第1話 見知らぬ世界と少女
穴に吸い込まれた後、眠りに落ちるように私の意識は失われていた。気がつくと、どこか明るい場所に倒れていた。ミミズではない、土でできた地面だ。
起き上がると、舗装されていない道に横たわっていることがわかった。周囲は背の高い木が茂った森で、遠くまで見通せない。道には馬車と思しき轍がある。
この轍を辿って行けば、人のいる場所に着くだろうか。
「twfrjrr!」
突然、背後から声がした。
振り向くと、そこには男が1人立っていた。
ヨミの衣装とはまた違うが、見たことのない装束を着ている。しかも手には武器らしきものを持っている。野球のバットを縮めたような、いわゆる棍棒という武器に見える。
男はどう見ても怒っており、友好的な雰囲気ではない。
「ststfr’gqgwdwfrkqsq’le!ftlrwsq’sqfefrgwfr’qlesecdw’kqgrr!」
何か言葉を叫んでいるが、さっぱりわからない。異世界の言語だろうか?
「す、すみません、言葉がわかりません」
無駄だろうなと思いつつ、話しかけながら近づいてみた。
しかし、男に穏便な意思疎通をする気はなく、棍棒を振り上げて私の頭へ振り下ろした。
身構える暇はなく、私は再び気絶した。
目が覚めると、薄暗い場所に寝ていた。
床がガタゴトと揺れている。脳天に鈍い痛みを感じる。触ってみると、思わず歯を食いしばるほどの激痛が走った。
「fq’wdw’ktehe’?」
「ひっ」
また誰かの声が聞こえて、反射的に体を丸めた。しかし、暴力は振るわれない。
恐る恐る目を開けてみると、傍らに誰かが座っている。
「hrwswkt,zfqdwhqgqgwjtdwgqwz」
声の主はどうやら少女のようだった。暗くてよく見えないが小柄で、フードのようなものをすっぽりと被っていて顔は見えないが、声は幼い女の子のもので間違いない。
「えーと……ここはどこですか?」
「wstsegtsqfqsqdwlq,st’jrcgr,stfthq’sq’zsqlqgqwz」
やはり言葉の意味はわからない。少女にとっても同じだろう。
私はここがどこなのか自分で確かめようと立ち上がった。狭くて揺れる部屋だが、少しだけ明かりが漏れている場所がある。その明かりへ向かって左足を1歩踏み出したが、2歩目は右足が動かず、勢いあまって前のめりに倒れた。
「痛っ!」
顎を床に思い切り叩きつけ、その衝撃で脳天の傷にも痛みが走る。頭を襲う上と下からの痛みに涙ぐむ。
「fq’wdw’ktehe’?」
「へ、平気です…」
少女が心配そうな声を発したので、通じないが強がりを言った。
右足を確認すると、足首に固い輪っかが嵌められていた。輪っかには鎖がついており、たぐると床に固定された金具に繋がっていた。鎖はちょうど明かりのところに手が届かない長さだ。明かりの向こう側は恐らく屋外なのだろう。
ブルル、と動物の鼻息のような音が外から聞こえる。馬だろうか?
揺れる床に、逃げられない狭い部屋、そして馬の鼻息。
「もしかして、いきなりピンチって奴ですか…」
つまるところ、私は殴られ、拉致され、拘束され、どこかへ運ばれているのだった。
私は動き回るのを諦め、横たわっていた場所へ腰を下ろした。
暗闇にも段々と慣れてきたので少女を見ると、少女もこちらを見ているようだった。彼女の右足にも枷がつけられている。
お互いに無言のまま観察する。感じるのは、馬車の揺れと、時折聞こえる馬の鼻息だけだ。私は沈黙で気まずくなるタイプではないので押し黙っていたが、ついに少女の方が声を発した。
「ローレ」
「え?」
「ローレ」
先ほどまでの聞き取れない言葉ではなく、明確な単語のように聞こえた。少女は自分自身を指差して「ローレ」と言ったのだ。
(もしかして名前か?)
