決意
「ぷすー……ぴぴぴ……」
わしは、扉を開ける気配で目を覚ました。部屋の、そしてわしの主であるへっぽこ魔女は寝ている。おおよそ魔女とは思えぬ寝息と寝顔だ。
「……何じゃ」
カーテンの隙間から射し込む月光にきらめくのは、黒檀のような黒髪。寝相悪いな、コイツ。おかげでわしの頭に、コイツの黒髪が乗っている。わしの見事な短毛に、引っかかって邪魔だ。
「あら、起きましたか」
優しげだが、相手を支配するような、独特の声と気配。まるでスポンジにくるまれた有刺鉄線のようだ。
「仲がいいのですね」
声の主は、ふんわりとほほ笑む。
「まぁ、どうせ田中が無理やり連れ込んだのでしょうけど」
寝る前に会ったときは、ひっつめにしていた黒髪が、今はほどかれている。
服装もネグリジェにガウンを引っ掛けただけ。
まるで、深夜に姉が妹の様子を見に来たような、気軽さ。
「なんか田中に、用事あったんじゃにゃーの?」
小さな明かりを持って、部屋に入ってくる。
「ちょっと、反逆者さんとお話ししたくて来ただけですよ」
昨夜の厳格な雰囲気はない。茶目っ気たっぷりなお姉さんがほほ笑む。
「このうつけもんが、反逆なぞ考えとる思ぅとるんか?」
わしがそう切り返した瞬間、ろうそくの炎を反射して輝いていた青い瞳に、闇が湧き上がるように現れる。
にやり、と、口元だけの笑みを浮かべ
「五百年前から、この部屋は封印されていたのですよ。反逆者を閉じ込めるために。
でも、封印を施した王国……《ズィーベン・フュンフ・アハト》も滅びましたからね。でもまさか、このようなことになるなんて」
「なんもかんも知っとるんなら、わしが何かやるかもしれんて、思わんかったんか?」
「良くて『イタズラ』悪くて死、ですかね。まぁ、人間の姿を保っていた場合、ですが……どうせ呪い返しをうまくさばけずに、ねじれて猫の姿になってしまったのでしょう」
どうやら全て、お見通しだったらしい。
「ここで話をしていては、その子を起こしてしまうでしょう。どうです反逆者さん。私の部屋でお茶でも」
挙句、敵の本拠地に茶に誘われる。ここで否と答えれば、目の前の女はわしを殺し、どっかから《普通》の黒猫を拾ってきて、この部屋へ放り込むだろう。
うつけ者の田中はそれに気づかず、野良猫をわしだと思い、ずっと話しかけ、頭のおかしい娘として、一生を過ごすのだろう。
行ったら行ったで、へまをすれば殺されてしまうかもしれん。
わしはずーっと、じっと冷たい石の床に座り、五百年間考えていた。
自分のしたことに反省はした、かもしれない。もっとうまく呪い返しを避ければ、猫にならずに済んだかもしれない。
だが、反省しても一向にチャンスはやってこない。
あきらめかけた五百年目に、ようやく扉が開いたのだ。ダメ元で、一つ大博打を打ってやろうではないか。
見かけ、中身共にアホだが、桁外れの能力を持つ小娘に、己の命を懸けてみようではないか。その為に、わしは田中の差し出した指先に牙を立て、血を飲み、使い魔の契約をしたのだ。
「えぇよ《先生》、わしゃぁ紅茶より、レーコーが好きだで、豆菓子ある?」
この勝負に勝てば、この博打を続けられる。目の前の女が、面倒くさがりであることを、おしゃべり好きであることを、勝利の女神に祈ろう。
「いいですわね、月夜のコーヒー。何なら早すぎるモーニングでも用意しましょうか」
「えぇなぁ、レーコーにはやっぱ、分厚ぅてカリッカリに焼いたパンにバター塗ぅて、小倉をこぅ、ぼてっとのっけて……この口で食えりゃえぇんやけど。
代わりにツナ缶ある? 油しっかり切ってちょぅよ」
わしは、今のこのスリムな体型が気に入っていたりする。世にいうデブ猫には、絶対になりたくない。そして猫になってから、好みが少し変わった。ような気がする。
恐る恐る部屋から出ればほんの一瞬、肉球に針が刺さったような痛み。静電気だろうか。それとも使い魔が主から一定以上離れないよう、警告だろうか。
「まだ、あの部屋を出るのは怖いですか?」
「そんなこと言わんと、わしゃ出たくても出られなかったがね。やっと外出れたに、喜んどるよ」
お互いの腹を探りながら、五百年ぶりに階段を降りる。途中の階には目もくれず、《先生》はまっすぐに地下へと降りた。
「薬品の保管には、冷暗所が一番なのでね、必然的に自室はここになってしまったのですよ」
木の板を金属で繋げた古ぼけた扉を開けば、数種類のハーブが混ざり合った独特の香り。あいつの体からも薬のにおいはしたが、ここまできつくはなかった。
「入ったら殺すとかは、せんといてよ」
「あるわけないじゃないですか」
乾いた草やら木の根、爬虫類、謎の液体などの詰まった瓶が、所狭しと並んだ部屋。
「こんなおそぎゃぁもん、寝床にも置いとるんか?」
