機械仕掛けのプランクトン
誤飲や体への悪影響の可能性がありますので真似しちゃ駄目だよ
「ねぇ佐々木君。もしも手段を選ばず、自分の欲求全てを満たせたら、その時私は幸せかしら?」
放課後の教室。夕日さす橙色の教室で、桜木 遥が俺に聞いた。
艶のある真っすぐな髪をなびかせて。顔には微笑を浮かべて。美しいと、最初は俺も思ったものだ。
でも俺は今、現在進行形でこの女に苛立っている。
「私はそう思わないの」
聞いたくせに返事を待たず、桜木は話す。
それは構わない。もとより俺に答える気がなかったから。桜木は俺といる時よく、こんな風に小難しい疑問を投げかけてくる。最初は真剣に頭を悩ませたりしたものだが、今となってはテキトーに相槌をうつだけだ。
「私が私の望みを果たすためには、私だけの作法というか、手続きが必要なのよ」
「なるほどな。だけど今俺たちに必要なのはホウキとチリトリ。あと雑巾だ」
陶器の破片をつまみ上げながら俺は言った。
構わなくないのは、今この状況でいつものような会話をふってきたことだ。
帰宅部の特権である『放課後、用もないのにだらだらクラスメイトとだべる』権を小一時間行使した後、家路に着こうとした俺を、隣のクラスの桜木が急に呼びつけた。俺が桜木の教室で目にしたのは床に散らばる破片、小さな水たまり、断末魔の花々。そして耳に入ってきたのは桜木の声。
『花瓶を割ってしまったから片付けるのを手伝って欲しいの』
まあ時々一緒に下校するくらいには顔見知りだし、ご近所さんだし、頼まれれば手伝ってやるのはやぶさかではない。正直なところ、しおらしい桜木の声に心が揺さぶられたのも少し、いや凄くある。
ともかくこの時点で俺は手助けを了承していたし、納得していたんだが‥‥‥。
「例えば、私が友達とお出掛けしていて、突然、何か食べたいと思ったとするわ。そしたら私はちらりと腕時計を見て『あら、もうこんな時間なのね』って呟くの。そこで友達が『ほんとだもうお昼! そろそろ何か食べようか?』って言ってくれたら『そうしましょう』って返すの。そんな手続きを経て、やっと私はお昼ご飯にありつけるわけ」
「厄介だなぁ‥‥‥」
俺の了承を聞くなりいつもの調子に戻りやがる。しかも『手伝って』と言ったのに、しゃがみ込んで破片を拾う俺を、見下ろす様に眺めるだけだ。なにもしないなら『片づけて』と頼むべきだろう。
「でも大切なことよ。もしも突然道端の雑草を引き抜いて食べたりしたら、それは最早私とは言えないでしょう? 『腹減ったー!飯!』ってガサツに要求するのも『ねえ~なんかお腹空いちゃった~ん♡』って甘えるのも同じよ。それは私という人間じゃない」
「その手続き?のことじゃなくて、お前の図太い性格について言ったんだよ」
「私は窮屈で不自由よ。これでもね。でも私が私として存在していなければ、どんな幸せな出来事も意味を為さないの。だからこの手続きって、とても大事なことなのよ」
「そんなもんかね。俺はこの面倒事を放り捨てて家に帰れるなら幸せだよ。凄くな。」
1つ2つの嫌味も暖簾に腕押し。聞いてなかったかのように微笑む桜木。
彼女の言っていることはよくわからない。考えてることも。たまにコイツには俺と違った世界が見えているのではないかと思う時がある。
「でも放って帰らないのは佐々木君が佐々木君であろうとするからだわ。用事があるとか、体調が悪いとか、キチンとした手順を踏まないと自分を納得させられないから」
桜木の言葉と穏やかな微笑は、俺が彼女の頼みを断れないと見透かしているようで、やけに心をざわつかせた。淡い期待から始まった俺の感情は、苛立ちを経て今、名づけようのないモヤモヤに形を変えていく。
「もういいから、雑巾貸せよ」
結果、少し乱暴な声が出た。桜木は一瞬目を見開くと、僅かに俯いた。そして暫くの間、黙って教室に浮かぶ水たまりを眺めていた。俺は整理の付かない心の揺らぎに困惑する一方で、いやだから手伝えよと未だに思っていた。
「ねぇ、もし機械でできたプランクトンがいたら、どうなると思う?」
桜木が再び口を開いたのは、水たまりを雑巾で吸い切り、細かい破片をホウキで集めている時だった。この段階になると流石に彼女も片づけに参戦。チリトリを構えてしゃがみ込み、先程とは逆に俺を見上げる。スカートが捲れないよう器用に座っていたが、立っている時より無防備になる白い足に、つい目がいってしまう。
「んー。魚から沢山鉄分が摂れるようになる」
「想像力が足りないわ」
大袈裟に肩をすくめて首を振る桜木。
俺にしてはちゃんと考えた回答だったんですけど! 自信作だったんですけど!
