出会い
掃除と罰則
私の名前は田中。明らかに偽名です。魔女の掟に従い、偽名を名乗っています。
私が魔女であることは、魔女学校の関係者しか知りません。だって、ばれたらつまらないし、それが魔女の掟なのです。もっと別の理由があったかもしれませんが、私は覚えていません。
「おーい田中、これ三番テーブルまで運んで」
「はいっ!」
私は小さな酒場で給仕の仕事をしながら、魔女学校に通っています。
夕方から夜の遅い時間まで働いて、くたくたになった状態で授業に出ていたものですから、筆記科目でしょっちゅう追試と補修に呼び出されています。まぁ、あれは実際問題、教師による生徒へのいじめのような気がしますが(こんなこと担任に知られたら、とんでもない呪いをかけられてしまうかもしれませんから、みなさん内緒にしてください)がんばりました。いろいろと。
一方で実技は、それなりにできていたのです。それは後々証明します。
私は酒場の給仕として、せっせと働きます。言われたとおりに柏揚げを盛った大皿を、三番テーブルへ運びます。
三番テーブルとは、料理の出されるデシャップから中途半端に離れていて、途中に一番、二番テーブルがあって……要するに運ぶのが面倒くさい位置なのです。
案の定私は
「はにゃぁ!」
机の脚と椅子の脚の間にブーツが挟まって、派手に転んで
「うわぁ! お嬢、大丈夫か!」
お客様の椅子をひっくり返して
「だぁぁぁぁ! 田中!」
店長にどなられて
「田中ちゃん服!」
服にエール酒をひっかぶって、同僚に心配をかけてしまいます。
「と、とりあえず起きて! 服着替えなきゃ!」
元気なオレンジ色のワンピースが、ものすごく酒臭いです。揚げ物臭いです。
「最悪ですっ!」
お尻を触ってくるお客様の手をはねのけ勢いよく立ち上がれば、テーブルの角に後頭部を強打してしまいました。最悪どころの騒ぎではありません。同級生に、間違えて呪いでもかけられてしまったのでしょうか。
それともこの間の筆記試験の点数が悪すぎて、お仕置きですかね。
どっちにしても、ヒザと手のひらとおなかと頭が痛いです。あちこちぶつけて、割れたお皿の破片が刺さって、流血しています。
びしょびしょになっている暇はありません。とりあえず止血しなくては、死んでしまいます。自・エンドです。
このあたりで私の記憶は一旦途切れています。徐々にお店が暗くなって、店長の声も聞こえなくなって、気づいたらベッドで寝ていました。病院の。
見回してびっくりしたことといえば、学校の先生と店長が、一緒にいた事です。あの先生が、まさか学校の敷地からでるなんて。そして一般人の店長と普通に話をしているなんて。
でも、いくら耳をすませても、二人の声は聞こえません。だって、頭に包帯がしっかりとまかれていて、耳ふさぎの呪い(このことは、後で知りました)をかけられているのですから。
少しして、店長が帰って、ようやく耳が聞こえるようになりました。
先生が言うには、転んで割れたお皿が、頭をぶつけて倒れた拍子におなかに刺さってしまったそうです。危なっかしいどころか、今回は自滅です。
実技は得意なのに、何でこんなことになってしまったのでしょうか。その問いかけに、先生は答えてくれませんでした。
ただほほ笑んで、あなたに世界は広すぎるから、もう少し待ちなさいと言いました。
そして私は、半分無理やりに、先生と一緒に学校の寮へ戻りました。
今回の《事故》の罰として、寮の最上階にある小部屋が私の部屋になりました。今までの程よく暖かくて、程よい広さの部屋は掃除をして、明け渡しました。結構気に入っていたのですが、罰則ですからしかたありません。
傷口は、自分で魔法薬を調合して、塗っておきました。少ししみましたが、いつものことですので慣れています。三日もたてばこの通り、元気です。
でも、怪しまれるのでしばらく仕事を休みました。一か月ほど。
その間何をしていたか、ですか。いい質問です。
「ほら、三代目の大魔女の過ちは、問3の問題文に書いてあるでしょ」
「また試験勉強? いい加減に追試二桁とか、やめたら」
同級生達につかまり、勉強していました。
おかげで月末の試験では、どの教科も落第点より上でした。ちょっとだけですが。
そしてもう一つ、大事なことを忘れていました。
「おみゃーさんは忘れっぽいのを、何とかせにゃぁいかんて」
「うるさいのです。少し黙りなさい」
「……そのけったいな帝国語、なんとかせや」
最上階の小部屋には、なぜか《古・正当王国語》を話す黒猫が一匹住み着いていたのです。撫でようとしたら指をかまれ、血が少し出て、それを黒猫は舐めました。
「残念ですが、王国語も帝国語も同じ言語なのです。別に通じますから、それでいいじゃないですか」
すると、生意気にもその黒猫がこうしてしゃべり始めたのです。足元には見事な魔法陣が描かれています。多分誰かが、何かをするためにこの部屋を使ったのでしょう。でも、何もできずに私の部屋になってしまったようです。
「ちごうて! わしはなんべんもおみゃーさんに説明したがね!」
黒猫、うるさいのです。
「ちゃんと聞きゃぁて! えぇか!
