no , any , some
がらり。
瓦礫の山から破片が転がり落ちる。七番街と書かれた看板が折れ曲がっていた。
指し示すべき街が変わり果てたことに、首をかしげるかのように。
足元はぐらつき、すこぶる悪い。それもそのはずだ。
辺りは崩れた建物の残骸が幾重にも重なり、およそまともに歩ける道などない。
街の空はどこまでも鉛色で、落とす影がこの光景をより陰鬱なものとさせた。
そんな中を、ただ私は歩く。
どれだけ歩いただろう。
懐中時計を持ち歩いてはいたが、目覚めた時に見たきりである。
一度として青空を覗かせたことのないこの街では、時計がなくては朝か昼か判別できない。
一応、昼になれば時計台の鐘が鳴る。
だけど、その鐘の音を響かせることはもうないだろう。
少し前から身体が悲鳴を上げ始めた。
一度も休憩を取らずに悪路を歩いてきたのだ、無理もない。
とりあえず、どこかに腰を落ち着けたかった。
落ち着いて、どうするべきか考えたかった。
けれども。
私は大きく息を吐くと歩みを速める。
少しでも立ち止まると、再び歩き出せないようで。
今はこうしていたかった。
がらり。
崩れる瓦礫。
私にひどく似ている気がした。
◆
剥き出しの鉄筋を掴む。瓦礫で出来た壁を、身体に鞭打ってよじ登る。
足腰の悲鳴は鳴り止まない。けれど、それが私の気を紛らわしてくれた。
壁を越えた先も光景は変わらなかった。
もたれ掛かったビル、ハリボテの建物、うず高く積み上がったコンクリート片。
街の雑踏も喧騒も面影も、今はもう、どこにもなくて。
どうしてこうなったんだろう、答えてくれる人はいない。
顔を上げた時、一本だけ、遠くにそびえ立つ塔が見えた。
大煙突だ。工場の大煙突。
今やどのビルよりも高くなった煙突が街を見下ろしていた。
輝かしい発展と繁栄の象徴。もっとも、与えたものは恩恵だけではない。
立ち上る排煙と降り注ぐ黒い雨。空を喪失させた元凶であった。
私は嫌いだった。
いつもドス黒い煙を吐き出していた大煙突。
己の存在を誇示するかの如く、空を染め上げた黒煙は今日はない。
永劫続くと言われた工場ですら、例外ではなかったのだ。
「いい気味だ」
でも、それは工場だけにして欲しかった。
煙突が倒壊せずにいたのは、最期の意地だろうか。
私には、墓標に見える。
相変わらず節々の悲鳴は続いていたが、先刻と比べて幾分か余裕が生まれた。
腹の虫も鳴り始めたのだ。飴玉でも一つないかとコートのポケットを弄るも、出てきたのは懐中時計だけ。
父からプレゼントで、肌身離さず持っていた。
時刻は午後一時半を指す。
空腹をどうにかするには、何か口にしなければならない。
とはいえ周りにあるのは見渡す限りの廃墟。
気は進まないが、致し方ないだろう。
ふぅ、と小さく息を吐いて、歩き出す。
実際は一時間も経っていなかったが、体感はそれ以上の時間に感じられた。
別の焦燥が沸き始めた頃、どうにか原形を留めたアパルトメントを見つけた。
薄暗いアパルトメント。中はホコリっぽくて、しんと静まり返っている。
一階はどれもは鍵がかかっているのか、歪んでしまったのか、ドアは開かない。
叩いても中から返事はない。やっぱり、そうなんだろうか。
結局開いたのは三階のとある一室。
部屋の中はだいぶすっきり、というか壁のほとんどがない。
コートを掛けようと思ったが、ポールハンガーが見当たらないのでイスの背もたれに掛ける。
テーブルの皿に盛られた液体は真っ黒に変色していて、何とも言えぬ臭いが漂う。
持ち主には悪いが中身は外に投げ捨てておいた。びちゃっと。
食べ物の一つでもないかと辺りを物色するも、目ぼしいものはない。
と、見つけたミルクは腐っていたので、これも捨てておいた。
勝手に人様の家を荒らすのは大変悪い気がしたが、誰か叱ってくれるのなら、そうして欲しかった。
イスに腰を掛けた。最後にこうして休んだのが、何だか遠い昔に思えた。
手足の先からじーんと溜まっていたものが抜けていく。
三階から望む街の景色は全く動かず、世界が静止したかのようだった。
戸棚から頂戴した黒パンはやけに硬く、噛み切れない上に、風味もクソもない。
それでもほんのり酸っぱくて、噛むほどに味が出てきた。
贅沢を言えば、飲み物も欲しい。
黒パン。
そういえば、母がたまに作ってくれた。これほど硬くはないが。
母の顔が浮かぶ、いつも優しかった母。
引っ越す当日、ちょっと悲しい顔で見送ってくれたのを思い出す。
今、どうしているだろうか。無事なのだろうか。
もしかしたら。
抑えていたものが、ぐっと奥からこみ上げてきた。
どうして、本当にどうして、こうなったんだろう。
みんな、どこにいったのだろう。
漏れる嗚咽。溢れる涙。
テーブルに突っ伏して、抑え込もうとしても、止まらなかった。
◆
カーン。カーン。
段々と、ぼやけた視界が鮮明になる。いつの間にやら寝ていたらしい。
あれからどれくらい時間が経ったのだろう。
身体を起こすと頭がずっしりと重い、変な姿勢で寝たせいだ。
アパルトメント三階の一室。外は既に薄暗い。
未だ意識は覚醒しきってはおらず、ぼーっと虚空を見つめる。
カーン。カーン。
どこか遠くで音がする。聞き覚えのある音だ。
この音は、そうだ。
「鐘の音!」
時計を見る。暗くてよく見えない。
恐らく、午後六時を回った辺り。鐘の鳴る時間ではない。
私は部屋を飛び出した。