ハッピーバースデー
私の名は戸田暁彦。
20代後半の非正規労働者。
現在、実家で母と暮らしている。
父はいない、私が子供の頃に家を出た。
兄が1人いるが、何年も行方不明だ。
好きなことは昼寝、嫌いなことは暴力。
高校卒業後すぐに就職し、一人暮らしを始めたが、人間関係と要領の悪さで失敗し、わずか2年で辞職。
資格を取ろうとするも、怠惰な性格から一向に捗らず、3年間を無駄にした。
偏食と引きこもりによって心身のバランスを崩し、気づいた母に実家へ連れ戻された。
カウンセリングと職業安定所を経て、幸いにも小さな工場で清掃員として雇われ、現在に至る。
金も、スキルも、将来への希望もないが、なんとか生きていけると思い始めていた。
さんざん迷惑をかけた母に報いなければと考えていた。
だが、運命は私の平穏を許さなかった。
それは私の26歳の誕生日にいきなり訪れた。
「こんにちは、アキヒコくん。まずはハッピーバースデーやな」
目の前に少女が立っていた。
真っ黒な布地に赤い線が入った不思議な装束を身に纏っている。どこか民族衣装のようにも見える。顔立ちは日本人のようだ。美人な娘だが、知らない顔なので、なぜ私の名前を知っているのかわからない。
私は横たわった状態で少女を見上げていた。
ここに横たわるまでに何があったのか全く思い出せない。辺りを見回して、ギョッとした。
地面は赤黒い管のようなもので覆われ、ズルズルと蠢いている。まるで巨大なミミズが溢れかえっているような、不気味な光景だった。
空は曇天だ。
時折雷が走り、空中に浮かぶ巨大な影を雲に映している。要塞のような人工的なシルエットだが、よく見るとこれもミミズのような管が集合して形作られている。
悪夢のような光景だ。
その異様な景色の中で、少女はにこやかに立っている。私は上半身を起こし、恐る恐る尋ねた。
「あ、あなたは誰ですか?」
「ウチの名前はヨミ。あのお城に住んどる神様の使いや」
怪しい関西弁で喋る少女ヨミは、空中に浮かぶミミズの集合体を指差した。
「キミはこれから神様の命令に従って異世界を旅するんや」
「異世界?」
訳がわからなかった。
これは夢に違いない。私はまだ布団の中で寝ているのだ。頰をつねったり、頭を叩いたりしてみた。しかし、痛みがあるばかりで夢は覚めない。
「夢オチやないで。急な話やけど、キミは神様に従うしかないんよ。すまんなぁ」
ヨミと名乗った少女は、まるで友達との待ち合わせに遅れてきたような気安い謝罪をした。
「何を言っているんですあなたは。これが夢じゃないなら、今流行りのリアルシミュレーションゲームか何かですか?冗談はやめてください」
「うーん、やっぱすぐには信じられへんよなぁ。ほな、ここが地球やない証拠を見せたるわ。いくでー」
そう言うと、ヨミは右手を私の頭にかざす。
「なにを」
するつもりですか、という前に、私の身体は落下し始めた。
「うわあああああああああ!?」
ミミズのような地面に、突如として巨大な穴が空いたのだ。
何もしがみつくものがないので、私は人生で経験したことのないほど長い落下を味わうことになった。
暗黒の穴をしばらく落ちていくと、底に微かな光が見えてくる。
「あれは、宇宙!?」
そう、私は宇宙空間に飛び出したのだ。
しかし、窒息することはなかった。やはりこれは本物の宇宙ではなく立体映像なのだろうか?そう考えていると、突然頭の中でヨミの声が聞こえた。
「キミは今、精神だけになって宇宙に飛び出したんや。宇宙いうてもキミの生きとる時間よりずーっと先の宇宙やけどな。もうすぐ着くで、100年先のキミの世界に」
まるで頭の中にスピーカーを埋め込まれたかのように、ヨミの声は明瞭に反響する。
様々な星が光線となって通り過ぎる。いや、私が星々の間を高速で移動しているのだ。
ヨミのいう通り、精神だけの存在となっているのかもしれない。
人の魂は一日に千里を移動できる、と昔の物語にも書いてある。それはあくまで物語だが、今の状況は肉体的に不可能な体験であるし、立体映像というには真に迫り過ぎていたので、そうした魂の話にも納得できてしまう。
