけではなかったが、私はおおよその加減で、引っこ抜いた樹木を持つ左腕を、さながら野球のボールを投げるように群れの方向へ降った。
望み通り、触手は伸びると同時に木を離し、木は触手の怪力で一気に100メートル以上飛んでいった。狼の群れの先頭にいた不運な3匹が、幹の下敷きとなるのが見えた。残りの群れは突然降ってきた障害物に、勢い余って次々に後ろから衝突していく。
この一瞬の足止めの間に、私はバネで加速して群れに追いついた。
しかし、触手が群れに届く寸前、私目がけて何かが飛んできた。神様の力の覚醒によって、私の反射神経というか、危険を察知する感覚が鋭くなっていたのだろうか、反射的にそれを避けた。
「tw,gqcfq’dtgtdesq’fqhq」
狼と倒木の向こうから男の低い声が聞こえた。そこに立っていたのは、なんと私を殴って捕まえた、あの馬車の男であった。さっき投げられたのは、所謂トマホークと呼ばれる斧の一種に似た武器で、それが背後の木の幹に刺さっていた。
(まずい、人に見つかった…)
この男は善人ではないが、人間である以上、命を奪うのは躊躇われる。しかし、男は明確な敵意のこもった目で、私を睨みながら近づいてくる。私は言葉が通じないとわかっているにも関わらず、その威圧感に思わず叫ばずにはいられなかった。
「そ、それ以上近づかないでくれ!私に積極的な攻撃の意思はない!見ろ!まだ自分でも上手く力を扱いきれていないんだ!近づけば命の保証はない!」
私は、叫びながら後方の木に刺さったトマホークを右手の触手で引き抜き、男に見えるようにグッと腕を曲げてみせた。トマホークは触手によって、柄も刃も粉々になった。まさか金属の刃まで砕くほどのパワーとは予想外だったが、これでこちらの実力が伝わったはずだ。
しかし、男は少し驚いた表情を見せたものの、すぐにニヤリと笑った。
(なんだ?笑うところじゃないだろ)
私は嫌な予感がした。
狼たちは男の背後に隠れるようにして震えている。
人間より強いはずの狼の群れが、こんな風に人間に頼るものだろうか?
例え飼育されていたとしても、こんな化け物のような存在を前に主人の背後に隠れるような生き物だろうか?
「」
男は何事か呟くと、深く息を吸って空を見上げた。
そして、
「ウオオオオオオオオオォォォォォォォォォンンン………!!」
突然、空気が震えた。
男が、身の毛もよだつような咆哮を上げた。
およそ人間の出せる声量ではない。
まるで狼の遠吠えのそれだ。
その遠吠えから間もなく、男の肉体に異変が起き始めた。
まるで植物の成長記録を何倍もの速度で再生するように、全身が巨大化していく。
着ていた服は、その成長に耐えきれずにはち切れた。
日焼けした肌は、ゴワゴワとした灰色の毛に覆われていく。
鼻と口は前に伸び、耳は尖った。
手足の先には鋭く大きな爪が伸びていく。
そして、茶色だった瞳は、まるで満月のように爛々と光る金色に変じた。
狼どもが隠れるわけである。
この男は紛れもなく、狼人間、あるいは人狼と呼ばれる化け物だ。
人狼は唸り声を上げながら、私に一歩近づいた。狼どもは、私が投げた倒木の向こう側から見守っている。
(どうすればいい…!?)
私の鋭くなった直感が告げている。この人狼は私の手には負えない強さだ。さっきの狼とは体格が全く違うため、おいそれと仕掛けることもできず、かと言って背中を見せれば確実に殺されるという予感がする。
狼の場合、どう向かってきても鼻先がこちらを向いているので、正面から触手で絡め取ることができる。しかし、この人狼は二足歩行で、体躯は私の2倍ほどあるのだ。頭を狙おうとしても、長い腕で対処されてしまうだろう。
ここは距離を取りながら、怪力を使って何か投擲すべきか、などと私が思考を巡らせた途端、
「グォォッ!」
「え」
何が起きたのか、わからなかった。
気がつくと、私は人狼からかなりの距離を置いていた。
いや、自分の意思で離れたのではなく、ものすごい力で後ろへ吹っ飛ばされたのだ。それに気がついた時には、ほぼ全身の感覚が失われていた。手足の感覚は勿論のこと、耳は無音を虚しく捉え、視界は何か色のついた眼鏡でも通しているかのように真っ赤な景色を見ており、自分の意思で眼球を動かしているのかも認識できない。
1つだけわかるのは、何か熱い液体にでも全身を包まれているかのような感覚だけだ。己の身に何が起こったのか、確かめようがない。ただ、真っ赤な視界の向こうにいる小さな人狼を見るしかなかった。
人狼は右腕を左上に伸ばしていた。まるで腕を右下から左上へ大きく振り抜いた後のような姿勢だった。
掲げられた右手の先の爪から赤い液体が滴り落ちている。何かを握っている。肉の塊のようなものを掴んでいるのだ。新鮮な肉から血がビチャビチャと溢れている。
いくら私の頭が鈍くても、この状況がどういうことなのかは理解できた。つまり、人狼は私が反応するよりも速く動き、私を攻撃したのだ。
私のような、足に触手のバネをつけただけの、付け焼き刃の加速とは訳が違う。狼の運動神経と、人間の合理的な加速方法の合わせ技だ。
首が動かせるようになったので恐る恐る身体を見下ろした。
(ない)
私の腹がなかった。