そこらの猫とわしをいっしょにせんとってくれ! わしにゃぁ山田っちゅう名前がちゃんとある言ぅとるがね!
ほんでもって、魔法でとちって猫になってまっただけだがね! 戻る方法考えるに、おみゃーさんも手伝ぅてくれて、なんべん言ぅた!」
そういえばそのようなことを、何度も言っていましたね。ですがその前に、まずやることがあります。
「とりあえずお掃除をしなくてはいけないので、そこをどいてくださいますか? あちらの窓枠はすでに拭いてあるので、あちらへ移ってください。
あぁ、床は踏まないでください! まだ掃除していないので、ほこりがせっかく拭いた窓枠に!」
あきらめました。床を歩く黒猫を捕まえて、その肉球を濡れた雑巾で拭いてやります。
「ふにゃぁあ!」
さっきからべらべらとしゃべっていた黒猫ですが、ここにきてようやく猫らしい一面を見ました。
拭き終わったのできれいな窓枠に降ろしてやります。なんだかんだ言って私は優しいのです。
「次は、床の汚い魔法陣を消すのです。ですが魔法陣は、不用意にいじれば何が起こるかわかりませんし……黒猫さん、これが何のための物なのか、わかりますか?」
魔法陣について、何か知っていそうな黒猫に、声をかけてみます。
「んな……んな……」
残念ながら毛繕いで忙しいようなので、腹をくくります。
ある程度の呪いの類なら、首から下げた魔法石の力と、いつもの防御呪文で何とかなるでしょうし……そもそも実技は得意です。
「タナカ、いっきまーす」
調子こいて、前にテレビで見た少年のまねをしてみました。名前もちょうど三文字ですし。
さっきまで雑巾を絞っていたバケツを思いっきりひっくり返して、部屋に洪水を巻き起こします。
隅に立てかけてあったデッキブラシで、ごしごしとこすります。もちろん粉末洗剤ゲキオチくんを放流して。
石の床にチョークで描かれた魔法陣は、あっちゅうまに消えました。不自然なぐらいに何も起こりません。
「だぁぁぁぁぁぁ! お、おみゃ! わしの書ぁた魔法陣、消してまったんか!」
「はい。ベッドを入れる前に、お掃除しようかと思いまして、みずをこう……どばーっとしました」
何かいけなかったのでしょうか。
「もしかして魔法陣を書いたの、黒猫さんなのですか?」
「ほかに誰がおるんじゃ! それに何につこうたもんか調べにゃ、あぶにゃーがね! いっぺんに消して、その水がちんちこちんのお湯になってまったらどうするの! ゆだって死んでまうがね!」
「平気です。今まで何度か、実技演習で死にかけましたから」
大きな窓を開けて、ベランダに水と泡を掃き出します。物干し竿が欲しいですね。前は相部屋で、先輩から受け継がれてきたものがあったのですが、この部屋にはないのです。
「うわぁ」
学校を囲む森とか、その向こうのビル群が見えて、気持ちいいです。
「黒猫さん見てください! 音叉塔が、あんなところに見えます!」
街の中央にある、音叉塔。その名の通り、音叉みたいな形をした超高層ビルで、我が街のシンボルなのです。
音叉塔のすぐ下ぐらいの位置に、私の働く酒場もあります。あそこの地下には、大迷宮が広がっていて、それ自体が一つの街を形成しているといううわさがあったりもします。
「当たり前だがね。このおそぎゃーぐらいに高い位置と天気で、あのビルが見えんかったら、メガネ屋連れてくに」
別の窓辺からひらりと降りて、黒猫は私の足元にやってきました。結構人懐っこいです。さっきは噛みついたくせに。
今日からここが私の部屋で、本当にいいのでしょうか。
数日前の、血とエールのしみ込んだ制服みたいな色の、鮮やかな夕焼けが見えます。もうそろそろ夕食の時間なので、食堂へ行かなくてはなりません。