そしてヨミの言った通り、やがて私の向かう先に一つの青い惑星が見えてきた。写真や模型で見るよりも遥かに大きく、鮮やかな色の星。見紛うことなく、私の住んでいる惑星、地球だ。
しかし、地球儀で見る時ほど平穏には見えなかった。近づくにつれ、世界のあらゆる陸地が赤と黒のコントラストに飲み込まれている。
私は大気の摩擦など一切の物理法則を無視して、その赤と黒に染まった陸地に落ちていく。
「街が燃えているのか!?」
落ちてきた場所は私の住んでいる日本の街だったが、その変わり様はまるで地獄だった。
見たこともない怪物が火を吹き、人間を襲って食らいついている。怪物の姿は様々で、中にはビルほどもある巨大な怪物が逃げまどう人々を踏みつぶし、車や列車を蹴散らし、ビルを倒壊させている。
私に目がけて火の玉が飛んできたので思わず顔を両手で覆ったが、火の玉は私をすり抜けて後方にいた親子に直撃した。
「な、何なんだこれは!?」
「それが100年後のキミの世界や。上見てみ?」
上を見ると、空に黒い穴が開いていた。
空間に穴が開くというのは奇妙な表現だが、そうとしか表現しようがない。そこにトンネルでもできたかのように、空中に巨大な穴がぽっかりと開き、そこから怪物が次々と出現しているのだ。
「あれは別の世界に通じる穴や。あそこから異世界の怪物がぎょーさん攻めてきて、キミの世界は乗っ取られる、今のままやと100年後に必ずな。精神だけのキミにとっては夢みたいな感覚やけど、その光景は間違いなく起きることや」
ヨミがそう言い終えると、私の体は突然上へと引っ張られた。クレーンゲームで吊り上げられる人形のように引き上げられ、地面が、街が、日本が、そして地球が一瞬にして遠ざかった。
数秒の間、また宇宙を飛んだかと思うと、気づけば再びミミズのような地面に四つん這いになっていた。
目の前に立つヨミは静かに微笑んでいる。まるで今しがたの光景とは無縁にも思える優しい笑みだ。しかし、その笑顔が今は逆に不気味だった。
「信じてくれた?それとも、もういっぺん見てくる?」
「い、いえ、もう結構です!わかりました、信じます」
「キミに『異世界を旅して欲しい』いうたんはな、今見たような異世界からの攻撃を防いで欲しいからなんや。『何で自分が?』て思うやろけど、それがキミの運命なんや」
「で、でも私には生活があります!一緒に暮らしている母は心臓が悪くて、発作が起きたら病院に連れて行ける者が私しかいないんです!お願いですから、神様とやらに何とか言って帰していただけませんか、お願いします!お願いします!!」
私はミミズの地面に頭を擦りつけてヨミに懇願した。額にブヨブヨとした不快な蟲の感触があった。
高校時代、イジメを回避するために身につけた土下座だ。下手に出れば、相手は気を緩めてくれる可能性が高くなる。
顔をチラリと上げると、ヨミは目を閉じて耳をすますポーズをとっていた。
「………今、神様がウチに伝言をくれはった。『命令を一つ遂行したら家に帰す』やって」
「ほ、ホントですか?」
「ホンマホンマ、神様は嘘つかへん。アキヒコくん、とにかく早く異世界に行ってミッションクリアすることや」
仕方がない。事情は全くわからないが、言うことを聞けば家に帰ることができるはずだ。私は頷いた。
「ミッションは『悪い王様を倒せ』や」
「王様?」
「せや、今からキミが行く世界は王国や。悪い王様が国民を苦しめとる。キミが王様を倒して人間の自由を取り戻すんや」
あまりに現実味のない、ぼんやりとした指令だ。しかし、さっきのような光景を見せられては信じるしかないし、従うしかあるまい。
「わかりました。でもどうやって?私にはこれといった特技が何もないんですけど」
「まあ行ったらわかるわ。とにかく頑張ってなー」
ヨミが言い終わるや否や、私とヨミの間に突然、何かが出現した。
それは空間に空いた穴だった。穴の縁は、黒い影のようなものがウネウネと動いている。
まるで怪物の口に呑まれるように、私は見えない力で穴の中へ引きずりこまれた。