鳩尾から下がゴッソリと失われ、イカの塩辛のようなヌルヌルした臓器が見えた。私が息を飲むと、その動きに合わせて臓器はビクリと脈打った。
苦しい。
とても息が苦しかった。恐らく、肺も失っているのだろう。呼吸をしようとするたびに、胸の下からヒューヒューと空気の抜ける音がした。人間の身体もやはり物体だ。風通しが良くなれば、そこに出来た空間の形状によって空気の通る音がする。
人間楽器と化した私は、やがて襲ってきた未知の痛みに感覚が追いつく。先ほどのように腕がちぎれかけたとか、そういう痛みではない。
末梢神経が受けた刺激による痛みなら、もっと鋭い。だが今感じているものを例えるなら、『命を喪失する恐怖』という名の鈍痛だった。生きるために必要な内臓だけでなく、脳へ死の警告を送るための痛覚さえ無くなってしまったことによる、緩やかな、しかし避けられない死の予兆。鈍い痛みしか感じないことがその事実を一層引き立てている。身体が警告を発することを諦めてしまった絶望感だ。
(このままでは、死ぬ)
そう直感的に理解していた。しかし、いくら理解したところで、これを解決する方法が思いつかない。頭に巡る血の量が激減したからだろうか。全身を包む熱い液体とは、すなわち私自身の血液だったようだ。
待った無しの死の影は、私の意識を容赦なく現実から遠ざけて行く。
(ダメだ…もう…)
「せっかく目ぇ覚ましたのに、もう死んでまうん?」
突然聞こえた声に、ハッと意識が回復する。
と、私の体は何の異常もなく、まるで先ほどまでの恐怖が幻だったかのように全く無事だった。
「い、いや!違う、ここは……!?」
急速に蘇った視界と思考によって、私は再び、あの神様の世界、巨大なミミズで構成された大地に横たわっていたことに気づいた。相変わらず不気味な景色だが、今は死の恐怖から解放された意識が、ブヨブヨとしたミミズの触り心地に安心感すら覚えている。
目の前には、やはりあの少女、ヨミが立っていた。
「───私は死んだんですか?」
「まだ生きとるよ、ギリギリな」
「意識を失うとここへ戻るんですかね?」
「せやなぁ、ここは肉体の世界やのうて霊体の異界やさかい、肉体が起きてへん時にだけ来ることができるんや」
霊体の異界とはなんだろう。聞き慣れない単語が聞こえたが、要するに今こうやってヨミと会話している神様の世界こそ、夢の中のようなものだということだろうか。
「すると、今気を失ってるっていうのは相当危ない状況では?」
「そうとも限らへんよ」
ヨミは倒れている私の頭の近くへしゃがみ込んだ。
「アキヒコ君はこの2日間、よう頑張った。ご褒美にな、二つ目の力を教えてあげよ思てな」
「二つ目の力……!」
私は起き上がろうとしたが、額をそっとヨミの手に抑えられて動けなくなった。
「そのまま聞いた方が楽やで、ウチの腕力でも動けんくらい弱っとるんやからな。ええか?まずキミの一つ目の力は、神様の手足の一部を現実世界に顕したもんや。ここにおる神様は名前も顔もない。本来なら大地を統べるはずやったけど、生まれた時に遠くの異界へ流されて忘れられた神様や。せやけど大地の神としての力はまだ持っとる。その一部をキミに授けた訳やな。神様の手足は大地を割き、全てを飲み込んで栄養にする。キミの肉体でも同じことが起きた訳や、ここまでわかるか?」
「…なんとなく理解できました。なぜ傷口が狼を喰らったのか。あれは大地の裂け目ということだったんですね。しかし、私の肉体は本物の大地ではありません。飲み込んだものはどこへ行ったんでしょうか?」
「ええ質問や、大地が飲み込んだ生命は土に還り、また別の生命の糧になる。キミの肉体に取り込まれた生命も、同じように新しい生命の糧になるんや。今キミは死にかけやけど、さっき5匹の狼を飲み込んだな?キミの中には今5つの命がある訳やさかい、キミはその生命力を使って蘇ることができる、ゆうことや」
得心がいった。
狼を喰らった時、私の身体の傷がわずかに治癒したのは、喰った分だけ生命力を得たからだったのだ。しかし、いくら回復したところで、あの人狼に勝つことができるのだろうか?
「奴のスピードは躱せません。あの攻撃を何度も食らったら、そのうち生命力がなくなってしまいますよ」
「せや、そこで二つ目の力が使えるんや」
ヨミは突然、私の腹を人差し指で、つぅ、と撫でた。
「ち、ちょっと!」
「フフフ、アキヒコ君、意外と筋肉あるなぁ。この腹の中には何が詰まっとるんやろな?」
「……そりゃあ内臓でしょう、さっき抉り取られましたけど」
「ホンマにそうやろか?自分の腹かっ捌いて覗き込んだこともないのに、何で内臓が詰まってるなんてわかるん?」
ヨミの血のように赤い瞳が私を見下ろしている。何故だろう、急にまた意識が遠くなっていく。いや、この場合目覚めようとしているのだろうか。
「今のキミが人間やなんて誰が言うたん?腕から足からあんなにニョロニョロ別の生き物が出てきたのに。何で手足は怪物やのに、内臓は人間やて思うん?」
「私は………私は………」
ヨミはそっと私の瞼を手のひらで閉じた。母に撫でられた時の温かさに似て、眠気をさらに誘う。
「心配せんでええ、アイツの速さに追いつく必要はない。キミの中の生命は、もうアイツを捕らえとる」
私は再び、混濁した意識の底へと落ちて行った。