「あっと、黒猫さんは夕食、どうしますか?」
振り返りざまに踏んづけそうな位置に、黒猫は座っていました。
「なぁおみゃーさん、えぇ加減にその《黒猫》っちゅうの、やめてくれんか」
「今のところ、ほかに《黒猫》が居ないので、《黒猫さん》と固有名詞に使っていますが……」
「わしにかて、山田っちゅう名前ぐらいある!」
ほう。黒猫にも、固有名詞があるのですか。
「山田さん、ですか」
「そうじゃ、わしの名前は山田じゃ! なんべんも言ぅとるに、次黒猫言ぅたらひっきゃぁたるに、覚悟しときゃぁよ!」
ひっかかれるのは嫌なので、山田さんと今後は呼びましょう。
「ところで黒猫の山田さん、あの魔法陣、消してはいけなかったのでしょうか?」
「あぁ、わしの呪い解くんに、いったかもしれんかったが……ええわ。
おみゃーさん、魔女なんやろ。わしが人間になる魔法とか、使えんか?」
箪笥を豚に変えたり、人を蛇に変えたりはできますが、それは一時的なものです。
「山田さんは《人になりたい猫》なのですか?」
猫を人に『する』魔法は、まだ習っていないのです。
「まぁ、ちょっとちごぅて、魔法まちごぅて猫になってまった魔法使いだがね」
ほう
「山田さんは、魔法使いさんなのですね。残念ながら私は《まだ》魔女ではありません」
国王陛下の行う魔女試験に合格して、初めて魔女を名乗れるのです。
「だけど、おみゃーさんはわしを使い魔にしたがね。わしにやれることしたるに、おみゃーさんはわしが人間に戻れるように、なんかかんこうしてくれ。
そもそもおみゃーさんが魔法陣消してまったもんだで、ごちゃごちゃになってまったんだがね! ちゃんとやってもらわにゃ、わしが往生こいてまうわ!」
面倒なことに巻き込まれてしまったようです。でもまぁ、実技は得意なので、やってできないことはないのですがね。
「面倒なのです。そもそも自分が呪いをかけて、失敗したのですから、一生そのままみゃーみゃー言っていればいいのです。猫缶ぐらいなら小遣いで買ってきてやるのです」
何と寛大な処置でしょうか。私。
「そもそも私は山田さんを、どうやって使い魔にしたのでしょうか。魔法陣を消したこと以外、私がやったことって、ありますかね?」
「あぁそうじゃ! わしゃぁどこぞの大うつけに魔法陣消されて、戻れにゃーで往生こいてまって! おみゃーさんには、あれこれしてもらうにな! えか!」
大うつけとは、誰のことでしょうか。山田さんがいたのはこの部屋ですから、ここにいるのでしょうか。私としては自室に大うつけが居ては困るので、見つけたほうがいいのです。
辺りを見回しますが、誰もいませんね。山田さん以外。
「どこに大うつけさんがいるのですか? この部屋には、私と山田さんしかいないじゃないですか」
「………」
私の論理攻撃は、クリティカルヒットだったみたいです。今まで騒いでいた山田さんを、一瞬で黙らせることができました。
「わしゃ、おみゃーさんがわしんこと黒猫言うのとおんなじように、おみゃーさんのことを大うつけっ言ぅたに。ここにゃ、わしとおみゃーさんしか居らんがね」
「いやですねぇ。私のどこが大うつけなのですか? そもそも私には、田中という偽名的な固有名詞があるのです。ちゃんと名前で呼んでほしいですね、山田さん」
「やっぱり魔女じゃにゃーの!」
そもそも魔女の本名は内緒なのです。それを使って、呪いをかけたりすることができちゃうこのご時世、本名はトップシークレットなのです。
「たーなっかちゃーん! げんき?」
ここにきて闖入者です。同じ一年Θ(シータ)組の佐藤ちゃんです。さっちゃんと略せそうですが、偽名とはいえ一応人名なので、佐藤ちゃんです。