私は試しに彼女を指差して「ローレ?」と言った。彼女はニッコリと笑って頷いた。私はようやく意思疎通らしいことができて嬉しくなり、今度は自分を指差して名乗った。
「アキヒコ」
「アー、kヒk?」
「ア、キ、ヒ、コ」
「アーキヒコ…アキヒコ?」
「そう!アキヒコ」
通じた。ローレはおかしそうに「アキヒコ」と私を指差して言った。
縁もゆかりもない、見知らぬ世界において、初めてコミュニケーションが成立した。私はわずかに希望を見つけた反動からか、少し目頭が熱くなった。少なくとも話は通じるし、優しい人間も存在する。それがわかっただけでも緊張が少し解けた。
とはいえ、依然として囚われの身であることには変わりない。我々はどこへ連れていかれるのだろうか?私は鈍い頭を働かせて考えた。
舗装されていない道に、馬車を使う文明。
行きずりの人間を拘束して連れ去る世界。
ヨミは『悪い王様が民を苦しめている』と言っていた。『王様を倒して人間の自由を取り戻せ』とも。取り戻さなければ自由を得られない世界、ということなのだろうか?
「てことは、私は奴隷かな」
口に出してみると、より絶望感が強まった。しかし、私は絶望よりも、焦燥を感じている。この世界に来て何時間、いや何日経ったのか?元の世界では、私が突然居なくなっているのだ。もし数日が経過しているのなら、無断欠勤ということになる。仕事を失うかもしれないし、何より母のことが心配だ。
母はストレスを受けると心臓の血管が縮まり、胸痛の発作が起こる。誰かが病院に連れて行かないと命に関わるのだ。これこそ私が絶対に帰らなければならない理由なので、この見知らぬ世界で死ぬわけにはいかない。
ヨミはこの世界に来ればわかると言っていた。ならば、このような状況に陥ったのも災難ではなく、行くべき場所へ行くための過程なのではないだろうか?
(この馬車が奴隷商人のものなら、諸悪の元へ届けるはず)
私はぐるぐると頭の中で考えるのをやめて、とりあえず流れに身を任せることにした。
奴隷を買うのは金持ちだ。圧政を敷く王国で金持ちになるには、王家との接点が少なからずあるはずだ。もしアテが外れたなら、その時はその時で考えよう。ジタバタしても鎖に繋がれているのだから、まず大人しくして様子を見るのが得策だろう。そう考え、私は奴隷として扱われることを覚悟した。
こんな風にある程度冷静でいられるのも、孤独ではないからだろう。私はローレに心の中で感謝する。彼女も辛い状況にあるはずなのに、出会ったばかりの私を気遣ってくれているように見える。
上手く奴隷商人の隙を見て行動すれば、共に自由の身になれるかもしれない。
「ローレ。きっと希望はあります。強く、生きましょう」
私は、自分にも言い聞かせるようにローレに言った。ローレは不思議そうに首を傾げた。
馬車に何時間も揺られているうちに、私はウトウトと夢を見た。
「アキヒコく〜ん、アキヒコくんや〜」
目を開けると、私は再びあのおぞましい空間に寝そべっていた。顔のそばにヨミがしゃがんで話しかけている。
「どや?あっちの世界は」
「いきなり暴行、監禁されたんですけど」
「うんうん、それでええんよ。その馬車はお城に向かっとる。王様に新しい奴隷を差し出すために」
「やっぱり」
「察しが良くて助かるわ。ちなみにアンタの頭の傷、明日には綺麗サッパリ治るさかい安心しーや」
「それは神様の力ですか?」
「せや、他にも神様は異世界で生き残るための力を授けてくれはったから、ぼちぼち自分で試してみたらええ。ほなそろそろ時間やさかい、頑張りやー」
「待ってください!せめてどんな力か教えてくれないと…」
「自分で試してこそ、わかることもあるんやで~」
ガタンという振動で、私はハッと目を覚ました。どうやら、ようやく馬車が停止したらしい。何時間経ったかわからないが、さっきまで明かりの見えていた場所は真っ暗になっていた。
と、その明かりが見えていた場所がガタリと開いた。そこはどうやら両開きの扉であったらしい。
