第2話 赤い廊下、そして城からの脱出
ドンドン、と扉を叩く音で目が覚めた。叩くというより、足で蹴っているような乱暴な音だ。扉が外から開けられると、あの執事服の男が立っていた。
男は私の腕を掴んで無理矢理立たせ、長い廊下を引っ張って行く。廊下の窓から差し込む朝日が眩しい。外では小鳥も鳴いていて、異世界でも朝の様子は同じなのだな、と思った。
明るくなったことで、改めてここが現代の日本ではないことがわかる。廊下は壁も床も頑丈な石造りで、窓から差す日光以外に明かりがなく薄暗い。その薄暗さが、灰色の石壁の寒々しさをより際立たせている。
居城というより要塞だ。
住みやすさよりも堅牢さを優先させた、そんな印象を受ける。
果たして、こんなところに王様が住んでいるのだろうか。
昨夜入った裏口とは反対の正面玄関の前に来た。この玄関もやはり、見た目こそ細工を施して綺麗に見せてあるが、隙間から一切明かりが漏れていないところを見ると分厚く重い木の扉であるようだ。人間一人で開けるには苦労するかもしれない。
——もしかしたら、この怪力の執事なら開けられるかもだが。
玄関からすぐ目の前は吹き抜けの広間になっていて、見上げると5階辺りまで階層があり、手摺り越しに広間を見下ろせるようになっている。
吹き抜けの天辺には大きな丸い天窓がある。不思議な紋様を象った格子窓が嵌め込まれ、広間の床にその紋様が投影されている。紋様は羽の生えた生き物のように見える。
広間をさらに正面の奥へ進むと、また廊下があった。
今まで通ってきた廊下は城の内周をぐるりと囲んでいたので窓があったが、この廊下は城の中央を縦断するように作られており、直接外と通じるような窓はない。
廊下の左右にいくつか扉がある。二階の床下が天井となっているため、明かりがほとんど差し込んでいない。代わりに、扉と扉の間に松明が設置されていて、その明かりが薄暗く廊下を照らしていた。
執事はそこへ私を連れて行くようだ。
廊下は意外に奥へと続く。部屋は左右全部で12部屋ある。どんな用途で使われる部屋なのかわからないが、扉には鉄格子の嵌った覗き窓があり、なんとなく牢獄を連想する。
突き当たりまで来ると、そこにはまた玄関ほどの大きな扉があった。大きな閂でしっかりと施錠されている。
扉の右手にはもう一つ小さな扉もある。私の空間認識が正しければ、この扉の向こうには裏口があるはずなのだが、裏口側から見た時、果たしてこんな扉があっただろうか。それに、正面玄関からまっすぐ行けば裏口に通じるというのも妙な気がする。
外国の建築など全く知識はない私でも、この城の造りに違和感を覚えた。
執事は突然、私の着ていた服を無理矢理引き剥がしてきた。すっかり忘れていたが、私は出勤前のシャツとズボンの格好のままだったのだ。執事の怪力によって私の服はビリビリに破かれた。
「な、何をするんですか!?」
思わず反抗の声を上げた私を、執事は煩わしそうに見ると、ピシャリと平手打ちをしてきた。
かなり手加減した平手打ちだろうが、執事の長く伸びた爪が私の頰を掠めて傷ができた。傷から血が滲むのを感じて、私は嫌な気分になった。
暴力は嫌いだ。
しかし、声を上げることすら許されないということがよくわかったので、羞恥心をグッと堪えて大人しくした。
執事は私の従順さに満足したのか、頬の傷を見て舌なめずりをし、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
執事が大扉の脇にある小さな扉を開けると、そこは私が眠った場所と同じような物置きだった。執事は物置きからボロ布のようなものを取り出し、私に投げた。麻袋に穴を開けたような、粗末な衣服だ。私のシャツなどは、奴隷が着るには上等すぎるということなのだろう。
私がボロボロの服に着替えたのを確認し、今度はモップとバケツを取り出して、ドンと押しつけられた。
再び連れていかれた先は、正面玄関の扉の前だった。執事がポケットから取り出した鍵で錠を開けると、重そうな扉はまるで見えない力で押されたように、ひとりでに開いた。
開いた玄関から差し込む日光に照らされた執事の影が、何となく蠢いているように錯覚して、私は何とも言えない不気味さを感じた。
正面玄関から外へ出て、庭を外壁沿いに左へ向かって歩く。ここもやはり草が生い茂っていて、獣道のような一本道が出来上がっている。私は木製のバケツとモップを持って執事についていく。
獣道が終わると、おそらく敷地の端だろう、塀が直角に折れている場所に着いた。その塀の角の傍らに、古びた井戸があった。