ちなみに私の名前も、かつて誰かが略そうとしましたが、甲子園に行く用事などないので阻止しました。双子じゃないし。
「佐藤ちゃん! この不遜な山田氏を黙らせる方法、考えてください!」
「ってネコォ! なんでネコォ? せ、先生呼んでくる!」
何か言おうと思った時には遅かったのです。扉を思い切り開けて、佐藤ちゃんは飛び出して行ってしまいました。制服の裾が扉の隙間に消え、遠くから階段を駆け下りるブーツの音が聞こえます。
終わりです。多分ですが、山田さんを佐藤ちゃんは私の使い魔だと勘違いしてしまったのです。
掟では、魔女試験に合格して初めて使い魔と契約することができるそうです。
あれ? 魔女学校に入学したらでしたっけ?
とにかく今の私は、使い魔を使役できるような、力のある魔女ではありません。ただ実技しかできない、ドジな上に間抜けでアホな、学生です。
しっとりと濡れた床は、窓の外を見てあきらめました。今日中にカーペットでも敷いて、ベッドを入れたかったのですが既に月が出ています。乾くのを待っていたら、日付が変わってしまいます。
「おみゃーさんまさか今日の寝床、まわししてにゃぁの?」
「私は猫ではなく、人間です。佐藤ちゃんたちのように、田中ちゃんと呼んでくれていいですよ」
山田さんの追及は、図星なのでスルーします。床にビニールシートを敷いて、毛布にくるまれば、寝ることはできます。まぁ床が硬いのでやりたくないですけど。
「寝袋かなんか、もってにゃーか?」
「残念ながら、便利アイテムの類はありませんね。辛うじて暖炉用の薪と、お茶や魔法薬に使うやかんと大なべはありますが、肝心の火種がありません」
「おみゃーさん、魔女やろ?」
「はい?」
確かに私は魔女ですが、今必要なのは暖かい布団と、先生の雷をよけるための避雷針です。
佐藤ちゃんのスペックですと、あと五分ほどで先生は部屋に来ます。多分ですが、正座でありがたいお説教をいただくことになります。
昨日既に、バイト中の事故についてお説教と罰則をいただいたので、おなかいっぱいです。
「だぁぁぁ! 田中! おみゃーさん火の魔法使えにゃーか! そん歳なら習ろぅたじゃろ!」
「火炎系の魔法ですか……使えますがそれがどうかしましたか?」
「ほんなら暖炉使えるがね! 薪とかもって来て、キャンプみたゃーに積みゃ、なんとかなるがね!」
どうやらこの状況を何とかする知恵は、山田さんが貸してくれるようです。ありがたく使わせていただきます。
「積んだら別で、ほれ、そこのほっそい薪をナイフで削ぅて、鰹節みたゃーにしやぁ。
ほいだらその削ぅたカスな、ほかの細っこいのと一緒くたに、ど真ん中に置いたって! ほぃでそこに魔法使こぅて、火ぃ着けたったらええがね」
ものすごく簡単です。あの程度の細い薪を燃やすのは、朝飯前です。そもそも私は、実技はできるほうなのですよ。
「や、やりました山田さん! 暖炉! いい感じに燃えています!」
真夏ですがこの高さでは、それなりに風通しもいいわけで、寒いです。そこに暖炉の炎があれば、どれほど心強いでしょうか。
「ほぃだら、水燃やぃたりできんか?」
「油ほどきれいには燃えませんが、一応水にも酸素は含まれていますから、燃えますね」
「だったら、床の湿気も燃やぃて、乾くんでにゃぁの? とにかく床の濡れとるの燃やぃてみぃ!」
その手がありましたか。まぁ、やろうと思えばできます。濡れた床で寝るのもいやですし。
「ちょっと難しいですけど、やってできないことはないですし」
失敗したときの逃げ道を、一応作っておきます。
「炎の使者ファイアーヌ・フォンティーヌよ、その身を焦がす炎よ」