「まさか、寝室にはありませんよ」
「……」
「……」
お互いに、首をかしげながら見つめあう。ひんやりと透き通る青い瞳からは、微妙に殺意を感じる。気のせいであってほしい。
五百年前にも、似たような目で見られたことが幾度もあった。
最終的にはいいところまで逝けたんだがな、わし。
「確かこのあたりに、フグの卵巣が」
「神経毒! そんなおそぎゃぁもん置いてあるんか!」
田中より危険かもしれん。微妙に縮れたひげが、間抜け娘に会った時以上に危険だと伝えている。
「冗談ですよ。それよりも、反逆者さんはアイスコーヒーでよろしかったかしら」
笛吹ケトルが火鉢の上に乗せられ、その下に薪を足しながら、つぶやく。地下は最上階とは違った意味で、寒い。
「あぁ……やっぱホットで」
炎の扱いは、こちらのほうが数段上だろう。田中は何も考えずに薪を放り込み、火の粉の逆襲をくらっていた。
「それとなぁ、おみゃーさんその《反逆者》ちゅぅのやめんか? わしにも一応、名前はあるんだに」
「では、ダンタリオンとお呼びしましょうか?」
はるか昔に名乗っていた名を、なぜ……まぁ、反逆者の名として伝わっているのだろう。
「その名前はもう、魔法陣と一緒にほかってまった。今は山田と名乗っとる」
「では山田さん、あの子、本当に寝ていましたか?」
「あぁ、ぷーすかいびききゃぁて、ぐっすり、と?」
本当に寝ていたかどうかなど、見ればわかる。爆睡……していたと思う。
だが、確実ではない。出会ってまだ一日経っていないのだ。あいつの寝息も、少し癖があるくせになめらかで扱いにくそうな黒髪のきらめきも、グリンピースとネギが苦手なことも、夕方から今までの短い間でしか見ていない。
もしかしたら面白い寝言を言うか、ひどい歯ぎしりがあるかもしれない。短髪にしたらまた違った輝き方をするかもしれない。ピーマンだって嫌いかもしれない。
知っていることはほんの少し。知らないことは、精霊語の単語数よりも、大地に生きる生き物の数よりも、星の数よりも多いだろう。
「あの子、結構ジャズとか好きですよ。クラシックではホルストの木星……確かモーツァルトも好きだったはず。最近ではボーカルオルゴールの曲も気に入っているようですし」
あいつの、いきなり話題が飛ぶあたりは、コイツに似たのか?
「あと、十歳より前の話を聞こうとはしないであげてくださいね。思い出してはいけないことが、たくさん詰まっていますから」
「思い出しちゃいかん、か。そういやあいつ、自分のこと多少は言ぅとったが、親のこたぁ知らん言ぅとったな。おみゃーさんは知っとるんか?」
「私も一応、人からは国定先生と呼ばれています。さすがにお前とか呼ばれるのは、ちょっと」
そこでようやく、わしは気づいた。かつて王国一の貴公子だとか呼ばれたのに、妙齢の女性をそんな風に呼んでいたと。五百年で風化していた紳士としてのプライドが、微妙に復活する。
その間にも国定は、俺が注文したツナ缶の油をきっている。火鉢の上で。
薬品やハーブの混ざり合った、カオスな空気に更にツナ油の焦げたのまで混ざり、取り返しのつかない状態になってきた。
「なぁ、せめて消臭剤とか、なんかにゃぁか?」
「なぜ?」
あっさり味になったツナ缶をほぐしながら小皿に盛りつけつつ、きょとんとする。
「国定、鼻炎になっとらんか、いっぺん耳鼻科いってこやぁよ」
そこでようやく気付く。名前、臭いの前に話していたことに。
見事に論点ずらしをくらった状態だ。
「そんなことより、ちゃんと話せにゃ」
「ダージリンならありますけど」
プチッとキレていいか、わし。
「冗談ですよ。あの子の両親のことでしたね」
わしの前には、小皿に盛られたツナ缶と、小鉢をカップ替わりに使ってコーヒーが置かれている。ツナの脇にはさりげなく、むき身の落花生。国定の手には、先ほど熱湯を注いでコーヒーを作ったらしい茶色の小瓶。
その小瓶に再び熱湯を注ぐと、何を思ったのか自分のカップに注ぐ。
「おいしい紅茶になーれっと」
よく見ると小瓶が茶色く見えたのは、細かい文字が掘り込まれているからだった。
「面白いでしょう、コレ。あの子は全く同じことを、普通のポットでやってしまうのですがね」
古くからある魔法だ。あいつの力なら、同じポットから紅茶とコーヒーを同時に出せるだろう。
「《リトル・ブラウン・ジャグ》かぁ。最近の魔女は、面白いもん使こぅとるなぁ」
「先々代の大魔女が使っていた品を、譲り受けただけですよ」
「そか」
ようやく魔女と呼ばれる者達の行動パターンを掴めてきた。昔と同じように、みな自由に生きているのだ。
「でも、あの子の両親のほうが、もっとすごいものをたくさん持っていました。本来ならばすべて、あの子が引き継ぐはずだったものは、すべて帝国に奪われてしまったのですよ」