(そうか、ここで水を汲んで掃除をしろということか)
ようやく執事の意図が理解できた時には、執事はもういなくなっていた。
私はとりあえず、大人しく掃除をすることにした。
井戸から何とか水を汲むことができたが、意外と重い上にバケツには取っ手が付いていなかったので、両手で抱き抱えるようにして持たなければならなかった。
慎重に一歩一歩進んでいると、コンコンと頭上からノックのような音が聞こえた。見上げると、3階の窓をローレが叩いている。私と目が合うと、嬉しそうに笑って左手を振ってくれた。右手には雑巾のようなものを持っている。どうやら彼女もまた掃除をさせられているようだ。
明るいところで見ると、ローレは美しい娘だった。歳は10歳に届くかどうかといったところか。金色の髪の毛を後ろでおさげにして肩に垂らしている。少しくすんだ金色だが、おそらく私と同じで風呂にも入っていないのだろう。
こんな小さな子供まで奴隷として働かされるとは、なんとも息苦しい国のようだ。
私は手を振り返そうとして、うっかりバケツから右手を離してしまった。バランスを崩し、私は転んで頭からバケツの水をかぶった。ローレは驚いて口に手を当てたが、私が情けない格好で愛想笑いをして手を振るとまた笑った。
職場では、掃除中に備品を倒してしまったりして「鈍臭い」と怒られる私だが、ローレに笑われるのは何故か嫌な気分ではなかった。
私はもう一度バケツに水を汲み、やっと一階の廊下へと戻ってきた。水にモップを浸け、石畳の床を擦っていく。随分と汚れていたようで、擦るたびに本来の白い石が露わになる。
廊下全体の4分の1ほど掃除しただけで、バケツの水は底が見えないほど汚れた。
プン、と生臭い匂いがする。
草が伸び放題の庭といい、この汚れた廊下といい、どう考えても一国の王様が暮らす場所ではない。使用人もあの執事とメイド以外全く見かけない。いや、そもそも他に人間が住んでいるのだろうか。生活臭がなく、廃墟を掃除しているような気分になる。
私は汚れた水を持って汲み直しに外へ出る。
塀のすぐ下に側溝があったので、そこへバケツの汚水を流し込んでギョッとした。
水は単に汚れていたのではなく、インクでも溶かしたかのような強烈な赤色だったのだ。中には赤黒い塊となって溝を流れていくものもある。私は恐る恐るその塊を、その辺に落ちていた枝に引っ掛けて持ち上げた。よく見ると、人間の毛髪が寄り集まってできた塊だった。風呂場の排水溝などに詰まるような、あの髪の毛の塊だ。
しかし、その毛髪にこびり付いた赤色は、単なる汚れではないことを嫌でも認識させられた。
(これは、血か…?)
その後、何度も水を汲み直して掃除をすると、床はある程度白さを取り戻したが、赤黒く濁った水を流すたび、側溝には血の川が出来上がった。
私はローレとの束の間の交流も頭から吹き飛ぶほどの寒気を覚えた。
この屋敷は明らかに普通じゃない。
王様の居城などであるものか。
ここはおそらく、何らかの監獄、収容施設だ。私が働いている工場の中に、商品を試験的に生産する部屋があって、他の場所より汚れが溜まる。床の表面の色が変わるほど埃が積もったり、掃除してもキリがないほど液体が溢れていたりする。この城の大量の血痕と毛髪はその状況によく似ている。
つまり、連れてきた奴隷を牢獄に閉じ込め、血や髪の毛が床に堆積するほど悍ましい何かが、連日行われていたと考えられる。
そんな場所に王様が住むはずはない。王国というのはもっと別の場所にあって、ここはおそらく郊外の人が近づかない監獄なのだろう。
私は半ばパニックになっているのも手伝って、一刻も早くここから脱出しなければ殺されてしまう、という思い込みに取り憑かれた。
昼になった。
廊下の掃除をあらかた済ませて、とりあえず一階の窓を拭いていた私を、ローレが呼びに来た。
案内されたのは厨房だった。狭い厨房に質素なテーブルがあり、そこに2人分の昼食が用意されている。
焼いた魚を挟んだパンだ。食べてみると、悪くはない味だった。本当にパンに焼いた魚を挟んであるだけで、味付けは塩だけだったが、空きっ腹には十分な食べ物だった。
そういえば昨日から何も食べていなかったのだ。パンは少し古く堅かったが、魚は釣ったばかりの新鮮な川魚のようで、干物でなく、傷んだような風味もない。
(近くに川でもあるのか)
もし川があるのなら、何とか脱出できるかもしれない。昼間の体感温度からして、今は暖かい季節のようだ。ならば、穏やかな川であれば泳いで渡るか、そのまま下ることも不可能ではないだろう。行く当てのない森を彷徨うより安全な気がする。
(だが、ローレはどうする?)