黒い人影が二人、馬車の中に入って来た。私達の足に繋がれた鎖を、馬車の金具から外して引っ張る。おそらく馬車から降りろということだろう。私とローレは大人しく従った。
外に出ると、馬車は門の前に停車していることがわかった。鉄柵の頑丈そうな大きな門がゆっくりと開けられる。
扉の向こうには大きな屋敷がある。月明かりに照らされた屋敷は、巨大な怪物のようで不気味だ。門を開けた男は、私を棍棒で殴ったのとは別の男だった。棍棒の男は馬車の上でタバコらしき煙を吐いている。私とローレの鎖を握っている男2人が、手加減することなく足枷をグイグイと引っ張るので、我々も抵抗せずに門の中へとついて行った。
男達は、屋敷の玄関ではなく、庭を通って裏へと歩いていく。奴隷は裏口から入るのだろうか。
庭はかなり広いが、手入れされていないのか、背の高い草が生い茂っている。おそらく人の出入りが多いのだろう、獣道のように踏みならされているところを、奥へ奥へと進んでいく。
やがて裏口に着くと、5人目の男が立っていた。
他の男達が着古され汚れた服を身につけているのに対し、その5人目の男は整った執事服を着ていた。年寄りのように見えるが、背はこの場にいる者の中で最も高く、また年寄りなどと油断させないような鋭い目つきをしている。
右手には燭台を持ち、暗闇の中で男の顔が怪しく揺らめいている。屋敷の召使いの中でも身分の高い人間なのかも知れない。他の2人は、執事服の男に鎖を渡すと、元来た道を帰って行った。
男達の姿が見えなくなると、執事服は初めて口を開いた。
「tjqfwdwfrtlwjqdwfq,tdwktsedw’hq?」
「srfestekt,dtlrktlwstgtsqfqgwfwkqcftdwfqgrft’stxktewdwfr」
男とローレは何か言葉を交わした。先ほどの男達に比べると、柔らかい物腰に思える。ローレがまだ子供だからそうしたのか、奴隷に対して寛大な性格なのかはわからない。
次に男は私の方を向き、ニヤリと口の端を上げた。ゾッとするほど白く、長い犬歯がチラリと覗いた。
裏口から中へ招き入れられると、他にも使用人がいた。メイド服を来た女だ。メイドは一礼し、ローレの足枷を外して、長い廊下の先へと連れて行った。ローレは振り返りざま、不安なのか怖いのか、よくわからない表情を見せたが、やがて廊下の暗闇に消えた。
「qswlrfqstjedejrdw’kq,gwcsr’cgwgqdqsrxsrlegqft’,dw’kqsq’dqsqlqezsrgwjtwsejqw」
執事服の男は、何か言って私の足枷を外した。私はローレが行った方向と反対の廊下へ腕を掴まれて連れていかれた。特に抵抗する気はなかったが、男の掴む力がその細い腕からは想像できないほどの怪力だったので、恐ろしくて抵抗できるはずもなかった。
やがて連れてこられた場所は、階段の下に備え付けられた扉の前だった。扉を開けると、黴臭い空気が鼻を突く。どうやら物置のようだ。ここで眠れということらしい。
物置の中は埃っぽかったが、大人1人が横になるのにギリギリのスペースがあり、そこに薄汚れたシーツと潰れた枕が置いてあった。
男は無言で私を物置に押し込むと、扉を閉めてしまった。ガチャリ、と音がしたのでノブを回してみると、やはり鍵がかけられていた。
物置には小さなろうそくが一本、火を灯して置かれていたので、真っ暗闇というわけではなかったが、暗く狭い空間に再び閉じ込められたことに不安を感じないわけがない。しかも、今度はローレもおらず、ただ1人なのだ。ローレも同じようなところに閉じ込められたのだろうかと思うと胸が痛んだ。
物置を物色してみたが、チリトリや壊れた家具などがあるだけだった。私は仕方なく、ろうそくの火を消してシーツに横になった。寝心地は決して快適ではないが、あまりに色々なことが起こって脳が情報を整理し切れていないためか、私はすぐに眠りに落ちた。