本来、炎よりも強い水を燃やすためには、面倒な魔方陣と呼びかけが必要です。でもまぁ、魔方陣の代わりにやたらと長い呪文を使えばいいだけですし。
呪文は覚えきっていないので、廊下に置いてある鞄から教科書を引っ張り出してきました。カンニングです。先生にばれたら、良くてげんこつ悪くて地下牢反省文ですね。
暗くてじめじめして冷たい地下牢で、先生が納得してくれるような文章を書かない限り、待っているのは死です。あそこは危ないのですよ。毒蜘蛛とかがふらりとあらわれたりしますし。
「私の呼びかけに答え、その力を魅せよ」
ここまではいいのです。問題はその先。本来、精霊語を利用した魔法陣に力の源である術者の血液を落として発動させなくてはならないので、面倒なのですが……魔法陣を分解して言語化、それを呪文として唱えれば私自身が魔法陣の代わりになります。
「%#‘$“$#%$&%’&(_?>#&%=#”#$%&=)‘?<*+」
教科書にフリガナは書いてありません。記号に対しての意味だけです。ですが私は昔から、スラスラと読めます。
記号の書き取りが期末試験に出ていた記憶があるのですが、解けたという記憶はありません。そもそも外国語もまともにできないのですから、地球とは違う次元の言葉である精霊語は、面倒なのです。
「%&”#$%&‘%’==#$&‘=“’=#%&#%_?_?<)‘*+&’(=*」
これで完璧なはずです。さすがに高等魔法は疲れます。面倒な呪文を縮めたり、もっと楽な言語を編み出したり、できませんかね。
ふんわりと生暖かい風が流れて、物のおいていない床一面が燃え始めました。
何かの比喩表現などではなく、文字通り、私の魔法で燃えているのです。面倒だからと部屋へ入らず、廊下で教科書を開いて正解でした。
「こんたぁけのかすが! 燃やぃてまう位置決めてにゃーがね! わしまで焼けちまぅが!」
炎の中から山田さんが飛び出してきて、私の服をよじ登ります。驚いて立っていたら、顔面に猫パンチを食らいました。
「たわけとはまぁ、よく言われる言葉です。そもそも範囲指定などしなくても、水を焼くように《可燃物指定》しましたから、大丈夫、な、ハズです」
教科書に書いてある精霊語が、正しければの話ですが。
そして、いくつかヤバいことが起こり始めているのに、私はまだ気づいていませんでした。
否、気づいていましたが否定していました。
短時間で《蒸発》した水分が、天井付近にたまり始め……床が乾くころには小さな積乱雲が室内に出来上がりました。
優秀な積乱雲は、雷鳴をいい感じに轟かせ、雨を降らせます。
《可燃物指定》をつけた火炎魔法も、私がやったのでそれなりに動いてくれます。
つまりは、燃えて曇って雨が降る、の無限ループ。
「なぜ風の魔法を使わなかった!」
階段から声が聞こえました。聞きなれた怒鳴り声です。
「早く雲を追い払え! 風の魔法で、窓の外へたたき出すんだ!」
一度発動した条件付きの魔法は、条件が崩れるか、魔法陣を細工しなければ止まりません。たとえ術者が死んでも。
つまりこの状況は、水がある限り燃え続けます。
「は、はい!」
元気よく返事をしなければ、さらなるカミナリを食らいます。その前にやるべきことをやったほうが身のためです。
「風の子よ、黒き雲を飛ばせ! &$“&$(%&)=&%#$”$%‘!」
雲より風のほうが強いので、今回の呪文は簡単です。教科書でいちいち探さなくてもできました。
強風ののち、積乱雲は晴れた夏の夜に放り出されました。雷鳴をとどろかせながら。
近所の住宅街から、異常気象の報告がなければいいですねぇ。
「まったく、お前は何をしているのだ!」