いくら暖かくても子供の体力ではついて来られないかもしれない。まずは私が下見に出て、安全なルートを確保した後にローレを連れて行くのが得策ではないだろうか。
いずれにせよ、まずは私の寝床である物置が、夜中に施錠される課題をクリアしなければならない。執事から鍵を奪うにも、あの怪力には勝てる自信がない。
(鍵を壊せばどうだろうか?)
執事が施錠する際に気づかないような壊し方をすれば脱出できるかもしれない。残念ながら私に鍵の知識はないが、今はやれそうなことからやるべきだ。
私は絶望的な気分を少しでも変えるために、モリモリとパンを食べて腹ごしらえをした。ローレは上品にゆっくり食べていた。
その夜、私は再び階段下の物置へ閉じ込められた。
執事が去っていったのを見計らって、ドアノブを調べる。やはり外側から南京錠のようなもので施錠されているため、内側から無理矢理こじ開けることは出来なさそうだ。
しかし、閉じ込められる前にチラッと見た時、扉の蝶番が釘状の棒を上から差し込んだだけの簡単に外せる作りであることは確認した。あとは外開きのドアの内側から、どうやって蝶番を外すかだ。
もう一度物置にあるものを調べるため、私は蝋燭に火をつけた。
物置にあったものは、シーツと枕、掃除道具の箒3本、蝋燭2本、マッチ箱にマッチ6本、脚の折れたタンス、ヒビの入った壺。
私はタンスに注目した。タンスの角には金属の装飾が施されている。かなり薄いので、これを延ばせばドアの隙間を通りそうだ。
私は壺をシーツに包んで、あまり大きな音が出ないように慎重に床へ落とした。篭った音と共に、壺が割れた。壺の丁度良い破片を拾い、タンスの金属の隙間へ押し込んでいく。かなり古い家具らしく、徐々にタンスと柔らかくなった装飾の間に隙間が出来ていく。
(あと少し……!)
気持ちが逸り、私はつい力を入れすぎてしまった。
ポンと装飾が外れたのは良かったが、右手に持っていた壺の破片は勢い余って、タンスを押さえていた左手の甲を傷つけた。
「っ!!」
鋭い痛みと共に、血が流れる。結構深く抉ってしまったらしい。ギザギザに裂けた傷口は、見なければ良かったと後悔するほどグロテスクだ。
一瞬、傷口の中が蠢いているように見えた。
何か虫のようなものがクネクネと私の皮膚の下に潜んでいるように見えて、ゾッとした。
しかし、もう一度見てみても虫は見当たらなかった。
(きっと、ろうそくの火が揺れて錯覚したんだ)
私は嫌な考えを振りほどき、シーツを破いて傷ついた手の甲に巻いた。
その後は呆気ないほど上手く計画が進んだ。タンスを倒して、平たい面の下に外した装飾を敷き、上から体重をかけると、ある程度平らな金属ができた。
これをドアの隙間に差し込み、蝶番の釘に引っ掛ける。多少錆びていて外しにくかったが、釘が抜けるのにさほど時間はかからなかった。
私は音を立てないようにゆっくりと、外れたドアを押して外に出た。ドアをまた元の位置に戻す。じっくりと見ないと、釘が抜けているのはわからない。
私は忍び足で裏口へ向かった。
まずやるべきことは、川を探すこと。手がかりはある。塀沿いに作られていた側溝は、塀の下を抜けて外へと続いていた。塀は大人なら頑張れば越えられる高さだ。
私は井戸のあった塀の角へ向かった。幸い、月が明るく足下を照らしていたので、視界は良好だ。
井戸の釣瓶によじ登り、塀の上へ乗り移る。塀から外へ着地する時、少し足首をひねったが、自由の代償としては軽いものだ。
私は外へと続く側溝を見つける。城は森よりも高い丘の上に建っている。溝は、城から出て左手へ丘を下って続いている。
その先の森の向こうには、反射した月明かりがゆらゆらと揺れているのが見える。
(よし、川だ!)
私は川を目指して、化け物のような城が聳える丘を降りて行った。