「いい? 機械プランクトンを食べた魚は、そのネジに身体を乗っ取られて、やっぱり機械魚に成ってしまうの」
「じゃあ、その魚を食べた人間は?」
「少しくらいなら問題ないわ」
「じゃあいいじゃん」
「でも機械プランクトンを沢山とり込んだ、そうね、例えばクジラとか食べたら人間も機械人間になってしまうわ」
ワイドショーに呼ばれた専門家のように機械プランクトンの影響を解説する。
こいつは、いつこんな荒唐無稽なことを考えるのだろう。そして何故その話を今するのだろう。
「機械人間になると大変よ。命令は絶対。自分の意思では体が動かなくなってしまうの」
「ふーーーん」
機械プランクトンより桜木の生態に思いを馳せていた俺は、脅かすような口調で煽られても何も思わなかった。
「あら、怖くない?」
「べっつに。俺クジラなんかしばらく食ってねーもん」
まさかお前のこと考えててよく聞いてなかったとは言えない。首をかしげる桜木にてきとうな理由をでっち上げて返す。
「そっ」
チリトリの前に集められた陶器の粉を見つめるように俯き、彼女はまた黙った。
しかし、しばらく後、目につく破片をチリトリに押し込み仕上げに水拭きをしようという時、彼女が言った。未だチリトリを構えて座ったまま。
「私は昨日食べたのよ?」
「え?」
「連休だったでしょう?家族で旅行に行って、クジラを食べてきたの」
顔を上げ、真顔で俺の顔を見上げる。
「私は機械人間になってしまったの」
「は、はあぁ?そんなわけ——―」
俺の否定の言葉の途中。彼女がべぇっと舌を出した。
桃色の下の先に、金属製のネジが乗っていた。
「は?」
そのネジが舌先から零れる。独特の粘性がネジを覆い、舌から1本の糸を引くようにゆっくりと滴り床に落ちる。
機械人間なんて桜木の妄想だってわかってる。このネジも、どこかに隠していたのを口に含んだのだろう。もちろんわかってる。
わかっていても、眼下の蠱惑的な光景に脳みそがかき回され、風邪ひいたみたいに体が熱くなる。
「機械人間は命令に絶対服従。佐々木君は私にどうして欲しい?」
先程まで穏やかだと思っていた微笑みが、急に妖しく感じられる。ドクリ、ドクリと音立てる心音に合わせて、荒い息が吐き出される。あらゆる妄想と倫理と体裁が頭を巡る。そのどれを言葉にしたらいいのかわからない。
「は、はぁあ? 何言ってんだよ」
やっと口に出来たのはいつも通りの自分が言うだろう台詞。
理屈はわからない。でも、このこみ上げる衝動に身体を任せてしまえば、自分が自分でなくなってしまうという漠然とした不安感を感じていた。
「し、知るかよ。勝手にしろよ」
「了解。勝手にするを実行します。」
短く答えた桜木は俺の両手を引っ張り引き寄せると、俺の唇に自分のを重ねた。
脳の処理限界を超える驚き以外は、甘さも酸っぱさも感じなかった。
ショートした頭が回復するまで数秒。俺の意識が戻ると同時に彼女は俺から一歩離れて言った。
「私、貴方が好きよ」
彼女が機械とはかけ離れた清々しい微笑みを浮かべ、真っすぐに俺を見て言った。
一方の俺はと言えば、
「な、なに言ってんだよ。やめろよ、そういう悪ふざけ」
桜木の行為によって脅かされたこれまでの日常を繋ぎとめようとすることしかできなかった。
俺の返事を聞いた桜木は『ごめんなさい』と謝って先に帰った。
その後、割れた花瓶をどう片づけたか。どの先生に報告したか。どうやって帰ったか。ほとんど覚えていない。ただ自分の発した言葉に深い後悔を感じると共に、それ以外の台詞を口にする自分と、その先の新しい日常をどうしても想像できなかった。
だがこの気持ちは思ったよりも早く解決を迎えた。家で母親の言葉を聞いた時だ。
「遅かったわね。今日の晩御飯はクジラよ」
「く、くじら!!???」
「そ。桜木さん家ね、旅行に行ってきたんですって。さっき遥ちゃんが持ってきてくれたのよ」
「は‥‥‥あは、あはっはははははははははは」
なるほど。俺に甲斐性がないことぐらい、お見通しってわけだ。
なんてことはない。俺が苛立った、疑問に思った、困惑した、今日の彼女の行動と言葉は、全て彼女が言うところの手続きだったわけだ。たったあれだけのことを言うために、どれだけ回りくどいことをしたものだろう。
その得体の知れなさに神秘性さえ感じていた桜木遥が、俺の中で途端にありふれた女子に変わっていった。同時に彼女をとても可愛らしく感じた。
「なに笑ってんのよ。すぐ食べる?」
「ああ。今すぐ食べるよクジラ。あ、それと!」
彼女への気持ち伝えるには、俺もそれなりの手続きを踏む必要があるわけだ。ありがたいことに道筋はもう整えてもらってる。
「どっかにネジないかな? なるべく綺麗な奴」