佐藤ちゃんを引き連れて階段から現れたのは、担任の国定先生。ひっつめにした黒髪に、アキバあたりでも見られないような純メイド服に近い、黒いワンピースと白いエプロン。胸元のブローチは、青い魔法石が埋め込まれたもの。
今日も完ぺきな先生です。
「えと、あの……部屋の掃除をしていました」
「それがなぜ、火事になったのか、説明できるか?」
うーむ、困ります。炎の魔法を使うように指示したのは、山田さんです。でも、言い訳などをすれば、もれなく鉄拳制裁が待っています。
「水をまいて、床の汚れを落としました。日が沈んでしまって床が乾きそうになくて、何もできなくて困るので、炎の魔法で水を燃やせば乾くかと……」
正直に、面倒なことをいろいろと端折りながら、説明しました。
「もっと簡単な方法もあるはずだぞ。何も水を燃やさなくても、熱魔法で床を温めればすぐだろう」
その方法もありましたか。
「だがまぁ、暖炉の炎は見事だ」
堅物の国定先生が、ほめてくださいました。何もなければいいのですが
「お前の知恵ではないだろう」
やっぱり、山田さんのことを言わなければならないようです。
「黒猫の山田さんがこの部屋に居て、教えてくれたのです。なんか最初は噛みつかれましたが、結局懐いてくれたみたいで……」
「先生! 田中ちゃんは山田さんとお話していました! 動物と意思の疎通ができて、知恵を借りて、一緒にいるということはつまり、使い魔の契約ではありませんか? 噛みつかれたということは血を与えたのでしょう!
使い魔の契約は掟で、国王陛下の許可を取らなくてはいけないはずです! 田中ちゃんは、掟破りです!」
黙っていた佐藤ちゃんが、大きな声で言います。さすが学年主席、使い魔の契約についても詳しいです。
「だが、使い魔の契約に必要な魔法陣はないぞ」
「田中ちゃんは、精霊語を呪文として読み上げることができます。だから前にも、魔法陣を使わずに水龍を召喚していました!」
はい。前に召喚術の試験で、水龍出しちゃいました。
「そもそも、水を燃やすなんてばかげた出力の魔法も、魔法陣なしでやってのけたではありませんか!」
ごもっともです。魔法陣が無くても、私は炎より強い水を燃やすことができます。面倒ですが。
精霊語とは本来ならば、魔法陣に描く文字です。我が国の言葉どころか、この世界の言葉ですらないのです。意味を読み解き、扱うことはできても、誰も音読はできないのです。
ですが私は、昔から読めちゃったりします。
「落ち着きなさい、佐藤。田中は少し待っていなさい」
「そもそもこの部屋は、封印されていたではありませんか! それを」
何か怒鳴りながら、先生に連れられて階段を降りる佐藤ちゃん。もしかしたら明日から、学級内で村八分をくらうかもしれませんね、私。
元々学校でも、異常な存在でしたし、別にどうってことはないのです。ただちょっと、仲の良かった佐藤ちゃんに無視されたりするのは、さみしい……かな?
「田中」
「ん? なんですか、山田さん」
山田さんに呼ばれたので、振り返ります。
「おみゃーさんはさみしいやっちゃな」
「どうしてそう思うのですか?」
私は別に、さみしくなどありません。これが人の世というものです。
家族の居ない私にとって、一人ぼっちはいつものことです。
結局そのあと、魔法でカーペットとベッド、机やタンスを運び込み、あっけなく引っ越しは終わりました。
ちなみに翌日、佐藤ちゃんは体調不良でお休みでした。何があったのでしょうか。
第21回電撃大賞に応募しましたが、何も起こらなかった作品です。
たくさんの人に読んでいただきたいと思っております。
ダメだし等のコメントお待ちしております。