やはり国定との会話は難しい。しかし、この中から必要な情報を集めなければ。
目下のところ、田中の力についてと、その扱い方がわかれば上出来。今の国のことや、外の世界のことがわかれば、棚から牡丹餅レベルだ。
「この話をするためには、十五年ほど前から始めなくてはいけませんね」
そういって、国定はほほ笑んで、話し始めた。
「十五年前、私は王宮に使える大魔女でした。百名に満たない宮廷魔女を取りまとめ、日夜王国の為に、落雷を操り、風に目を預け、異国の地の出来事を王や大臣に知らせるのが役目でした。
私の後継者が使えるべきである、国の後継者が生まれたのは、ちょうどそのころです。
生まれたのは、かわいらしい黒髪の女の子でした。今でも覚えています。お妃様の腕の中で、顔をくしゃくしゃにして笑っていた姫様の瞳を。
その頃ちょうど、東西両側の国がまとまり始めて、バナナのような島の中ほど、海に面した王国は、両側から攻め込まれるかもしれない危機に陥りました。
持ちこたえていたのはほんの数年。その間に姫様はすくすくと成長しました。長い黒髪をなびかせ、茶色の瞳に星の輝きを映して、王家の者として精霊と語り合うことができる、立派な王女になっていました。
最後まで抵抗して、魔法兵器もたくさん使い、たくさんの魔女や魔法使いが命を落としました。
東西の国に、魔法と呼ばれるものはありませんでした。ですからそれを異教徒として、周囲から弾圧されたのです。
私は燃え盛る炎の中、必死に十歳の王女を連れて、逃げ延びたのですよ。
魔女学校として使われていた城に逃げ、隠れました。もともと魔女学校とは、ひっそりと魔女を育てるための場所ですから、誰もそれが魔女学校だと気づきません。
そのおかげで、今まで生き延びることができたのです。
そして最近、王家の血筋でなければ解けない封印を、解いてもらいました」
目の前の魔女は、とんでもないことを言っている。そのぐらいは、貴公子を気取って大した腕もないくせに、国家転覆をはかろうとしたわしにだってわかる。
封印を解くことができた。
「つまりあいつは」
「ただ、あの子は賢すぎました。そしてそれ以上に、誰よりも繊細な心を持っていた。
私があの子を見つけたのは、入り組んだ逃げ道の一角でした。血まみれのドレス姿で、裸足で、泣きながら必死に外へ向かっていました。
あの子が通ってきた道は、玉座の裏からまっすぐ伸びていました。そして私は、逃げ道に入る前に玉座を見ました。あの年の子の足と距離なら、私と同じものを見たはずです。
わずか十歳の子が、優しかった両親の無残な姿を見て、それでも必死に逃げていたのですよ。その後、私と共に外に出たとき、あの子は壊れていました。両親や、周囲にいた優しかった人々のことを、楽しかった日々を、すべてを心の奥深くへ仕舞い込み、鍵をかけてしまったのですよ。
最近ようやく、明るく笑うようになったんです。
どうか、あの子の笑顔を、守ってやってください」
「当たり前だぎゃぁ。わしは、田中の使い魔なんだで」
ひんやりと冷めてしまったコーヒーは、猫舌にちょうど良かった。ツナと落花生も、美味。
「なぁ国定。もしもだが、田中が本気で王国取り返そうとしたら、おみゃーさんはどうするん?」
「もちろん、大魔女としての役目を果たすだけです」
「ほぅか」
それだけ言ったところで、国定はティーカップを傾ける。
「山田さん、あなたはどうするおつもりですか?」
その問いかけに顔を上げると、不思議なことに国定の見た目が少し変わっていた。
青い瞳と黒い髪は同じなのだが、白髪が増えた。目じりにもしわがある。ほうれい線も、少し深く刻まれているように思える。
「わしも、使い魔だにやるべきことをやるだけだがね」
「反逆者が救国ですか」
「いかんのかぇ?」
「いいえ、面白いですね」
面白い、か。
国定とは、いい感じに気が合う。コイツの使い魔になればよかったかもしれない。
「あぁそれともう一つ。強制的にでいいので、野菜、あの子に食べさせてくださいね」
「ハァ? わしゃぁ、猫だが。そんなことできんて」
「多少はあなたも、魔法の知識を持っているのでしょう」
子供の野菜嫌いを何とかするのは、親の役目のような気がする。
「国定、おみゃーさんわしに、親の仕事やらす気か?」
「あら、血の契りを交わしたのですから、保護するのは当たり前なのでは?」
前言撤回。お互いの腹を探り合う、いい相手だ。
「まぁ、やって出来んこともないに。その代わり、わしに《今》のこと教えてくれんか? 地理とか歴史なら、田中の勉強にもなるがね」
「そうですねぇ」
その後、時事の個人授業は寮の朝食時間である午前7時ごろまで続いた。
週一~月一程度の更新速度を予定しております。
毎回一章分を更新していきます。