ペットボトル
仕事帰りの電車の中で一人の男がペットボトルと出会った。
電車の座席の下やドアの両側付近に飲み終わった缶コーヒーの缶やペットボトルが残されているときがあります。立ったままの状態であればよいのですが、電車の揺れやカーブを曲がる際の遠心力によって敢え無く倒れると、電車の中の自由に転げまわる厄介物になります。厄介物となったコーヒー缶は、存在をアピールする金属音を伴いながら、『かまってよ』とばかりに乗客の足下に寄り添う、しかし多くの場合乗客によって無視され続け、次の電車の大きな揺れで、別の乗客の足下へ寄り添うために転がっていきます。
寄り添われた乗客は、コーヒー缶の存在に気づいていないのかもしれません、若しくは能面を思わせるその表情の下に、『早く、別のところに行ってくれ』の切迫した願望か、『拾うべきか、無視するべきか』の心の葛藤が隠されているかもしれません。コーヒー缶に視線を向けていない周囲の乗客は、コーヒー缶の存在に気づいていないのかもしれません、若しくは『こっちに来ないでくれ』の嫌悪にも似た感情を抱いているかもしれません。
「ペットボトル」
夕方の帰宅ラッシュを過ぎた頃、乗客の少ない電車に乗ることができた。立っている人がなく、座席に座っている人も疎らだった。電車の車両の真ん中付近の座席に座り、電車が動き始めると、電車の進行方向にある僕の右斜めの方向から、電車の音とは異質の乾いた軽い音が聞こえてきた。
『もしや・・』と思い、音の聞こえてきた方向を見ると、500ccの空のペットボトルが、電車の小さい揺れに合わせて電車の床の上で右往左往し、電車の大きい揺れで転がり乗客の足下に寄り添っていた。寄り添われた乗客は、ペットボトルをひたすら無視し続け、ペットボトルを自分の足下から離れさせる電車の大きな揺れを待ち、別の乗客は、寄り添われた瞬間、ペットボトルを足で押し退けるか、軽く蹴りを入れて突き放した。ペットボトルは、無視と突き放しを繰り返し受けながら乗客の間を転がり、僕の足下に寄り添った。僕は、ペットボトルを静かに拾い上げた。
耳を澄ますとペットボトルの声が聞こえてきた。
「・・・、おじさんは、ボクのことを蹴らないの・・」
沈んだ声で呟いた。
「蹴ったりはしませんよ」
ペットボトルの『ボク』は、少し語気を強めると、
「ボクは、いろんな人に蹴られた、誰も拾ってくれなかった」
「仕事帰りの人が多いから、疲れて足下を注意しないで無意識で蹴ったのかもしれませんね。君のことを憎んでいるわけではないと思います」
ペットボトルの『ボク』は、少し間を置くと、か細い声で、
「おじさんは、どうしてボクのことを拾ってくれたの」
「そうですね、実は、数年前に大きな地震がありましてね、大勢の人が家を失くして飲み水に困っていたとき、君の中に入っていた水がその人たちの命をつないでくれたのですよ、本当に感謝しています」
「へー、そうなんだ」
ペットボトルの『ボク』の声が弾んだ。
「君は、どこから来たのですか」
「スーツを着た若い男の人が、駅の構内にあった自動販売機からボクを選んで出してくれた、とてもうれしかった。ボクを持ってこの電車に乗ると、電車の中で飲んでくれたんだ。でも・・」
ペットボトルの『ボク』は、黙ってしまった。
「それから、どうしたのですか」
「男の人は、電車がある駅に着くとボクを電車に残したまま慌てるように降りていったの」
ペットボトルの『ボク』の声は、悲しそうだった。
「それは、寂しい思いをしましたね。その男の人は、きっととても急いでいて君のことをすっかり忘れてしまったのかもしれませんね」
ペットボトルの『ボク』は黙ったままだった。
「君の仲間がいるところに連れて行ってあげましょう。そうすれば、寂しさが少し紛れるかもしれません」
電車が次の駅で停車すると、僕は、電車を降り、ペットボトルを持って駅の構内に設置されたペットボトル用の回収ボックスの前に行った。
「このボックスの中に君の仲間がいます。その仲間と一緒に、君はまた生まれ変わることができます。じゃ、ここでお別れです」
「おじさん、ありがとう!」
僕は、ペットボトルをボックスの中に入れると、ボックスの中が賑やかになり、いろいろな声が聞こえてきた。
「あ、新しい仲間が来た! ねぇ、君は、どこから来たの」
「ボクは、駅の構内にある自動販売機から。スーツ姿の男の人が選んでくれた」
「へー、そうなんだ。ワタシは、駅の売店にあるショーケースから。双子の女の子を連れたお母さんが選んでくれて、双子の女の子が代わりばんこに飲んでくれた。さっき、君を入れてくれたおじさんは?」
「あのおじさんは、電車の床の上を転がっていたボクを拾って運んでくれたの」
「へー、そうなんだ、ワタシは、女の子が運んでくれたの」
僕は、次第に遠くなっていく声を背中で聞きながら、駅の改札に向かった。
異常気象による記録的な猛暑が続いていた。郊外の工事現場に来て二ヶ月が経過した。
「おーい、昼メシにしよう」
「はーい」
僕は、ヘルメットを取り、工事現場に臨時に設けられた水道の蛇口から水を勢いよく出すと、頭を蛇口の下に置いて水を後頭部に当てた。昼休みの一時間は、まさに天国の一時であるが、次第に疲れが取れにくくなり、食欲が落ちてきた。工事現場近くのコンビニでおにぎり二個とペットボトルのお茶を買い、近くの公園に行き、木陰にあるベンチに座った。おにぎりをほおばりながら、公園の風景をぼんやりと眺めた。
雲一つない空の青と公園の木々の緑は、夏のコントラストを生み、その鮮やかさと力強さに心が癒された。ペットボトルを開け、お茶を喉に流し込んだ。そのとき、微かに声が聞こえた。
「オ・ジ・サ・ン」
ペットボトルを口から離し、ペットボトルをしばらくの間見ていた。それ以上、声が聞こえることはなかった。
「そうか、生まれ変わったんだね」
僕は、静かに息をつくと、体の疲れが癒されるのを感じた。




